第5話 採用、そして抗えない非日常
「選ばれし者……ですか。」
千尋は、霧島の言葉を反芻した。王道のファンタジー世界で「選ばれた人」という響きに、淡い期待が胸に灯る。もしかしたら、この「選ばれし者」には、魔法の一つや二つ、使えるようになる能力が付与されるのかもしれない。
回復魔法で怪我を治したり、生活魔法で朝の準備が楽になったり……そんな妄想が、千尋の脳内で花開いた。目の前のコーヒーカップから立ち上る湯気が、その夢をぼんやりと霞ませる。まるで、夢と現実の狭間を漂っているかのようだ。
しかし、霧島は千尋のファンタジーな夢を一瞬で打ち砕いた。
「一つ、誤解されているようですね、勝山さん。あなたは魔物と戦う必要はありません。もちろん、勝山さん自身が魔法を使えたり、いわゆるチート能力があるわけでもありません。」
その言葉は、まるで千尋の夢を打ち砕くかのように響いた。膨らんでいた期待は、一瞬でしぼみ、しゅるしゅると音を立てて消えていく。
(うぅ……チート能力なし……魔法も使えないの!? せっかく異世界に行くのに、ただのモブキャラのままってこと!? いやいや、待って、それじゃあ、一体何のために私は選ばれたのよ!?)
異世界に行くなら、やっぱり何かしらの特殊能力を期待してしまうのが、オタクの性というものだろう。せめて、回復魔法とか、ちょっとした生活魔法とか、そのくらいは使えるようになりたかった。千尋の心は、純粋な落胆で満たされた。異世界での活躍を夢見ていた自分、どこ行った?
霧島は、そんな千尋の純粋な落胆ぶりに、わずかに笑みをこぼした。その笑みは、どこか諦めにも似た、あるいは慣れ切った者のそれだった。まるで、これまでにも同じような反応を何度も見てきたかのような、達観した表情だ。
「残念ながら、勝山さんに魔法を扱う能力はありません。それは、あくまで異世界に住む人々の特殊な能力です。あなたは、あくまで配送スタッフとしての業務に専念していただきます。」
「なんだあ……」
千尋は、目の前のコーヒーに映る自分の顔を覗き込む。そこに映るのは、疲れたアラサーOLの顔で、どこにも「選ばれし者」のオーラなど見当たらない。肩を落とし、ため息を一つ。これまでの日常と、何ら変わらない自分。異世界に行っても、まさか「いつもの自分」のままなんて。
霧島は、そんな千尋の落胆をよそに、さらに追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「むしろ、勝山さんは、異世界に大きな影響を与えないからこそ、選ばれたのです。」
(影響を与えない……って、つまり、地味ってこと!?)
千尋は、心の中で二重の意味で打ちのめされた。異世界転生モノの主人公は、大抵、世界を救ったり、大勢のハーレムを作ったり、チート能力で無双したりするはずだ。なのに、自分は「影響を与えない」という理由で選ばれた。それは、裏を返せば『いてもいなくても変わらない』と言われているようなものだ。千尋はぐっと唇を噛み締めた。自らの平凡さを、ここまで露骨に突きつけられるとは。これはもう、ある意味「逆チート」ではないか。しかし、この「影響を与えない」という特性が、この特殊な仕事において、時に最強の武器となることなど、今の千尋は知る由もなかった。
「ただ、あちらに行く際は、少しばかりコスプレのようなことになります。」
「コスプレ?」
千尋は眉をひそめた。コスプレと聞いて、脳裏に浮かんだのは、メイド服やセーラー服、あるいはもっと露出の多いファンタジー系の衣装だ。
「制服は、そんなにきわどい衣装なんですか?」
事務服に慣れきった千尋にとって、突飛なデザインの制服は想像しにくい。もし露出の多い衣装だったらどうしよう。そんな現実的な不安がよぎった。異世界での任務以前に、羞恥心という新たな壁が立ちふさがる。それは、魔物と戦うよりも厄介な壁になりそうだ。
霧島は、一瞬だけ考え込むような素振りを見せた後、静かに言った。
「うーん……たぶん、勝山さんはそうならないと思います。ご安心ください。何しろ、私たちの制服は、それぞれの適合者に合わせて姿を変えますから。あなたの場合、おそらく、極めて実用的なものになるでしょう。」
その言葉に、千尋は安堵の息を漏らした。だが、「たぶん」という曖昧な返答に、一抹の不安が残る。異世界で魔法が使えないという事実は、やはり残念でならなかった。せめて、何かしらの特別感が欲しかったのだ。
「先ほども申し上げましたが、あなたが選ばれた最も重要な理由は、あなたのバイクに対する情熱です。」
(バイク……バイク愛で!? 私のバイク愛が、まさか異世界に繋がるとは、人生何が起こるか分からないわね……って、いやいやいや! そんなわけある!? バイク愛で異世界って、いくらなんでもぶっ飛びすぎじゃない!? そこに因果関係があるの!?)
