第2話 謎の面接官と秘密のカフェ
不安と好奇心が入り混じった複雑な気持ちで、千尋は指定された日時に警視庁へと向かった。都心にそびえる重厚な石造りの建物は、空に伸びるように圧倒的な存在感を放っている。入り口には厳重な警備が敷かれ、いかにも「一般人お断り」という雰囲気が漂っていた。
「え、本当にここなの……?」
(配送業の面接のはずなのに、なんで警察署? 職務質問とかされたらどうしよう。私、何も悪いことしてないけど、こんなラフな格好じゃ、絶対怪しい人だと思われそうじゃない!?)
千尋の頭の中では、いくつもの疑問符がクルクルと回り、同時に警察官に職務質問される自身の姿が瞬時に想像され、冷や汗が背中を伝った。普段の事務仕事でさえ、来客対応のたびに緊張するタイプなのだ。ましてや、警察署なんて、人生でそう何度も足を踏み入れる場所ではない。ドキドキと鳴り始めた心臓の音をどうにか落ち着かせようと、千尋は深呼吸を繰り返した。肺いっぱいに吸い込んだ空気が、なぜか少し鉄の匂いがする気がした。
意を決し、警備員に声をかけようと一歩踏み出した、その時だった。
「初めまして、勝山さん。お待ちしておりました。」
背後から、落ち着いた低い声が聞こえた。千尋はビクリと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。そこに立っていたのは、すらりとした長身の男性だった。顔の半分を覆い隠すような漆黒のサングラスをかけ、全身を黒いスーツとコートで覆った男。季節はまだ肌寒いとはいえ、この完全武装ぶりは尋常ではない。まるでハリウッド映画から抜け出てきたエージェントか、はたまた怪しげな情報屋のようだ。
(うわ、怪しすぎない!? 絶対こっち系の人間だよ! いや、もしかして、あの「特殊な」仕事って、そういう裏稼業的なやつ!? マフィアとか、秘密結社とか、そういうのに巻き込まれちゃうの!? 私、モブキャラなのに、いきなり巻き込まれ系主人公になっちゃうパターン!?)
千尋の脳内で、危険を知らせるアラートが甲高く鳴り響いた。彼のサングラスの奥に隠された視線が、まるで彼女の思考を全て見透かしているかのように感じられ、千尋は思わず一歩後ずさった。
男は千尋の警戒心を察したのか、あるいはいつものことなのか、口元に微かな笑みを浮かべたように見えた。その唇の動きすら、どこか計算されているかのように感じられる。
「私、Another World ジャパン支部で採用を担当しております、霧島と申します。」
霧島と名乗った男は、無駄のない流れるような動きで、スッと名刺を千尋の目の前に差し出した。彼の指先はすらりと長く、見るからに知的な印象を受ける。
名刺には「Another World ジャパン支部 霧島」とだけ記されていた。会社のロゴも、住所も、電話番号も一切ない。ただそれだけ。シンプルすぎて、逆に不気味だ。あまりにも現実離れした名刺に、千尋の頭の中は混乱でいっぱいになった。これはもう、面接ではなく、謎解きゲームの始まりだ。
「アナザーワールド……ジャパン支部?」
千尋は首を傾げた。聞いたことのない会社名だ。そして、「ジャパン支部」という響きが、まるで海外の秘密結社のような印象を与えた。いやいや、さすがにそれは無い。だってここは日本だし、警察署の前だし。それにしても、この霧島という男、どこからどう見ても、普通の人ではない。
霧島はそんな千尋を気にする様子もなく、まるで日常の風景であるかのように、警察署の建物の脇にある、薄暗いスロープを指差した。
「さあ、こちらへどうぞ」
そこは、コンクリートの壁が続く、いかにも「なんか怪しい」雰囲気の地下駐車場へと続く道だった。スロープの奥は暗闇に包まれ、まるで奈落の底へと吸い込まれていくかのようだ。一歩足を踏み入れるごとに、ひんやりとした空気が肌を撫で、千尋の不安をさらに煽る。足元からは、どこからか水が滴るような音が聞こえ、薄暗がりにその音が不気味に響く。まるで、ホラーゲームの導入シーンに迷い込んだかのような錯覚に陥った。
(うわー、絶対こっち側じゃないって! 私、巻き込まれ系主人公になっちゃうの!? いや、私、ヒロインじゃなくて、こういう時って真っ先にやられちゃうモブキャラでしょ!? 「おい、そこの女、ちょっと来い!」とか言われて、そのまま連れ去られちゃうパターンじゃん! いや、待て、履歴書には私の本名と住所が……って、そこまで考えてたらキリがない!)
