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朝岐夢見師 上  作者: 梅田 貴冬
1/1

悪夢

少年は夢を見るたびに、土蜘蛛が彼の右腕を切り落とす。

たかが夢、されど夢。

感受性の豊かな人々にとって、悪夢はうつつを脅かす。

命さえ。

夢見師「朝岐月彦」と共に、夢の世界へ。


朝岐夢見師 上

1

午前三時。朝岐月彦あさきつきひこは、夢違(ゆめたが)え観音を(しつら)えた蔵の中で仰臥(ぎょうが)し、目を閉じた。依頼主の夢に介入するためだ。

大きく息を吸い、静かに長く、吐く。半時、朝岐は『夢霊むりょう』の状態となり、阿摩羅識あまらしきに『入定にゅうじょう』した。潜在意識の最も深い階層である阿摩羅識は、夢を見る万物の共有意識であり、他と他を繋ぐ通路だ。

朝岐は、夢違え観音の足元に置いた、依頼主の愛用品から伸びる、光の糸を確認した。

固い粘土質の坑道(こうどう)は雨の匂いがし、クンショウモやミカヅキモに似た、虹色に輝く(こぶし)(だい)程の物体が、ふわふわと漂っていた。夢霊の体に衝突しても感触は無く、弾けて粉々になり、また結合する。

朝岐が『夢幻微生物』と呼ぶそれらを、左右の手でそっと払いのけながら歩を進めると、微かに音が聞こえて来る。

太陽の光が、成層圏を刺す「ぴよぴよぴよ」という「鳥の声」が、坑道一杯に満ちた。

阿摩羅識(あまらしき)から、個々を特定する次の階層、阿頼耶識(あらやしき)の境だ。

(来い!)

朝岐は念じた。

背骨に空気の(うな)り声を受けた瞬間、どおぉういぃん、と高く飛翔する。

朝岐の名付けた『夢の陣風(じんぷう)』である。

依頼主の阿頼耶識(あらやしき)へ運ばれると、鬱蒼(うっそう)とした緑の匂いが鼻を()く。眼下は、マダガスカルのツィンギ・デ・ベマラを彷彿(ほうふつ)とさせる、(とが)った岩山だ。岩の間に樹木が茂り、幾筋もの川が流れ、恐ろしいまでに長い滝が水煙を上げていた。

真っ黒な雨雲が、雷を抱いて走って来る。

壮観(そうかん)じゃないか!)

朝岐は微笑んだ。

阿頼耶識(あらやしき)の風景は、経験、思想、嗜好、妄想、願望等々で構成され、個性に溢れている。

光の糸は、黄檗色(きはだいろ)と水色の溶け合う、空の狭間(はざま)へ伸びていた。

朝岐が狭間へ突入すると、さんさんと日差しの降り注ぐ庭に、立っていた。

光の糸は、停車された黒いドイツ車の、助手席に置かれた煙草入れにつながっていた。

(間違いない)

朝岐は(うなず)いた。依頼主の末那識(まなしき)(夢)に辿り着いたのである。

車のフロントガラスは霜に(おお)われ、触れると、粉末状の霜だけがざらりと落ちた。

これが依頼主を悩ませる「他人と争い孤立する、人生の下り坂」を意味する夢、である。

(さて)

「横山さん!」とあらぬ方向へ呼び掛ける。

人影がふい、と現れた。朝岐に(ゆめ)(たが)えを依頼してきた横山誠が、落ち着かぬ様子で軽く頭を下げた。

朝岐は、アイスカッターでフロントガラスの霜を()ぎ落とした。頭で唱えた物体を、瞬時に手にできる『夢法むほう』である。

朝岐が助手席のドアを開け、「行きましょう」と言うと、横山は言われるまま乗り込み、いつもの癖でオーディオに手を伸ばした。

バッハのプレリュードがジャズのリズムで流れ出す。夢のBGMとしては意外だが、(わず)かな好感を抱いた。

夢の中の車は、自己のコントロール能力を象徴する。

「先生、本当言うと、政治家なんて辞めたいんだよね。ただ、後一期やらないと老後が心配なんだよ。妻は専業主婦だし、これといって自分には能がないし」

朝岐は頷いた。

「政治家仲間は、いつか大臣の椅子をと虎視眈々(こしたんたん)だが、私は柄じゃない」

横山はほうぅっと、長い溜め息を()いた。

「政治家とは何だろう先生。主に、国民のために法律を作って、立法に参加する、そんなところだろうが、結局議会制に必要な頭数を揃えて、法案の成立に賛成か反対かを、自分の所属する政党の派閥の意向に沿って、票を投じるだけ。力を持っているのは何代も続く政治家で、地方出身の一代目議員なんて、末端も末端。政治家になった時には、こういう法案を出すんだ、と意気込んでいても、いつの間にか萎んでいる。最早サラリーマンだ」

彼は今まで抑えていた不平不満を、朝岐に語った。

とはいえ横山も、それなりの後援会があって当選したのだ。能がないとは言えない。

ドライブは、走り始めこそ悪路でがたがた揺れたが、横山の素直な心の吐露(とろ)が進むにつれ平坦になり、長閑(のどか)な情景に変貌(へんぼう)して行った。

「ああ、懐かしい。子供の頃は無邪気に走り回って、一日中わくわくしていた。大人のつまらなそうな顔が理解できなかった。おやつに食べたばあちゃんの小麦饅頭(まんじゅう)、うまかったなぁ」

横山は、前方に浮かぶ白い雲を眺めながら、「中にたっぷり餡を詰めるから、蒸しているうちに皮が破れて餡が弾け出る、それがまた絶妙に美味い」と自慢げに語った。

「農家の小倅(こせがれ)が、ちょっと勉強ができるというだけで、親戚中の期待を背負って東京の大学へ行き、省庁で十七年。地元に呼び戻されて今度は選挙に立候補。県議から国会議員と、政治家稼業。あんた誰って人を後援会の名目で東京見物サービス。不慣れな政界を右往左往して二期。担ぎ手が一人減り二人減りして、今じゃ五本の指にも満たない」

朝岐は決して口を挟まず、黙って彼の話を聞く。

静かにブレーキを踏み、横山と朝岐は車を降りた。

草原を渡る心地よい風。緑に燃える木々の梢が遠く手を振る。彼の原風景だ。

「あ、ツバメが。開けっ放しの納屋は、毎年ツバメのアパートだったんだ」

彼の意識に在ったのは、懐古と議員生活の疲れだった。


横山が朝岐の元を訪れたのは、二月初めのことだった。

「貴方の御覧になった夢とは」

と、朝岐が尋ねると、横山は口角の下がった唇を開き、夢を語った。

「私は寒くて震えていました。会議のため、衣服を整えて外に出ると、車のフロントガラスの霜が取れていない。随分前から運転手に車のエンジンをかけさせていたのに、手で擦っても消えない。布で拭かせてみましたが、やはり取れない。妻に湯を持ってこさせて、かけてみましたが、駄目でした。私はイライラして、妻や運転手に怒鳴っていました。声に出していたかもしれません」

目が覚めた時、声が枯れていましたと、横山は悄然として言った。

そんな夢を、繰り返し見ているという。

「高名な夢占いの先生に相談したら、とても悪い夢だと言われました」

横山は打ち(しお)れ、冬を(まと)っていた。

夢が運命を決めるわけではない。夢は心の中のあり様を物語っているだけだ。人にやらせて感謝もなく、上手くいかない苛立ちをぶつけていれば、下り坂にもなろう。

朝岐は夢違えのアイテム『夢枕』を横山に渡した。直径十センチ、長さ二十五センチの俵型だ。

「愛用の持ち物をお貸しください」

と言うと、横山は喜んで煙草入れを差し出した。


(さて、夢を(たが)えよう)

「横山さん」

朝岐はバケツを手渡した。掃除で使う、水色のあれだ。

バケツには水がたっぷり入っていた。

「これで車の霜を洗い流してください」

横山は素直に、バケツの水を車にかけて霜を落とし始めた。

「落ちる落ちる先生。嘘のようだ。夢の中じゃ湯をかけても落ちなかった霜が、こんなに簡単に」

横山は、大喜びで洗車に興じる。国会議員とは思えぬ姿だ。余程この夢に悩まされていたのだろう。喜々とした表情を浮かべ、作業に熱中している。

子どもの頃、父親の車を洗車して、お小遣いでも貰っていたのだろうか。

「ん、むう…」

一通り洗車すると、横山は怪訝な表情を浮かべた。

バケツの水が、後から後からごぼごぼと溢れ出て来る。

「先生、バケツの水が湧き出て止まらないよ。水浸しだ」

洗い続けていた時には、減らない水に気づかなかったようだ。たまらずバケツを地面に置くと、水はボンッと、二メートルの高さに噴き上げた。

「横山さん、車に乗って」

朝岐が助手席に座る。横山は慌てて運転席に乗り込んだ。

水は怒涛(どとう)の勢いで追って来た。『夢の飛躍』である。仕掛けているのは無論朝岐だ。

「あの塔まで飛ばしましょう」

朝岐の指示で横山はアクセルを踏み、車を走らせた。塔はイングランドの中央部に広がるコッツウォルズの風景にそっくりだった。横山の記憶が具象化したものだ。行ったことがあるか、憧れがあるのだろう。

辿り着くと、急いで車を降りる。

「横山さん、行きますよ」

朝岐は十七メートルの塔を見上げ、無造作に横山の腕をつかむと、ジャンプした。

音もなく頂上に降り立つ。

水は轟音(ごうおん)を上げ、丘を飲み込み、塔を囲んだ。

「凄い水だ…」

横山の声は震えている。

朝岐は微動だにしない。

「横山さん、目を閉じて」

横山は、指示に従う。

ふわっと風に(あお)られ、朝岐も目を閉じる。

一、二、三。

「目を開けてください」

再び目を開くと、辺りは湖に変貌(へんぼう)していた。

空を映す湖面に、白い鳥の群れが悠々と飛んでいる。

横山はぽかんと口を開け、鳥の姿を眺めた。

(よし。夢違え完了)

横山が遠方へ手をかざすのを見届けると、朝岐はどすんっと落ちる感覚で、目を開けた。

副交感神経の異常で起こる『落下不安』と呼ばれる現象だ。

しんと静まり返った蔵の中、夢違え観音の足元に灯る小さな()が、朝岐の目覚めに安堵(あんど)していた。

(ふう。黄泉(よみ)返ったか)

夢違えの際、意識が本体に戻ることを朝岐は『黄泉返り』と呼んでいる。

体を伸ばし、床の中で横山の夢を反芻(はんすう)した。

記憶の限りを、ノートに書き記す。

早朝、横山から『洪水の夢を見ました』という連絡を受け取った。

『先生、あの夢は一体どういう意味があるんですか』

電話の向こうで、声が上ずっている。

「近々良い友に恵まれ、成功のチャンスが到来するよう(たが)えました。貴方の見た霜の夢は洪水で払拭(ふっしょく)されたのです。後は横山さん次第です」

朝岐は淡々と答えた。

翌日の午後、溌剌はつらつとした横山が訪ねて来た。

「なんと大学時代の友人から、政治活動の協力を得ることができました。他の知り合いにも声をかけてくれるようです。先生のお陰です。有難うございました」

横山は大喜びしていた。

「ご友人を、生涯大切になさってください」

朝岐も笑顔で答えながら、彼愛用の煙草入れを返した。

まもなく朝岐の口座に、相応の金が振り込まれるだろう。

一気に体力の消耗を感じる。

(気晴らしでもするか)

朝岐は、夕暮れ迫る庭を眺めた。

咲子(さきこ)さん、今夜は華岡亭(はなおかてい)に行くから」

台所に向かって声をかけると、はーい、という明るい声が返って来た。

朝岐の住まいは丹等山(にらやま)にある。九年前、彼の妻「長夜(ながよ)」が、蔵のある豪勢な農家を買った。

蔵は夢違え用に改築。三十センチほどの夢違え観音を置き、簡易ベッドに固めのマットを敷いて、体裁を整えた。冬暖かく、夏涼しいという蔵は、日本の優秀な建築物だ。

農業経営していた元の住人は、息子の「庄助さん」生活で破産し、破格の安値で売りに出した。家を買ったら、住み込みで事務の仕事や家事などを手伝っていた咲子と言う女性が、働く場所も住む所もない、と付いて来たのである。五十に近い天涯孤独という彼女を放り出すわけにもいかず、現在に至っている。購入から二年後に長夜が亡くなっていよいよ存在価値が増し、今ではすっかり朝岐家の一員だ。咲子さんは庭の片隅で野菜を作り、無人販売もしていた。

長夜は永岡(ながおか)の華岡亭で、芸者として働いていた。七年前、息子の銀河を遺しこの世を去ったが、咲子さんが居たからこそ安心して死ねたとも言える。

当初から皆の世話をし、三歳だった銀河を容赦なく叱り、可愛がっていた。長夜とも馬が合い、病の折りには嫌な顔一つ見せず看病してくれた。咲子さんは住み込みの従業員などではない。もう家族なのだ。

