第31話 王女と瘴気と、重なる予感
王都の結界を護る大魔石。その前に立つ千尋の胸は、いまだにざわついていた。先ほど、三つの台座から魔石を回収した際、彼女の直感がはっきりと告げていたのだ。あの魔石が吸収していた瘴気は、確かにオルフェウスと繋がっている。それは、以前感じたものとは比べ物にならないほど、深く、黒く、そして濃密な気配だった。
「千尋様、回収は完了しましたか?」
ライオネルが、心配そうに千尋を覗き込む。その声には、わずかながら焦りが滲んでいた。
「はい、大丈夫です!」
千尋は、空になった魔石の袋を鞄にしまうと、いつものように満面の笑顔で応えた。だが、その心は晴れていなかった。捕まったはずの人物の気配を、なぜ魔石から感じたのか。その疑問は、答えの見つからない迷路のように、千尋の思考を巡っていた。
「では、予備の魔石を設置します」
ライオネルが、千尋から受け取った新しい魔石を、三つの台座にはめ込んでいく。その作業を横で見ていたアンドレは、千尋に深々と頭を下げた。
「御使い様、本日はありがとうございました。御使い様方の力のおかげで、王都の結界はひとまず安定しました。本当に感謝いたします」
「いえ、お仕事ですから!」
千尋は、照れくさそうに笑った。だが、アンドレの言葉は、単なる感謝だけではなかった。彼の瞳には、この小さな少女に、この世界の運命が託されていることへの、深い畏敬の念が宿っていた。
「今回、魔石が想定外の早さで瘴気を吸い取っていた。今後、魔石の交換時期を早める必要があるか、王宮魔術師の方々で検討させていただきたい」
レオンハルトが、アンドレとライオネルに向かって淡々と説明した。
「それは助かる。我々の魔力だけでは、黒龍の魔石を守りきることはできないだろう」
アンドレが真剣な面持ちで答えた。
「千尋様、今日の業務はこれにて終了でございます。王宮内の見学をご希望でしたら、このままご案内いたしますが?」
レオンハルトが、千尋に尋ねる。
「うーん……」
千尋は少し考えた。本当なら、壮麗な王城をゆっくり見て回りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、ギルドでザムザから聞いた話、そして先ほどの魔石で感じた不穏な気配が、千尋の心を急かしていた。
(早くオフィスに戻って、霧島さんたちに報告しないと……)
「大丈夫です。また今度、ゆっくり見学させてください。今日は、このまま戻ろうと思います」
千尋は、にこやかに答えた。
「承知いたしました。では、お送りいたします」
レオンハルトとディートリヒが、千尋を護るように出口へ向かおうとした、その時だった。
「お兄様!レオン兄様!」
遠くから、澄んだ少女の声が響いてきた。
千尋たちが振り返ると、一人の少女が、侍女が慌てて追いかけるのも構わずに、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。
「王女様、どうかお足元にお気をつけくださいませ。そのようなはしたない振る舞いは、お慎みくださいませ」
侍女の悲鳴のような声が、静かな廊下に響き渡る。
(王女様!?)
千尋は、驚きに目を見開いた。王都に来てから、御披露目の場で一度だけ見かけた、アストリア王女だ。御披露目の時と同じ、可愛らしい顔立ちに、きらきらと輝く瞳。活発そうな表情を浮かべ、千尋に興味津々といった様子だった。年齢は、千尋と同じくらいだろうか。
少女は、千尋たちの前でぴたりと止まると、弾けるような笑顔を向けた。
「こんにちは、御使い様!」
千尋は、その無邪気な笑顔に、思わず頬が緩んだ。
「はじめまして、御使い様。アストリア王女のアイリスと申します」
王女とは思えないほど親しみやすい挨拶に、千尋は少し驚きながらも、笑顔で返した。
「はじめまして、アイリス様。千尋です。よろしくお願いします!」
「アイリス、今さら王女らしく振舞っても意味がないぞ」
レオンハルトが、呆れたようにため息をつき、静かに言った。
「なによ、レオン兄様ったら!やっと、ご挨拶出来たのに!」
アイリスは、ぷくりと頬を膨らませた。
「それに、いつも御使い様、あっ、千尋様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
千尋が頷くのを確認すると、アイリスは再びレオンハルトに向き直った。
「レオン兄様ばかり、いつも千尋様と一緒でずるいわ!」
可愛らしい抗議の言葉と共に、アイリスは千尋の腕にぎゅっと抱きついた。
「えっ……お兄さん!?」
(レオンハルトさんは王族!?)
