第27話 オルフェウスの誤算と、希望の光
千尋とマメ太が、巨大な瘴気の塊と必死に戦う中、孤児院の地下では別の戦いが始まっていた。
重く澱んだ空気が、ディートリヒの呼吸を圧迫する。湿った土の匂いと、瘴気特有の鼻を刺すような悪臭が混ざり合い、この空間の禍々しさを物語っていた。
「レオン、あそこだ!」
ディートリヒが、地下室の最も奥、禍々しい瘴気の源となっている場所を指差した。そこには、巨大な魔法陣の中心に、脈動するような黒い魔石が鎮座していた。その魔石は、まるで生きているかのように光を放ち、周囲の瘴気を貪るように吸い上げている。
「これか、オルフェウス卿が隠していたものは……」
レオンハルトは、静かに呟いた。彼らの目の前で、瘴気の塊が、千尋たちの元へではなく、この魔石へと吸い込まれていくかのように感じる。マザーが心配していたように、瘴気が地下に戻ってきたのだ。
「子供たちが、あんなところに…!」
ディートリヒの声が震えた。魔石の周辺には、瘴気に囚われているのか、孤児院の子供たちが苦しむように体を震わせているのが見えた。
「オルフェウス卿の目的は、この魔石を完成させること。御使い様方の力は、そのための触媒に過ぎなかったのだ」
レオンハルトは、奥歯を噛み締める。千尋たちの純粋な善意が、この忌まわしい計画に利用されている。その事実に、彼の怒りは頂点に達していた。
「ディートリヒ、作戦変更だ。魔石を破壊する。子供たちの救出が最優先だ」
「はっ!」
ディートリヒは、躊躇なく剣を構えた。彼らは、王都に戻る騎士団に連絡を入れ、増援を要請していたが、一刻の猶予もない。この場で、全てを終わらせるしかない。
レオンハルトは、ディートリヒに合図を送る。二人の騎士の剣が、同時に巨大な魔石に叩きつけられた。
キンッ!
乾いた金属音が響き渡る。魔石は、彼らの剣を受けてもびくともしない。
「くそっ、これほどの硬度とは……!」
ディートリヒが苦々しい表情を浮かべる。しかし、レオンハルトは冷静だった。
「硬いのではない。瘴気が封じられている。瘴気を打ち消す魔剣でなければ、傷一つつけられない」
レオンハルトは、己の剣を鞘から抜いた。その剣は、王家に代々伝わる魔剣、『アストラ』。それは、あらゆる魔力を無効化し、瘴気にも対抗する力を持つ、伝説の剣だった。
レオンハルトは、剣を振りかぶる。その剣が放つ淡い光が、周囲の瘴気と反発し合う。
「オルフェウス卿、あなたの企みは、ここで終わりだ」
レオンハルトは、剣を振り下ろした。
その瞬間、地上では――。
千尋は、痛みに耐えながら、マメ太と共に、巨大な瘴気の塊を魔石に押し込もうと試みていた。彼女の右腕に巻き付いている黒い瘴気は、肩を越え、首元にまで達しようとしていた。
その時、ゴォォン、と地下から重く鈍い音が響き、千尋を包む瘴気の塊が、突如として力を失った。
「え……?」
千尋は、呆然と立ち尽くす。瘴気の塊は、勢いを失い、千尋から逃げようとしていた反発が無くなったのだ。マメ太もその事に気づいたのか、ひときわ大きな咆哮を上げ、瘴気を纏め千尋に託す。
「何だ……一体、何が起こった?」
オルフェウスは、その光景に、満面の笑みを失い、顔を引きつらせた。彼の計画は、千尋たちの奮闘によって成功するはずだった。それが、なぜ……?
(もう少しだった。あの魔石が完成するために、あと少しの瘴気があればそれだけで……。計画は全て上手くいっていた。あの瘴気は、完成間近で魔石に吸収されなくなったのだ。だから、噂の御使い様を呼び出し、瘴気を操り魔石を完成させようとした。御使い様から、逃れようとした瘴気は、間違いなく地下の魔石に向かっていた筈なのに)
その答えは、地下から響き渡った、魔石が砕ける音だった。
ガギィィィンッ!
アストラの剣が、魔石に深く突き刺さる。魔石は、まるで悲鳴を上げるかのように、激しく光を放ち、ひび割れていく。
その瞬間、地下から、巨大な瘴気の塊が千尋とマメ太に向かって噴き出した。その瘴気を千尋は魔石に押し込んでいく。全ての瘴気を魔石に押し込み終えた後、ようやく深呼吸をし座り込む。
人々は、その光景に、呆然と立ち尽くしていた。恐怖に染まっていた彼らの表情が、安堵と、そして希望の光に満ちていく。
千尋の右腕に絡み付いていた瘴気も、すっかり消え去っていた。しかし、その痕跡は、千尋の腕の中に残っていた。禍々しい黒い光を放つ魔石。皮肉にもオルフェウスが作り上げようとしていた魔石が、目の前にあった。
オルフェウスは、その場で膝をつき、絶望の表情を浮かべていた。彼の野望は、千尋たちの純粋な善意と、第二騎士団の冷静な判断によって、あっけなく打ち砕かれたのだった。
瘴気を吸い込んだ魔石は、禍々しい黒い光を放ちながら、脈動するように鼓動を繰り返していた。それは、この場所に確かに存在していた穢れが、一時的に封じられたことを示していた。人々は、その光景を、まるで救いの光を見るかのように、静かに見つめていた。
千尋は、答えの出ない問いを胸に、ただ一人、そこに立ち尽くすしかなかった。この世界に御使い様として来た意味。それは、誰かの野望のために利用されることなのだろうか。そして、この手に残った魔石が、彼女に課された新たな宿命なのだろうか。