「動いていないと、私は死んでしまう」

と言う彼女は、天からの贈り物だった。


朝岐は、(あい)大島(おおしま)(つむぎ)の着物に着替え、懐に長夜の舞扇を忍ばせ、草履(ぞうり)を引っかけた。

タクシーに乗り込むと、夕暮れの車窓に、幼い頃の銀河が「鬼の爪」と言った白木蓮(はくもくれん)(つぼみ)が、天を()こうと奮起(ふんき)していた。

後ろへ倒れていく風景には、植物の発散するオーラで焦点が合わない風情(ふぜい)があった。

「着きましたよ、華岡亭」

「あ、有難う」

朝岐は運転手に料金を弾んで降り立ち、石橋を見つめた。

華岡亭は、車道を隔てた橋の向こうに店を構えていた。

明治時代の街灯が両脇の欄干に(とも)り、建物の銅板屋根は常緑樹の奥に見え隠れしている。

昼は洋館を移築した喫茶室でバリスタが一般の客をもてなし、夜はダイニングルームと座敷で客をもてなす。オーベルジュを(うた)う以上、希望すれば宿泊も可能だ。落ち着いた雰囲気の舞台がロビーにあり、時期によって小さな演奏会が開かれる。舞台の後方を全開すると日本庭園が広がり、春の桜、秋の紅葉が一枚の絵に仕立てられた。

最大十人収容できる部屋が一つ、その他は少人数制で、宿泊はツインのベッドと、座敷、露天風呂、庭付きが二部屋あった。

昔は、何軒もあった近隣のホテルや旅館から、浴衣姿の宿泊客が街をそぞろ歩いていたが、今はない。娯楽は多様化し、東京からさほど離れていないひなびた町など、見向きもされなくなった。残っているのは老舗のホテル、旅館だが、返ってこの静かさが、素封家そほうかや気取った隠士いんしの息抜きには丁度良いのだろう。

「しのぶちゃん今晩は。空いてる?」

「あら先生、お久し振り。大丈夫、先生は特別」

朝岐は、馴染(なじみ)の女性に声を掛けた。

華岡亭では、スタッフの有志でにわか芸者のサービスをしている。頼めば三味線の演奏と歌、粋なお座敷遊びとお喋りに付き合ってくれた。最近はにわか芸者のみの従業員もいて、平日も(にぎ)わっていた。勿論(もちろん)料金はその分高い。

沼津港から上がった新鮮な魚、伊豆周辺の野菜、肉が供される。

「今夜は何だかざわついているね」

としのぶに声をかけた。

「そうなの。今夜ね、見吉さんが外国のお客様を招いているのよ。それで見吉さんご自慢の(たまき)ちゃんに琵琶(びわ)の演奏を聴かせるんで、舞台を整えているところ。お陰で私達も聴けるの」

しのぶは嬉しそうに言った。

彼女は、朝岐の夢見を華岡の上客に紹介した、功労者でもある。彼女がいなかったら、夢違(ゆめたが)いの仕事は存在しなかった。

「へえぇ。琵琶なんて珍しいね」

「私達の三味線の師匠なのよ、たまきちゃんは」

「え、師匠にちゃん呼ばわり?」

「内緒。普段は師匠って呼ぶわよ。客席を設けるから先生もどうぞ」

「何時から?」

「七時半から。お腹空いた?先生」

「うん。ちょっと消耗しちゃったからね」

「夢違えしたのね。じゃ、いつものお食事ね。時間が来たらご案内します」

「有難う」

長夜との縁もあり、朝岐も特別客の一人だった。長夜が熱海仕込みの芸を女の子達に伝授した。宴の終わりに皆で『猫じゃ猫じゃ』を歌うのも彼女の置き土産だ。

華岡亭の女将は、長夜の葬儀の折り、立派な供花(きょうか)を届けてくれた。話していても、好感の持てる人柄だ。

朝岐はすみれの間に通された。

日本庭が見渡せる、八畳ほどの気持ちの良い座敷部屋だ。予約も無しに、ふいに訪れる特別な客用に、用意されている。

野趣(やしゅ)の前菜、お造り、豚肉の上品な角煮、海老の天ぷら、吸い物。久しぶりにお銚子(ちょうし)を一本付けて、朝岐は静かに食事を楽しんだ。

食事の合間に卓子(テーブル)に手帳を拡げ、処方した夢を細かくチェックする。やったことに絶対はない。何度も思い返し、改善点を探った。

早春の梅、桜、あやめ、紫陽花(あじさい)紅葉(もみじ)…と、華岡の庭はいつも華やいでいる。灯篭(とうろう)でライトアップされた季節が、夢違えで毎度五キロ落ちる体に優しく寄り添う。

座椅子にもたれ、咲くにはまだ早い大きな鉢植えの藤を見た時、夢違えのきっかけになった昔のことが、ふと(よみがえ)った。

朝岐がまだ、神奈川の藤沢で暮らしていた十歳の頃だ。

『ドリトル先生ものがたり(岩波少年文庫全十三巻)』を市立図書館で借りて夢中になった。読み終えては自転車を飛ばし、本棚へ急いだ。

(あれ、おかしいな、昨日はあったのに)

目的の五巻がない。

落胆していると、同じ年頃の男の子が声を掛けてきた。

「ドリトル先生?」

振り向くと、男の子はファーブル昆虫記を手に(たたず)んでいた。

「え、うん」

「それ、おもしろいよね、あさき君」

名前を呼ばれ、怪訝(けげん)な顔をしていると、彼は笑った。

「ぼく、同じクラスだよ。折原睡尾(おりはらすいび)

朝岐は記憶を辿(たど)った。

「ぼくはあさき君より後ろの席だよ」

と教えてくれたが、思い出せない。

「いいんだ、わかんなくても。だって、ほとんど休んでいるもん」

ああ、あの空席か。先生から病気だと説明されていたっけ。

「それより、ぼくの家はこの近くなんだ。ドリトル先生なら全巻あるから、貸してあげる。さ、こっちこっち」

彼は朝岐の腕を取って引っ張った。

真っ白な壁の、緑に囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な家は、確かに図書館の近くだった。

「お母さん、あさき君だよ」

彼は、奥に向かって嬉しそうに告げた。

「まあ、いらっしゃい。さ、上がって」

彼女は朝岐を見ると、満面に笑みを浮かべていた。余程嬉しかったのだろう。部屋に入ると間もなく、ロールケーキは出るわ、オレンジジュースは出るわの歓待を受けた。

朝岐はそれらをぺろりと平らげた。彼は、ドリトルの五巻をそっと置いてくれた。

「読み終えたら、また貸りにおいでよ」

折原はやわらかく微笑んだ。

朝岐は帰宅後、ベッドの上で借りた本を読みながら、いつの間にか寝入っていた。

夕食に朝岐家の次男坊が居なくても、誰も気にはしない。

これは夢だ。自分は夢の中にいる、と突然分かった。

草原の細い道を登って行く。

遠くに横長の白い建物があり、真っ黒な馬が草を()んでいた。

草原を渡る風は涼しく、空は高い。

朝岐は、馬の(かたわ)らに立つ少年を発見した。

「おりはら君」

と声をかけると、少年は振り向いた。

「この馬は君の?」

「そうなんだ。ぼくが育てているんだ」

折原は逆光の朝岐を(まぶ)しそうに見て言った。

「いつかこの馬に乗って、遠くへ行きたいんだ」

と、馬の腹部を優しく叩く。

背は紫に輝き、目は青く燃えている。

馬は朝岐を見ると、耳を(しぼ)って垂直に立て、鼻に(しわ)を寄せた。

(いけない。この馬はいけない。この馬と一緒にいちゃいけない)

(はじ)かれたように言おうとすると、折原の姿はどこにもなかった。

朝岐は夢中で馬の手綱(たづな)を引いた。

馬は激しく首を左右に振り乱し、歯を()いて宙を掻くように立ち上がった。

踏み(つぶ)される。

()り飛ばされる!

身をすくめながら、朝岐は手綱を離さなかった。

力任せにぐいぐいと引き、草原の只中(ただなか)へ連れ出す。

「さあ、どこへでも行け!」

尻を軽く叩くと、馬は白い建物と逆の方向へ走り去り、見えなくなった。

「二度ともどって来るな!」

と叫んだ時、目が覚めた。

ぼんやり天井を見つめ、夢を思い返す。草原、馬、折原…。胸の上に広げたままの本が、ずしりと重い。

手のひらに、手綱を引いた痛みを感じる。

聞き耳を立てると、家の中は静まり返っていた。

朝岐は、馬が草原に戻っていないか心配だった。夢の感覚が、頭の(しん)に残っている。

本を脇へ片づけると、夢の続きを見たいと念じながら、再び眠った。

落ちていく感覚の後、朝岐は藤の花のトンネルを歩いていた。花に群れるミツバチの羽音(はおと)がお経に聞こえ、間断(かんだん)なく波を打って全身に注がれた。足元を見ると、水色のホースがトンネルの出口まで続いている。

朝岐は、折原が自分を導いている、と直感した。ホースを辿って行けば良いのだ。

トンネルを抜けると、病室だった。

カーテンが風に揺れ、白いベッドに折原が横たわっていた。ベッドの傍らに、彼の母親が悄然(しょうぜん)と座っている。

「あさき君」

と折原が言った。弱々しい声だった。

彼は朝岐に向かってか細い手を差し伸べた。握ると、安心したように目を閉じた。母親が彼の名を呼び、さめざめと泣いた。

朝岐は、枕元の「黒馬物語」を手に取り、貰って行くよ、と言うと、彼は微かに(うなず)き、力なく微笑んだ。

折原は一度大きく息を吸い、長く吐き続け、再び吸うことはなかった。

うなじに登る鼓動が、一回、二回…打ち、停止する。

呼吸と鼓動は、別々のものなのだ、と朝岐は死を厳粛げんしゅくに眺めた。

どすんっと体が震え、ぽかんと目が開く。

(おりはら君)

カーテンの隙間(すきま)からほの白い光が漏れ、イソヒヨドリが鳴いていた。

朝岐は半身を起して、生々しい夢をなぞった。

「書け!」と声がする。

朝岐は飛び起き、夢を書き(つづ)った。

折原睡尾(おりはらすいび)は翌週から登校して朝岐を見ると、意味あり気に微笑んだ。

彼は、親しい友人に囲まれている朝岐に近づいては来なかったが、本の貸し借りは水面下で続いた。

十五少年漂流記、笑いを売った少年、飛ぶ教室、折原の書棚は次々と新刊を加えて行く。

土曜の午後になると自転車で折原家へ行き、本を物色する。朝岐が貸すこともしばしばあった。

モンテクリスト伯、宝島、三銃士、黒いチューリップ、罪と罰などだ。

学校では、朝岐と折原が友人関係だと思うクラスメイトは一人もいない、奇妙な関係だった。

「『パール街の少年たち』を貸すよ。ちょっと泣けるんだ」

持参した新しい本を、折原に渡す。

「あさき君、ありがとう」

折原は唐突(とうとつ)に言った。本の貸し借りはお互い様で、普段礼は言わない。

「え、何で?」

朝岐の戸惑いに、彼ははにかんで言った。

「今までずっと言おうと思ってたんだけど、あさき君がぼくを助けてくれたんだと思う。あさき君が夢の中に出て来てくれた後、ぼくはすっかり調子がよくなったんだ。お母さんに話したら、すごく不思議がっていたけど、感謝しなくちゃいけないって。あれから馬の夢を、ぜんぜん見なくなったよ」

朝岐は驚き、興奮を覚えた。

「ぼくはあの夢を、ノートに書いたんだ。忘れちゃいけない気がして」

と言うと、ぼくもだ、と折原がノートを見せてくれた。

胸から伸びる水色のホースを握って、朝岐が来るのを待っていたこと。朝岐が黒馬物語の本を持って行った後、自分が夢の中で死んでしまったこと、が細かく書かれていた。

「夢占いを見たらね、黒い馬は死を意味しているんだって。あさき君に会わなかったら、ぼくはあのまま死んでいたと思う」

朝岐は背中がぞくりとなった。恐怖のせいではない。面白くて、だ。

「あさき君には人の夢を変えられる力があるんじゃない?」

と折原は言った。

「ためしてみようか」

声に出したのは朝岐だが、折原の目も同じことを語っていた。

「持ち物をこうかんすると、うまくいく気がする。本を借りたのがきっかけだから」

朝岐は、彼が愛用していたキャラクターの時計を貰い、ランドセルにしまった。代わりに、猫形の消しゴムを折原に渡した。かなりレアな奴だ。

これが夢アイテムの起源である。

「じゃ、今夜夢で会おう」

二人だけの、夢研究会がここに発足した。

(おりはら君の夢に、行けますように)

ベッドに潜り込めば子どもはたちまち眠りに落ちるが、朝岐は初めて、今では馴染(なじ)みとなった阿摩羅識(あまらしき)坑道こうどうを体験した。

夢の中で意識を覚醒させると、机に置いた折原の時計から、水色の糸が伸びていた。

湿った粘土質、雨の匂い、浮遊する光る物体。

朝岐は、一陣の風に運ばれ、藤の花の続くトンネルを歩いた。長く垂れ下がった藤の房が顔に触れ、ミツバチの羽音が響く。藤のトンネルを抜けた先に、一軒の家が建っていた。

扉を開けて、中を覗く。

外国製の大きな柱時計。油絵の風景画や人物画が、壁一面に飾られている。

「おりはら君」

試みに、名を呼んでみる。

彼は、部屋の奥からスケッチブックを片手に現れた。

「やあ」

「何をしてるの」

朝岐が尋ねると、折原は少し恥ずかしそうにスケッチブックをめくった。

「奥でずっと、絵を描いていたんだ」

テレビや本で見たことのある、宇宙の絵でいっぱいだった。

黒をベースに、紫、ピンク、青、緑、赤…の混じった美しい銀河。折原は、自分の描いた土星、すい星、アンドロメダ星雲などを、一枚一枚めくって見せた。

「宇宙飛行士にでもなりたいの?」

折原は笑いながら首を振った。

柱時計が鳴り響く。

どすんっ。

びくりと体を震わせ、目が覚めた。

自分の部屋だった。

早速、用意していた枕元のノートに書き記す。

思い通りの夢を見たことに興奮し、日曜日の朝食もそこそこに家を出た。家人はどこへ行くのか、聞きもしない。折原は、顔を上気させて朝岐を迎え入れてくれた。

「ぼくのところに来たね」

折原は笑った。

「覚えてるんだ」

「うん。あさき君はぼくに何をしてるって聞いたから、ぼくはスケッチブックを見せたよ」

完全一致だ。

折原は、現実のスケッチブックを朝岐に見せてくれた。

「これはね、ぼくが見た夢の絵なんだ。ぼくはスペースシャトルに乗って、新しい惑星の街に向かうんだ。誰かと待ち合わせしていたけど来なくて、仕方なく一人で乗り込んだ。スペースシャトルは知らない惑星に迫っていて、セルリアンブルーの海が見えた。海岸に白い波が打ち寄せてきれいなんだけど、とても嫌だった。さびしくて、切なくて」

