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第29話 新たな日常と、広がる不穏な影


どんよりと重い空気が満ちていた昨日の夜が嘘のように、その日の朝の東京は、穏やかな陽の光に満ちていた。しかし、千尋の心は、まだ完全に晴れてはいなかった。胸の奥に澱のように溜まったモヤモヤは、呼吸をするたびに、その重さが胸の奥に沈んでいくようだった。


(考えても、答えは出ない。だったら、自分にできることを頑張るしかないんだ)


千尋は、ひとつ深呼吸をすると、心の中で自分に言い聞かせた。そして、いつもと同じように、元気いっぱいの笑顔でオフィスへと足を踏み入れる。


「おはようございまーす!」


彼女の声に、オフィスは一気に活気づいた。


霧島が静かに「おはようございます」と応え、大泉もまた「おはよう、ちーちゃん」と声をかけてくれた。如月も千尋に気づくと、優しい笑顔で「おはよう、ちーちゃん」と返した。既に全員が出勤していたようだ。


その中で、葵だけが、まるで千尋の無事を確かめるかのように、一目散に駆け寄ってくる。


「ちーちゃん、おはよう!昨日は本当に大変だったね。大丈夫?」


葵は、千尋の全身をくまなく観察し、傷一つないことを確認すると、心から安堵した表情を見せた。


(心配してくれるのは嬉しいけど、私の方が年上なんですけど……立派な大人です!)


心の内でツッコミを入れながらも、千尋は葵の心配が嬉しかった。


「はい、大丈夫です!ご心配をおかけして、すみません」


千尋は、葵の優しさに感謝しながら、笑顔で答えた。


「千尋さん、昨日はお疲れ様でした。今日は無理にアストリアに向かわなくても大丈夫ですよ」


霧島が、千尋を気遣うように声をかけてくれる。彼の言葉に、千尋は首を横に振った。


「もう大丈夫です。それに、楽しいですからお仕事」


千尋のその言葉に、霧島は何も言わなかった。しかし、その表情からは、彼女の決意を静かに受け入れていることが伺えた。


アストリアに到着すると、そこには、いつものようにレオンハルトとディートリヒが待っていた。二人の顔には、安堵と、かすかな緊張が入り混じっていた。


「千尋様!おはようございます」


ディートリヒが、心底安心したように駆け寄ってきた。


「おはようございます」


レオンハルトは、千尋から一歩離れると、如月に声をかけた。その表情は、いつになく真剣だった。


「如月様」


如月は、レオンハルトのそのただならぬ雰囲気を察し、千尋に気づかれないように彼の元へと歩み寄る。


「昨日の夜に起きた、オルフェウス卿の脱走についてご報告します。王都の中は隅々まで捜索しましたが、見つかりませんでした。既に外に逃げている可能性が高いと思われます」


レオンハルトの言葉に、如月は驚きに瞠目し、言葉を失った。オルフェウスが脱走した?あの厳重な警備をどうやって……。


(よりによって、こんなタイミングで……!)


如月の脳裏に、霧島が報告時に見せた、あの禍々しい魔石の姿がよぎった。この脱走が、あの魔石と無関係であるはずがない。


千尋は、二人の様子を不思議に思いながらも、呑気にマメ太の頭を撫でていた。オルフェウスの脱走という、この世界の命運を左右しかねない重大な事実が、彼女にはまだ知らされていない。


レオンハルトは、真摯な眼差しで千尋と如月に忠告した。


「御使い様は、単独で行動することが多いと聞いております。我々がお供できない時でも、くれぐれもご注意ください」


レオンハルトの言葉は、表向きは千尋への気遣いだったが、その裏には、オルフェウスの脱走という事態を受けて、千尋だけでなく、単独行動をとりがちな他の御使い様全員に対する警告が含まれていた。


千尋は、その真意を知る由もなく、素直に頷いた。


「ありがとうございます、レオンハルトさん。気をつけます」


今日の業務は、冒険者ギルドの瘴気回収だ。千尋とレオンハルト、ディートリヒは、まず冒険者ギルドへと向かった。裏口から入ると、裏庭でマメ太を休憩させ、千尋たちは建物の中へと入る。


ギルドの中は、いつもは活気に満ちているのに、今日は不思議と閑散としていた。どうやら、ほとんどの冒険者は、既にダンジョンへと出払っているようだった。しかし、ギルドの片隅に、一つのパーティーが残っていた。そのうちの一人が、青白い顔で椅子に座り、苦しそうにうずくまっている。他のメンバーたちが、心配そうにその冒険者の背中をさすっていた。


千尋は、その冒険者によく目を凝らした。すると、薄く黒い瘴気が、まるで薄皮のようにその身体に張り付いているのが見えた。


(あ、この瘴気……)


