第1話 アラサーOL、配達人になる!?
勝山千尋、29歳。世に言うアラサーという年齢は、事務職としてそこそこベテランの域に差し掛かり、日常はまるで澱んだ水のように停滞していた。
与えられた仕事をそつなくこなし、定時で帰宅。週末は溜まった家事を片付け、たまには友人と飲みに行く……そんな、絵に描いたような「モブキャラ」生活を送っていた。変化のない日々に、千尋の心は静かに蝕まれていく。
「はぁ、今日も終わりか……」
疲れた溜め息が、空っぽのオフィスに吸い込まれていく。時計は正確に17時を指していた。パソコンのシャットダウンボタンを押すと、画面が暗転し、かわりに窓の外の景色が目に飛び込んできた。夕焼けに染まる東京の街並み。無数の光が瞬くそれは、まるで自分とは無縁の別世界のように輝いていた。煌めく光の粒が、千尋の停滞した日常をあざ笑っているようにさえ見えた。
最近、漠然と転職を考えていた。このまま同じ場所で同じ仕事を続けていて、本当に良いのだろうか? もっと刺激のあること、もっと心を揺さぶられることはないのだろうか? そんな漠然とした不安が、千尋の胸には常にあった。けれど、一歩を踏み出す勇気も、具体的な当てもないまま、時間だけが、ただ無情に過ぎ去っていく。
そんな千尋にとって、唯一の気晴らしは、愛用の原付きバイクで風を切って走ることだった。ヘルメットの中で響くエンジンの振動と、頬を撫でる風が、凝り固まった心を少しだけ解きほぐしてくれる気がした。行きつけのおしゃれなカフェで淹れたてのコーヒーをテイクアウトし、いつもの公園へ向かう。これが、千尋の、ささやかな、しかし確かな「癒やしのルーティン」だった。
駐輪場にマメ太─千尋の愛車の原付きバイクの名前だ─を停め、慣れた手つきでスマホを取り出す。ベンチに腰を下ろし、SNSを眺め、ニュース記事を読み、気がつけば、求人サイトを開いていた。ここ最近の、半ば習慣と化した行動だった。まるで、自動運転モードに入ったかのように、指が勝手に動いてしまう。
いつものように「事務」「正社員」と検索窓に入力しようとした、その時。
指が滑ったのか、あるいは何か別の力が働いたのか。画面に表示されたのは、今まで目にしたことのない、奇妙な求人情報だった。
【募集:ルート配送スタッフ】
* 条件:バイクが好きな方!
* 業務内容:基本は物を運ぶお仕事です(※ただし、ちょっと特殊。普通の宅配便じゃ物足りないあなたへ)
* 必須:自分のバイクをお持ちの方(※原付でもOK!)
* 待遇:正社員登用あり、充実の福利厚生、安定性も抜群!
「……なにこれ?」
千尋は思わず声に出して呟いた。事務職とはかけ離れた「ルート配送スタッフ」という職種。そして、「バイクが好きな方!」という、やけに個人的な条件。極めつけは、「※ただし、ちょっと特殊。普通の宅配便じゃ物足りないあなたへ」という、挑戦的な一文だった。これはもう、「怪しい」と言っているようなものだ。
だが、なぜだろう。その奇妙な求人は、変化のない日常につまらなさを感じていた千尋にとって、妙に魅力的に映った。安定性や充実した福利厚生といった、一般的な転職の決め手となる要素ももちろんあったが、それ以上に、千尋の「モブキャラ魂」を刺激したのは、「特殊」という言葉が内包する未知への期待だった。まるで、退屈な日常に投げ込まれた、一粒の輝く宝石のように見えたのだ。
「原付でもOK!」という一文も、千尋の心を強くくすぐる。愛車の原付きバイクが、まさか仕事に繋がるなんて、今まで考えたこともなかった。マメ太と一緒に、仕事ができるなんて夢のようだ。これはもう、運命としか言いようがない。
「29歳か……」
スマホの画面から目を離し、空を見上げた。夜の帳が降り始め、星が瞬き始めている。30歳まであと一年。転職するなら、今しかない。そう、心の奥底で何かが囁いた気がした。それは、停滞していた千尋の日常を打破しようとする、新たな自分からの呼び声だった。
千尋は迷うことなく、求人情報の「応募する」ボタンをタップした。その指先には、今まで感じたことのない微かな高揚感が宿っていた。まるで、人生の大きな岐路に立つ、主人公になったかのような気分だった。
数日後、千尋のスマホに一通のメールが届いた。
件名:【株式会社Another World ジャパン支部】面接日程のご連絡
本文:この度は、弊社の求人にご応募いただき、誠にありがとうございます。
つきましては、下記日程で面接を実施させていただきます。
日時:〇月〇日(×)午前10時
場所:警視庁 地下多目的ホール
当日、履歴書と職務経歴書をお持ちの上、直接面接会場までお越しください。
お会いできることを楽しみにしております。
株式会社Another World ジャパン支部
採用担当
「……警察署?」
千尋は目を疑った。
ごく普通の会社が、面接を自社のオフィスビルではなく、「警視庁」で行うなどという話を聞いたことがない。それも「地下多目的ホール」とは。不審に思い、メールを何度も読み返したが、間違いなく「警視庁」と書かれている。これはもう、怪しいとかいうレベルじゃない。完全にアウトじゃないのか?
もしかして、どこかの詐欺だろうか? 私はこんなに簡単に騙されるような人間だったのか?
一瞬、頭をよぎったが、メールの文面は丁寧で、怪しい点は見当たらない。それに、そもそも警視庁を騙るような大胆な詐欺がまかり通るだろうか? いや、それとも、とんでもない特殊詐欺なのか? 千尋の頭の中では、様々な可能性が渦巻いていた。
千尋は思わず、メールの差出人である「株式会社Another World ジャパン支部」について検索をかけた。だが、検索結果はゼロ。会社HPも、法人登録情報も、何も出てこない。まるで、存在しない会社かのように、完璧に情報が隠蔽されていた。
「まさか、本当に『Another World(異世界)』ってこういうこと!?」
背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。求人情報にあった「特殊」という言葉が、不穏な意味を帯びて迫ってくる。これは、もしかしたら、とんでもない世界に足を踏み入れてしまうのかもしれない。
しかし、なぜだろう。その不審さに、恐怖よりも、むしろ好奇心が勝るのを感じた。澱んだ日常に飽き飽きしていた千尋にとって、この異常な状況は、まさに求めていた「変化」の兆しのように思えたのだ。まるで、長年読んでいた小説の主人公が、ついに異世界への扉を見つけたような、そんなワクワクが千尋の心を支配していた。
もしこの会社が本当に怪しい場所だとしたら、一体どんな「特殊」な物を「ルート配送」しているのだろう? 愛車の原付きバイクで、そんな怪しい物を運ぶ自分。想像するだけで、退屈な事務職には決して味わえない刺激がある。これはもう、「非日常」という名の誘惑だ。
そして、千尋は決断した。
「行ってみよう。何かあったら、すぐに逃げればいいんだから」
自分に言い聞かせるように呟くと、千尋は面接の準備に取り掛かった。履歴書に職務経歴書。いつもの面接と変わらないはずなのに、なぜかまるで、冒険の準備をしているかのような、不思議な高揚感を覚えるのだった。
本作を読んでいただきありがとうございます。
この小説を面白いと思ったら、評価をして応援していただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。