と、絵の説明をしてくれた。

夢と現実が交差する。

朝岐が坑道の話をすると、それはきっと産道だ、と折原は言った。

この世の生命の起源は、母親の胎内にある。朝岐は幼い頃この夢を見ると、恐ろしさに飛び起き、声を殺して泣いたものだ。

「あさき君は、お母さんのお腹にいたときの記憶があるんだよ」

折原は言い切った。

「ぼくが調べてみたところによれば、意識にはたくさんの階層があるんだって。一番深いところがあまら識といって、生きとし生けるものはすべて一つにつながってるんだ。あさき君は、お母さんの産道の記憶が強いから、あまら識が坑道(トンネル)としてイメージされたんじゃないかな」

難しい単語をすらすらと言う折原睡尾を、朝岐は尊敬した。

「その次の階層は、何て言うんだい」

「あらや識だ」

「あ、じゃ、ぼくがおりはら君のところへ行くまでの、藤の花のトンネルが、あらや識だったんだ。ここから個人になるんだね」

「うん。あらや識はとても深いところにあるんだ。その人の性格付けをする根本だね。夢を見ている階層はあらや識の上のまな識で、意識との境界はあいまいになるんだ。夢を覚えている時はきっと、まな識と意識が交じり合うからじゃないかな」

折原に刺激を受け、難しい本を図書館で借り、夢中でノートに書き写した。

図書館の休館日と、週に一度の塾の日以外は、ほぼ図書館と折原家で過ごした。

「特定の人の夢に行くには、ぼくたちが物をこうかんしたみたいな、目印が必要だ」

折原は、朝岐の力を心から信じ、たびたび夢の探索に(ふけ)った。

今も使っている夢の入定にゅうじょう夢霊むりょう夢法むほう黄泉よみがえりは、ほぼこの頃朝岐と折原が相談して名付けたものだ。

「ぼくが絵を描くと、お父さんがデジタルデータにしてくれるんだ。あさき君にデータをあげるね」

メモリに保存された膨大(ぼうだい)な夢の絵が、(のち)の夢分析の貴重な資料となった。

およそ二年続いた夢の研究会は、折原が突然いなくなったことで、終わりを告げた。

小学校を卒業した春休み、朝がた見た夢の話をしようと折原家を訪ねると、表札がなくなっていた。

彼から転居をにおわせる言葉は、一度も聞いていなかった。連絡先さえ知らずに、彼はいなくなったのだ。

君がいなきゃ。君がいなくちゃ。

朝岐は、身をよじって泣いた。彼のいない生活が、越せないコンクリートの、巨大な壁に思えた。

折原から借りたリルケの「マルテの手記」が、今も手元に残っている。

(折原は、僕が貸したカミュの「異邦人」を、持っているだろうか)

朝岐は今でも折原の夢を見る。名を呼んでも、現れはしなかったが。

不思議な少年だった。彼がいなかったら、道を踏み外していたかも、とさえ思う。

「先生、誰に思いを()せてるのかしら」

しのぶに声を掛けられ、朝岐はびくりと体を起こした。座椅子にもたれたまま、気持ちが浮遊していた。

眠れる藤が、朝岐を追憶の夢に誘ったのだ。

「あ、時間?」

「ええ」

急いで着物の崩れを直し、しのぶとロビーに向かった。

「まあ見吉(みよし)さん、お久し振りです」

しのぶが気安く声を掛けると、その紳士は機嫌よく振り向いた。

「ああ、久しぶり。おやそちらは?」

と、穏やかな眼差しを向ける。

「こちら、夢見(ゆめみ)の先生」

朝岐月彦あさきつきひこです」

朝岐は懐から名刺を差し出すと、彼も名刺を返した。

見吉笙吾みよししょうごと書いてある。

「夢見?なんとも稀有(けう)なお仕事ですね。朝岐月彦さん、夢占い?」

「いえ、正式には臨床心理士です。カウンセラーなんですが、夢を元に心理を分析して相談者に助言します」

と簡単に説明した。

「へえぇ」

見吉はしきじきと名刺を眺めた。

外国の客人が見吉に英語で話しかける。

見吉は朝岐に軽く会釈すると、外国人と話しながら離れて行った。

華岡亭の女将の宮来(みやこ)も席についている。おっとりとした雰囲気だが、廃れる一方の永岡にあって、いち早くVIPに焦点を絞った投資が功を奏し、賑わいをみせている。なかなかのやり手女将だ。

めくりに「壇ノ(だんのうら)」とあり、近隣のホテル、旅館からも、お客が訪れていた。

「オゥ…beautiful!」

外国人の客が少し大げさに言った。

朝岐がつられて舞台を見た瞬間、人の声も消え去って、ただ舞台の人に釘付けになった。

子どもの頃から朝岐は、人から発する色が見えた。その人の内奥ないおうが、勝手に色として変換されるのだ。

高校生の時分「伯母さんは、緑色だね」

と言うと、

「え、なあにそれ。確かに緑が好きだけど」

と笑ったが、朝岐は初めて、誰でも見えるわけではないと知ったのだ。伯母さんは「魂の色ってことだね」と、真面目に受け止めてくれた。

舞台の人は、透けるような肌を黒の紋付に包み、きりりと上がった眉、謎めいた影を(まぶた)(たた)え、長い黒髪が俗世を隔てる。

羽織の紋は揚羽蝶(あげはちょう)だ。

聴衆のざわめきなど耳に届かぬ風情で、四弦五柱の琵琶を携え、凛と座っていた。

(なんだ、あの魂の色は)

朝岐はその人を包む色彩に、何度も目を(しばたた)いた。

白光(びゃっこう)本紫(ほんむらさき)と墨が流れ込み、渦を巻きながら混じり合わない。

演奏はすでに始まっている、と朝岐は思った。

席に着いた聴衆の、一瞬の沈黙を突いてびんっと弦が弾かれると、尾骨から背骨、こめかみ、頭蓋骨へと震えが伝わり、恐怖ぎりぎりの感覚が突き抜けていく。

聴衆は既に、平安末期に立っていた。

古典文学の平家物語は作者が(いま)だ定まっていない。鎌倉時代、吉田兼好(卜部(うらべ)兼好)の徒然草に、後鳥羽天皇の頃、信濃前司行長しなののぜんじゆきながという人が作者で、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にした、という記述があるらしいが、定かではない。

琵琶法師が語り継ぐのが「平曲(へいきょく)」と呼ばれるものだ。内容が叙事的で、歌うと言わず語ると表現される。

現代は明治以降の筑前(ちくぜん)薩摩(さつま)琵琶(びわ)によって平家物語を土台に作曲され、「平曲」とは別物になっている。

朝岐の知識ではこれが精一杯だ。

「時こそ来たれ~」と、性別を超えた奥行のある声に心地良いこぶし、揺らぎ、抑揚を付け、物語が始まる。

圧倒的な存在感に頬を殴られる。

(空を切り裂く矢羽の音が聞こえる。僕は、うねる波の船上にいる)

西洋人の耳にどう響くのか想像できないが、朝岐には、悲哀の情景が一気に流れ込んだ。

元暦(げんりゃく)二年(寿永(じゅえい)四年)三月二十四日の()の刻(午前六時)、壇ノ浦に源氏の大群が押し寄せ、平家がこれを迎え撃つ。平家に()のあった前半戦も、風が()ぎ、潮目(しおめ)が変わると、義経(よしつね)の率いる兵士は続々と平家の兵船(ひょうせん)に乗り移り、()ぎ手を殺す。平家の味方は散り散りに離反(りはん)し、海路に逃げようにも、潮はそれを許さず、長門(ながと)の岸に上がろうにも、敵の兵が待ち構えている。万策尽きた。

死にたくはない。死にたくはないが、死以外の選択肢がない。

落日と兵士の血に海は赤く染まり、安徳(あんとく)天皇(てんのう)を乗せる船の女官(にょかん)公達(きんだち)は、ただ手を合わせるのみ。

二位尼(にいのあま)神璽(しんじ)と宝剣を(ふところ)に、見目(みめ)(うるわ)しく、黒髪をさらさらと風になびかせる幼い帝を抱いて、船端(ふなばた)に進む。

「どこへ行くのか」と尋ねる帝に、二位尼は「海の底には、西方(さいほう)浄土(じょうど)という美しい都があるのです。今からそこへ行き、末永く暮らすのですよ」と、さも嬉しく、楽しみでたまらぬ風に、語りかける。

帝は彼女のかけがえのない孫だ。

帝がお召しになられる装束(しょうぞく)は、(かぐわ)しい香が()()められ、抱けば息遣(づか)いが、体のぬくもりが伝わる。一切の死を欲さぬ幼い子の、健やかな匂いがする。

九州といえども風は冷たく、死出の旅を見送る者は、源氏の荒武者ばかり。

聴衆の体が、琵琶の調べに合わせて前後に揺れた。

たった六歳で命運尽きた帝は、二位尼と共に千尋(ちひろ)の海へ身を投げ、安徳天皇の母、後の建礼門院(けんれいもんいん)、女官達がそれに(なら)う。安徳天皇は、歴代天皇の中で最も短命にして、戦乱に落命した記録の残る唯一の天皇となったのである。

平家一門の治める世に生まれ、戦など知らずに育った公達は、武道より芸術を愛し、常世(とこよ)の春に往生すると信じていたろう。

平氏の猛将、平教経(たいらののりつね)は、「お前に(かな)う源氏はいない。これ以上の罪を犯すな」と平知盛(たいらのとももり)(いさ)められ、ならば義経(よしつね)を道連れにしようと追い詰める。この時、教経(のりつね)から義経が逃げる八艘(はっそう)飛びの伝説が生まれた。

義経に逃げられた教経は、源氏の大男二人を抱え、海に身を投げたと言われる。

最後の最後まで平氏の為に戦い続けた知盛(平清盛の第二子、平家の智将)も、人生を共にすると約束していた平家長(たいらのいえなが)(知盛の乳母の子)と共に、海に沈んだのである。三十四歳と記されている。

戦いの終わった夜明けの海に、平家の赤い印旗(しるしばた)が漂う。

琵琶は風を集め、余韻を弾く。

弾かれた音の波長は長く、耳の底に落ちる。

楽器そのものが、涙で作られているかのように、泣いているのだ。

聴衆はそっと鼻をすすった。

生き恥を(さら)すより死を選ぶ死生観は、現代に至っても脈々と息づいている。

朝岐も涙を抑えられない。音の粒が身体に染み入り、心の(おり)を流し出す。

琵琶の音は、水底に沈み、あるいは闇に潜む御霊(みたま)を叩く。

平家の(つわもの)どもは、底に沈む己の(しかばね)が魚に食われ、骨と化すのを見ただろうか。海流にもまれ、底を這う骨の弔歌(ちょうか)を、聞いただろうか。

朝岐は、海の森に建つ、荘厳な都を求めて彷徨(さまよ)う無数の霊魂を追った。今は洒脱(しゃだつ)に語られる、真摯(しんし)に生きた人々の、生々しい無念を。

「壇の浦」が終わると人々はしばし沈黙し、我に返った。万雷(ばんらい)の拍手。

(この中に平家の落ち武者が(まぎ)れていても、不思議はない)

朝岐は、そっと立ち去る黒い影を、目の端にぼんやり眺めた。

平家の没落は、教訓として盛者必衰(じょうしゃひっすい)と語り継がれる。

武家政権、日宋貿易による経済発展、貨幣、日本初の人工港など、社会基盤の礎を築く功績があったにも関わらず。

(おご)れる人も、久しからず…)

ひとへに風の前の塵に同じ、とまで後世に伝えられた切なさが、朝岐の胸に滲みた。

華岡亭の従業員が、次の演目をめくる。

簫風(しょうふう) 黒沢環(くろさわたまき)

壇ノ浦の興奮でざわついていたロビーは、環が(ばち)を構えると、再び水を打ったように静まり返った。

撥は弦の上をさらさら高速で走る。

荒れ野を渡る風か、はたまた竹林を抜ける風か。聴く者の想像に任せ、風は吹き抜けて行く。琵琶の弦に外の営みを捕らえ、ここに放っている…。

早春の荒海から、人々は竹林に召喚(しょうかん)される。

降り積もった笹の葉の上に、また笹の葉が落ちる微かな音。

頬に、(うなじ)に、肩先に風を受ける。

風は竹林を抜け、月を指す大木の梢を超えて行く。

朝岐は目を閉じ、己の胸に去来する、風の記憶に耽った。

自分と幼い息子を置いて妻の長夜が息を引き取った時、彼女は一体どこへ飛び退(すさ)ったのか、何に隔てられたのか、死が一切を一刀両断した。

決断、実行、責任に溢れた女性だった。人生をいかに生きて行けば良いか、彼女を見ていれば良かった。先に死ぬのが自分ではなく、彼女だったことへの無念を思う男の(ずる)さに嫌悪を感じ、見捨てられた子どもの様にむせび泣いた。

