#2 屋上での対局
本当ならば、将棋をすることは断らないといけなかった。ただ彼女の笑みを見ていたら断ることができなかったわけで、俺は今将棋を彼女と指すこととなっている。
「ルールは分かるか?」と確認してきたので「一応」とだけ返すと満足そうに彼女は頷いた。見ているだけで伝わってくるのだが、彼女は将棋が好きなのであろう。
そう考えるとやる気のない俺が、彼女と対局するということはよくないのかもしれない。どことなく罪悪感に見舞われる。
そんな事を考えているとは気づいていないであろう彼女は楽しそうに駒を並べていく。俺も同じように並べるのだが、彼女は何かに気づいたのかにこりと笑った。
「綺麗に駒を並べるな。」
特にこれと言って意識などしてなかったせいであろう。俺は駒を無意識に並べていた。
「見様見真似ですけどね。」
「そうか…それならこれはマネしなくていいぞ。」
彼女は飛車と角を盤に並べずに横に置いた。
どうやら駒落ちで戦うらしい。きっとこれは彼女なりの優しさであろう……それでも飛車角落ちで戦うことはかなりなめられているとしか感じなかった。
「大駒落ちですか……負けても知りませんよ?」
「ははは、素人相手にはこれぐらいのハンデはするに決まっているさ。むしろこれでも少ないぐらいだと思うよ。」
よほどの自信があるらしい。
将棋を進めてきた手前、彼女の実力がないわけないのだが、それでも大駒の2枚落ちというのは大きなハンデである。
将棋の中でも他の駒よりも大きな2つの駒である、飛車と角。単に駒が大きいわけではない。どちらも駒の中でトップクラスの強さを誇り、攻めにおいて重要な役割を果たす。
両翼をもがれた状態で鳥が飛ばなくてはいけないようなものである。
彼女はそれすらも少ないハンデと言っているのだ。相手がど素人であるならばそれも可能かもしれないが……あいにくそういうわけではない。
彼女には悪いが、この勝負を勝ちに行くことを決心した。
「先手は君からでいい。さあ始めようか。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
彼女に一応挨拶をして、俺は飛車先の歩をついた。
「……君は、いやなんでもない。」
彼女は何か言いたげな顔をしていた。何かおかしな点があったのだろうか?
彼女は何か気にしている様子だが、すぐに指し返してくる。俺は考えることなくノータイムで指し返す。彼女も今度はすぐに指し返してくる。
特に持ち時間など決めていないはずなのだが、2人供時間を使わずに指していく。彼女は「考えてもいいんだぞ?」と言いて来たが、「必要ない」と言って駒を指した。
着実と手が進んでいく。特に序盤から攻めあうことはなかった。彼女からは攻めてくることはないと分かったうえで俺は自陣の囲いをしっかりと固める。今の流行とかは知らないし、駒落ちの定石など、知識のない俺には一番の最適策であった。
「穴熊か……」
彼女の顔が微かに歪んだ。それはそうであろう。普通の初心者であれば、囲いなんてしてこないし、相手が駒落ちの中であれば尚更してこない。
そんな中で最も固い囲いとも言われる穴熊を組んだのだ。少しは嫌そうな顔をしてもらわないとやった意味がない。
「ッチ……さいな」
彼女が小さな声で何かつぶやいたようだが何と言ったか聞き取れなかった。
少しの間、彼女は考えたかと思うと再び手を始めた。少々警戒しながらも俺は、自陣の安心さから少々無理な攻めを展開する。
攻め駒が少ない彼女が守りに力を入れられるはずないので。多少無理な攻めをしても押し通す可能であると思ったからであるが……それにしても攻めにくいが。
こちらの方が優勢ではあるものの、どこか気持ち悪さを感じてしまう。攻めさせられてるような、そんな気になってしまう。
それでも俺の優勢であることは変わりない。このまま攻めて終
わらせる。
2人は、淡々と駒を進めていく。
中盤戦に入ったものの形勢は未だ俺の方がいい……はずなのだが、手番が進むたびに息がしずらくなっていくように感じる。無数に伸びていたはずの選択肢が、今は1つの選択肢しか見えなくなっている。
最善の選択肢が指している手であることは間違いないのに、それが間違いであるのではないかと錯覚させられる。
最初からあったはずの飛車角の駒得が、気づけばその差が縮まってきているのは間違いない。
「どうした?だいぶ苦しそうな顔をしているが。」
彼女は序盤の時とは打って変わって涼しそうな顔をしている。ポーカーフェイスというのも知らないのが、どうやら顔に感情が現れやすいタイプらしい。考えれば考えるほど俺はまずい方へと誘われているのだ。
どこかでこの流れを変える手を指さなくてはならない……そうは思うのだがすぐには打開策が見つからない。ただただ時間が過ぎていく。
気付けば俺の利は消えていた。彼女に角は奪われて、俺の細い攻めは完璧に止められていた。そればかりか、こちらの囲いは金が一枚はがされてしまっている。
このままいけば詰まされるのも時間の問題である。もはや投了してもいいのかもしれない。そもそも好きで将棋をやっているわけではないし、彼女の強さを考えれば負けても仕方なかったのだ。このまま惨めにずるずると引き延ばしても結果は変わらないのだ。
俺は今までノータイムで指していた手を初めて止めた。
少し姿勢を正して口を開こうとしたとき、先に彼女の口が開いた。
「このまま負けていいのか、少年?」
下を向いていた顔を上げると彼女の顔が目に映る。その顔はこちらに何か訴えている。彼女からしてみたら、今投了する理由が分からないのだろう。
何故対局をしている相手に励まされなくてはいけないのか?負かしに来ているのは彼女の方ではないか。
はっきり言って実力差は明白だ。大駒の2枚落ちの差があったのにもかかわらず、終盤戦に入ってからは彼女の方が優勢になっている。そこから勝ちに行くのなんて無謀にもほどがある。
出来ることなら俺だって負けたくない……負けたくない?俺は負けたくないのであろうか?
