第23話 小さな試みと、秘められた真実
翌朝、千尋はいつもより早くオフィスに出勤した。胸の中には、昨日思いついた「魔石の再利用」というアイデアへの期待と、少しの不安が同居している。
オフィスの扉を開けると、パソコンの画面に霧島の顔が映し出されていた。
「おはようございます、霧島さん。少し、お話いいですか?」
「おはよう、千尋さん。どうぞ」
霧島は、千尋のただならぬ雰囲気を察し、画面越しに頷いた。
「あの……昨日、少し考えたんですけど。空の魔石が高価なのは、容量が一杯になったらもう使えなくなっちゃうからですよね?だったら、大きな魔石を治療院に置いて、小さな魔石の瘴気を吸収すれば、効率が良くなるんじゃないかなって」
千尋は、貧しい人々を救いたいという純粋な気持ちを、熱意に込めて語った。
しかし、霧島は静かに首を横に振った。
「千尋さん。それは、過去に何度も試されたことなんです」
千尋は、がくりと肩を落とした。自分の考えが、いかに素人じみているかを思い知らされたようで、少し恥ずかしさを感じた。だが、すぐに別の疑問が湧いてきた。
「どうして、できなかったんですか?もしかして、アストリアの内政介入とかになっちゃうから……?」
千尋の言葉に、霧島はわずかに目を見開いた。彼女の思考回路が、地球側の常識に基づいていることに改めて気づかされた。
「いえ、そうではありません。アストリアでは、一度魔石に吸収された瘴気を、取り出すことができないんです。瘴気は『穢れ』であり、浄化できないものとされていますから、空の魔石が必要になる。だからこそ、魔石の価値は高く、高価なものとなっているのです」
「……そう、だったんですね」
千尋は、アストリアの魔石の仕組みが、地球とは根本的に違うことを理解した。だが、同時に、新たな疑問が生まれた。
「だったら、地球ではどうやって瘴気を取り出しているんですか?それをアストリアで応用することはできないでしょうか?」
千尋の言葉に、霧島は静かに目を伏せた。その問いに、彼は答えることができなかった。地球側での魔石の取り扱いに関する情報は、機密事項であり、千尋に明かすことは許されていない。
「それは……私にも、なんとも言えません」
霧島は、言葉を濁すしかなかった。千尋は、その答えに失望しながらも、それ以上は尋ねなかった。何か、言ってはいけないことに触れてしまったのだと察したからだ。
パソコンの向こうの霧島が、画面を切り替えた。
「今日の業務についてだ。ユリウス氏の治療院で、実地検証を行う。如月と大泉は、瘴気に触れることができるか、試してみてほしい」
霧島の言葉に、葵は目を丸くした。
「え、ちーちゃんがやったことって、そんなに特別なことだったの!?」
「ああ。過去の御使い様で、瘴気に直接触れたという記録はない。千尋さんの能力が、彼女だけの特殊なものなのか、それとも、我々にも潜在的な能力があるのか……それを確認する必要がある」
如月が、静かに付け加えた。彼の表情は、真剣そのものだった。
「ねぇ、私もやってみたい!」
葵が、目を輝かせて言った。その発言に、霧島は画面越しに頭を抱えるようにため息をついた。
「葵、君は……」
「大丈夫です!ちーちゃんができたことなら、私だってできるはずです!」
葵の屈託のない笑顔に、霧島は返す言葉が見つからなかった。
「……わかった。ただし、絶対無理はするな。少しでも異変を感じたら、すぐにやめるんだ」
霧島の許可を得て、葵は嬉しそうに飛び跳ねた。千尋は、そんな葵の姿を見て、胸の奥に、言葉にできない感情が湧き上がるのを感じていた。
(みんな、私のために……)
彼女の無自覚な行動が、仲間たちを危険な実験へと駆り立てている。その事実に、千尋は、喜びと同時に、少しの罪悪感を覚えていた。
一行は、マメ太たちと共に、王都へと向かった。
ユリウスの治療院に着くと、昨日助けた子供が、元気に走り回っていた。その姿を見て、千尋は、心から安堵した。