月の美しい晩だった。ガラス戸の向こうでは、木々の枝が激しく揺さぶられていた。

(ああ、この風は鎮魂の風なんだ。取り戻せない過去に向かって吹く『時の風』なんだ。僕の気持ちが後ろへ流されていく。荒野に独り、向い風を受け続ける、死の瞬間まで)

彼女を残して自分が死んでいたら、どれほどの苦労を彼女に背負わせたか。

朝岐が今まで気づきもしなかった心の穴に、琵琶の起こす風が吹き込んでくる。

取り込まれた風が、指先から流れ出るのを見つめた。

竹林の風から野分、木枯らし、春の東風と進み、竹林の風に還る。

(この若さでどう生きれば、こんな音が出せるんだ)

朝岐は正体不明の虚脱(きょだつ)に襲われた。

黒沢環の放った風は、年若い作曲者の、良くある甘い感傷ではなかった。

持てるテクニックを悪戯(いたずら)に集めて、大人を驚嘆させるのでもなかった。

幼い頃から今日まで一人、毎日吹く風の刹那(せつな)を見つめ、心に落とし込んできたのだ。

演奏が終わると、静かに礼をして楚々(そそ)と立ち上がる。さらりと黒髪が前へ垂れた。

(あの魂の色が、この音を作るのか)

知りたい。

「オオ。ウツクシイ…ウツクシイ。ブラバー!」

外国人が連呼する。

朝岐は、行き場のない感情の処理に困った。

(熱病に(おか)されそうだ)

頭を抱え込む。

「加減でも悪いの?」

しのぶが心配そうに覗き込んだ。

「たった今、病に冒されたよ」

朝岐はしのぶを見ることが出来なかった。

「戻るよ」

「先生、本当に大丈夫?」

「ああ」

急ぎ足ですみれの間に飛び込み、どかっと座り込む。

「こんな先生初めて見たわ」

心配して連いて来たしのぶが言った。

「しのぶちゃん、あの子どこに住んでいるんだい」

「え、環ちゃん?」

「そう」

薔薇木(ばらき)よ。以前はここの女将さんと一緒に住んでいたけど、中学を卒業してから独立して、私達もそこにお稽古に行っているの」

しのぶは、卓上の空いた皿をさり気なく盆に乗せ、お茶を()いでいる。

「僕も習いたい」

「先生が、本気?」

「勿論だ。住所を教えて」

しのぶは、朝岐が環に参ってしまったのだと分かった。

「いいけど先生、環ちゃんは男の子ですからね」

朝岐の手から、湯呑みがぽろりと落ちる。

「あっ、あちぃ!」

「まぁ大変。火傷(やけど)しなかった?」

慌てて(こぼ)した茶を拭き、冷たいタオルで患部を冷やす。

「大したことない」

「水物をお持ちしますね」

しのぶが出て行った後、どこからか三味線が聞こえてきた。

(僕が知りたいのは、魂に流れ込む墨の色、琵琶の音だ)

「先生、水物をどうぞ」

しのぶが、現代作家による益子焼(ましこやき)の器を置いた。

そのまま食べられる金柑(きんかん)と、青梅の甘露煮が目に鮮やかだ。

青色(あおいろ)廃園(はいえん)か…豪奢(ごうしゃ)だね」

朝岐が(つぶや)く。

「え?」

しのぶは首を傾げながら、そっとメモを差し出した。

「環ちゃ…師匠の、住所と電話番号よ。入門したい人がいるって、伝えておいたから」

朝岐の顔がぱっと輝いた。


2

着物を取り出す。いよいよ今日、三味線の門を叩くのだ。

実を言えば、華岡亭から戻って三日寝込んだ。

朝岐にしては珍しく、高熱を出して唸っていた。

頭の中で繰り返し琵琶が鳴り、環の面影が夢の中に現れる。彼に伴う黒い影が、朝岐を排除しようと鎌を(ふる)うのだ。

恐怖で目を覚ますと、誰かに呼ばれている気がした。

再起した四日目の朝、一羽のカラスがずっと家を(うかが)うように留まっていたと、十歳になる息子の銀河(ぎんが)から聞いて、苦笑した。

鏡の前で髪を整え、石舟庵(せきしゅうあん)で求めた「百花譜(ひゃっかふ)」という菓子を持ち、そわそわと車に乗り込んだ。

カーナビゲーションに住所を登録する。

風景は朝岐の住む場所と、ほとんど変わらない。人口の密集しているところがあるかと思えば、見渡す限り畑が続く。江戸時代が終焉(しゅうえん)し、生きる場所を求めて武士達が移り住み、農業で生計を立てた。時代と共に土地は売買され、細分化されていったのだ。

名を成し遂げていた農産物も、後継者不足で衰退の拍車をかける。

農道の舗装された道を、開けた田畑を延々眺めて進むと、川や用水路が一種の区画分けの役割をして、家々の集落が現れる。平地より土を盛り上げ、石垣を積み上げているのは、過去に起きた災害のためだ。

あちこちで見かける大きな木は、川の氾濫(はんらん)で流れる(あくた)をせき止めようとの考えからか。

カーナビゲーションが、右折してから右折して左折しろと命じ、ふっつり黙った。

(え、どこぉ。なにぃ)

朝岐は前のめりに周囲をうかがう。

鬱蒼(うっそうとした樹木で隔離された一画がある。朝岐はハンドルを回し半信半疑で進むと、ナビゲーションの言う通り、建物が見えた。

銅板屋根の色から、それなりの歳月を感じる。

隣家の家とは距離を置き、(かし)の木が堂々と枝葉を広げていた。竹林と(かえで)、暴風林代わりの木犀(もくせい)が訪問客を迎える。

(まさか、神社に入ってきたんじゃないよな)

ぐいんと緩やかな坂を上って車を降りると、さわさわと如月(きさらぎ)の風が鳴っていた。

朝岐は家を一目見て、気に入ってしまった。

床束(ゆかづか)は寺の本堂によく見られる作りで、子どもなら潜り込んで遊びそうだ。その分夏は涼しく、冬寒い。平地から高く土地を上げ、更に家の床も高く作る。水害を恐れていたことが良くわかる。

今ではとても高価で望めない漆喰(しっくい)の壁は、古民家ならではの魅力だ。

朝岐は、久しぶりにどきどきしながら、呼び鈴を押した。

「はーい」

引き戸を開けて、うら若い女性が顔を出した。訪問の理由を告げる。

「伺っております、どうぞお入りください」

(わお、土間だ)

足を踏み入れて、朝岐は思わず興奮した。

突き当りの勝手口まで広々とした土間が続き、キッチンが(しつら)えられている。

土間で料理は、長夜の憧れだった。外で使った道具は中に収納でき、泥付きの野菜を置いても、気にしなくて良い。農業を営む人々が、靴を脱がずに食事ができる、合理的な設計なのだ。朝岐家も農家を購入したが、土間は前任者が潰してしまっていた。金銭に余裕ができたら復元しようと話していたが、その前に長夜はこの世を去った。

朝岐は、縁台を上がってすぐの、居間へ通された。

招き入れてくれた女性が朝岐の前にお茶を置き、ストーブを点ける。絨毯(じゅうたん)にソファと洋風だが、内と外を隔てるのは(ふすま)と障子だ。

待たされるのかと思ったが、環はすぐにやって来た。

襖絵を背景に着物姿の環を見た時、ぱっと白梅が、匂いを立てて開くようだった。

環は慎ましやかに、朝岐の前に座った。

「黒沢環です。お話はしのぶさんから伺っています」

「はい。つい先日、師匠の琵琶を拝聴させて頂き、感動しました。僕も習い事をしたいと思っていたので是非」

朝岐は見惚(みと)れながら答えた。

環は黙って頷いた。

「あの、不躾(ぶしつけ)ですが、師匠はお幾でいらっしゃるのですか?」

「十五です」

「じゅーご」

朝岐は驚きの声を上げた。

環ははにかんだ。年齢を聞かれ、答える度に異口同音の反応をされるのだろう。朝岐は恥じ入った。芸術に年齢は愚問だ。

ほどなく環の背後から「壇ノ浦」の波が押し寄せて、朝岐は目を(しばたた)いた。

これが圧というものか。


月に二度、黒沢邸で三味線と琵琶を習い始めた朝岐は、暇さえあれば稽古に打ち込んだ。琵琶は買えないので、借りている。

「おや、優雅に三味線を始めたんですか、先生」

「ああ、安藤さん。どうだい粋だろう」

「まあね。でも自慢しちゃあねぇ」

近所の農家の安藤さんは、寒そうに肩をすくめた。

「そっちは()ったらしいね」

「お、先生に食って貰おうと思って、カブ持って来たさ」

「美味いしそうだこりゃ。カブのそぼろあんかけにしようかな。何時もご馳走(ちそう)様」

「いやぁ、先生も奇特な人だって、皆言ってるよ。農家買ったら咲子さんまで付いて来て、それを追い出しもせず仲良く暮らしてるんだから」

農家の良さは縁側だ。外とも中ともつかない曖昧(あいまい)な境界が、無理なく近所づきあいを助けてくれる。

いずこの飼い猫も野良猫も、堂々と寝ているし。

「安藤さん、白状しなよ」

朝岐は三味線を爪弾(つまび)きながら、安藤さんを見据えた。

「あっ、へっへっ。実はね、うちのかみさんの妹が今年二十七になるんだが、不気味な夢を見たって言うさ」

「ほう、どんな」

「妹が夢の中で枯葉を集めて焚火(たきび)をしていたんだと。風もないし、良いお天気で、ぼんやり火に当たりながら鳥の声を聞いたりして。そしたら突然風が吹いて、焚火の火が妹の服に移って燃えてしまったって。だもんで、かみさんが心配するんだよ、近々妹の身に不吉なことでも起きるんじゃないかって。まだ嫁にも行ってないからさぁ」

朝岐は彼の顔を見ていたが、(こら)えきれずにぷっと吹き出し、笑い出した。

「先生、何がそんなに可笑しいよ」

安藤さんは、人の良い八の字眉毛を更に下げ、真剣な顔を向けている。

朝岐は目に涙を()めて安藤さんを見返した。透明なオレンジ色の魂だ。生命力に溢れている。

「安藤さん、奥さんの妹さんが見た夢は心配いらない。新しい門出だ。全て順調に運ぶよ」

夢の意味を知って、安藤さんは笑顔になった。

心理士の夢分析が無用な相手には、難しいことはいらない。

火は、浄化の象徴である。時に恐ろしい事態を招きはするが、過去に外傷体験、就寝前に火災の映像を見た、という分けでもない限り、多くの人には概ね良好な印象が刷り込まれている。

妹さんは、今までの自分から脱却し、新しい道に踏み出そうと決意したのだ。

(報酬は野菜だ)

つるんと丸いカブが、光っている。

なぁんだと言って、安藤さんは帰って行った。

再び三味線を手に取る。如月(きさらぎ)の陽射しが一番良い。

冬と春の狭間はざまで風の止まる瞬間、冬の痛手が胸を貫く。この未練が良いのだ。

どうせ春に()られる…その負け方が名残惜しいのだ。

(師匠は一体どんな夢を見るのだろう)

環の口調は柔らかく、丁寧で辛抱強いが、時折垣間見える墨のような印象は、臨床心理士の興味を惹く。

(師匠の夢の中に、是非行ってみたい)

冬を背中に背負った三毛猫が、こちらを振り向いて立ち止まった。

「なんだ、お前も太陽の火玉になりたいのか」

朝岐は微笑みながら三毛猫に問うた。

彼女は「ふん!」と首を戻すと、冬の(わだかま)やぶの中へ立ち去って行った。

冬そのもののように、足音も立てずに。


春は桜だ。永岡の夏野川(かのがわ)に桜の並木が続いている。毎年朝岐達は、花見の宴会をここで開いていた。

やっと習い覚えた「松の緑」を得意気に披露して、拍手喝采かっさい、振る舞い酒だ。

朝岐は、安藤さんや近所の人達とほろ酔いに春を楽しむ。

「先生、この間の妹の夢」

と安藤さんが顔を染め、ふふふと笑った。

「結婚が決まりました」

「ほうぅ。それは勇敢です」

朝岐は安藤さんと乾杯だ。

道に張り巡らされた提灯(ちょうちん)が、浮かれ気分を盛り上げる。

「ふう、酔った酔った」

朝岐は、尚も盛り上がる宴席を抜けて、酔い覚ましに独り、桜の下へ(たたず)んだ。

星は見えない。春はいつでも(おぼろ)な月だ。

土手下の連中は、桜も見ずに笑い声を立てて、日頃の労働を忘れる。

(春はこれでいい)