「私から見てもまだ形勢は五分五分だよ。諦めるのには些か早計ではないか?」
仕方なくだ、仕方なく。俺は彼女の言葉につられたわけではない。
口の外に今にでも出ようとしていた投了という言葉を飲み込んで、俺はもう一度将棋盤を見る。彼女の言う通り、未だ形勢は五分五分といったところであろう。ただどうしても上手い攻めを見つけることができない。それなら……
俺は一度やめていた手をもう一度動かして駒を動かす。
「やる気になったか?」
「別に……ただ負けたくないだけです。」
そこから彼女の駒たちが王を狙って攻めに来る。俺は攻めることを諦め、彼女の攻めを何とかさばいていく。俺と比べたら、しっかりとした太い攻め。それでも何とかして、攻めを続けさせない為に守る。
決して綺麗な将棋とは言えないだろう。見る人が見れば、醜く泥臭いと言われるかもしれない。それでも俺が勝ち筋を見出すには守るしかなかった。
呼吸がしにくい。ただ先ほどと違ってそれが苦しいとは思わない。選択肢が狭まっているような感じはしない。むしろ見えていなかった手も見えてくるように感じる。
狭くなっていた視界が広くなれば、新しい手も見えてくる。
俺はまだ負けていない、詰んでなどいない!
「いい目をするようになったな。」
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべている。こっちは必死になってやっているのに彼女はまだまだ余裕があるらしい。
このまま彼女に涼しい顔だけさせるわけにはいかない。その余裕の笑みを崩したい。
守りの中に罠を何回も設置しながら、俺は彼女の攻めを受けていく。
どんなに強い棋士だとしても、人間であるならばミスをするはずだ。それは小さい頃から、知っている。
ミス待ちは汚いし、醜いかもしれない。それでも勝ちにつながるのなら、やる意味はあったのだと思う。
二十手ほど進んで、遂に彼女は決定的なミスをした。持ち時間は決めていなかったが、2人供ほとんど時間を使っていなかった弊害か、俺の粘りに耐えきれなかったのか、長く苦しめられていた彼女の攻めの突破口が開いたのだ。
彼女も指してから気づいたのか、眉間に皺を寄せる。
すぐに彼女が指した手を咎める手を指す。
やっとだ……やっとカウンターだ。
持ち駒が多くなっていた俺は、遂に反撃を開始する。序盤から、中盤にかけて細い攻めではあったが、攻めてきたこともあり、彼女の囲いはそこまで堅固ではない。
ここからであれば、詰ませることも可能だろう。
俺は、ゆっくりと時間を使いながら、彼女の守りをはがしていく。
途中で彼女が何か言っていたが、気にしないで時間を使って攻める。最初の方に使っていいと言っていたしな。
そこから十数手ほど進んで、彼女が悔しそうな顔をしてこちらを見てきたかと思うと、彼女は背を正して綺麗な姿勢をとった。
「くっ……負けました。」
それなりに長い時間やっていた対局も遂に決着がついた。
体の力が急に抜ける。久しぶりにやったということもあり、体力が持たなかったのだろう。
それでも自分の感情が昂っているのが分かる。久しく味わっていなかった勝利の喜び……これはダメだ。忘れなくてはいけない。
それなのに、喜びを隠せる気がしない。彼女の悔しそうな顔を見ると一泡吹かせることができたのだと実感させられる。
悔しそうにしていた彼女であったが、真剣な顔つきになったかと思うと、俺の肩を掴んだ。
「少年、私の弟子になるつもりはないか?」




