ヤサイマシマシニンニクマシマシアブラマシマシ
真冬。大雪が降るこの夜の気温は天気予報によるとマイナス十六度。
堪えられないわけではないが、それは家の中なら無論の事
歩いたり、走ったり、スキー、つまり動いていればの話だ。
俺は今、ただ立って列に並んでいる。
今か今かとラーメン屋の新規オープンを待ちわびて……。
知る人ぞ知る、質より量を地で行くラーメン店。
まさにジャンクフード。粗雑な味がどこか癖になる。
それが明日の、否、日付が変わり、今日の早朝にオープンするというのだから行くしかない。
なぜ? 別に何か特典があるわけではない。
無料になるわけでも、トッピングをサービスしてくれるわけでもない。
何なら市内には同じ系列のラーメン屋もある。
……これは誉れなのだ。
そう、信仰心を試されていると言ってもいいかもしれない。ラーメンアーメンってわけ。
と、同じ志の連中が俺の前後に十人ほど。常連であり猛者であり、精鋭である。
何人か見知った顔がいたが慣れ慣れしく話しかけたり
軽く手を上げるような挨拶も交わさない。
それは店の中でも同じこと。ただサッとラーメンを食い、サッと帰る。
完飲完食はデフォルト。それが男の、紳士の嗜み。
とは言え、四天王が揃い踏みしたときは俺もさすがににおおっと声を漏らした。
咳払いし、取り繕ったのはニューオーダーの異名を持つ俺だけではない。
赤髪にトレバー、西郷にブッポウソウ。奴らもニヤっと笑っていた。
常連が揃い踏みだ。腹が鳴るってもんだ。
きっとまた伝説を作っちまう。俺はそう確信したんだ。
……しかし、とてつもない寒さだ。
鍛え上げた俺の肉体と防寒着でもこの極寒はこたえる。
まだかまだかとイイ女に焦らされるっていうのはこういう感じなんだろうな。
時刻は深夜二時。基本的にこのラーメン屋の系列は
午前十一時と午後十八時からの二部制の営業。
しかし、朝からやっているところもある。その場合は八時半。
極寒の中で待っている俺たちのために早めに開けてくれることを計算に入れるなら
まあ、七時が妥当と言ったところだろう。つまりあと四時間。いや、五時間。
ははっ、気持ちが急いていたようだ。計算ミス。レアケース。
しかしこれなら一度家に帰ってまた来ればいいのでは?
なーんて考えは素人さんと一刀両断。
実際、何人かそう考えたのだろう、列を離れた連中がいたが奴らは負け犬。
バーベキューではしゃぐカンガルー。無視無視。同じレベルには落ちないぜ。
惨めったらない。目も当てられない。
その店最初のロットに入るのがどれほど名誉な事か理解できない敗残者。哀燦々。
日付が変わる前までは並んで待つ俺らの横を通り過ぎていく一般人が
「バカジャネーノ」とせせら笑っていたが、やつらは頭がチンパンジー。ははっ、蕁麻疹が出るぜ。
確かに、このラーメン屋が今日、オープンするとは決まってはいない。
告知されてないんだ。元々SNSなんかで宣伝もしない無頼漢なのさ。
ま、そこが惚れちまうところね。
じゃあ、どこで情報を入手したかって?
そんなのちょっと頭をトントンってすればわかることさ。
この市内にある系列店の店長らに動きが見えたのさ。
いくつかの店の中に貼り紙があった。
この日は店長不在だと。臨時休業するって店もあった。
つまり、オープニングを手伝うために
あのシャッターの奥に神たちが集結してるってわけさ。
これは拝む価値ありだぜ。七福神なんか目じゃないって。
まあ、向こうもびっくりするかもな。常連が揃い踏みなんだから。
そうなったら店対客の戦いになっちまうかな、へへっ、なんつってな。
慣れ合う事はしねえ、いつだって戦いは孤独さ。
俺が一番食う。速く多く。そして涼しい顔で立ち去るそれだけさ。
それがプロ。玄人さ。授業料はいらねぇぜ、とそうこう考えているうちにまた列が空いた。
脱落者かな? 情けねぇとは言わねぇぜ?