雨も降らない春の夜は、車の桜見物で渋滞して、時折クラクションが鳴り響いた。

平日なら、夜でも軽快に走り抜けられる。桜のトンネルを期待したドライバーは、やっと今夜が金曜だと思い出したろう。

老いも若きも、やはり桜なのである。

混雑した車道を、黒い外国車がしずしず進んで来た。威張った風でもなく、流れに従って桜を楽しんでいる。

「朝岐さん」

声をかけられ、慌てて振り向く。

黒い外国車のパワーウィンドウが開き、環が頭を下げた。

「あらら、師匠。今夜は良いご身分で」

「朝岐さんも、楽しそうですね」

車の陰影から環が光のように零れ出し、急に酔いが回る。

「そんなんに、見えますか?おーっとっと」

朝岐の姿が環の前から忽然(こつぜん)と消えた。地面の凸凹(でこぼこ)(つまず)いて、そのまま下へ転がり落ちてしまったのだ。

朝岐という大風がどどぉっと吹いて、桜は盛大に舞い散った。

「落ちたよ!」

「せんせぇ、だいじょうぶ?ったくこれだよ毎年毎年」

人々が彼を囲み、生きているのか死んでいるのか覗き込む。

心配した環が車を降りようとして、制された。

「社長が待っておられます」

と、見吉の秘書が低い声で(ささや)いた。

「お弟子さんなんです」

秘書は黙ってパワーウィンドウを閉め、運転手に先を急がせた。

桜の並木を越えた所に、眺めの良い松風楼(しょうふうろう)が建っている。今夜はそこに宿をとっているのだ。

環は、着物の襟を直した。

車は松風楼に入る。

「朝岐?ああ、夢見の先生か。華岡で一度会った。その人がどうかしたかい」

「ええ。環さんが親しげに声をかけられたので、どなたかと思いまして」

見吉は朝岐の顔を思い浮かべた。男の目から見てもなかなか女好きのする顔である。

(確かに、若い環には気安く映るな)

待ち兼ねた環の到着を自ら出迎えた見吉は、藤納戸(ふじなんど)の着物に黒の羽織姿を見て、思わず心を打たれた。

松風楼の従業員も手を止めた。

彼がもし、花見客でごった返す車道に降りたら、夜の桜か黒沢環か、人々は目のやり場に困るだろう。見慣れている見吉さえ、魂を奪われてしまうのだから。

「夢見の先生をここへお呼びしよう。面白い夢の話を聞こうじゃないか」

と言うと、秘書は頷いて車へ引き返して行った。

土手から転がり落ちたお陰で朝岐の酔いも()め、話興じていると、この場にそぐわぬ背広の男が肩を叩いた。

「あ?何でしょう」

「朝岐さんですね。私と一緒に松風楼へお出で願えませんか。見吉の使いで参りました」

無表情で言う。

見吉、と聞いてしのぶの言葉が蘇る。

『見吉さんご自慢の環ちゃん』

朝岐は頷いた。

「ちょっと行くところができた。お(いとま)するよ」

「せんせぇ、お座敷かかっちゃったのぉ?」

「猫じゃ猫じゃはぁ?」

素朴な人々はやんやと声をかける。

「売れっ子だからねぇ」

朝岐は冗談を飛ばしながら、三味線を(かか)えて背広男の車に乗り込んだ。


背広男が襖を開けると、環と見吉が(そろ)っていた。

「今晩は」

頭を下げる。

「先達ては『華岡』で。花見にいらっしゃっていると伺ったものでね、環から」

「それはどうも」

席が設けられ、新たに酒肴(しゅこう)が運ばれてくる。

「他意はありませんよ、朝岐先生。我々も羽目を外して騒ぎたいのだが、何分静岡には親しい友人もなくて、こうして飲み仲間を探してしまったというわけです。お付き合い頂けますか」

見吉の言い方には、朝岐の辞退を含んでいなかった。

(仕方ないなぁ、金持ちは)

苦笑しながら、目はしっかり環を拝んでいた。

朝岐は、用意された席に着き、見吉の勧める杯を受けていた。環は食事を済ませたようだ。

脇の卓子に置かれた空の器を、酒肴を持ってやって来た仲居の女性が下ろしていく。

「これを機に、ぜひ静岡の友人になってください。さあどうぞどうぞ」

「ああ、どうも」

前の酒の酔いがめると、次には「ざる」に変身してしまうのが朝岐だ。

見吉はかなりの男前である。古い言葉で言えば「ニヒル」という奴だ。

「朝岐先生は、環のお弟子さんですってね」

「はい」

環は先生と聞いて怪訝けげんな顔をしている。三味線と琵琶を習い始めてかれこれふた月以上は経とうと言うのに、朝岐の職業について尋ねる機会はなかった。

「夢見の先生だって、こちら。知らなかったのかい?」

「夢見?何でしょうかそれは」

環は朝岐を不思議そうに眺めた。

「臨床心理士ですよ、師匠。心理カウンセラーが主な仕事で、夢分析はその一助いちじょです」

環は、分かったような分からないような顔である。

「折角久しぶりに会ったんだ、三味線を聴かせてくれ。やっぱり桜の夜は、環の演奏に限る」

環はさっそく三味線を取り出した。

~げに豊かなる()ノ(の)(もと)の、橋のたもとの初霞(はつがすみ)、江戸紫の(あけぼの)()めや、水上(みなかみ)白き雪の富士、雲の袖なる花の波、目許(めもと)(うるわ)御所桜(ごしょざくら)

環は「吾妻(あづま)八景(はっけい)」から「連獅子(れんじし)」「花の友」と演奏し、朝岐と見吉を楽しませた。

酒がついついすすむ。

「いつ聴いてもいい。環の外見からこの声は、ちょっと意外でしょう」

朝岐は溜め息を()き、頷いた。

(紫の、ビロードのようだ。女声とも男声ともつかない)

「さあ、今度は先生が芸を披露(ひろう)する番です」

「いやぁ、僕は師匠から習い覚えた「松の緑」しか…」

「夢ですよ、先生」

見吉は気迫のこもった声で言った。

「そう、ですね」

卓上の銚子と酒肴(しゅこうに目が泳ぐ。ただというわけにはいくまい。自分の前の綺麗な皿を(うら)めしく眺めた。

「では、夢をお話ください」

懐からメモ帳を取り出し、日付と夢主の名を記す。

見吉は一つ咳払(せきばら)いをした。

「友人が集まって、わいわい話をしているんです。そうだな、会社の人間も来ていたっけ。私は浴衣なんか着てくつろいでいました。ふいに名前を呼ばれて、病院のストレッチャーに乗って、手術室に連れて行かれたんです。不安でした。友人や、環のことを考えたりして。麻酔を打たれて、気を失ったことになっているんですが、意識は起きている」

見吉の話に環もじっと耳を傾けている。

「私はおもむろに腹を切られました。そうか、腹が悪かったのかと観察していました。そこで目が覚めました。普段は起きてから夢なんて忘れてしまうが、妙に生々しく覚えているんで気になって。先生どうでしょう。私の夢は悪い夢でしょうか」

朝岐は素早く夢の話を書き込む。ご馳走の礼はせねばなるまい。

「夢と言うのは、全てが自分自身なんです。登場人物を含めて」

話を始めると、環は興味深げだ。

「見吉さんは、仕事の上で新しいことに挑戦されようとしているが、心のどこかに不安が潜んでいるのです。腹部はよく気持ちが溜まる場所、に表現されていますね。腹に一物とか、腹黒いとか、腹が立つとか」

見吉と環が軽く頷いているのを見ると、少し熱がこもる。

「不安を悪い物として、取り除きたいのです。麻酔を打たれたが意識がある、と仰った。見吉さんは無意識に、挑戦の覚悟があるか自問自答しているのです。実害がないのなら、是非挑戦してみてください」

見吉はほうっと大きな感嘆の声をあげ、満面の笑みになった。

環にも笑みが浮かんでいた。

「自分で自分の不安を取り除く…知らないままだったら、悪いことでも起きるのかと逆に悩んだかもしれない。いやぁ、有難う先生。勇気が湧きました」

満足頂けて何よりだ、と朝岐はほっと胸をなでおろす。

「そうか、麻酔を打つ人間も自分、手術をするのも自分、ということなんだな」

見吉は声を出して笑った。

環が三味線でおどけた音を出して、更に笑わせた。

「じゃぁ先生、何故人は空を飛ぶ夢を見るんですか?」

誰でも一度は見たことのある夢だ。朝岐は、杯を置いた。

「一説によれば言語の獲得が「飛ぶ夢」を見せていると言われています。何物なのかわからない生き物から、人間にステップアップした、ということです」

見吉はへぇぇと呟いた。

「言語の獲得、ね」

いつの間にか言葉を覚え、難なく会話していることが、深層意識下で「飛ぶ」ことに変換されるとは、思いもよらなかったのだろう。

「空を飛ぶ夢は地に足がついていないので、真面目な神秘主義の人が見ることが多く、自分の才能や精神性を理解してもらえず、孤独感にさいなまれ、この世に居ることが()せない状態にある、と分析する人もいます」

環も黙って聞いていた。

「後者の場合、どう助言されるんですか」

見吉は興味津々(きょうみしんしん)だ。

「人それぞれ違うので答えはありませんが、思いの丈を語って貰います。「友、遠方(えんぽう)より(きた)る」の心情です」

見吉は、朝岐の盃に酒を注いだ。

自分の才能を理解し、応援してくれる人は、共に学んだ学友、あるいは故郷の人々だ。才能を発揮しようと都会で就職したが、能力はなかなか認められない。苦悩の内に日々を過ごしていると、遠方から酒をたずさえ友がやって来る…。理解者の存在は、精神の安定に欠かせない。

見吉は、成程そうかもしれないね、と頷いた。

「ところで、華岡のしのぶさんから、先生は夢を違える力がおありだと聞きました。夢を違えるとは一体、どういうことですか」

不意を突かれ、朝岐は苦笑した。経済に余裕のある見吉に、しのぶが営業してくれたのだろう。ならば、彼女の気持ちを無駄にはできまい。

「簡単にご説明すれば、依頼主の持ち物と私の夢枕を交換して、依頼主の夢のストーリーを変更するのです」

「夢のストーリーを変更する」

見吉は少し間を置き、朝岐の言葉をなぞった。

「万物の意識は、最も深い底で一つにつながっているのです。そこから各々の夢に入ります。時折夢は、現実の世界に支障をきたすことがあるので、少しだけ介入するのです」

と、朝岐は簡単に説明した。

特異な現象を自分で命名している専門用語、例えば「夢霊むりょう」などと言っても、混乱させるだけだ。

見吉は疑いもなく、感心しきりの様子である。

「環はどう?せっかくだから、気になる夢があったら聞いて頂いたら」

と、振り返った。

「ああ、どうぞ師匠。若い人ほど夢を見るんです。同じ夢を繰り返し見るとか、怖い夢とか」

朝岐は好奇心を抑えて尋ねた。

環の視線がさっと落ちる。

墨と紫の魂がぱっと発光し、(しゅん)と鳴りを(ひそ)めた。

抜き差しならない夢を見ている。

朝岐は見逃さなかった。

環は黙って、三味線を置いた。

失礼いたします、と水物を持った仲居さんが現れなければ、夢を語っただろうか。

「おや、これは美味しそうだ」

見吉が、みずみずしい果物を眺めて言った。

「江間のイチゴと、袋井(ふくろい)のクラウンメロンです」

話題は、見事なイチゴとメロンの盛り合わせに、さらわれてしまった。

忘れ得ぬ春の夕餉(ゆうげ)の、一幕である。


3

稽古をする以外、環に会う名目がない。

実を言えば、琵琶については当初、丁重に断られていた。まだ自分自身も勉強中であり、人に教えられる力はない、と言うのだ。

楽器として琵琶を使い、自分の曲を演奏するのは別らしい。

朝岐は食い下がって、平家正節(へいけまぶし)一之上「紅葉」の中音「上日」と、七之上「我身栄華(わがみのえいが)」の中音「桜」を習うことになった。

琵琶を一時間、三味線を一時間の稽古である。琵琶は、環が稽古用を貸してくれる。

~チンチントチンチトチチンテン…つくばねの、すがたすずしき、なつごろも…~

新しい『岸の柳』を稽古しながら、ひと時の至福を楽しむ。

黒光りした床板、端から端の(ふすま)欄間(らんま)、明るくも暗くもない空間が身を引き締める。

環の助言が気持ち良く響き渡り、真剣に格闘する。

生まれて初めて琵琶を鳴らした時、恐ろしさに身が震えた。ただビンっと弦を弾いただけの一音が、朝岐の下世話を組み伏せたのだ。

私を鳴らすなら、高潔であらねばならない、真摯(しんし)であらねばならない、と琵琶は言う。

楽器が、触れる者、奏でる者を選ぶのだ。

朝岐は、恥ずかしさで一杯になった。

「師匠、今月の御月謝です」

懐から月謝袋を取り出すと、弟子の立場を思い知る。

「お稽古は終わりました?居間にお茶をご用意しました」

稽古場の襖がすっと開いて、明るい声が飛び込んできた。

彼女は、華岡亭の女将宮来(みやこ)弟友来(ゆうき)の三人娘で、長女の深園(みその)といった。環より四歳年上だ。

初めて訪問した日、朝岐を迎え入れてくれたのが彼女だった。

環が薔薇木へ越してから転がり込んだらしく、高校生の次女友呼(ゆうこ)と中学生の三女園来(そのこ)まで週末に押しかけて来るのだと、度々(たびたび)お茶を飲みながら話してくれた。

朝岐とはすっかり茶飲み友達だ。

彼女の話によれば、環は従姉弟いとこの様なものらしい。

朝岐は、彼女達と環、華岡亭の女将との関係がさっぱりだった。

「環ちゃん、時間は大丈夫?出かけるんじゃなかった?」

深園が声をかける。

環は頷き、立ち上がった。

「朝岐さん、ごゆっくり」

朝岐は「お出かけですか」と尋ねる。

「ええ」

「お送りしましょうか」

「大丈夫です。深園ちゃん、後いい?」

「いいよ。いってらっしゃい」

深園はソファに座ったまま、体をねじって答えた。

環がいなくなると、張り詰めた空気が溶けて、朝岐はつい疑問を口にした。

「以前、師匠とは従姉弟のようなもの、って言ってたけど、本当の従姉弟じゃないってことだよね」

「うん。でも小さい頃から一緒に遊んでた。妹たちのおままごとに辛抱強く付き合ってくれたり、勉強をみてくれたり。華岡の宮来おばさんは父の姉だから私の伯母になるけれど、環ちゃんは里子なの」

と深園は言った。

「里子」とは、またデリケートな問題だ。

(ん?じゃあ、見吉さんとの関係は?)

