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第3話 秘密保持契約と新たな世界


霧島は、千尋の向かい側のソファに深く腰掛け、ゆっくりとサングラスを外した。


彼の素顔は、千尋が想像していたよりもずっと若かった。年齢は、千尋より少し上、30代半ばといったところだろうか。引き締まった顎のライン、知的な光を宿した瞳。黒いスーツ姿と相まって、どことなくインテリジェンスな雰囲気が漂っている。その表情には微かな疲労の色が滲んでいるようにも見えた。まるで世界の秘密を背負いすぎたかのような、そんな影があった。


だが、千尋の緊張を見抜いたかのように、彼は優しく口を開いた。


「そんなに緊張することはありませんよ。面接は、あくまで名ばかりですから。」


千尋は目を見開いた。名ばかり? では、なぜこんな場所で、厳重な警備を通り抜けさせてまで…? 疑問符が千尋の頭の中を駆け巡るが、霧島はそんな思考を読んだかのように、ふわりと笑った。その笑みはさっきまでのビジネスライクな表情からは想像できないほど人間味があり、どこか重い荷を下ろしたような微かな安堵さえ見て取れた。


「もちろん、形式上は面接ですが、実質的には、あなたに私たちの仕事の内容を説明し、納得していただくための場です。そして、あなたがこの仕事にどれだけ適応できるか、私たちが見極める、という意味合いもあります。」


「適応……ですか?」


千尋は繰り返した。彼女の平凡な日常には、「適応」を求められるような刺激的な出来事はほとんどなかった。


「ええ。この仕事は、通常の配送業務とは一線を画します。だからこそ、私たちは慎重に人選を行っています。」


霧島の言葉は千尋の好奇心をさらに刺激した。通常の配送業務と一線を画す……やはり、ただの荷物運びではないのだ。千尋は、その『特殊』な部分にこそ強く惹かれている自分を自覚していた。この、人生で最も退屈な時期に現れた「変化」の兆しに、彼女の心は高揚していた。まるで、ゲームで新しいダンジョンの入り口を見つけたかのような、冒険心がむくむくと湧き上がってくる。


「勝山さんには、ぜひ弊社のルート配送スタッフとして働いていただきたいと考えています。」


霧島の言葉に、千尋は内心で歓声を上げた。心臓が跳ね上がり、胸の中に喜びがじわじわと広がっていく。ずっと求めていた、日常からの変化。それが、今、まさに目の前にある。この謎めいた場所、ミステリアスな男性、そして「特殊な」仕事。全てが千尋の退屈な日常を打ち破る、魅力的な要素に思えた。


(やったー! 私、選ばれた! 憧れの非日常が、今、始まるのね! これで私も、キラキラした人生の主人公に……!)


だが、霧島の次の言葉は、千尋の喜びを一瞬で凍り付かせた。


「ただし、条件があります。」


霧島は、表情一つ変えずに続けた。その声には、一切の感情が読み取れない。まるで、機械がプログラムを読み上げているかのようだ。


「これから私が説明する仕事内容は、決して誰にも話してはいけません。家族にも、友人にも、警察にも。」


千尋の脳内で、再び危険を知らせるアラートが甲高く鳴り響いた。やはり、ヤバいところだったのか。マフィア? 秘密結社? 隠蔽? パニックになりかけた千尋は、咄嗟に周りを見渡した。しかし、目の前にあるのは、落ち着いた雰囲気のカフェ。そして、ここが警視庁の地下であることを思い出した。このアンバランスさが、余計に千尋を混乱させた。


(落ち着け、私。落ち着くんだ。警察署の地下に、そんな怪しい組織があるわけない。きっと、国家を揺るがすような極秘のプロジェクトか何かで、情報漏洩を防ぐための措置なんだ。うん、そうに違いない!)


