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第28話 嵐の後の静けさと、残された棘


激しい戦いの余韻が、重く澱んだ空気のように孤児院の庭園に残っていた。千尋は、全ての瘴気を魔石に押し込み終えた後、糸が切れたかのように、その場に崩れ落ちる。全身から力が抜け、膝がガクガクと震えていた。


「くぅーん…」


マメ太は、そんな千尋に寄りかかるように、そっと体を寄せる。その温かさと、柔らかい毛並みの感触に、千尋は安堵の息を吐いた。


「ちーちゃん!」

「千尋様!」


如月がソウマと共に、千尋を案じて駆け寄ってきた。その声に顔を上げると、安堵と心配が入り混じった彼らの表情が見えた。千尋は、張りつめていた緊張の糸が切れたように、ぽつりと呟いた。


「如月さん……」


その声は震え、彼女の瞳にはみるみるうちに潤みが浮かんでいく。


「ちーちゃん、凄かったよ。どこか痛いところはない?」


如月は、千尋の腕から魔石を受け取ると、優しく語りかけた。瘴気を押し込んだ時に感じた激痛を思い出し、千尋は恐怖を振り払うように、彼の掌にある魔石をぺしぺしと叩いた。


「今は大丈夫です。でも、これ……やっぱり何か違うんだと思います。いつもみたいに、すっと消えてくれなかったから」


千尋の言葉に、如月は魔石をじっと見つめる。禍々しい黒い光を放つそれは、彼の知るどの魔石とも異なっていた。まるで、生きているかのように、鼓動を打っているような錯覚さえ覚える。


「ちーちゃん、これは俺が預かる。危険かもしれない」


如月は、千尋にこれ以上負担をかけまいと、魔石を懐にしまう。その瞬間、千尋はふと、背後から感じる冷たい視線に気づいた。少し離れた場所で、第二騎士団の騎士たちに押さえつけられたオルフェウスが、こちらを食い入るように見つめている。彼の瞳は、敗北の悔しさだけでなく、まだ諦めていない、貪欲な光を宿していた。


その視線に、千尋の胸に込み上げてきたのは、抑えきれない怒りだった。普段の丁寧な口調を忘れ、思わず忌々しそうに呟く。


「あいつ……!アストリアでは女神の御使い様には絶対服従だって霧島さんが言ってたのに、私が子供だから馬鹿にしてるんですかね」


「ちーちゃん、あいつって……口調が葵みたいになってるよ」


如月が思わず苦笑する。その言葉に、千尋ははっと我に返り、頬を赤くした。


「でも、あいつのせいで子供たちが……!そうだ、子供たちは!」


千尋が焦燥に駆られ、立ち上がろうとした、その時だった。


「ご安心ください、千尋様。子供たちは無事です」


穏やかな声が、千尋の耳に届く。いつの間にか、レオンハルトとディートリヒがすぐ側に立っていた。レオンハルトは、安堵の表情を浮かべる千尋に、そっと微笑みかける。


「よかった……ありがとうございます、レオンハルトさん」


安堵の溜息を吐きながら、千尋はもう一度レオンハルトに感謝を述べた。その隣で、ディートリヒが少し拗ねたような口調で言った。


「千尋様、俺も頑張りました」


「あはは、ディートリヒさんもありがとうございます!」


千尋の笑い声が、張り詰めていた庭園の空気を和らげる。マメ太も、千尋の足元に座り込み、嬉しそうに「クゥーン」と鳴いた。千尋は、その大きな頭を撫でるように屈み込む。


「マメ太もありがとう。皆が無事で、本当に良かった」


静寂が戻った庭園で、千尋はふと、自らの掌に目を落とした。そこには、あの魔石を掴んだ時の、冷たく鋭い感触が、まだ残っていた。そして、胸の内には、誰も答えてくれない、一つの疑問が深く突き刺さっている。


この魔石は、何のために私のもとに残されたのだろうか。



その夜、疲労が激しい千尋は帰宅し、自室のベッドに倒れ込んだ。日中の喧騒が嘘のように静まり返った部屋で、彼女はただ、呼吸を整えることしかできなかった。心臓がドクドクと脈打ち、熱を帯びた皮膚は、瘴気に触れた時の激痛をまだ覚えていた。


