Third day-Ⅱ:喪失ノ戯レ
「食べないの?」
煮物を箸でつつきながら奈々が言う。
どうしてこうも平然としているのか。
彼女のあまりの態度にさすがの俺も苛立ちを隠せずにいた。
つぐみは無事なのだろうか…。
さっきから同じ事ばかり頭を巡っている。
当然ながら、食事どころではない。
つぐみの安否を祈るばかりだった。
奈々は一人食事を終え空いた食器を流しへと運ぶと、テレビに集中する。
ただただ続く沈黙の時間。
二人の間を繋ぐのはガチャガチャとやかましいメディアの音だけだった。
この無愛想な空間に耐えかねたのか、画面に顔をむけたままの奈々が沈黙を破る。
「そんなにつぐみちゃんが心配?」
気だるそうな言い草はやけに挑発的に感じられた。
俺はその挑発に素直に乗せられ、口を開く。
「つぐみに何をした?」
ようやく発した俺の言葉に奈々は反応すら示さない。
それが余計に腹立たしくて
「何をしたって聞いているんだっ!」
気付けば俺は怒りにまかせて声をはりあげていた。
つぐみは俺が守るべき人間なんだ。
こんな事に巻きこむなんて言語道断なんだよ。
「聞こえてるんだろ!?答えやがれ!!」
俺が怒鳴り声をあげる度耳障りな金属音が鳴り響く。
それでも奈々はテレビを凝視して、答えるどころか振り返ることさえしなかった。
いい加減しびれを切らした俺は、鎖の限界まで体を前にだす。
「ふざけんなよ、おい。つぐみに何かしてみろ!俺が……!」
「俺が……何?」
全てを言い終わる間もなく、気づけば奈々の掌が俺の首元を捕えいた。
か細い体からは想像もつかないほどの力で俺から呼吸を奪っていく。
「グッ……ッ」
抵抗を試みるが酸素が足りないせいか、思う通りに体を動かすことができない。
なんでだよ、奈々…。
込み上げる悲しみと共に俺の脳内であの頃の奈々が微笑む。
つぐみのことはお前も十分理解しているはずだろう?
『分かってる』
あの時そう言って、俺の背中を押してくれたじゃないか。
それなのに…
『私なら大丈夫だから』
それなのに…
…………?
ふと、強い既視感が俺を襲う。
なんだ、この感覚。
それは眩暈にも似た、気持ちの悪い感覚だった。
なんだ?
俺…何か見逃してないか?
もう一度思い出そうとした瞬間、衝撃とともに俺の視界が大きく揺れ、強制的に右へと向かされる。
「ねぇ、答えてよ。俺が何なの?」
視線を落とした先には、鮮血に染まった目覚まし時計を握りしめる奈々の手が震えていた。
俺は何が起こったのかすぐに理解し、やがて瞼へと伝う血に片目を閉じる。
「まさか…殺したとか言わねぇよな?」
開いているほうの目で見上げた彼女の顔は、これまでにない狂気を含んでいた。
「学習能力のない人ね。質問は受け付けないって何度もいってるじゃない。大体質問を質問で返すなんて、そんな失礼なことってある?」
奈々が目覚まし時計を振りかざす度、俺の頭は割れる痛みに襲われる。
途切れそうな意識の中、俺は彼女を睨み続けた。
彼女にとってそれはさぞ不愉快なことだろう。
そんなことは分かってる。
それでも、俺は引くわけにはいかない。
「いいから…答えろ」
俺は殺伐とした感情のまま彼女に問いただした。
すると、予想外にも奈々の表情に一瞬の怯みが覗く。
「答えろォォォォ!!」
畳みかけるように怒鳴り声をあげる。
このことで奈々の怒りをかい、殺されるかもしれない。
しかし、今の俺は自分の身を案じる程の理性などとうに失っていた。
答えによっては刺し違えようがなんだろうが、彼女を殺そうとさえ思っている。
つぐみは無事だと…
何もしていないと言え…!!
