第10話 帰還と、世界の真実、そして「女神の御使い」
漆黒の『門』をくぐり抜けた瞬間、千尋の全身を包んでいた異世界の魔力的な波動が、スッと引いていくのを感じた。同時に、幼い姿だった体は元の大人びた姿に戻り、白銀のフェンリルと化した愛車マメ太も、年季の入った原付スクーターへと変貌を遂げる。
ドスン!
と、警視庁地下の会議室の床に、マメ太が鈍い音を立てて着地した。その衝撃で、千尋はシートから滑り落ちるように、その場にへたり込む。全身からどっと冷や汗が噴き出し、まるで激しいジェットコースターから降りた直後のような、奇妙な脱力感と高揚が入り混じっていた。心臓はまだドクドクと、異世界の、あの狂ったような鼓動を刻んでいるかのようだ。
「はぁ……はぁ……、戻れた……!」
荒い息を整えながら、千尋は震える手でマメ太のボディをそっと撫でた。先ほどまで感じていた、ふかふかのモフモフの毛並みとは違う、硬質な金属の感触。それでも、この慣れ親しんだ感触だけが、千尋に確かな安堵をもたらした。火照った頬に、マメ太の冷たいシートがひどく心地よい。
「マメ太ぁ……! 無事だったね、マメ太ぁ!」
千尋は、まるで幼子を抱きしめるかのように、マメ太のハンドルに顔を埋めた。アストリアで見た白銀のフェンリル姿も究極に可愛らしく、危うく骨抜きにされそうになったが、やはりこの、いつも共に道を駆け抜けてきたマメ太が一番落ち着くし、愛おしい。
「ちゃんと戻ってきてくれたね、偉いねぇ。世界を救うバイク便なんて、大役だもんねぇ。ねぇ、モフモフも可愛かったけど、やっぱりこのゴツゴツ感がたまらないよぉ!」
千尋は、誰に聞かせるでもなく、マメ太のハンドルを抱きしめるようにして頬ずりした。その声には、深い安堵と、愛車が無事に戻ってきてくれた喜びがにじみ出ていた。この命知らずな「世界配達」の仕事も、この愛すべき相棒と一緒なら、きっと乗り越えられる。そう漠然とだが、確信めいたものが胸に宿っていた。
ふと、熱い視線を感じて顔を上げる。会議室の隅に、霧島が腕を組み、いつもの冷静沈着な表情で千尋を見つめていた。その手には、先ほどまで千尋が映し出されていたであろうタブレット端末が握られている。
「霧島さん! マメ太が──」
千尋は、興奮冷めやらぬまま、アストリアでのマメ太のキュートなフェンリル姿を霧島に伝えようと顔を上げた。しかし、霧島はそんな千尋の様子を、冷静な、それでいてどこか面白がるような眼差しで見ていた。彼の口元には、微かな笑みが浮かんでいる。そして、千尋の言葉を遮るように、霧島が淡々と告げた。
「ええ、見ていましたよ。モニターで一部始終を。──しかし、千尋さん。随分と楽しそうでしたね。」
霧島の言葉に、千尋の熱弁はぴたりと止まった。まるで、再生ボタンを押されたビデオが、急に一時停止したかのようだ。
「え……モニターで……?」
千尋は、慌てて会議室の大きなモニターに目をやった。そこには、先ほどまで自分がいたアストリアの広大な草原の映像が映し出されている。自分がフェンリルになったマメ太と無邪気に戯れている姿、そして、白銀の鎧を身につけた二人の美形な騎士に遭遇し、慌てて逃げ帰ってくるまでの映像が、鮮明に記録されていた。
(うわぁぁぁ! 全部見られてたぁぁぁ! 私の親バカぶりも、ロリ姿でマメ太にデレデレしてる姿も、全部!? 恥ずかしいぃぃぃ! もう、穴があったら入りたい! いや、異世界に逃げたい!)