それは、孤児院の瘴気とは違う、しかし、どこかオルフェウスの魔石に似た、不穏な気配を放っていた。


千尋は、考えるより先に身体が動いていた。


「ちょっと待ってて!」


そう叫ぶと、千尋は駆け足で冒険者たちに駆け寄った。突然の千尋の登場に、冒険者たちは驚きの表情を浮かべる。


「大丈夫ですか?」


千尋は、辛そうにしている冒険者の身体に、そっと手を触れた。そして、張り付いている薄い瘴気を、まるで埃を払い落とすかのように掴みとる。


「えいっ!」


彼女は、可愛らしくも力強い掛け声を忘れなかった。


掴みとった瘴気を、鞄の中の空の魔石に押し込む。すると、瘴気は、まるで吸い込まれるように、魔石の中へと消えていった。


「あまり無理しちゃダメですよ!」


千尋は、にこやかにそう声をかけると、満足そうな顔でレオンハルトたちの元へと戻った。


冒険者たちは、急に体調が良くなったことに驚きながらも、千尋の姿を見て、はっとした表情を浮かべた。


「お、御使い様……!ありがとうございます!」


一人が感謝の声を張り上げると、他の冒険者たちも、口々に感謝を述べた。


「すげぇ、噂は本当だったんだ!」

「女神の御使い様だ……!」


冒険者たちの間に、興奮と感激の声が広がっていく。


千尋は、そんな冒険者たちに笑顔を返し、誇らしげに胸を張った。


「さあ、行きましょう!」


千尋の元気な声に、レオンハルトとディートリヒは、思わず顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。困っている人を見ると放っておけない千尋の性格は、本当に彼女らしいと、改めて感じていた。


ギルドの職員も、千尋に駆け寄ってきた。


「千尋様、本当にありがとうございます。彼らはまだ低ランクの冒険者で、治療院に行くのを迷っていたようで……」


職員は、まるで奇跡を見たかのように、キラキラとした目で千尋を見つめていた。


「いえいえ、お役に立ててよかったです!」


千尋は、満面の笑顔で答えた。


職員にギルドマスターの部屋へと案内され、千尋たちは扉を叩いた。


「入れ!」


中から聞こえてきたのは、豪快な声だった。扉を開けると、そこには、屈強な体格をしたギルドマスター、ザムザが、笑顔で二人を迎えてくれた。


「おー、ちーちゃん!昨日は大変だったなぁ!」


ザムザのあまりにもフランクな態度に、レオンハルトの表情が、一瞬にしてぴりつく。しかし、千尋は、そんなレオンハルトに、大丈夫だと笑顔を向けた。


「こんにちは、ザムザさん。そんなに噂になってるんですか?」


千尋が尋ねると、ザムザは豪快に笑った。


「ちーちゃん、これでも俺はギルドマスターだぞ。それくらいの情報は、あっという間に入ってくるさ」


ザムザは、隣に控えていた職員に、手早く指示を出した。


「おい、お茶とケーキを頼む!」


千尋の顔が、ぱっと輝く。


「ザムザ、私たちは結構だ」


レオンハルトが、冷たく言い放つ。その言葉に、ディートリヒは、がっかりした様子で肩を落とした。


「ははは、そう固いことを言うな。お前たちも座れ」


ザムザは、そう言って、レオンハルトたちを強引に席に座らせた。


千尋が席に着くと、すぐにティーセットと、美味しそうなケーキが目の前に置かれた。千尋は、目を輝かせ、神妙な顔で「いただきます」と手を合わせると、一口食べた。


「おいしいー!」


千尋の満面の笑みに、ザムザは満足げに頷いた。


「そりゃよかった。で、用件だが」


ザムザは、そう言うと、テーブルの上に大きな布袋を置いた。千尋が中を覗き込むと、そこには、たくさんの魔石が詰まっていた。


「わぁ、こんなにたくさん!この前よりも多いですね」


千尋は、鞄から空の魔石が詰まった袋を取り出し、ザムザに渡した。


「ああ、最近ダンジョン内の魔物が、活動が少し騒がしくてな。いつもより瘴気濃度が高くて困ってたんだ」


ザムザがそう言うと、千尋は、不安げな表情を浮かべた。それは、街中で感じた不穏な気配と、どこか重なるものだった。


「もしかして、街中にも瘴気が出てきてますか?」


千尋の問いに、ザムザは、わずかに目を見開いた。


「……気づいたか。ああ、たぶん小さなものだが、気配を感じるな。今までではあり得なかったことだ」


ザムザは、口元を真一文字に結んだ。


「まだギルドの冒険者たちには知らせていない。下手な噂が広まれば、パニックになるだろうからな」


千尋は、ザムザの言葉に、胸騒ぎを覚えた。これは、きっとオルフェウスのせいだ。彼は、きっと何かを企んでいる。


「ザムザさん、これは……」


千尋が言いかけると、ザムザは、ゆっくりと首を横に振った。


「ちーちゃん、気にすることじゃない。お前は、お前のやるべきことをやればいい。……ただ、これだけは覚えておけ。このアストリアは、今、確実に変わろうとしている」


ザムザの言葉は、まるで予言のようだった。千尋は、自分の腕の中に、決して消えることのない、禍々しい魔石が残っていることを思い出した。そして、その魔石が、彼女の知らないところで、この世界の運命を、大きく動かそうとしているのではないかと、漠然とした不安に襲われた。


新たな日常は、始まったばかり。しかし、その影には、不穏な闇が、ゆっくりと、しかし確実に、広がり始めていた。


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