しのぶが言った、『自慢の環ちゃん』が引っかかる。

「深園ちゃんは、見吉さんって知ってる?」

「うん。見吉さんは環ちゃんの後見人なの。私も詳しいことは分からないけど、伯母さん夫婦が環ちゃんの里親で、環ちゃんが七歳くらいの時、伯父さん(伯母さんの旦那さん)が事故で亡くなった後、見吉さんが週末ごとに華岡に様子を見に来てたよ。見吉さんは環ちゃんの叔父さんになるのね。この家も、環ちゃん名義で見吉さんが買ったみたい」

「叔父?」

「そう。見吉さんのお兄さんが、環ちゃんの実のお父さんってことらしいけど。写真見る?」

彼女は軽やかに部屋を出ていくと、一分も経たずに戻って来た。

「見て」

赤い野点傘(のだてがさ)の下、蘇芳(すおう)色の毛氈(もうせん)を敷いた茶席に、三人の着物姿の女の子と環が座っていた。後ろには、見吉と見知らぬ一人の男性が写っている。

「凄く… 可愛い。華岡亭のすみれの部屋の前だね」

「そう。私が九歳で、友呼(ゆうこ)が六歳、園来(そのこ)が四歳だから、環ちゃんは五歳ね」

深園が指で示す。

「友呼ちゃんと師匠の、七五三のお祝いかな。本当の、従姉弟同士って感じだね。とても美しい」

五歳の環はすでに、愁いを帯びていた。口元に笑みを浮かべているが、顔の奥に隠れた魂の本質は、初めて見た時の衝撃と同じだった。

蕭蕭(しょうしょう)とした琵琶の楽曲、年相応の(うわ)つきもない環の一部分は、複雑な環境に起因することがわずかに知れた。

「この人が、実の父親らしいの。一度だけ見吉さんが連れてきたんですって」

見吉とは似ていない。環の父親らしき男は、紋付き袴の環の後ろで、複雑な表情を浮かべていた。

「暗い感じの、二枚目よね」

深園が言う。

「環ちゃんは子どもの頃から、掴めないって言うか、消えちゃいそうな…感じだった。私たちが可笑しくて笑っていても、環ちゃんは微笑むだけ。普通よって、伯母さんは言ってたけど」

朝岐は頷いた。

実の親、実の兄弟姉妹の中で育っても、幸せとは限らない。

兄と妹の間に挟まれた朝岐は、常に家族と見えない距離を感じていた。両親は共に公務員で、一つ方向のみを見ている人達だった。兄と妹が親の関心だ。生きている空間が違う、感性が違う。いがみ合っていたわけではないが、自分が兄の保険という感覚を払拭(ふっしょく)できなかった。

一方、熱海で一人暮らしをする母方の伯母とは気が合った。彼女は祖父母の家を処分して相続税を払った後、洋風な三階建てのビルを買い、一階をブティックと喫茶店、二階を英会話教室と歯科医院に貸し、自分は三階に居住しながら、日本舞踊を教えていた。東海道線に乗れば、藤沢と熱海は目と鼻の先だ。子どもの頃から一人で遊びに訪れ、伯母の教える日本舞踊を眺めていた。長い休みはほぼ、熱海で暮らした。

伯母は、夕食時にさもない過去の話を面白おかしく話して聞かせ、二人で笑い転げたものだ。

「人間って、不思議なものでね、親に愛されなくても、誰かが、必ず愛してくれるものなんだよ。それで充分だよ」

伯母は、一人で訪ねて来る朝岐の孤独を知ってか知らずか、いつも快く迎え入れてくれた。

わざわざ静岡の高校を受験して、伯母の家に下宿したのも自然の成り行きだった。彼女は将来を心配し、朝岐にビルを生前贈与して、贈与税も払ってくれた。お陰で維持費や固定資産税はかかるものの、伯母の死後、多少の安定した収入もあって、何とかやりくりしている。

場所柄、日本舞踊を習いに来るお弟子さん達の中には、芸者を生業(なりわい)とする女性も複数いた。

長夜(ながよ)はその中の一人だったのだ。五歳年上の彼女は、朝岐が高校一年の時には、すでに売れっ子の芸者だった。

彼女は、恋多き女、ではなく、稽古の後喫茶店で一人、静かに読書する女性だった。羽振りの良い男相手に媚びを売る、と世間は思うかもしれないが、芸者は職業だ。サラリーマンと変わりはしない。

朝岐が熱海から静岡の大学へ通い始めた頃、長夜とは既に結婚するつもりで付き合っていた。

孤独は、奇妙な夢の能力を発揮する力になり、家族の無関心が、自分を解放する結果になった。

環の複雑な環境が、才能を開花させる(かて)なら、幸いだ。

「環ちゃんが心配。時々、いなくなっちゃうんじゃないかって」

と、深園は声を詰まらせた。

朝岐は黙って頷いた。


朝岐の日常は、大学、専門学校の講師と心理カウンセリング、研究に費やされている。

毎日大学の講義内容を吟味し、世界の新しい見解を読み漁り、相談者の悩みを聞かなくてはならない。

稽古から一週間後、朝岐は心理学の研究会で大瀬崎(おせざき)に赴いた。

毎年東京、神奈川、静岡、愛知、山梨などから有志が集まる。

大瀬崎は、別名琵琶島と呼ばれる、駿河湾に約一キロ突き出した半島で、ビャクシン樹林の群生は国の天然記念物だ。先端の神池(かみいけ)は、海から間近にあるにもかかわらず淡水で、伊豆七不思議の一つに数えられていた。神池の魚を獲るとばちがあたる、という注意看板があるのも面白い。やや観光の向きもあるが、研究会に参加する中で多少の楽しみを含むのは致し方ない。

研究会と銘打ってはいても、仕事上の愚痴を言い合うのが大半だ。心理カウンセラーと名乗っているが、自分の問題を解決したいがために、心理学を専攻した者が少なくない。

午前中は、地方からの有志が宿泊するホテルで、指定した状況下での相談者と心理士のロールプレイングなどを行った。その後、女性五人、男性五人の一行は、予約していた昼食会場の個室に吸い込まれ、ほっと一息吐いた。しばし魚介類に舌鼓を打ったが、席の近い同士でぽつぽつと話が始まった。

「老人を介護するうえで、介護者がとるべき態度だの、言動だののマニュアルがあるじゃない」

と、神奈川から参加の伊藤凛(りん先生が周囲の顔を見回した。

皆は軽く頷く。

「私も当初、それが正しいことだと思って、母の介護をやる上で必死に我慢してたの。湧き上がる感情をコントロールできないなら、心理士を名乗る資格もないと思うくらい」

皆、何気に(はし)を止めていた。親の介護は、近い将来身に振りかかる問題だ。

「今まで同じ悩みを抱えた相談者さん達に私がしてきた助言は、介護する側の体調を優先すること、息抜きする時間を持つこと、共感できる仲間を作るってことくらい」

「当事者になったら、違ったって分けね」

愛知から参加の田中勝枝先生が、合いの手を入れた。

「そう。親の介護は、自分に潜む悪との対面だったわけ」

気づくと、ほぼ全員が彼女の話に耳を傾けていた。

「私は母の言うこと、やること、匂いまで、腹が立つのよ。抑制どころかかっとして、いじめっ子になってしまう」

伊藤凛先生は、自分がぶつけた言葉を思い返しているようだった。

「それで、どうしたんですか」

田中勝枝先生は特に興味を示した。察するに、彼女も同じ問題を抱えているのかもしれない。

「怒りを抑えないことにしたの、もう」

「怒りをぶつける?」

「そう」

と、伊藤凛先生はあっさり言った。

「大事なのは自分だって思った。母はもうすぐ死ぬのよね。私にはまだ生きる時間がある。優先されるべきは、少しでも若い方よ。だから、思いっきり怒りをぶつけるの。(はた)から見たら(ひど)い娘。でも、言われた本人はその時気分を害するけど、三秒後には忘れてしまう相手なのよ。他の高齢者にぶつけている分けじゃないしね」

「あ、成程」

浜松から参加していた佐藤夫妻の美代子先生が頷いた。

「怒りをぶつけるって、例えば」

田中勝枝先生がせっつく。

「私と口喧嘩した母が、もう死んじゃいたいって言うから、何時死ぬの、今日の夜?明日の朝?なんてね」

「あらら、確かに怖いね。第三者の居る前ではできないね」

吉行龍之介先生も箸を置いている。

「子どもの頃、酷い言葉で叱られた記憶が、フラッシュバックして来る。だから母にはっきり言ってやった。酷い言葉で子どもを叱ったら、老いて立場が逆転すると、同じ言葉を子どもからぶつけられるんだよって。それもあなた自身の所業の結果なんだから、心して受け止めてあの世に旅立ちなさいって。それが親と子の清算だよってね」

伊藤凛先生は、やや顔を赤らめた。

「おっと、危ない。(うち)はまだ子どもが幼いから、かける言葉に気を付けなくっちゃ」

朝岐とほぼ同年代の鈴木正彦先生が呟くと、皆が少し笑った。

「立派なPTSD(心的外傷)だね、親との確執(かくしつ)は。どこかで吐き出すべきだよね。処方箋(しょほうせん)はないからね。親の死と共に、親への不満を消して行くわけだね」

最も年長の清水治先生は、終わってしまったらしい親の介護を思い返している様子だった。

伊藤凛先生は、自分の意見を真っ向から非難される覚悟で話しても、(とが)める者が誰もいないことに安堵(あんど)していた。

「私が嫌なら他の子どもに面倒見て貰ったらって言ったら、それは嫌だって言うんだからほんと、笑うしかないの」

「思春期の頃、親に迷惑をかけたと思っている人の方が、老親の面倒見はいいかもね。子どもの頃から言いたいことを言って、親とやりあった方が良いようだね」

清水治先生が、ぼそりと言った。

「私は同じような悩みを持つ相談者さんに、幼少時から覚えている限りの(いきどお)り、不条理を吐き出して貰ってる。思い出して、本気で怒って、笑って帰るの」

伊藤凛先生は、自分の体験を元に、仕事に生かしているようだ。

朝岐は、高校進学で伯母の家に居候してから一度も帰らず、大学進学、結婚、父親になった。帰省したのは五年前、父の葬儀に出席した時だった。十二年振りのことだ。涙の一つも出なかった。

「親との確執と言えば」

と、田中勝枝先生が口を開いた。

「中学一年の女の子が、ご飯を食べなくなった事例なんだけど」

ほう、と皆田中勝枝先生に注目する。

「父親にありがちだけど、『誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ』を、思春期の女の子に言い放ったのよ。何気ない会話の中で、ちょっとした意見の食い違いが生じたのね。それが父親には口答えに映ったらしいの。妻子を支配したいタイプの男性。女の子は姉妹の妹という環境」

親が子に、言っちゃいけない言葉だよね、などとひとしきりざわついた。

「彼女は、父親に言われたその日から、一切ご飯を食べなくなったの。学校の給食も含めて」

朝岐は、ちょっと天晴(あっぱれ)だな、とこっそり思った。

「一日二日は、子どもが不貞腐(ふてくさ)れているだけだと流していたのが、四日、五日…。さすがに母親が慌てだして、とうとう一週間。結局救急車で運ばれたんだけれど、病院でも栄養剤の点滴を拒否。病院からご指名で私が召喚(しょうかん)されたという分けよ」

欲望のまま海の幸に舌鼓を打っていた一同は、空になり果てた目の前の器を盗み見した。

少女はもともと、父親の思想や言論に反感を抱いていたのだろう。父親の言葉は、少女が爆発するきっかけに過ぎなかった。

「彼女は、『お父さんは、私がいらないんだ』って、話してくれたの。次女は父親にとっていらない存在だ、自分は父親の期待を裏切って女に生まれた。だから別にいなくてもいい、死んでも別に平気だ。悲しまないって」

「先生はどうされたんですか」

「未成年だし親御さんにも要因があると思ったから、了承を得て彼女の考えていることを話したの。父親はショックを受けていた。彼女は幼少期から父親の本心に気づいていて、顔も見たくないとはっきり言ったの。父親の、息子が欲しかったのにまた娘だったっていう、心の声がしっかり届いていたのね」

心理学では、声に出す言葉と、心の声が語られる。心の声はすぐ悟られる。

「対処としてはどのような」

佐藤美代子先生が尋ねる。

「受け入れてくれる専門施設を探して、彼女は他県に移った。ちゃんとご飯を食べていると報告を受けているから、生命の危機は回避できたかな」

「子どもが突きつける、親への「出題」だよね。解答を間違えれば一生、子どもからの尊敬は得られない」

と、清水治先生が言った。

「またやるかも。彼女は、死ぬことなどなんとも思っていないのよ」

田中勝枝先生は一同を見渡した。

「男の子の自殺願望と、女の子の自殺願望はちょっと違うからね。女の子は特に難しい。例え環境的な問題があったとしても、死のうと決めちゃった女の子の心を替えるのは、至難の業だよね」