千尋は、驚きに目を丸くして、勢いよく後ろのレオンハルトを振り返った。
「……従妹になります」
レオンハルトが、わずかに眉をひそめて答えた。
「レオン兄様は、お祖父様から授かった剣の才能を認められて、騎士になったの。本当は、レオン兄様だって王族なのよ!」
アイリスが、誇らしげに胸を張る。
「アイリス様、このような場所で長話は、いささか人目に付きすぎます。恐れ入りますが、お部屋の方へどうぞ」
侍女が、冷や汗をかきながら懇願するように言った。
「もう!フレイアったら、いつも心配性なんですから」
アイリスは不満そうに口を尖らせたが、千尋の手をきゅっと握り、上目遣いで見つめてきた。
「千尋様、せっかくですから、わたくしの部屋でお茶でもいかがですか?とっておきの紅茶がございますのよ」
可愛らしい少女の誘いを、千尋は断るのが心苦しかった。しかし、今日の報告は一刻も早く済ませたい。
「ごめんなさい、アイリス様。せっかくだけど、今日はこの後、急いで報告をしないといけなくて……」
千尋が申し訳なさそうに言うと、アイリスは残念そうに肩を落とした。
「……そうですか。また、いつでもいらしてくださると嬉しいわ。お約束ですよ!」
千尋は、もう一度アイリスと会えるという約束に、楽しみが一つ増えたと喜んだ。
アイリスと別れの挨拶を交わし、王城の重厚な門をくぐる。行きとは違い、帰り道は急ぐことなく、ゆっくりとマメ太に揺られながら進んでいった。
千尋は、街の様子を観察しながら、路地裏などに溜まっている瘴気を回収していく。ところどころで、道行く人々の顔が、ギルドで見た冒険者のように青ざめているのに気づいた。
「どうしたんだろう……」
千尋が首を傾げると、レオンハルトが口を開いた。
「最近、魔物の出現ペースが早くなってきているのです。特に、街の近くで。冒険者たちも、疲労困憊で……」
「街の瘴気も、増えているみたいですし……」
ディートリヒが、不安そうに付け加えた。
千尋は、静かに頷いた。やはり、街の瘴気の増加は、偶然ではない。そして、それはオルフェウスと無関係ではないだろう。千尋は、再び胸の奥に澱のように溜まった不安を感じた。
「ふぅ……」
千尋は、アストリアで感じていた緊張を解き放つように、深く息を吐き出した。
(よし、帰ろう)
自分にできることを、一つずつ丁寧にやっていくしかない。そう心に誓い、千尋はオフィスへと続くゲートをくぐった。
オフィスに戻ると、いつものようにパソコンの画面が煌々と光っていた。千尋はデスクの椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆った。アストリアでの任務の緊迫感と、現実に引き戻された安堵感が、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
「お疲れ様です!」
千尋が元気よく声をかけると、奥の席にいた霧島が、ゆっくりとこちらを向いた。
「お疲れ様です、千尋さん」
その時、奥から珈琲を持った如月が、千尋の目の前にカップを差し出した。
「お疲れ様。報告はもう終わったのか?」
「如月さん、お疲れ様です!お仕事、早かったんですね!あ、珈琲ありがとうございます!」
千尋は、嬉しそうにカップを受け取った。
「うん。至急の報告が入ったから、戻ってきたんだ」
如月は、少し疲れたような顔で言った。その言葉に、千尋は、もしかしたらと思い、すぐに口を開いた。
「実は、私も報告があって……」
千尋は、王城で起こった出来事を話し始めた。王都の結界を維持する黒龍の魔石の部屋で起きたこと、そして、その周囲の魔石に溜まっていた、不穏な瘴気のこと。
「…その魔石を回収した時、一瞬だけ、捕まったはずのオルフェウス卿の気配を感じたんです。以前、彼の魔石に触れた時と同じ感覚でした。もしかしたら、捕まっていたとしても、魔石を通じて何かを操っているのかもしれません」
千尋の言葉に、霧島と如月は、顔を見合わせて息をのんだ。
「それは……」
霧島が何か言いかけると、オフィスへと続く扉が開き、葵と大泉が戻ってきた。二人の顔にも、千尋やレオンハルトたちが感じたものと同じ、疲労と不安の色が浮かんでいた。
「ちーちゃん、なんかね、街の瘴気がすごいよ……!」
葵が、千尋に駆け寄ってきた。
「ワシらも、そのことが気になって、早めにアストリアから戻ってきたんじゃ」
大泉も、神妙な面持ちで続けた。
誰もが、街の異変を肌で感じていた。そして、その異変は、千尋が感じたオルフェウスの気配と、無関係ではないだろう。
「このまま放っておけば、本当に……」
大泉の言葉は途切れたが、その続きは、誰もが心の中で分かっていた。このままでは、王都に、いや、この世界全体に、取り返しのつかない事態が起こるかもしれない。
千尋は、静かに自分の鞄に手を伸ばした。そこには、王城で交換した、新たな魔石が入っている。そして、もう一つ。まだ誰にも見せていない、オルフェウスの気配のする魔石が。
彼女の手に握られた、希望の光。そして、そのすぐそばに潜む、不穏な闇。物語は、新たな局面を迎えようとしていた。