千尋は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。まさか、自身の「適性試験」が、こんなにも丸裸にされるとは。この「世界の裏側を操る司令室」のような場所では、プライバシーなど存在しないらしい。霧島は、そんな千尋の内心を見透かしたかのように、ふっと小さく笑った。その笑みは、どこか意地悪で、しかし千尋の反応を楽しんでいるようにも見えた。
「千尋さんが、マメ太の可愛さを語りたい気持ちはよく分かりますが、まずは落ち着いてください。興奮しすぎると、アストリアでの姿に影響が出かねませんから。」
霧島は、そう言って千尋の興奮に釘を刺すことに成功した。千尋は、罰が悪そうに、しゅん、と肩を落とす。まるで、叱られた子犬のようだ。
「うぅ……すみません……。でも、あの、霧島さん。アストリアで会った、あの二人は……?」
千尋は、恥ずかしさを誤魔化すように、先ほどの遭遇について尋ねた。あの美形な二人の姿が、まだ脳裏に焼き付いている。
「ああ、彼らですか。彼らはアストリア王国の『白銀騎士団』に所属する騎士です。主に、王都周辺の見回りをする者たちですね。特に問題はありません。彼らに見つかったのは、唯一予定外でしたが。」
霧島は淡々と答えた。彼の表情は、先ほどの千尋の興奮とは対照的に、常に冷静沈着だ。
「予定外って……。でも、大丈夫なんですか? 私、変なこと言っちゃってないかな……」
千尋は不安そうに尋ねた。あの時、パニックになって、何を口走ったか覚えていない。もし、地球の秘密を漏らしていたら……。
「大丈夫です。彼らは、千尋さんが『門』から現れたことに驚いただけでしょう。それよりも、千尋さん。彼らが千尋さんのことを、何と呼んだか覚えていますか?」
霧島の言葉に、千尋はハッとした。そうだ、あの美形な男性が、何か言っていた。
「ええと……御使い様、って……」
千尋は、恐る恐る口にした。その言葉の響きに、まだ違和感が拭えない。まるで、自分とは縁のない、遠い世界の言葉のように感じられた。
「その通りです。それは、千尋さんたち『配達人』のアストリアでの身分のようなものです。」
霧島の言葉に、千尋は目を見開いた。身分? しかも、御使い様? 私が? ただの事務職上がりのアラサーOLが?
「アストリアでは、星の女神イリス信仰というものが根付いています。彼らは、その女神様が、世界を救うために『門』を通じて『御使い様』を遣わせていると信じているんです。」
霧島はそう言うと、モニターに、優美な光を放つ女神像の画像を映し出した。その姿は、千尋が幼い頃に絵本で見た、慈愛に満ちた女神そのものだった。柔らかな光を放つ純白の衣を纏い、星々を散りばめたような髪飾りをつけた女神イリスの姿は、見る者の心を深く癒やすような、神聖な美しさに満ちていた。アストリアの人々が、この女神をどれほど深く信仰しているかが、その画像からも伝わってくる。そして、自分たちがその「御使い様」として崇められているという事実に、千尋はただただ呆然とした。
「女神様が遣わした……って、つまり、私たちは異世界では、神様のお使いってことですか!?」
千尋の脳内では、天使のドレスを身につけた自分が、光り輝く後光を背負って、民衆から崇められているイメージが瞬時に形成された。昨日の面接では、ただの事務職が異世界でバイクに乗って荷物を運ぶ、という話だったはずだ。それが、いつの間にか「女神の御使い」という、とんでもない称号を与えられていた。これはもう、「モブキャラ」の範疇を完全に超えている。
「そういうことです。アストリアでは、『御使い様』の存在は、王族よりも上位の、絶対的な存在として認識されています。彼らは、あなた方『御使い様』に絶対の敬意を払い、その言葉には逆らいません。今回、騎士たちがあなたを『子供の御使い様』と呼んだのは、あなたが幼い姿に変身したためでしょう。」
千尋は呆然とした。
「そんな……そんな大役、私に務まるわけないですよ! 」