千尋は必死に自分を納得させようとした。それでも、心臓の鼓動は速まる一方だ。霧島は、そんな千尋の葛藤をじっと見つめている。その視線は、千尋の心の奥底を見透かすかのように鋭かった。まるで、千尋の思考の全てが彼に筒抜けになっているかのようだ。


「……それは、つまり、口外禁止ということでしょうか?」


千尋は、かろうじて声を絞り出した。声が震えているのが自分でも分かった。


「その通りです。この仕事に関わる全ての情報は、厳重に秘匿されます。それは、あなた自身の安全のためでもあります。情報が漏洩すれば、あなた自身が危険に晒される可能性も否めません。」


霧島の言葉は、千尋をさらに追い詰めた。危険? 彼女の脳裏に、映画で見たスパイ映画のシーンがフラッシュバックする。秘密組織に追われる主人公、命を狙われる日々……。いや、待って、私はモブキャラ! いきなりハードモードは勘弁してほしい!


「……そんなに、危険なことなんですか?」


千尋の問いに、霧島はゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。危険を伴うことはありますが、それはあくまで、定められたルールを守らなかった場合に限ります。私たちは、従業員の安全を第一に考えています。しかし、万が一、秘密が漏洩するようなことがあれば、私たちはあなたを保護することも、情報を隠蔽することもできません。その責任は、すべてあなたにあります。」


彼の言葉は穏やかだったが、その裏には、決して譲れない強い意志が感じられた。千尋は唾を飲み込んだ。これは、軽い気持ちで引き受けられるような仕事ではない。しかし、同時に、これほどの「特殊」な仕事は、今後の人生で二度と巡り合えないかもしれないという思いも強かった。この奇妙な状況自体が、彼女の好奇心を強く刺激していたのだ。まるで、目の前に『選ばれし者』だけが見える道が現れたような、そんな運命的なものを感じていた。


「この件に関する秘密保持契約書にサインをしていただければ、即日採用です。」


霧島はそう言って、まるで当たり前のように、一枚の書類を千尋の前に差し出した。そこには、びっしりと細かい文字が並び、専門用語が羅列されていた。読むだけでも骨が折れそうだ。千尋の頭が、法律用語の羅列に拒否反応を示す。それでも、彼女は懸命に目を凝らした。


千尋は書類に目を落とした。そこに書かれているのは、もし秘密を漏洩した場合、法的な処罰だけでなく、「然るべき措置」を取るといった、穏やかではない文言も含まれているように見えた。「然るべき措置」……それが何を意味するのか、千尋には想像もつかない。ただ、それが決して良い意味ではないことだけは、直感的に理解できた。背筋に冷たい汗が、再び流れ落ちる。


激しい葛藤が千尋の脳裏を駆け巡る。今までと同じ、変化のない日常に戻るのか。安定と平穏を手に入れるか。それとも、危険を承知で、この未知の世界に足を踏み入れるのか。刺激と興奮に満ちた世界を選ぶのか。人生の選択肢が、いきなり二択になって突きつけられた。


霧島の視線が、千尋の選択を促すように突き刺さる。彼の表情は、相変わらず冷静沈着だ。しかし、千尋には、彼の瞳の奥に、わずかな期待のような光が宿っているように見えた。それは、彼女の迷いを見守り、同時に彼女が選ぶであろう道への確信のようなものだった。


千尋は深呼吸をした。胸いっぱいに吸い込んだカフェの香りが、彼女の思考をクリアにする。そして、震える指でペンを握り、書類に自分の名前を書き込んだ。


(これで、本当に後戻りできなくなるんだ……)


千尋は、まるで人生の契約書にサインをするような、厳かな気持ちだった。


「……これで、よろしいでしょうか。」


千尋が書類を差し出すと、霧島はゆっくりとそれを受け取った。その口元に、微かな笑みが浮かんだように見えた。それは、まるで長年の研究が結実したかのような、あるいは予見通りの展開を迎えたかのような、知的な満足感を湛えた表情だった。


「ええ、問題ありません。ようこそ、Another Worldへ、勝山さん。ここから、あなたの世界は一変することになります。」


その言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。千尋の心臓は、喜びと不安、そして未知への期待で、高鳴りを止められない。彼女の退屈な日常は、この瞬間に終わりを告げ、全く新しい扉が目の前で開かれたのだ。


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