千尋の脳内では、漫画やアニメでよく見る「一般人が裏社会に足を踏み入れる展開」が走馬灯のように駆け巡っていた。映画なら、ここで「やめとけ」って忠告してくれる親友とか、謎の組織に詳しい情報屋とかが出てくるんだろうけど、生憎、千尋にはそんな友人(?)もいない。頼れるのは、自分の第六感と、ほんの少しの好奇心だけだ。しかし、この好奇心が、いつか自分を痛い目にあわせるのではないかと、千尋は漠然とした不安を覚えた。
霧島の足取りは淀みなく、彼は慣れた様子で地下のスロープを下っていく。千尋は、その広い背中を追うように、恐る恐る足を進めた。薄暗い地下空間をしばらく進むと、その光景は千尋の予想をさらに上回った。
コンクリートの壁に囲まれた一角に、煌々と光を放つ近未来的な建物が鎮座していたのだ。まるでSF映画から飛び出してきたかのような、つるりとした白い壁と、所々に埋め込まれた青白いライト。それが、薄暗い地下駐車場の中に、異質な輝きを放っている。その建物は、まるで周囲の空間から切り取られて、そこに唐突に置かれたかのような違和感があった。周囲のコンクリートの無機質さと、その建物の洗練されたデザインが、あまりにも対照的で、千尋は思わず息を呑んだ。
「こちらが、弊社のオフィスです」
霧島が、その不思議な建物の入り口へと近づく。彼の声は、この異様な空間の中で、妙に現実味を帯びて聞こえた。
ピッ、というSF感あふれる電子音と共に、重厚なドアが音もなく左右にスライドして開いた。それは、まるで何かのゲームのスタート画面を見ているかのような、非現実的な光景だった。その瞬間、千尋の胸に急激な不安が押し寄せた。
(これは……私、もしかして、とんでもない『裏社会』案件に足を踏み入れてしまったんじゃ……?)
煌々と光る異質なオフィスと、背後に感じる現実の警察署。そのアンバランスな光景が、千尋に強烈な『バグ』のような違和感を抱かせた。普段なら決して関わることのない、まるで漫画やアニメの世界のような現実に、彼女は自分が完全に場違いな「モブキャラ」であると強く感じていた。
扉の向こうに広がっていたのは、千尋が抱いていた「警察署の地下のオフィス」というイメージとはかけ離れた空間だった。
そこは、まるで時間だけが取り残されたかのような、ノスタルジックな雰囲気が漂うカフェだった。年季の入った木製のカウンターには、丁寧に磨かれたエスプレッソマシンが鎮座し、隣には様々な種類のコーヒー豆が入ったガラスの容器が並んでいる。壁には、褪せたセピア色の写真や、アンティーク調のポスターが飾られ、所々に古書が積み上げられた本棚が置かれている。革張りのソファがいくつか配置され、控えめなジャズがBGMとして流れていた。
窓がないはずなのに、どこからか温かい光が差し込んでいるかのように感じられ、空調からは微かにコーヒー豆を焙煎するような香りが漂っていた。千尋は思わず深呼吸をした。その香りは、澱んだ日常で凝り固まっていた心を、少しずつ解きほぐしていくようだった。この香りを嗅いだだけで、美味しいコーヒーが飲めることを確信した。
「どうぞ、お好きな席へ。」
霧島が促すと、千尋は一番奥の、少し薄暗い席に腰を下ろした。テーブルには、使い込まれた木目が浮き出ていて、指でなぞると優しい感触がした。カフェの落ち着いた雰囲気に、千尋の緊張も少しずつ和らいでいく。
「コーヒーでよろしいですか? 弊社の自慢のブレンドです。」
霧島はカウンターに立ち、手際よくコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が店内に響き渡り、香ばしい匂いが増していく。その手つきはまるで熟練のバリスタのようで、千尋は思わず見入ってしまった。どこかミステリアスな雰囲気の彼が、こんなにも手際よくコーヒーを淹れる姿は、千尋にとって意外な一面だった。
しばらくして、目の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれた。カップからは、温かい湯気が立ち上り、ふくよかな香りが千尋の鼻腔をくすぐる。一口飲むと、苦みの中にほのかな甘みが広がり、千尋は全身の力が抜けていくのを感じた。警戒心で凝り固まっていた体が、ゆっくりと解けていく。
(うわ、美味しい! これ、このカフェで働きたいレベルだよ!)