よく頑張ったと情けをかけ……なんだこの膨らみ。
ここだけやけに雪が積もって……嘘だろ。
「倒れたんだな」
「うおっ、あ、え、な、なんすか」
「ああ、悪いね。急に声かけちゃって驚いたかい?
さっきからお兄さんのうしろに並んでいたんだけどね」
「い、いや、べ、べつに驚いてねーすけど」
「そうかい、アンタも大丈夫かなって思ってね」
「え、な、なんすか」
「いや、さっきからブツブツブツブツ独り言を口にしていたものだから心配になってね」
「あっ……そうっすか、どーもっす……」
「いや、大丈夫ならいいんだ。寒すぎて幻覚でも見てるんじゃないかと思ってね」
「な、ないっすよははは……」
「独り言のほうがよく喋るんだね。まあそれはいいとして、それ」
「え、あ、あれっすか救急車とか」
「いや、もう手遅れだろう。それに警察なりなんなり騒ぎになれば
店が開かなくなるかもしれない。それよりもほら、列を詰めたらいいんじゃないかな?」
「え、あ、え、あ、すっね」
なんだこのジジイ……急に話しかけてきやがって、びっくりするだろーが。しねーけど。
それにしても倒れた? え、死んでる?
おいおいマジか。まあこの寒さだ。そういう事もあるだろう。
奴も本望、えっとコーンロウ……しかし寒いな……。
時刻は深夜三時を回り、降り続いていた雪は吹雪へと変わった。
街灯が照らす、前に並ぶ連中の人影が店への道標。
だがそれも一つ、二つと姿を消した。
こりゃたまらんと家に帰ったのかそれとも倒れたのか。
積もった雪は戦死者を覆い隠し、地面との見分けがつかない。
それでも俺は列を詰め、並び続ける。
気持ちが昂っている。もしかしたらファーストオーダーになれるかもしれない。
ニューオーダーのファーストオーダー。まさに新時代の幕開けだ。
四天王を降し、新たな秩序。新宗教、自由党。
深夜四時。早朝と言ってもいいだろうか。
だが朝日はまだだ。照れ屋さんで雪雲から出てきたがらないようだ。
うしろのジジイは時折、大丈夫かい? 大丈夫かい? と声を掛けてきやがる。
言葉の裏を読むなら『辛いだろ? 小僧は無理せずさっさと家帰れ』だ。
そっくりそのまま返すぜジジイ。リーンイン。俺の前は譲らないぜ。
高齢者、氷点下。敬老精神は便所飯。
相変わらず店は動きなし。
仕込みの匂いでも漂ってくれば今日オープンだと確信は持てるが
ははは、さすがに少し不安になってきた。
でも平気だ。匂いなら目を閉じるだけで思い出せる。
ああ、いいぞ、ニンニク、豚骨、超ドープ。
ああ、いい……あ、ああ? スープだ、目の前にスープが!