掌を広げてみる。そこには、何一つ残っていない。だが、あの冷たく鋭い感触と、胸の奥深くに突き刺さった、答えの出ない疑問だけが、彼女を休ませようとはしなかった。



同じ頃、オフィスの一室では、静かだが重苦しい空気が流れていた。


執務室のテーブルを挟んで向かい合っているのは、霧島と、葵、大泉。そして、その前に立つ如月が、孤児院での出来事を報告していた。


「……というわけで、オルフェウス卿は第二騎士団に身柄を確保されました」


如月の報告は簡潔だった。しかし、その内容の重さは、彼らの顔色を曇らせるのに十分だった。


「なるほど、オルフェウスは、千尋さんが持つ瘴気を操る能力を利用し、その力を以て自身の魔石を完成させようとした、と」


霧島が顎に手を当て、静かに呟く。その言葉に、大泉もまた、事態の複雑さに考え込むように眉をひそめた。


「はい。ですが、オルフェウス卿が隠していた瘴気の塊は、これまでの瘴気とは明らかに異質でした」


如月は、懐から小さな布袋を取り出すと、そっとテーブルに置いた。結び目を解き、中身を露わにする。


ごろん、と転がり出たのは、掌に収まるほどの大きさの魔石だった。だが、それは葵と大泉が知る、半透明で淡い光を放つ魔石とは全く違うものだった。まるで、煮詰めた闇を凝縮したかのように真っ黒で、表面には禍々しい文様が刻まれていた。


魔石が発する不穏な気配に、執務室の空気が一変する。


葵は思わず顔を背け、大泉は「うっ」と喉を詰まらせた。二人の肌には、不快な悪寒が這い上がっていく。


「こいつは……なんて代物だ……」


大泉が、顔を歪めながら呟く。その言葉には、本能的な恐怖と嫌悪が滲んでいた。


如月は、無言で魔石を霧島の方へスライドさせた。霧島は表情一つ変えず、その禍々しい塊を手に取ると、親指で表面をなぞる。


「……上の連中が喜びそうな魔石ですね」


その声には感情がこもっていなかったが、その言葉の裏に隠された冷たい皮肉は、葵と大泉にもはっきりと伝わった。


霧島は魔石を元の布袋に戻すと、それを如月に手渡した。


「如月、悪いがこれを回収部に届けてくれ。魔石の解析は急務だ」


「はっ」


「そして、今後のことだが……」


霧島は、冷たい瞳で全員を見回した。


「千尋さんには、オルフェウスのことが完全に片付くまで、第二騎士団に警護についてもらう。業務は王都の中での回収・配達に限定し、危険な外での仕事は避けさせる」


如月は、安堵したように息を吐いた。しかし、霧島の言葉はまだ続いていた。


「オルフェウスの件は、我々だけで解決できるほど簡単な話ではないようだ。何が起こるか分からない。千尋さん以外にも、葵、大泉、君たちも充分に注意をして業務に臨んで欲しい。油断は禁物だ」


霧島の言葉は、今回の事件が、単なる一過性のトラブルではないことを示していた。


闇に蠢く見えざる敵。千尋の無力さを嘲笑ったオルフェウスの、その背後にいる「あの方」の存在。


誰もが、これから始まる本当の戦いの予感に、身が引き締まるのを感じていた。



その頃、オルフェウスは、大貴族専用の厳重な囚人部屋に監禁されていた。牢屋とは名ばかりの、豪華な調度品が揃えられた部屋だった。しかし、彼の顔には不満の色が濃く浮かんでいた。


「くそっ、この私をこんな部屋に監禁するとは……!」


窓から差し込む星明かりを睨みつけ、彼は悪態をつく。しかし、彼の心は、完全に絶望しているわけではなかった。


(しかし、あの魔石は完成していた。皮肉にも、あの愚かな御使い様によって……。あれは、あの方が求めていた魔石。計画は失敗したが、最終的な目的は達成されたのだ)


彼の野望は潰えたが、それ以上の成果が手に入った。そう信じて疑わなかった。


オルフェウスの部屋には、大窓があった。厳重な魔法がかけられており、開くことはない。部屋の中では、魔法の行使を妨げる結界が張られていた。しかし、その夜、静寂を破って、閉ざされていたはずの大窓が、ゆっくりと音もなく開いた。


ひゅう、と窓から吹き込んできた風が、オルフェウスの頬を撫でる。


「あなたは……あの方の……」


オルフェウスの瞳に、かすかな驚きと、そして確信の光が宿る。


その直後、部屋の外で異変に気づいた衛兵たちが、騒がしい気配を察知して部屋の扉を開けた。しかし、そこにいるはずのオルフェウスの姿は、どこにもない。開いたままの大窓を見て、衛兵たちはすぐに緊急の合図を鳴らした。


城中に響き渡るけたたましい警報。


その音は、国王に事件の報告をしていたレオンハルトとディートリヒの耳にも届いた。


「一体、何事だ!」


国王が顔色を変える。その側には、直ちに第一騎士団が護衛につき、厳戒態勢が敷かれた。


レオンハルトとディートリヒは、顔を見合わせる。二人の脳裏に、同じ予感がよぎった。


「ディートリヒ、行くぞ!」


「はい、団長!」


二人は、警報の鳴り響く中、一目散に現場へと走った。


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