第17話 騎士の誓いと、温もりの再会
王都の喧騒から離れたレストランでの一件は、千尋の心に重くのしかかっていた。大泉の背中に隠れながら、千尋はオルフェウスの視線を思い出していた。それは、彼女がこれまでの人生で感じたことのない、底冷えするような悪意だった。
騒動が収まると、大泉とレオンハルトは、千尋の護衛体制について話し合っていた。
「私の警備の不手際で、千尋様に怖い思いをさせてしまった。面目次第もございません…」
深く頭を下げるレオンハルトの姿に、千尋は胸を締め付けられる思いだった。彼の真面目な性格を考えると、自身の責任だと感じているのだろう。千尋は、そんなことはないと伝えたい一心で、どう言葉をかけるべきか迷っていた。
(レオンハルトさんは悪くないのに…私が子供の御使い様だから、こんなことになっちゃったんだ…)
つまらない日常から解放されたいと願っていたはずなのに、現実は想像をはるかに超えていた。自分のせいで誰かを困らせ、傷つけてしまうかもしれない。そんな現実に、千尋は戸惑いを隠せないでいた。元の世界に戻りたいと、切ない願いが胸の奥で渦巻いていた。
「モブキャラの私なのに、なんでこんなに色々ありすぎるんだろう…」
ぽつりと呟いた千尋は、ふと、観光中に邪魔にならないようにと、ギルドの裏庭に待機しているマメ太に会いたくて仕方がなくなった。彼のフワフワとした白い毛並みに顔を埋め、土の匂いと温かな体温を感じたい。すべてを忘れて、ただひたすらに安らぎを求めていた。
その時、レストランの扉が開き、店内のざわめきが一瞬にして静まり返った。人々の視線が、一斉に扉の先へ注がれる。まばゆい光を浴びながら、一匹の白銀の毛に覆われた、美しいフェンリルがそこに立っていた。その透き通るような水色の瞳は、千尋を真っ直ぐに見つめている。
「マメ…太…?」
信じられないという表情で、そのフェンリルを見つめる千尋。その瞬間、マメ太は千尋の顔を見るなり嬉しそうに尻尾を振った。
「クゥーン…!」
マメ太が、甘えるように鳴いた。
「マメ太…!どうしてここに…!」
千尋は無我夢中で走り出し、マメ太を強く抱きしめた。それは間違いなく、彼女が乗っていた原付、彼女だけのフェンリル、マメ太だった。千尋がマメ太を抱きしめた瞬間、マメ太の全身が淡い光に包まれた。そして、その透き通るような水色の瞳が、一瞬だけ、千尋の不安な気持ちを映したかのように深い藍色に変わった。それはすぐに元の色に戻ったが、大泉とレオンハルトの目にはっきりと焼き付いた。二人は思わず顔を見合わせ、その異変に息をのんだ。
千尋のあまりの素早さに、大泉、レオンハルト、ディートリヒは慌てて追いかける。千尋は、マメ太の背に乗り、そのモフモフとした毛並みを堪能していた。
「ちーちゃん可愛いー!最強ー!」
葵は、その姿を見て、感嘆の声を漏らした。
その様子を見ていた大泉は、千尋の普段の落ち着いた様子からは想像もつかない行動に、内心驚きを隠せないでいた。
(千尋は真面目そうに見えたが、葵と同じ匂いがするな…)
大泉は、冷静に今の状況を判断しようと、ため息をついた。なぜ待機していた、自分のフェンリルである『クロノス』と、葵のフェンリルである『アウラ』、そして千尋のマメ太がここにいるのか。
フェンリルたちとは、軽い意志疎通はできる。だが、今回のように、離れた場所から呼び出すようなことはできない。千尋にはそれができる。これも、女神の寵愛によるものなのだろうか。
「まさか、これが……」
大泉は、千尋の背に乗って無邪気に笑うマメ太を見つめ、以前霧島から聞いた『女神の寵愛』の言葉を思い出していた。
「『女神の寵愛』は、世界が大きな危機に直面した際に、女神が送り出した存在に稀に与えられる力だ。この世界の過去を遡っても、三度しか確認されていない。そして、そのいずれもが……力を狙う者たちによって、その身を滅ぼされている」
(千尋を、その悲劇の歴史を繰り返させるわけにはいかない)
大泉は、千尋の笑顔を守るという決意を新たにした。
「オフィスに戻ったら、残業確実だな…」
大泉は、そう呟くと、再びため息をついた。
千尋の異世界での生活は、まだ始まったばかりだ。しかし、彼女はもう一人じゃないという確信があった。その小さな確信こそが、これから彼女を、そしてこの世界を少しずつ変えていく大きな力となるだろう。
その日の夜、温かいレストランの光とは対照的に、人気のない王都の裏路地には冷たい闇が広がっていた。オルフェウスは、薄暗い影の中に佇むフードを被った人物に向かって、敬意を払うように深々と頭を下げた。
「我が主よ。彼女の力は、我々の想像をはるかに超えているようです」
フードの人物の声は、低く、湿った空気を震わせながら、静寂な闇の中に不気味に響いた。
「構わん。我々の計画に、想定外の事態はつきものだ。オルフェウス、お前は引き続き、彼女の力を監視しろ。決して、他の者には知られるな…」
その言葉に、オルフェウスは不敵な笑みを浮かべ、再び闇の中へと姿を消した。