第6話 異世界への扉
初出勤の朝、千尋は、警視庁の地下へと続く薄暗いスロープを見上げ、大きく深呼吸した。肺いっぱいに吸い込んだ冷たい空気が、わずかに緊張した胸を締め付ける。期待と不安、そして未知への漠然としたワクワクが、複雑な感情の渦となって心を満たしている。まるで、人生というゲームで、新たなステージの扉を開く直前のような、独特の高揚感があった。
「本当に、私、ここで働くんだ……」
昨日までの、決まりきった事務職の日常が、まるで遠い昔の出来事のように感じられる。まさか、自分が「異世界」だとか「特殊なエネルギー源」だとか、そんなSFじみた、それでいてどこかロマンを掻き立てる話に自分が関わることになるなんて、誰が想像しただろう。いや、想像できるはずがない。
スロープを下り、昨夜訪れた近未来的な白い建物の前に立つ。無機質な壁に埋め込まれたパネルがピッ、と電子音を鳴らすと、重厚なドアが音もなく左右にスライドした。
鼻腔をくすぐる深煎り豆の香りと控えめなジャズの調べは、まさしくカフェのそれだった。だが、ここが非日常の世界への入り口であるという事実に、千尋は軽い眩暈と、奇妙な戸惑いを覚えた。まるで、日常と非日常の境界線が、この扉一枚で曖昧になっているかのようだ。
「おはようございます!」
千尋は、昨日霧島に言われた通り、元気よく挨拶しながらオフィス――もとい、カフェの中へと足を踏み入れた。カウンターには、すでに霧島が立っていて、いつもの黒いスーツ姿でカップを磨いている。彼の他に、カフェにはすでに三人の人影があった。彼らが、今日から千尋の同僚になる「選ばれし者」たちなのだろうか。ドキドキと胸が高鳴る。
千尋の姿に気づいた霧島が、ふっと口元を緩めた。その微笑みは、昨日の夜とは違い、どこか安心感を誘うものだった。彼の目元に浮かんだ微かな笑みは、千尋の緊張を少しだけ和らげ、張り詰めていた肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「おはようございます、勝山さん。よく来られましたね。」
彼の穏やかな声に、千尋は少しだけ肩の力が抜けた。しかし、次の瞬間、霧島以外の三人の視線が、一斉に千尋に注がれる。その視線には、驚きと好奇心が入り混じっていた。特に、一人だけ、目が釘付けになっている人物がいた。
「えっ、うそ!? マジで!?」
カウンターの端に座っていた、アイドルのように可愛らしい20代くらいの女性が、椅子から勢いよく立ち上がった。ショートカットの茶髪が揺れ、大きな瞳がキラキラと輝いている。彼女はそのまま霧島に詰め寄った。
「霧島さーん! ホントなんですか!? ホントに、女の人が来たんですか!? しかも、めちゃくちゃ美人じゃないですかぁぁぁ!」
興奮した声で霧島に食ってかかる彼女の勢いに、千尋は思わずたじろぐ。これまでの人生で、こんなにストレートに「美人」と言われたことなどない。しかも、初対面の人にだ。面と向かって「可愛い」と言われることも稀な、地味なOL生活を送ってきた千尋にとって、この状況は完全に想定外だった。嬉しいけれど、戸惑いが勝る。
霧島は、女性の勢いに押され気味に、苦笑いを浮かべた。
「おい、葵。初対面の方に失礼だろう。落ち着け。」
「だって! ずっと女の人来ないかなって願ってたんですよ! ねぇ、お姉さん、可愛い! タイプです!」
葵と呼ばれた女性は、霧島の制止も聞かず、千尋に駆け寄ってきた。そのキラキラした瞳は、まるで珍しい動物を見つけた子供のようだ。千尋の手を握り、ぶんぶんと上下に振る。その無邪気な熱気に、千尋は少しばかり気圧された。なんだか、この子、犬みたいだ。
「私、星野葵って言います! よろしくお願いします、お姉さん!」
「あ、は、はい。勝山千尋です。よろしくお願いします……えっと、勝山じゃなくて、千尋って呼んでください!」
千尋は、その勢いに圧倒されながらも、なんとか挨拶を返した。握られた手から、葵の体温がじんわりと伝わってくる。彼女の明るさが、凍り付いていた千尋の緊張を少しずつ溶かしていく。
その間も、残りの二人の男性は、千尋をじっと観察していた。
一人目は、モデル体型でおそろしく美形の30代くらいの男性。完璧に整えられた髪型と、隙のないスーツ姿は、まるで雑誌から飛び出してきたかのようだ。彼は葵のように興奮するわけでもなく、ただ静かに、千尋の全身を品定めするような視線を送っていた。その視線は、どこか見定めるような、それでいて少しだけ面白がっているような光を宿している。まるで、これから起こる何かを予測しているかのような、含みのある視線だった。