「お兄さん、よしな! あれはスープじゃねえ!」
うしろのジジイに肩を掴まれた。どうやら俺はまた声を漏らしていたらしい。
が、それはいい。そんなことよりも目の前にあるあのスープ。
あれはションベンであった。俺の前に並んでいた男が立ちションをしていたのだ。
男はイヒッ、イヒッと笑った後、何回か咳き込み、ションベンが止まった。
そして、男自身もまた動きを止めた。
スープには他の男が三人ほど水溜まりの水を飲む猫のような姿勢で群がっていたが
その連中もまたギギギギギとネジが切れたオルゴールのバレリーナのように動きを止めた。
「……進もう。お兄さん、ありゃ駄目だ」
ジジイが俺の肩をポンポン叩いた。俺は黙って列を詰めた。
これでもう何人の屍を乗り越えたのだろう。
ひょっとしたら俺は、俺たちはとんでもない馬鹿をしているんじゃないか。
そんな後悔と不安を抱いたが列を離れる気にはなれなかった。
それこそ無駄骨だ。俺は骨身に染みる温かい風呂に入るよりも豚骨スープが飲みたい。
時刻は朝五時。空がうっすら明るくなったが雪は降り続いている。
ただ、吹雪は少しマシになった。あ、いや、少しおさまった。
『マシ』なんて縁起でもない。ここに来て吹雪マシマシは勘弁だ。
「ほ、ほう、う、上手いこと言うね、ね、ね」
うしろのジジイは健在だ。だが、さすがに声に震えとつっかかりが出てきた。
俺は『帰んな』と一瞥しただけで何も言わなかった。
無名のジジイに構ってやる意味はない。
俺の計算によれば前に並ぶのはもう、四天王のみ。
これはいよいよファーストオーダーが現実的なものになってきたというもの。
「ふぁーすとおーだー? あ、ああ、は、初めに注文したいんだね。
ま、前に並んでいる彼らもそ、そうなのかな」
またも俺は声を漏らし、いや、このジジイ、俺の心を読んでいるのでは?
神? 死神? 貧乏神? 俺の想像物?
いや、寒さで歯をガチガチ鳴らしている。
実在しているようだ。それにしても『彼らもそう』とは?
「ほ、ほら、み、耳を澄ましてごらんよ」
……ん、なんだ? じょ? じょ……。
「しょじょ……しょーじょ」
……処女。俺は思わず涙しそうになった。
念仏のように聞こえてくるそれは悲哀に満ちたうわ言。
一般市民が耳にすればうわぁと軽蔑の眼差しを向けられるであろう。
哀れ哀れ。だが、何よりも悲しいのは
この俺が彼らと同類であることに気づいてしまったのだ。
そして俺自身がそれを恥じてしまった。
同類、童貞、恥じたマンチカン。俺は泣いた。押さえていた涙が溢れ、そして凍った。
パサつき、痛む皮膚と同化し、鍾乳石となり俺の目の周りを飾り、瞼を癒着させた。
「あ、いっ、あ、い、う、い」
ジジイも泣いているようだ。猫の嗚咽のような泣き方だった。
止まない雪に覆われて何もかも暗く、沈んでいく気がした。
……時刻は何時だろうか。ここは暖かく、やけに眠い。
ああ、この匂いは……。くさいなぁ、臭くていい匂いだぁ。
あ、今の、シャッターが開いた音。ああ、やっぱり店が開いたんだ。
俺は、俺たちは間違ってなかったんだ。
高校、大学。俺の青春はラーメンと共にあった。恥じることなんかないんだ。
おお、店主が……市内の店主が全員揃っているじゃないかぁ。
サインを貰おう。いや、マナー違反かな。それでも欲しいなぁ。
え? 俺のサインを? そんなそんな俺なんて……え?
オープンして最初の客? ははぁ、じゃあしょうがないなぁ。
ええっと、最初の客、ワシントン条約。マミーポコパンツ。
ははは、じーさんもほら、書けよ。俺たちがニューオーダーだぞ……。
「豚足くん、豚足くん! しっかり!」
うーん? ジジイの声……とんそく?
「君、ほら、店内で小銭を落としたことあったろ?
豚の足みたいな手をしているから中々拾えなくてさ」
そんなこと、あったなぁ……いや豚足って。
俺は新秩序をもたらすニューオーダーという名が。
「君、やたら自分ルールを他の客に強要するって嫌われてたけど
ああ、私は嫌いじゃなかったよ……」
嫌われ……おいおい、冗談だろ……?
俺は……ニューオーダー、優勝……者……。
「ねえ、聞こえているかい? 豚足くん……もう行くね。
もう八時半すぎたけど店は……いや、開いたよ。
ほら、いい匂いだぁ。お、今笑ったかい? ははは、君もラーメンが好きなんだなぁ……。
ナムアミダブツナムアミダブツヤサイマシマシニンニクマシマシアブラマシマシ……」