「ユリウスさん、お子さん、もうすっかり元気なんですね!」
千尋が声をかけると、ユリウスは、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、本当に千尋様のおかげです。お力添え、感謝いたします」
ユリウスは、深々と頭を下げた。彼の瞳は、千尋への尊敬と、ある種の期待に満ちている。
今日の目的を説明すると、ユリウスは一行を、治療院の奥にある魔石が保管されている部屋へと案内してくれた。
部屋の中央、厳重に管理された箱の前で、ユリウスが厳かな声で魔法を唱えると、「キン」という澄んだ音が響き、箱の蓋がゆっくりと開いた。その中から現れた台座の上には、巨大な魔石が置かれていた。それは昨日、千尋が交換したときのまま、本来の白く透明な色がまだ大部分を占めており、真っ黒な魔石とは違っていた。治療で取り除かれた瘴気が、薄い墨汁を垂らしたように、わずかに黒く染めているだけだった。
千尋は一歩前に出て、魔石に向かって微かに流れてくる黒い靄に手を伸ばした。まるで、水面をそっと撫でるように、彼女の手は靄を掴み上げた。靄は千尋の掌の上で、まるで生きているかのように蠢き、薄い黒い光を放っている。
「すごい……!」
葵が息をのんだ。如月と大泉も、その光景に驚きを隠せずにいた。
千尋が見本を見せ終えると、今度は葵、如月、大泉がそれぞれ魔石の前に立った。彼らは、千尋と同じように、流れてくる靄に手を伸ばした。
葵は、おそるおそる手を伸ばした。彼女の掌に、ほんのわずかな、薄い靄が乗った。
「わ、掴めた!」
葵は歓喜の声を上げた。しかし、それも束の間、彼女の表情はすぐに曇った。
「でも……これ、薄い小さな靄なら掴めるけど、濃いのは無理かな。大きいのも全然ダメ」
葵は、そう言って掌の靄を離した。それは魔石に向かって流れていく。
次に、如月と大泉が試してみた。彼らもまた、葵と同じように、薄い靄なら掴むことができた。しかし、千尋が掴んだような、濃い靄や、大きな塊のようなものは、まるで掴めない。
「この能力、私たちが訓練すれば、ちーちゃんと同じくらいできるようになるかもしれません」
如月が、希望に満ちた声で言った。大泉もまた、静かに頷いている。
千尋は、そんな二人の希望に満ちた顔を見て、切り出した。
「皆さん、ちょっといいですか」
千尋は、自分のバッグから二つの魔石を取り出した。
「私、試してみたいことがあるんです。そのために、魔石を持ってきました」
千尋は、小さな魔石に少しだけ瘴気を押し込めると、それを少し大きい魔石のそばに持っていった。しかし、魔石に吸収された瘴気が、大きい魔石に移ることは無かった。
それは、霧島が言っていた通りだった。
一度吸収された魔石からは、瘴気を取り出すことは出来ない。
千尋ががっかりしていると、小さくて治療院の中に入ることが出来たマメ太が、千尋にすり寄ってきた。マメ太は千尋の掌にある魔石に向かい、低く唸り声を上げ、じっと魔石を見つめ続けた。
すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
小さな魔石から、黒い靄がまるで生命を得たかのように、ゆっくりと浮き上がり始めたのだ。
そして、それはまるで、大きな魔石に吸い込まれるかのように、勢いよく向かっていった。
千尋は、その光景に息をのんだ。彼女のアイデアは、間違っていなかった。ただ、それを動かす力は、彼女自身のものではなかったのだ。
その瞬間、千尋は理解した。自身の無意識の優しさが引き起こした奇跡は、彼女自身の力ではなかった。
マメ太。この愛らしい相棒こそが、アストリアの歴史を根底から覆す、真の『鍵』だったのだ。
千尋とマメ太の間に結ばれた特別な絆。それは、この世界に蔓延る『穢れ』を自在に操り、新たな時代を切り開く、小さな光となる。しかし、その光は、同時に、彼女たちを未曾有の危険へと誘う引き金となるだろう。