千尋の脳内ツッコミが、再び暴走を始める。しかし、霧島の表情は真剣そのものだ。彼の瞳の奥には、確固たる信念が宿っている。まるで、それが宇宙の真理だとでも言いたげな眼差しだ。
「我々の業務は、異世界との行き来を繰り返し、この地球の為に特殊なエネルギー源を回収することです。そして、そのエネルギー源を最も効率的に、かつ安全に回収できるのが、乗り手からの強い『思い』が込められた乗り物なのです。勝山さんのバイク、そしてそれに対するあなたの深い愛情が、その回収を行うための唯一無二の鍵となります。」
霧島の言葉は、もはや千尋の理解の範疇を超えていた。ゲート? 特殊なエネルギー源? 乗り手からの『思い』? 唯一無二の鍵? 全てがSF映画か、あるいはファンタジー小説の序盤で語られるような、途方もない設定だ。だが、不思議と、千尋の心には諦めにも似た納得感が広がり始めていた。ここまで来たら、もう引き返せない、という覚悟のようなものかもしれない。まるで、泥沼に足を踏み入れてしまったかのような、しかし、そこには抗えない魅力があるような。
「……つまり、私のマメ太が、異世界行きのチケット、ってことですか?」
千尋が精一杯ひねり出した問いに、霧島は静かに頷いた。
「そういう認識で、概ね間違いありません。」
千尋は、目の前のコーヒーカップをもう一度見つめた。このコーヒーを飲んだ後、自分の世界が本当に変わってしまうのだろうか。変わってしまった世界で、ただのアラサー事務員の自分が、本当に異世界の回収作業など務まるのだろうか。いや、務まるわけないだろう! と、脳内のツッコミが叫んだ。
霧島の視線が、再び千尋の心の奥底を覗き込む。彼の瞳の奥には、確かな期待と、そして微かな戸惑いが見て取れた。それはまるで、彼女の人生の選択を見守り、同時に、これから始まる未知への挑戦に共感を覚えているかのようだった。
「とりあえずの説明は、以上です。」
霧島はそう言って、再びコーヒーカップを手に取った。一口飲んで、ふぅ、と息を吐く。
「先ほどは、この説明を聞いてもまだ、わが社で働きたいと思っているかと聞きましたね。考える時間も必要でしょう。今すぐに返事をしなくても構いません。数日考えてから、改めてご連絡いただいても結構です。」
霧島は顔には出さなかったが、内心では、とにかく千尋に働いてほしいと強く思っていた。しかし、あまりにも必死に伝えると、ただでさえ怪しさ満載の仕事が、より一層怪しく感じるのではないかと心配していたのだ。この仕事は、特殊であるが故に、適任者を見つけるのが極めて難しい。特に、今回の千尋のように、素質と稀有なバイクの持ち主は、滅多に現れるものではない。それは、まるで星の瞬きのように、滅多に起こらない奇跡だった。
そんな霧島の心情を、千尋はなんとなく察した。彼の言葉の裏に、かすかな焦りを感じ取ったのだ。そして、その焦りは、この仕事が本当に「特殊」で、彼らにとって重要なものであることを物語っていた。
「……いえ」
千尋は霧島の目を真っ直ぐに見つめ、即答した。彼女の瞳に迷いの色はなかった。むしろ、これまでになかった、強い光が宿っていた。それは、澱んだ日常を打ち破るための、覚悟の光だった。
「私、働かせていただきます」
千尋の即答に、霧島は驚いて目を見開いた。彼の顔に、初めて明確な感情が浮かび上がった。それは、驚愕と隠しきれない安堵が混じり合った表情だった。
「私の話を……きちんと、聞いていましたか?」
霧島の反応に、千尋は少し笑ってしまった。なんだか意外と人間らしいところもあるのだな、と。
「はい、もちろん。全部聞きましたよ。異世界、バイク、特殊なエネルギーを回収する。魔法は使えない、コスプレみたいだけど、際どい衣装にはならない、って。」
千尋は、わざと冗談めかして言った。彼女の外見イメージからは、想像できない即答ぶりだっただろう。その言葉には、決意と、ほんの少しの茶目っ気が混ざっていた。そして、彼女の心の中には、新たな冒険への期待が静かに燃え上がっていた。
霧島は、わずかに口元を緩めた。
「はは。なるほど。……正直なところ、面接が久しぶりすぎて、あなたの反応が意外でした。ここにくる人は、もっと、こう……ファンタジー脳な人ばかりでしてね。あまりにも常識的な反応を期待していたようです。」
彼の言葉に、千尋は強く心の中で叫んだ。
(ここにくる人って、どんな人なの? まさか、私みたいな「バイク愛が認められた」人ばかりとか? え、私は常識人ですよ!? そんな、常識的な反応しない人たちと一緒にするなんて! まぁ、異世界に行くことになった時点で、常識人とは言えないのかもだけど!)
だが、口に出すことはなかった。これから始まる非日常が、彼女の「常識」をどこまで揺るがすのか、まだ知る由もなかったのだから。彼女の物語は、今、まさに幕を開けたばかりだった。平凡なアラサーOLが、愛車マメ太と共に、異世界へと飛び立つ日が、ついにやってくる。