(……なるほど。これが例の応募者か)
コーヒーを淹れながら、霧島は目の前の女性、勝山千尋を密かに観察していた。履歴書と写真だけでは想像しきれなかった、その第一印象。華美な装飾は一切なく、シンプルなカットソーにスカートという控えめな服装。柔らかく流れる黒髪、透き通るような白い肌。どう見ても、原付きバイクを駆って風を切るようなイメージとはかけ離れた、清楚な美人だった。
(こんな女性が、あの求人に応募してきたとは……。しかも、実際に原付きで来るとはな)
これまでに面接に来た応募者は、皆、大型や中型のバイクで現れるのが常だった。彼女のように、愛らしい原付きで現れる者は初めてだ。そのギャップが、霧島には妙に面白かった。彼女は、自分の予測を良い意味で裏切ってくる、興味深い存在だと感じていた。彼の口元に、微かな、しかし確かな「愉悦」の笑みが浮かんだ。
霧島は、カップを置くと千尋の向かいの席に座り、懐中時計をそっとテーブルに置いた。秒針がチクタクと音を立て、カフェの静寂に溶け込んでいく。その音は、まるでこれから始まる物語のプロローグを告げているかのようだ。
「さて、本題に入りましょうか。」
彼の言葉に、千尋は背筋を伸ばした。目の前のコーヒーの温かさとは裏腹に、心臓の鼓動が再び速くなる。いよいよ、あの「特殊」という言葉の正体が明かされるのだろうか。
霧島は、千尋の履歴書に軽く目を通し、その視線を千尋の瞳へと向けた。その眼差しは、まるで千尋の心の奥底まで見透かしているかのような、不思議な光を宿していた。
「勝山さん。あなたは、弊社の求人にある『ちょっと特殊』という言葉に、どのようなイメージをお持ちになりましたか?」
千尋は思わず息を呑んだ。核心を突かれた問いに、何をどう答えるべきか迷った。正直に「裏稼業かなって思いました」なんて言えるはずもない。ここで変なことを言って、職務質問されたら嫌だ。
「ええと……その、一般的な配送業務とは違う、専門性の高い仕事なのかな、と……」
しどろもどろになりながら答える千尋に、霧島は口元に微かな笑みを浮かべた。それは、まるで全てを見通しているかのような、それでいてどこか面白がっているような笑みだった。千尋は、完全にこの謎の男に見透かされていることを悟り、思わず頬が熱くなった。
「なるほど。専門性が高い、ですか。確かに、その通りかもしれません。ですが、もう少し具体的に、私たちの仕事についてお話ししましょう。」
霧島は、テーブルに置かれた懐中時計を指でなぞりながら、ゆっくりと語り始めた。その声は、カフェに流れるジャズの調べと溶け合い、千尋を新たな物語へと誘っていく。まるで夢の中にいるかのような不思議な感覚に包まれながら、彼女は霧島の言葉に耳を傾けた。彼女の人生は、この瞬間から、確かに「特殊」な方向へと舵を切ったのだった。
次に語られる言葉が、千尋の平凡な日常を、いかに鮮やかに塗り替えることになるのか。彼女はまだ、知る由もなかった。