俺は黙って彼女の返答を待った。
暫くして奈々は一度目を閉じると、再び冷めた視線を俺にぶつける。
「言っておくけど、近づいてきたのはつぐみちゃんのほうからよ」
おい、待ってくれよ。
否定しない…のか…
「祐輔と連絡をとれなくなったのは私のところにいるからじゃないかって。フフ、鋭い子。まさかこんな風に一緒にいるとは思ってもないだろうけどね」
震えの止まらない俺に構う事もなく、奈々は続ける。
「もちろん知らないって言ったわ。そしたら彼女、なんて言ったと思う?」
「…なんて言ったんだよ」
俺が掠れた声で聞き返すと、奈々は目を細めクスリと音をたてた。
「祐輔くんを私から奪わないで…だって」
徐々に奈々の顔が歪んでいく。
「フフフ、おかしいと思わない?なんでそんなこと言われなくちゃならないの?おかしいよね?」
おかしい、おかしいと何度も絶叫する姿はまるで一人芝居でもしているかのようだった。
俺の知っている奈々からは想像もつかないような狂いように、俺の殺意が萎縮していく。
得体のしれない圧迫感に胸を支配されながら、観客にさせられた俺は黙って彼女を傍観していた。
やがて彼女の叫び声がピタリと止まる。
「ズルイ子よね、つぐみちゃん」
そう言う彼女の声に再び寒気が俺の体に走った。
ガタガタと小刻みに揺れる体が止まらない。
俺は直視することもできず、固く目を閉じた。
「周りの人が優しいからってそれに甘えてばかりで…」
聞きたくない
「祐輔のことまで独占して…」
聞きたくない…
「あげく、奪わないで…って」
やめろ…
「本当に、ズルくて…悪い子」
それ以上言うな
「悪い子だから罰を与えたのよ」
もう何も聞きたくない……!!
「この世で一番、辛い罰を……ね!!」
つぐみ…………!!
「あはは…あはははははははははははははははははははっ」
やがて奈々は大声をあげて笑い始めた。
もう、正気の沙汰じゃない。
ごめん……
ごめんな、つぐみ。
ごめんな…
マモル…………
俺は溢れる涙を止めることも出来ず、彼女の喜劇に巻きこまれた友人たちに何度も何度も謝罪をしていた。
散々狂い倒して気がすんだのか、元のすました顔で奈々が俺に近づく。
「お薬の時間よ。さあ、選んで?」
昨晩と同じく突き出される二つの拳。
俺は項垂れた顔をあげることさえ出来なかった。
「殺せよ…」
最早生き残る考えなど俺にはなくなっていた。
憎悪と罪悪感に蝕まれた俺の未来が明るいはずもないだろう。
あと数日とは言わず、とにかく一刻も早く楽になりたい。
「早く殺せよっ!!」
この状況だけを見たら、異常者なのは明らかに俺のほうだ。
俺は狂ったかのように、繰り返し死を願った。
しかし、奈々は拳を突き出したまま何もしようとはしない。
「マジでさぁー…殺してくれよォ……」
もうボロボロだった。
望んだ生を打ち砕かれ、守るべきものを壊され、それならとこうして死を望んでも叶えてくれない。
俺は自分の身を守るように小さくうずくまった。
その姿を哀れとでも思ったのだろうか。
奈々は大きく広げた腕を俺の背中へと回し、子供をあやすように頭を撫でてきた。
「大丈夫。今楽にしてあげるから…」
そう言って体を離すと、奈々は左手に掴んでいた異物を俺の口の中へ押し込み、自分の唇で俺の唇をふさいだ。
選ばせなかったと言う事は、俺の願いを受け入れてくれたと考えていいのだろうか。
俺はそれを素直に体内へと流し込む。
しかし、たった四錠で満足することが出来ず、俺は奈々の舌に吸いついた。
死に縋りつくかのように彼女の細い体に腕を巻きつける。
やがて俺は、唇を彼女の頬へと移し、首筋、鎖骨、胸元…と全身に滑らせ、再び彼女の薄い唇へと食らいついた。
奈々は抵抗することもなく俺の欲求のままに体を動かす。
もうすぐ死ぬというのに何故こんなことをしているのかとか、今なら彼女を殺せるんじゃないかとか、いろいろな事が頭を過っているのは確かだった。
それでも俺は虚ろな意識を理由に、理解不能な性欲へと自ら飛び込んでいく。
そして、この快楽が永遠に続くことを願いながら俺は静かに沈んでいった。