もう一人、60代くらいの男性は、白髪を綺麗にオールバックにまとめ、上品な雰囲気のスーツを身につけていた。彼は口元に穏やかな笑みを浮かべ、千尋を温かい眼差しで見つめている。その眼差しは、まるで孫娘を見守る祖父のようだ。彼の存在は、この奇妙な空間に、確かな安心感を与えていた。
葵が千尋の手を離すと、霧島が咳払いした。
「では、改めて自己紹介を。星野葵は、ご覧の通り元気だけが取り柄の、ムードメーカーです。」
「ひどーい! 霧島さん!」
葵が頬を膨らませるが、霧島は全く気にする様子がない。その二人のやり取りは、まるで長年連れ添った夫婦のようで、千尋は思わず頬が緩んだ。なんだか、意外とアットホームな職場なのかもしれない。
霧島は次に、美形の男性に視線を向けた。
「そしてこちらが、如月瞬。主に情報収集と分析を担当しています。」
如月瞬と呼ばれた男性は、千尋に軽く頭を下げた。その動作一つ一つが絵になる。まるで、スローモーションで動いているかのような、完璧な所作だ。
「如月です。よろしくお願いします、千尋さん。まさか、女性の方が来られるとは……驚きました。」
彼の声は、見た目通り低く、しかし耳に心地よい響きがあった。その言葉の裏には、どこか『歓迎』とは違う、純粋な『驚き』が見て取れる。彼はまるで、これまでの自身のデータや予測を覆す、興味深い事象を目の当たりにしたかのような、そんな眼差しで千尋を見ていた。
最後に、霧島は60代の男性を紹介した。
「こちらは、皆のよき相談相手であり、ベテランのスタッフである、大泉憲治さんです。」
大泉は、にこやかに千尋に微笑みかけた。彼の笑顔は、温かい陽だまりのようだ。
「大泉と申します。千尋さん、ようこそ。私も、あなたのような若い女性が来てくれると聞いて、驚きましたよ。この仕事は、体力も必要ですし、なかなか女性には……いえ、失礼。でも、歓迎しますよ。」
大泉の言葉は、率直で、しかし嫌味がなく、千尋の心を温かく包み込んだ。彼の眼差しからは、この場所で働く人々への、深い愛情が感じられる。この人がいるなら、きっと大丈夫。千尋は、漠然とそう感じた。
アットホームな雰囲気の中で、自己紹介が終わった。それぞれが個性的で、しかし皆が仲が良さそうに見える。まるで、小さな家族のようだ。千尋の胸にあった緊張は、少しずつ溶けていった。この場所が、これから自分の「居場所」になるのかもしれない、そんな予感がした。
「では、そろそろ朝礼を始めましょうか。」
霧島がそう言うと、一同はカフェの奥にある、会議室のような空間へと移動した。そこには、大きなモニターが設置され、数台のパソコンが並んでいる。無機質な機器の並びは、やはりここはただのカフェではないという事実を突きつける。まるで、SF映画の司令室のような雰囲気だ。
朝礼は、一般的な会社と同じように、連絡事項の確認から始まった。しかし、その内容はやはり「特殊」だった。
「如月、向こうの状況は?」
霧島が問うと、如月が淡々と答える。その声は、まるでAIが情報を読み上げているかのように冷静だ。
「アストリア王国側は、現在、大規模な魔物の暴走は確認されていません。ですが、魔力的な波動が増加傾向にありますので、警戒が必要です。」
千尋の心臓が、ドクンと鳴った。「アストリア王国」……やっぱりファンタジーじゃん! 魔物の暴走。やはり、ここは普通の会社ではない。テレビやゲームでしか聞いたことのない言葉が、今、目の前の現実として語られている。まるで、ファンタジー小説の世界が、そのまま現実になったかのようだ。
「了解。葵、今回の回収は、アストリア王都の冒険者ギルドだ。気をつけて行ってきてくれ。」
「はーい! 霧島さん、お任せください!」
葵が元気よく返事をする。その言葉の節々から、彼女が当たり前のように「異世界」に行き来し、「魔物」や「王国」という単語を使っていることが、千尋には衝撃的だった。彼女にとっては、日常の一部なのだ。
(魔物の暴走? 冒険者ギルド? なんか、急に情報量多すぎない!? 魔物と戦うのは異世界の人々や冒険者たちって言ってたけど、それでも警戒が必要って……。それに、異世界にも王都とかギルドとかあるんだ……本当にファンタジーの世界なんだ!)
