第4話 異世界への扉
秘密保持契約書にサインをした瞬間、千尋の脳裏に走ったのは、どこか遠い世界の扉が開いたような、不思議な感覚だった。まるで、これまで自分を縛り付けていた透明な鎖が、音もなく解き放たれたような、奇妙な解放感。目の前の霧島は、そのサインを確認すると、満足げに頷いた。彼の口元に浮かんだ微かな笑みは、まるで全てを見通しているかのような、静かな自信に満ちていた。
「では、改めて。弊社の業務内容についてご説明させていただきます。」
霧島の声は、先ほどまでの威圧的な響きを潜め、まるで旧知の友に語りかけるかのように穏やかだった。千尋は、コーヒーカップを両手で包み込み、その温かさに少しだけ安心感を覚えた。カップから立ち上る湯気が、目の前の男の顔を僅かに揺らがせる。その湯気越しに見える霧島の表情は、どこか人間味を帯びていて、千尋の心に微かな安堵をもたらした。
「あなたの仕事は、いたってシンプルです。バイクであるものを回収してきていただくこと。回収場所も、こちらで指定させていただきます。」
「……回収?」
千尋は思わず聞き返した。彼女の頭には、宅配便の集荷のような、ごくごく一般的な配送業のイメージが浮かんだ。意外なほどに普通の説明に、千尋は拍子抜けした。拍子抜けというか、少しばかり肩透かしを食らったような気分だった。「特殊」という言葉に、もっと劇的な何かを期待していたのだ。
「それが、先ほど私に書かせた秘密保持契約書の理由ですか? ただの回収作業に、そこまでの厳重な秘密が必要だなんて……」
千尋の疑問はもっともだった。一般的な配送業なら、秘密保持契約書など必要ない。しかも、警視庁の地下にある秘密基地のようなカフェで、こんなミステリアスな男と対面してまで、結ぶような契約ではないはずだ。彼女の言葉に、霧島は口元に微かな笑みを浮かべた。その笑みには、全てを知っている者の余裕が滲んでいるようだった。まるで、「ふふ、まだまだ驚くには早いですよ」とでも言っているかのようだ。
「ええ、その疑問はごもっともです。では、種明かしをしましょう。」
霧島は、カップに残ったコーヒーを一口飲み干すと、千尋の目をまっすぐに見つめた。彼の瞳の奥に、再び先ほどのような、底知れない光が宿る。それはまるで漆黒の宇宙の奥底から覗き込むような、深く吸い込まれそうな輝きだった。千尋は、その視線に吸い込まれるように、固唾を飲んで次の言葉を待った。
「回収場所は……異世界です。」
その言葉に、千尋は自分の耳を疑った。カフェに流れるジャズの調べが、一瞬にして遠のいたような気がした。空間そのものが、一瞬にして歪んだような錯覚に陥る。まるで、世界の法則が、今、目の前で書き換えられたかのようだ。
「……え? い、異世界……って今、おっしゃいましたか?」
千尋はもう一度、恐る恐る確認した。声がひっくり返りそうになるのを必死で堪える。アラサー事務職のプライドが、この荒唐無稽な話を正面から受け止めることを断固として拒否していた。だって、異世界なんて、小説やゲームの中だけの話だろう?
霧島は、千尋の反応を予測していたかのように、ゆっくりと、はっきりと告げた。
「はい。異世界、と申しました。ですが、剣と魔法の世界、と一概に決めつけることはできません。私たちの地球とは、異なる物理法則、異なる生命体が存在する、別の次元の場所、と認識してください。」
千尋の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。そして、次の瞬間、まるで堰を切ったように、激しいパニックが千尋を襲った。
(異世界!? ちょ、待って待って待って! 剣と魔法だけじゃないの!? もっとヤバい異世界だったらどうしよう!? そんなバカな話があるわけないでしょ!? 私、今、夢でも見てるの!? コーヒーに何か変なもの入ってた!? まさか、これが「特殊」の本当の意味だったなんて……想像の斜め上を行きすぎだろぉぉぉ!)
脳内ツッコミが、マシンガンのように炸裂する。アラサー事務職の、ごくごく一般的な常識が、異世界の概念を断固として拒否していた。だが、目の前の男の真剣な眼差しは、それが紛れもない事実であることを告げていた。彼の瞳に宿る光は、冗談を言っている人間のそれではない。
「あ、あの、それは、冗談、ですよね? 聞き間違い、とか……?」
千尋は、藁にもすがる思いで尋ねた。喉がからからに渇く。こんな突拍子もない話、信じられるはずがない。
しかし、霧島は千尋の期待を裏切り、静かに、そして真剣な眼差しで答えた。
「いいえ。あなたの反応は、ごく一般的なものです。今までこの話を聞いた者で、あなたのような反応を示さなかった者はいません。ですが、残念ながら、これは冗談でも聞き間違いでもありません。事実です。」
霧島の言葉に、千尋のパニックは収まらなかった。ただのアラサーの自分が、どうしてこんな荒唐無稽な事態に巻き込まれているのか。彼女の人生に「異世界」という単語が加わるなど、つい数分前までは夢にも思わなかったことだ。これはもう、自分の人生が、完全にバグってしまったとしか言いようがない。
「ど、どうして……私なんですか!? ただの事務職の、平凡な私が、どうしてそんな、異世界とかいう場所に……!」
千尋は、半ば叫ぶように霧島に問いかけた。あまりにも非現実的な話すぎて、自分自身がここにいることすら信じられない。私は、どこにでもいる普通のOLのはずなのに、今までずっと「脇役」として生きてきたはずなのに、なんで急にこんな「主人公補正」みたいなことが起きているんだ!?