清水治先生は、溜息を吐いた。

朝岐を含め、親の立場の先生達は、一斉に顔を見合わせた。

「先の施設から近況は聞いてるけど、近々会いに行こうと思ってるの」

田中勝枝先生は、今後も少女の経過を見守るようだ。

相談は一人一人重い。命ある限り、相談者との関係は切れない。回復しかかった相談者が、ふいに自殺してしまうこともある。常に心配な事案を抱え、心から休まることは無いのだ。

「自殺願望、か」

ふっと息を吐いて、吉行龍之介先生が呟いた。

「僕はね、思春期の少女に自殺された両親の相談に乗ったんだ。初め両親は、学校でいじめがあったのではないか、と疑って学校に調査を依頼したんだが、これという証拠はなかったそうだ。父親は特に少女に対して、自分の考えを押し付けることもなく、母親も同様に、好きな道へ進めばよいと娘に語っていたらしい。四人姉妹で、三番目。きょうだい仲はごく普通で、自殺される要素が思い当たらず悩んでいた。母親が誕生日のプレゼントは何が良いか話しかけているのに、晴れた空をぼんやり眺めながら、「大人になりたくない」と言ったそうなんだ。彼女は、十五歳の誕生日を迎える筈だった」

と、吉行龍之介先生は腕を組んだ。

「私、なんだか分かる、その女の子の気持ち」

植野京子先生は、飲んでいたお茶を静かにテーブルへ戻して言った。

「大人になるってことは、セックス抜きに考えられない。少年にとってセックスは、冒険のようなものかもしれないけれど、女性にとってそれは、恐怖なんですよ。高校生にもなれば、否でも肉体が他人の男の目に、セックスの対象として映る。潔癖で真面目な少女には耐えがたいことです。ご両親や周囲の環境が、女性は将来結婚して、子どもを産むのが当たり前、という価値観を持っていると、「大人になる」未来が、真っ暗なトンネルに入って行くように思えるでしょう」

植野京子先生は、男性達を見まわした。

「だから、少女たちは乱暴な言葉を使って話すのよね。近づかないでくれ、私たちはあんたたちのセックスの対象じゃない、ってサインよね」

田中勝枝先生が同調した。

「男性は女性を恐れないけど、女性はいつも男性を警戒しながら生きている、そこが決定的に違います。こう言うと、女性だって怖いよなんて笑う男性がいるけど、女性が怖いと思う次元は、殺されるかも、と思う怖さなんです」

植野京子先生は、再びお茶を手に取った。

「バツが悪いなぁ」

吉行龍之介先生が頭を掻いた。

「そうだね。私達は前方から女性が複数人歩いて来たって、怖いとは思わない。この年になると私でも、夜の繁華街で前方から若い男性が複数人歩いて来たら、緊張する。女性は常に恐怖に晒されている。真昼間でも、周囲に誰もいなければ怖い。男は敷居を跨げば七人の敵がいるなんて言うけど、女性はすべてが敵だ。時に命に係わる」

吉行龍之介先生は、腕を組んで言った。

女性の先生達は、女性だったから死にたい、という気持ちは理解できる、と盛り上がった。

「少子化は、子どもを産まない女が悪いと言われ、子どもが命を落とせば母親が悪いと言われ、素行の悪い子どもは母親のせい、障害も母親のせい。果ては夫の両親の介護をしろ、自分の両親の介護をしろ、夫の世話をしろ、子どもの世話をしろ、女も外に出て働け、だが家のことも手を抜くな、地域の仕事に参加しろ。職場でも、女の上司は疎んぜられ、ミスすればこれだから女はと責められる。妊娠すれば迷惑だ、子どものことや親のことで休めば、役立たずと罵られ、その上女なんだから、という仕事を押し付けられて、経歴が長いと悪口まで言われる。具合が悪くて寝ていても、夫に心配されることもなく「俺の飯は」よ。私も何度か命を放棄したくなった。私も仕事して同程度稼いでいるのに、外の仕事が終わると今度は家に出勤。早く死んじゃいたい」

と、伊藤凛先生が言った。

「だから私は、「女性達よ、さっさと死のう」って、心の中で唱えちゃうことあるもん。女性蔑視の政策をする国があるでしょ。それ見ると、その国の女性はみ~んな、失踪してしまえって思うし、二人目の男の子を生んだら殺してしまえって思うのよ。過激だけど、女性の関与なしで生まれてきたような顔をしている男には、反吐が出ちゃう。お前もおむつして、ママのおっぱい吸ってたんだよ坊主って、言いたい。私離婚するなら、子どもは置いて行く。女一人なら、快適に暮らせる。男ばかり楽するなんて、とんでもない」

「田中先生、恐ろしや」

ふふふっと、植野京子先生が笑った。

「女性は、女性である、という理由だけで死にたくなる、ということでしょうね。確かに男にはないかも。なのに男の方が自殺者多いんだよね」

と、清水治先生の一言に、女性陣はうんうんと深く頷いた。

「僕はただ黙ってひたすら、ご両親の話を聞くだけでした。子に自死された親の気持ち、自死した少女の心も共感できない。ひたすら気持ちを吐露して貰う意外ない。一生抱えて生きていくしか、ありません」

吉行龍之介先生は一同を見た。それしかないよね、という空気が流れる。

生きることにさっさと見切りを付けた少女は、正しいとも間違っているとも言えない。

生きるのが嫌になったからバイバイ、それもありかな、などと朝岐は密かに思った。

(おっと、臨床心理士としは、内緒内緒)

朝岐の口に笑みが零れた。


行きは風光明媚を楽しめるが、帰りは少々寂寞感(せきばくかん)に包まれる。漸く(ようや)沼津から永岡の標識を見つけ、肩から力が抜けた。

車の時計は午後六時をとうに過ぎ、人の流れもまばらだ。車のFMは、軽快なラモーを奏でていた。

信号で停車すると、朝岐の視線は、橋の欄干に手を掛け、川面にぼんやり視線を落とす人影に吸い寄せられた。

ぎくりと(ほぞ)が熱を失い、ハンドルを握る指先が冷たくなる。

(師匠)

環は、川風に細い体を(さら)し、川の流れを見つめていた。

羽織の(たもと)が、死肉を見つけた烏の羽のようにはためき、()げた頬をいっそう青く染めて、暮れ(なず)む橋の中ほどに立って、いる。

古びた写真に封じられた、永遠の若さを見るように、時が止まっていた。

朝岐は、肉体から少しずつ精気の抜けて行く(さま)に、見覚えがあった。

妻の長夜だ。

死の三月(みつき)前から徐々に心の塵芥(じんかい)が抜け、透明になっていく。幼い子どもを遺していく悲哀、夫への情を全うしきれない歯がゆさ、大小織り交ぜた夢の追求を中断する無念、を一切捨てて、優しい死神が鋭利な刃物で弥終(いやはて)を顔に彫り上げる。

一時たりとも目を離せぬ美の洗練が彼女を包み、月白(げっぱく)の空の、死の階段を昇るエネルギーが、ひたひたと溜まっていくのだ。

さながら、羽化(うか)を開始した(さなぎ)だった。

(から)を脱ぎ捨て、しなしなと濡れた羽が乾くと、長夜は最も愛した黎明(れいめい)に意気揚々(いきようよう)、飛翔して逝った。

この世での完成が死の間際であることに、朝岐は打ちのめされた。

欄干に手をかけ、透明度を増す環の横顔が、あの折の長夜を彷彿(ほうふつ)とさせる。

(駄目だ)

右脳が捉えた感覚を、左脳が咄嗟(とっさ)に変換する。

(羽化しちゃ駄目だ、師匠)

飛び込んでしまうのではと、一瞬頭をよぎった不吉な想像は、環の傍らに立てかけられた、一面の琵琶が打ち消した。

(琵琶を、置いてきぼりにする(はず)はない)

プッと鳴るクラクション。ざっと耳に流れ込む巷間(こうかん)のざわめきが朝岐を(うつつ)に呼び覚まし、慌ててアクセルを踏む。

左のバックミラーは、いつまでも(はかな)い肩を映していた。


4

家に戻ると、咲子さんがそわそわとした様子で朝岐を出迎えた。

「どうしたの咲子さん」

「それが」

と言い(よど)み、学校から電話があって、銀河が学校を休んだと言う。

まだ環の面影が(わだかま)った頭に、そうだ、自分は父親だった、と衝撃を食らう。

子どもへの接し方がいかに大事か、話を聞いたばかりだ。

「朝は普段通り朝食を摂ったし、ちゃんと出かけたの。電話を受けて部屋に行ってみたら」

部屋を覗くと、銀河はベッドに寝そべり、ドクトル先生を読んでいた。

咲子さんは問い詰めず、お昼を一緒に食べ、今も続きを読んでいる筈だ。

(ナイス、咲子さん)と思いながら朝岐は銀河の部屋を開け、

「どうした」

と、自分でも嫌になる程凡庸(ぼんよう)に尋ねた。

無断で学校を休んだことは悪いと認識しているようだ。のそりと起き上がる。

十歳の子どもの匂いが微かな空気の流れに乗って、夜が若返る。

「学校へ行きたくない時は、別に休んでもいいよ、銀ちゃん」

「そう言われると、逆に行かなきゃって思っちゃうじゃん」

へぇ、そんなものかな。朝岐は、銀河に宿る青々とした魂の色を見つめた。

「じゃ、試しに休んでみる」

銀河は思い切ったらしく、顔に赤みが差した。

「そうしな。学校には適当に言っとく」

「明日だけ?」

「う~ん、じゃ四~五日休むと言っておくよ」

「理由を聞かれたらどうするの」

「そうだな、瞑想(めいそう)(ふけ)っているため、四~五日お休みって」

朝岐の答えに、銀河はぱっと笑った。

「さあさあ、晩御飯だ」

朝岐は銀河を促し、微笑んだ。

網戸からするりと猫が入り込み、咲子さんが用意したご飯を食べ始める。

猫を眺めながら唐揚げをほうばる横顔は、長夜にそっくりだった。

仕事にかまけて銀河のことを(おろそ)かにしたら、あの世で彼女に合わせる顔がない。

当面の憂いがなくなった銀河は、一緒に風呂へ入ろうと誘うと、子猫のようについて来た。

二人で湯船に浸かる。

「ぼくさ、どこからも出られない夢を見るんだ」

「うん」

洞窟どうくつとか、教室とか。出口を探すんだけどなくって、『出られない!』って夢の中で叫ぶと、目が覚めるんだ」

「そうか」

朝岐は湯に浸かりながら銀河の夢を聞いていた。

彼は、持てる語彙(ごい)能力を総動員して、朝岐にぽつりぽつりと心情を語った。

四角い教室、黒板に向いた机、仲良しグループの壁、教室の中の立ち位置。

朝岐も体験してきた学校の風景が、銀河にはいたたまれぬ場所らしい。

「じゃ、その夢から出るか」

「え?」

朝岐は微笑んだ。

「今度同じ夢を見ても、ちゃんと出られるようにするよ」

と言うと、銀河は不思議そうに首を(かし)げた。

母親は四六時中母親だが、父親は断片にすぎない。そうだ、子どもがいた、と日常でふと発見する始末だ。

(銀河はまだ十歳なんだし、今年いっぱい休んだって大したことじゃない。まずは銀河の「夢」だ)

朝岐は久し振りに床を並べ、銀河と「り」の字になって眠った。

血の濃さ故か、すぐ銀河の末那識(まなしき)に入り、夢の現場に辿り着く。

真っ暗な空間に浮かんだ全面ガラス張りの部屋。中央に枝垂(しだ)れ桜の大木が、美しい花を咲かせている。

銀河は木の下で、所在無げに桜を見上げていた。

銀河にとってガラスの部屋は、出口の見えない胎内だ。

人は、百メートルの疾走より苦しい産道を通り、産まれるべきか死ぬべきかの選択を置き去りにする。

生物の本能のまま背中を押され、現世に落ちるのだ。

選択は、成長という刺激的な環境に沿って大きく膨らむ。

銀河は、息苦しい学校と自我の目覚めに挟まれ、右往左往しているのだ。

「銀ちゃん、おいで」

朝岐は、銀河に呼びかけた。

「お父さん」

銀河が嬉しそうに走って来た。

「枝垂れ桜が綺麗だね」

ガラス越しに言うと、銀河はうん、と頷いた。

「あれはね、お母さんの記憶の木だよ。お母さんの知恵が詰まっているんだ」

銀河は桜を振り返った。

暗闇に浮かぶ桜は、朝岐に呼応してさざめく。

「いい夢じゃないか、銀ちゃん」

と言ってガラスに触れる。ガラスは虹色の光を放ちながら、シャボンのようにぱあぁぁんっと弾け飛んだ。

「お父さん」

「銀ちゃん、お父さんの指先を見て」

銀河は真剣に指先を見つめた。

朝岐が自分の人差し指を高く掲げると、小さな光が灯る。

光は徐々に大きくなり、暗闇から一気に桜の園に変貌していった。

二人は草に座り、滝のように流れ落ちる枝垂れ桜の群生を眺めた。

(そういえば、長夜と身延山へ、枝垂れ桜を見に行ったっけ)

