閑話 嵐の前の家族会議と、思惑の霧
「……というわけで、私、会社を辞めることにしたの」
千尋は、食卓に並んだ夕食の湯気を眺めながら、意を決して切り出した。目の前には、完璧に整えられた食卓。
しかし、千尋の胃は、異世界行きよりも重く沈んでいた。その奥が、ぎゅっと締め付けられるようだ。実家暮らしの千尋にとって、両親への転職報告は、ラスボス戦を前にしたような、胃が痛むイベントだったのだ。
特に、母親の説教は、異世界の魔物よりも恐ろしい。テーブルの向かいに座っていた母親の箸が、ぴたりと止まる。その瞬間、リビングの空気が一気に凍り付いたような気がした。
「はぁ? 会社を? なんで急にそんなこと言うのよ! あんた、このご時世に、正社員の事務職を辞めるなんて馬鹿なの!? せっかく安定した会社にいるのに、わざわざ転職する必要なんてどこにあるっていうのよ!」
案の定、母親の怒声がリビングに響き渡った。千尋は、身をすくめた。母親の小言は、まるで雷が落ちたかのような衝撃だった。異世界の魔物よりも確実に殺傷能力が高かった。
「だって、今の仕事、つまらないんだもん。毎日同じことの繰り返しで、なんか、このままでいいのかなって思っちゃって……」
千尋は、正直な気持ちを口にした。澱んだ水のような日常に、もう耐えられなかったのだ。このままでは、自分が本当に「モブキャラ」として一生を終えてしまう。そんな危機感が、彼女を突き動かしていた。
「つまらないって、あんたねぇ! 仕事なんて、つまらなくて当たり前でしょうが! 世の中、みんな好きで仕事してるわけじゃないのよ! それより、次の仕事は決まってるんでしょうね!?」
母親の追及に、千尋は言葉を詰まらせた。正直に「異世界でバイクに乗って荷物を運ぶ仕事」なんて言えるはずがない。言ったら最後、一生口を聞いてもらえないだろう。いや、それどころか、精神科に連れて行かれる可能性すらある。そうなったら、もう異世界どころではない。
「ええと、一応、決まってるというか……事務職じゃないんだけどね」
「事務職じゃないって、何するのよ!?」
母親の問いに、千尋は咄嗟に思いついた言葉を絞り出した。脳内で、バイクに乗る自分の姿が駆け巡る。そうだ、これしかない!
「その……バイク便の仕事」
その瞬間、食卓に沈黙が訪れた。母親の眉間の皺が、さらに深く、まるで奈落の底のように刻まれる。そして、隣で黙々と夕食を食べていた父親が、ぽつりと呟いた。
「……また、結婚が遠退いたな」
その一言が、母親の怒りの導火線に火をつけたのだった。
「お父さん! 何言ってんのよ! せっかく千尋にも結婚適齢期っていうのがあるのに、そんな、いつまでもフラフラと……! 千尋! あんたもあんたよ! いい加減、自分の将来を考えなさい! バイク便なんて、この歳になってから始めるような仕事じゃないでしょうが!」
母親の怒涛の説教が始まった。千尋は、嵐のような母親の言葉を、ただひたすら耐え忍ぶしかなかった。異世界での回収作業の方が、よっぽど精神的に楽かもしれない。そう心の中で呟く千尋だった。少なくとも、異世界には、結婚を催促してくる魔物はいなさそうだ。
同じ頃、警視庁の地下に広がる「Another World ジャパン支部」のオフィス――あのノスタルジックなカフェで、霧島はコーヒーを片手に今日の出来事を振り返っていた。
普段と変わらぬ静寂に包まれたカフェには、控えめなジャズが流れている。心地よいはずのBGMが、今日はどこか騒がしく感じられた。それは、彼の脳裏を駆け巡る様々な思考のせいかもしれない。
(まさか、あんな即答するとはな……)
彼の脳裏に浮かんだのは、勝山千尋の顔だった。
彼女は、本人が思っている以上に、かなりの美人だ。整った顔立ちに、透き通るような白い肌。控えめな服装と相まって、一見するとおとなしい印象を受ける。だが、今日、彼女が見せた表情は、その外見からは想像できないほど、豊かな感情に溢れていた。まるで、内に秘めたマグマが、少しずつ噴き出そうとしているかのような、そんな生命力に満ちていた。
特に印象的だったのは、彼女が愛用の原付きバイクに「マメ太」と名付けていたこと。あの真顔で「マメ太が異世界行きのチケットってことですか?」と問いかけてきた時の、彼女の純粋な困惑と、ほんの少しの期待が混じったような瞳。そして、採用を即決した時の、あの澱みのない強い眼差し。その一つ一つが、彼女の外見からは想像できない、ユニークな個性を物語っていた。霧島は、これまで出会った誰とも違う千尋の反応に、静かな愉悦を感じていた。思わず口元が緩むのを、彼はコーヒーカップで隠した。
霧島は、カップを口元に運びながら、微かに口角を上げた。
「『バイクに対する愛情が唯一無二の鍵となる』……まさかそれがここまで分かりやすい形で現れるとは。」
これまでの応募者は、確かにバイク愛はあった。だが、どこか『特殊な乗り物』として見ている者が多かった。しかし、千尋のバイクへの『思い』は、それらとは一線を画していた。まるで、家族の一員であるかのように、バイクに深い愛情を注いでいる。その『思い』こそが、彼らが求めていた『特性』を最大限に引き出す、極めて重要な要素なのだ。霧島は、長年探し求めていたパズルの最後のピースが、ついに見つかったような、そんな達成感を覚えていた。彼の目は、未来を確信する光を帯びていた。
この仕事は、常に危険と隣り合わせだ。異世界には、まだ未知の危険が潜んでいる。だからこそ、普通の人間では務まらない。並行世界との行き来に適応できる『素質』を持つ者でなければならない。そして、千尋は、その素質を秘めていると、霧島は直感した。彼女の中に眠る可能性が、今にも目覚めようとしている。
しかし、同時に、霧島の心には、ある予感が去来していた。
(彼女の日常は、これから台風の目のように騒がしくなるだろう。もしかしたら、我々の本部よりも、彼女の周りの方が、よっぽど荒れるかもしれないな)
口元に浮かんだ笑みが、深くなる。それは、千尋の未来を予見し、同時に、彼女が織りなすであろう物語への期待に満ちた笑みだった。
選ばれし者として、異世界を往来する任務を背負った、ただのアラサー事務職・勝山千尋。
そして、その彼女を巻き込む、謎多き国際秘密機関。
静かに流れていた千尋の日常は、今、確実に、嵐の只中へと足を踏み入れようとしていた。彼女の新たな冒険は、まだ始まったばかりだ。