霧島は、そんな千尋の動揺を静かに見守っていた。そして、千尋の焦燥とは裏腹に、ゆっくりとした口調で答えた。
「あなたは、選ばれし者だからです。」
「選ばれし者って……漫画の主人公みたいに言わないでください!」
千尋はさらに混乱した。まるで、自分が異世界転生ものの物語の登場人物になったような気分だった。長年「安全なモブキャラ」として生きることに慣れきっていた千尋にとって、「選ばれし者」という響きは、あまりにも重すぎた。ていうか、私、こんなに動揺してるのに、なんでこの人、そんなに冷静なんだろう?
「ご安心ください。あなたの場合は、異世界に転生するわけではありません。あくまで、物品の回収のために、一時的に往来するだけです。」
霧島は、千尋の心情を察したのか、付け加えるように言った。その言葉に、千尋は少しだけ安堵したが、疑問は尽きない。転生じゃないだけマシ、なのか?
「それでも、どうして私なんですか? 私なんて、何の取り柄もない、ただの事務員ですよ。もっと、他にふさわしい人がいるはずじゃ……」
千尋の問いに、霧島はわずかに口角を上げた。その笑みには、どこか満足げな色が混じっていた。まるで、期待通りの反応を見せた千尋を面白がっているかのようだ。
「決め手は、あなたのバイクに対する愛情です。」
「バイクに対する……愛情?」
千尋は、求人に「必須:自分のバイクをお持ちの方(※原付でもOK!)」と書かれていたことを思い出した。だが、「バイクに対する愛情」が採用の決め手だなんて、一体どういうことなのだろうか。まさか、バイク愛が世界を救うのか?
千尋は、確かにバイクが好きだった。特に、愛用の原付きバイクで風を切って走る時間が、彼女にとって唯一の心の解放だった。彼女の原付きには、密かに「マメ太」という名前まで付けているほどだ。休日にマメ太と知らない道を走り、新しいカフェを見つけるのが至福のひとときだった。「マメ太がいないと、私の人生は成り立たない!」 と豪語するほどに。
だからといって、異世界……?
千尋の脳内で、マメ太が異世界を爆走するイメージが瞬時に展開され、思わず「ぶっ」と吹き出しそうになるのを必死で堪えた。自分の愛車が、魔法や魔物のいる世界を走るなんて、想像すらできない。いや、想像したくもない。もし、マメ太に何かあったらどうしよう。そんな現実的な(しかし、この状況では最早非現実的な)不安が、千尋の胸を締め付けた。マメ太だけは、絶対無事であってほしい!
霧島は、そんな千尋の反応を面白そうに眺めていたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「我々の業務は、異世界との行き来を繰り返し、この地球の為に特殊なエネルギー源を回収することです。そして、そのエネルギー源を最も効率的に、かつ安全に回収できるのが、乗り手からの強い『思い』が込められた乗り物なのです。千尋さんのバイク、それに対するあなたの深い愛情こそが、その回収を行うための唯一無二の鍵となります。」
霧島の言葉は、もはや千尋の理解の範疇を超えていた。特殊なエネルギー源? 乗り手からの『思い』? 唯一無二の鍵? 全てがSF映画か、あるいはファンタジー小説の序盤で語られるような、途方もない設定だ。しかし、彼の真剣な眼差しは、全てが真実であることを語っている。これは、もう、笑うしかない状況だ。
「……つまり、私のマメ太が、異世界行きのチケット、ってことですか?」
千尋が精一杯ひねり出した問いに、霧島は静かに頷いた。
「そういう認識で、概ね間違いありません。」
千尋は、目の前のコーヒーカップをもう一度見つめた。このコーヒーを飲んだ後、自分の世界が本当に変わってしまうのだろうか。変わってしまった世界で、ただのアラサー事務員の自分が、本当に異世界の回収作業など務まるのだろうか。
霧島の視線が、再び千尋の心の奥底を覗き込む。彼の瞳の奥には、確かな期待と、そして微かな戸惑いが見て取れた。それはまるで、彼女の人生の選択を見守り、同時に、これから始まる未知への挑戦に共感を覚えているかのようだった。
千尋は、深呼吸をした。胸いっぱいに吸い込んだカフェの香りが、彼女の思考をクリアにする。そして、もう一度、マメ太のことを思い浮かべた。いつも自分の心を解きほぐしてくれた、かけがえのない相棒。
マメ太と一緒なら、もしかしたら、できるのかもしれない。
そんな根拠のない自信と、強烈な好奇心が、千尋の不安を打ち消し始めた。彼女の心の中で、退屈だった日常という澱んだ水が、大きな渦を巻き始める。それは、まるで新たな冒険へのプロローグのようだった。