顔面蒼白で抗議する千尋に、霧島は一切動じることなく続けた。
「務まります。あなたが選ばれたのですから。それに、アストリアの人々は、あなたがどういう人間かなど知る由がありません。彼らにとってあなたは、紛れもない『女神の御使い』なのです。」
千尋は、自分がとんでもない運命に巻き込まれていることを改めて痛感した。ただのバイク便の仕事が、異世界では神の使いとして崇められる。この大きなギャップに、千尋の頭は混乱するばかりだ。
「では、私たち『御使い様』は、アストリアでは何でもできるってことですか?」
千尋は、少しばかり好奇心を刺激され、恐る恐る尋ねた。神の使いという立場なら、もしかしたら、憧れのヒーローのように活躍できるかもしれない。そんな淡い期待が、彼女の胸に芽生え始めていた。
霧島は、タブレットの画面を操作しながら答えた。
「原則として、アストリアの人々は『御使い様』の命令には絶対服従です。しかし、そこにはいくつかの制約があります。」
「制約、ですか?」
千尋の期待は、一瞬でしぼんだ。やはり、そう簡単にはいかないらしい。
「ええ。第一に、あなた方『御使い様』は、アストリアの内政に直接介入することはできません。例えば、王位継承問題や貴族間の争いなどに口を出すことは許されません。あくまで、世界を救うという『使命』の達成が最優先です。」
千尋は「ふむ」と頷いた。なんとなく、そういうものだろうとは想像できた。政治的な問題に首を突っ込むのは、厄介ごとが増えるだけだろう。
「第二に、アストリアの文化や慣習を尊重すること。あなたがたの常識が、必ずしも彼らの常識とは限りません。無用な摩擦を生むような行為は避けてください。」
「はい……気をつけます。」
千尋は、自分が異世界で好き勝手できるわけではないことに、少しばかり残念そうな顔をした。ちょっとした冒険や観光も楽しみたいと思っていたのだが、どうやらそれも慎重に行う必要があるようだ。
「そして第三に、最も重要なことですが、あなた方『御使い様』は、その力を個人の欲望のために使うことは禁じられています。魔石の浄化や配達といった使命に関わること以外で、自身の都合のためにアストリアの資源や人々を利用するような真似は決してしないように。」
霧島の言葉は、今までになく重々しいものだった。千尋の背筋に、再び冷たいものが走った。個人の欲望……例えば、お金とか、美味しいものとか、あるいは……。千尋の頭に、様々な誘惑がよぎる。
「もし、その……欲望のために使ったら、どうなるんですか?」
千尋は震える声で尋ねた。その視線は、霧島の厳しい眼差しから逃れようと彷徨う。
霧島は、無表情のまま千尋の目を見据えた。彼の声は、会議室の空気を凍らせるかのように響く。
「最悪の場合、あなた方はアストリアにおいて『堕ちた御使い』として認識され、その力は失われるでしょう。そして、この世界の根幹を揺るがしかねない事態に発展する可能性もあります。この任務は、あなたが想像している以上に、重大な責任を伴うものです。」
千尋はゴクリと唾を飲み込んだ。さっきまでの、浮かれた気分は完全に吹き飛んでいた。背中に冷たい汗が流れ落ちる。ただのバイク便の仕事が、世界の命運を握る「御使い」として、これほどの重責を負わされるとは。
「わ、分かりました……絶対に、私利私欲では使いません……。」
千尋は、覚悟を決めたように、固く頷いた。
「よろしい。今後、アストリアでの任務においては、常にこの三つの制約を念頭に置いて行動してください。」
霧島はそう言い終えると、タブレットの画面を消し、立ち上がった。その動きは淀みなく、一切の無駄がない。
(私は、本当に「女神の御使い」として、この世界を救えるのだろうか……? いや、やるしかない! 私とマメ太の、世界を股にかけるバイク便の仕事は、まだ始まったばかりなんだから!)
千尋は、ぎゅっと拳を握りしめた。その瞳には、不安を乗り越えようとする、かすかな決意の光が宿っていた。