千尋の頭の中は、新たな専門用語と疑問符でいっぱいになった。昨日、霧島から聞いた話は、序の口に過ぎなかったのだと、改めて悟った。これはもう、SFファンタジー小説のプロローグだ。
「それぞれ回収場所が異なりますので、気をつけてください。慣れた道ではあると思いますが、油断しないように。」
霧島が補足するように告げる。三人の配達人は、基本的には回収がメインで、危険な魔物と遭遇することはほとんどないらしい。魔物と直接戦うのは、異世界に住む冒険者たちの仕事だという。その言葉に、千尋は内心ホッと安堵する。いきなり魔物と戦う羽目になったらどうしよう、という漠然とした不安があったのだ。
「葵は王都の冒険者ギルド、如月は領地の教会、大泉さんは王城へ。大泉さん、王城へは、千尋さんの御披露目の件も伝えてきてください。」
三人が別々の場所へ向かうことに、千尋は驚いた。異世界にも、色々な場所があるのだろう。王城……教会……その響きだけで、ファンタジー小説の世界が脳裏に広がる。そして、「御披露目」という言葉が、千尋の心に新たな疑問の波紋を広げた。一体、何を披露するというのだろうか? また、私を巻き込むつもりなのか!?
朝礼が終わると、霧島が千尋に向き直った。その視線は、真剣で、どこか期待を帯びているように千尋には見えた。
「千尋さん。今日からあなたの教育係は私が担当します。まずは座学で『Another World』の基本的な知識と、回収業務における注意点を学んでいただきます。分からないことは何でも聞いてください。」
霧島は、穏やかながらも有無を言わせぬ口調で告げた。千尋は大泉ではなく霧島が教育係になることに、少しだけ緊張したが、同時に、この謎の多い世界について、より深く、詳しく知れる期待も高まった。目の前の霧島が、この世界の真理を知る人物だということを、千尋は本能的に感じ取っていた。彼なら、きっと私の疑問に答えてくれるはずだ。
「はい! よろしくお願いします!」
千尋は霧島に頭を下げた。
(座学……つまり、いきなり異世界には行かないってことよね。よかった……)
安堵したのも束の間、霧島が続けた言葉に、千尋は再び思考が停止した。
「そして、葵、如月、大泉さん。本日の任務、よろしくお願いします。」
霧島は、三人の配達人を見渡し、深々と頭を下げた。彼の顔には、オフィスを専門とする者の、彼らへの信頼と、任務への重責が滲んでいる。霧島自身は異世界へ行くことはできない。だからこそ、最前線に立つ彼らへの敬意と、無事に帰還してほしいという切なる願いが込められていた。
「霧島さん、行ってきまーす!」
葵が元気よく返事をすると、如月は無言で会釈し、大泉はにこやかに頷いた。三人の配達人は、それぞれの持ち場へと向かう。彼らの足取りは、これから異世界へ向かうとは思えないほど、軽やかだった。その背中には、この日常が彼らにとってどれほど当たり前のことなのかが表れているようだった。
(え、ちょっと待って……私、座学って言われたけど、他の人たち、もう行くの!? 異世界に!?)
千尋は、驚きと焦りで、彼らの後姿を目で追った。彼女の視線の先に、三人が消えていく扉がある。その扉の向こうに、本当に剣と魔法の王道ファンタジー世界が広がっているのだろうか。彼女の人生は、今日から、文字通り「異世界」へと続いていくのだ。そして、その扉が、自分にも開かれる日が来るのだろうか。千尋の胸には、期待と、少しの恐怖が入り混じっていた。