銀河の中に、長夜の記憶が確かに刻まれている。

「いいね」

「うん、いいね」

銀河が返すと、どんっ!と落ちて、朝岐は黄泉(よみ)がえった。

銀河は穏やかな寝息を立てている。

彼は生活の中で湧き出る、感情の源を探していた。

幼い時に母親を亡くし、友人に伴う母親という実体を見る。

母と言う原風景を持たぬ足元は、彼の根本を揺るがせるのだろう。

朝岐は父の顔になっている(あご)を、右手でこすった。

翌朝銀河は、庭にやってくる猫たちのために、猫タワーを作ると言い出した。

「これだよ」

差し出したのは、自分で描いた完成予想図だ。

朝岐は一切の異論を挟まなかった。

材料を買い込むと、咲子さんが工具の指導をしてくれた。(のこぎり)の使い方、金槌(かなづち)の使い方等々だ。

夜は、録画してあった長夜の動画を鑑賞した。

嬉しそうに銀河を抱き、あやし、語り掛ける長夜。彼女が死ぬまでの何気ない日常が、朝岐と咲子さんを含め、ふんだんに詰まっていた。

彼女のつま弾く三味線の音、声、笑顔は、朝岐を過去に(いざな)う。

結婚してから臨床心理士になって、住まいを手に入れたこと、銀河が生まれた日のことが思い出される。

銀河は、空白の記憶を埋めるように見入っていた。

「あ」と言って指差した画面に、今もやって来る茶白の猫が映っていた。

「じゃ、今十歳くらいってことだね」

と、銀河が声を(はず)ませて言う。

「銀ちゃんが生まれた時から、早勢(はやせ)は居たんだね」

映像の中で、茶白の斑点が若々しい。毎朝一番にご飯を食べにやって来て、さっといなくなる。

「お母さんが付けた名前だよ」

「全部、なくなっちゃうわけじゃないんだね」

銀河は、母の名残りを身近に感じたようだ。登場人物は変わっても、時間は途切れず続いている。

「咲子おばちゃんも一杯映ってるね」

「そうさ。一緒に暮らして来たし、今も」

「うん、家族だね」

朝岐は、映像から目を離さない銀河に応えると、こっそり涙を拭った。長夜との日々を目にすると、今でも涙が溢れてしまう。

銀河は二日間、木材の面取りをし、やすりをかけ、柱に爪とぎ用の麻縄を巻いた。猫が休む場所には柔らかい素材を張り、キャットタワーの製作に没頭している。

物を作りながら、自分なりに考え、答えを出そうとしているのだ。今は見守るだけでいい。

朝岐は書斎で、セミナーや講義用の資料を作成しながら、胸がざわついてならなかった。

銀河の憂いが収まると、環の姿が小波さざなみのように、脳裏に蘇って来るのだ。

人前で堂々と演奏。大人相手に稽古をつけ、自分の曲も作る。子どもっぽさは微塵もない。

(僕の十五歳時とは大違いだ)

作業の手を止め、あの日の光景を思い出していると、

「銀ちゃん!」

庭から、咲子さんのただならぬ声が響いた。

慌てて見に行く。

銀河は、咲子さんに肩を支えられながら、顔をしかめていた。

「どうした」

銀河は昼食後、出来上がったタワーを組み立てるのだと言っていた。

「一番上を取り付けようと脚立に上がったら、バランスを崩して庭に落下したの」

咲子さんが泣きそうな顔で言った。

「病院へ連れて行くよ」

朝岐は急いで、この界隈(かいわい)の住人が行きつける『露木整形外科』へ、車を走らせた。

幸い夕暮れ近く、患者はまばらだった。

露木院長はCT画像を眺める。

「骨に異常はないね。でも相当強く打ったみたいだね」

と優しく銀河に微笑みかけた。

医師免許が堂々と飾られている。露木快斗(かいと)と言う名に相応しく、患者に優しいと評判だ。

「ちょっと()れてるから、湿布薬を出しておくよ。激しい運動はしないようにね」

銀河はこくんと頷いた。

「普通ならヒビが入ったり、折れたりしたかもしれないけど、しっかりした骨だよ。お母さんに感謝しないと。君がお腹の中に居た時、お母さんがちゃんと骨作りをしてくれたお陰だね」

などと、話しかけてくれた。

「湿布を貼り替える時はお風呂の中で()がすと、そんなに痛くないからね」

院長は笑って、銀河に(あめ)を差し出した。子どもの患者へのサービスらしい。銀河は素直に受け取って、早速しゃぶっている。

そうか、銀河はこんなに子どもだったんだ、と朝岐は思った。

足を引きずる銀河に腕を貸しながら外に出ると、少し前まで世間を浮かせていた桜も新緑に落ち着き、今度は薄紫色のヒロインが舞台の準備を始めていた。

朝岐の胸がびんっと(きし)む。

(この音)

山を背にした病院の奥から、琵琶の音が聞こえて来る。

(空耳じゃない。確かに師匠の琵琶だ)

山際を渡る風に木々がなびき、一瞬静まり返る。

車一台通らぬ奇跡に、音色は清澄(せいちょう)な方向を探してたなびく。

「あそこ」

銀河が、病院の奥を指した。

居住に当てた一角の小さな窓が、カーテンも引かずに開いている。

「夜の、海みたいだね」

と銀河が言った。琵琶の音を彼なりに表現したが、言い得て妙だ。

「銀ちゃん、ちょっと待ってて」

朝岐は確かめずにはいられなかった。

受付の看護師に琵琶の音を尋ねると、息子さんのお友達が来て演奏してるんです、とだけ教えてくれた。

(友達。この病院の誰かと、師匠は友達なんだ)

「ごめんごめん。さあ薬局だ」

朝岐は銀河を促した。

数日前に目撃した環の姿が蘇る。

「看護師さん、なんだって?」

車に乗り込むと、銀河が尋ねた。

「うん。お父さんが習ってる師匠の友達が、ここにいるんだって」

「ふうん。お父さん、凄く驚いてたよ」

そうか?と顔で語って、アクセルを踏む。

環と同世代の若者が、琵琶の音を喜ぶだろうか。

哀愁漂う楽器は数あるが、琵琶は、深淵に(よど)む悲哀を(おこ)す、陽気にはほど遠い楽器である。

家に戻ると、猫のタワーはきちんと縁側に組み立てられ、早勢(はやせ)が最上階に陣取っていた。咲子さんがやってくれたのだ。

「よく出来てるじゃないか。ちゃんとトイレも」

と言うと、銀河はふふっと笑った。

銀河は猫タワーの製作で自信を取り戻し、足の腫れが引いた後、学校生活へ戻って行った。

朝岐が三味線と琵琶の稽古に赴くと、環は普段と変わらぬ様子で稽古をつけてくれる。

稽古が終わった途端、墨色の魂を一層喪に染めて、遠退いてしまう。

橋の欄干から川面を見ていた光景と、露木外科医院で聞いた琵琶の音が重なった。

朝岐は三味線をしまいながら、他の弟子が来ていないことを確かめ、口を開いた。

「師匠、露木整形で、琵琶の音を聞いたんですが」

環はさっと顔を上げ、朝岐を見つめた。

「師匠、ですよね」

環の視線が()れる。

「中学の時の、クラスメイトがいるんです」

朝岐は、環が答えてくれるとは思っていなかった。

「クラスメイトでしたか」

友達、とは言わない微妙な言い回し。声が一段と低い。

気に留めない振りをして、朝岐は月謝袋を差し出した。

「朝岐さん、五月のお稽古なんですが、初旬は演奏会があって、その後ドイツに行くのでいつものお稽古をずらせて頂けますか」

「ドイツに行かれるんですか」

「はい。日本の文化を紹介するというイベントに、参加するんです」

それはいい、と朝岐は安堵した。旅行が少しでも、環に(まと)いつく負の匂いを払拭してくれたらと願う。

「お帰りになったら是非お話を聞かせてください。とても楽しみにしています」

朝岐は、五月の稽古日を約束して辞した。約束することが、今は一番に思えた。


安藤さんが建ててくれたポールに、鯉幟(こいのぼり)を揚げては()げ、咲子さんの柏餅を食べ、手作り猫タワーの人気が高まるうちに、漸く稽古日が巡って来た。

ゴールデンウィークの去った五月の終わりは、伊豆の国道を悠々と疾走させる。

黒沢邸で車を降りた朝岐は、ピアノの音に足を止めた。

(ショパンのワルツか)

贅沢(ぜいたく)な午後だ。晴れ渡った空に、ワルツの九番が溶けていく。

縁台に座り、天空に輪を描く(とび)の姿を眺める。ふっと鳶の目に乗り、自分の小さな姿を見下ろした。

こそりと動く間抜けな奴はいないか、産み落とされたばかりの小鳥の卵はないか、獲物を捕獲する欲望をむき出しにして、今日の命、今日の命、が点々と続く。

そういえば今日、読みかけの小説の中で、登場人物が死んだっけ。

地上に置いた我が身から、微かな呟きが伝わった。

「あら、朝岐さん、そんなところで待っていたの。入ったらいいのに」

玄関から、深園(みその)が声をかけてきた。朝岐は我に返る。

「あれ、深園さんが弾いていたんじゃなかったんだ」

「環ちゃん。ピアノも小さい頃からやってるの」

「へぇ、多才ですね」

「音楽目指す人は普通よ。ピアノは必須。環ちゃんはアジアのジュニアチャンピオンなんだから」

音楽家とは大変なものだ。

「朝岐さんの車が入って来たのに、呼び鈴押さないからどうしたのかと思って。環ちゃんはレッスン始めると他が聞こえなくなっちゃうの」

深園は、ちょっと呆れるね、というゼスチャーをして笑った。

玄関に足を入れると、鈴の音と共にととっと小さな足音がした。

「お弟子さんだよ、夜露(よつゆ)ちゃん」

「夜露?」

黒猫がみゃうと鳴いた。

素晴らしい金色の目に、瞳を細くして朝岐を見つめる。

「やあ、こんにちは。いたっけ?」

「環ちゃんと一緒に寝てて、漸く好き勝手に歩き回るようになったよ。あ、朝岐さん」

朝岐は夜露を抱いていた。とても軽い。

続いて現れた環が、軽く会釈する。

すとんと、夜露が飛び降りた。

(師匠…痩せた)

ぎりりと心臓が縮まり、背筋に冷気が走った。

稽古場に座ると、環は凄然(せいぜん)としている。

練習曲は「岸の柳」だ。

この曲は、柳橋の船宿の娘と近所の古着屋の息子が心中するところを助けられ、結ばれた記念に作曲され、「(つくだ)合方(あいかた)」を模した旋律を前弾きと終結部で構成している。三味線の調弦(ちょうげん)は、本調子、三下(さんさが)り、本調子だ。

習練度を見るために、まず朝岐が演奏する。たちまち緊張が露呈して「()めましょうか」と制された。

環が弾いてみせ、朝岐が(なら)い、良ければそのまま先へ進むいつもの稽古だが、「師匠の演奏を頭からお願いします」

と、口が勝手に言っていた。

(この音は)

以前に増して、清澄だ。湿気の多くなる季節に、環の音は冴え冴えと響いた。そこだけ冬の、午後のように。

三度目で漸く間違えずに弾くと、朝岐はほっと胸をなでおろした。

「ドイツはいかがでした?」

稽古の後、朝岐は尋ねた。

海外へ日本の文化を紹介に行く名誉は、はしゃいで良い出来事だ。

「とても盛況でした」

「日本の文化を紹介できましたか」

「はい」

師匠と弟子の間柄では、こんな会話が精一杯だ。環はにこりともしない。

「お茶にしましょう」

深園が襖を開けた。

(女神だ)

朝岐は彼女の顔を、救われる思いで見上げた。

「環ちゃんのお土産よ、朝岐さん」

彼女は屈託のない笑顔で、リッタースポーツとやらのチョコレートを菓子鉢に入れてくれた。

「ヨーグルト味と、カプチーノ味と、ビスケット」

深園が説明する。

環がこれ朝岐さんに、と薄紫色の包装を差し出した。

「お土産です。お弟子さんたちに買って来ました」

「ミルカのチョコレート。スイスだけどドイツで作ってるんですって。このパッケージはないわぁと思うけど」

深園が言うと、環の表情がほぐれた。

「紅茶の方がよくない?」

と、深園に対する環の普段の口調が出た。

「ですね。師匠、紅茶にしてください」

朝岐は、リッタースポーツのカプチーノ味に手を出しながら、すかさず言った。

環はさっと起ち上がって、紅茶を持って来る。

「ドイツのどこです」

「デュッセルドルフです」

「国際空港ですね」

「やだあ、朝岐さん地図が頭に入ってるの?」

環がノリタケのカップに紅茶を注いでくれる。

「朝岐さん海外は?」

深園がチョコレートをほおばりながら尋ねた。

「学生の時、ロンドンとパリを貧乏観光したよ」

「行ってみたいところってある?」

彼女の問いに、チベットかなぁと答える。

「チベットに行きたいなんて、ちょっと変わってる」

深園は頭に地図を描こうとして、やれやれと言った。

「『チベットの死者の書』というのを学生時代に読んで、興味があるんだ」

環の反応は素早かった。

「読んでみたい」

と言う。

「え、暗―い、環ちゃん。そんな本は、もっとおっさんになってからにしなさいよぉ」

これには朝岐も環も笑ってしまった。

営業ではない環の笑い顔を、初めて見た。穏やか過ぎる、人間離れした笑顔だった。

「今度、お貸ししますよ」

『チベットの死者の書』は、若い日の朝岐に霊感を与えた。

仏教では、生類はすべて地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道を輪廻し、死後四十九日の間に次の生まれる先が決まる、と考えられている。チベットの死者の書は仏教の六道を踏まえ、一人の死者を通じて、彼が、どの道を進むのかを、肉体が滅びる描写と共に著していた。

咄嗟(とっさ)とはいえ、そうか、チベットに行ってみたいと思っていたのだ、とこっそり刷り直していると、夜露が環の膝に乗り、隙あらば()りつこうとする邪鬼に、目を光らせていた。

(夜露、師匠を頼む)

心の中でそっと唱えると、夜露は声も出さずに任せて、と鳴いた。


5

彼女は庭の陽だまりを眺めていた。磨きあげられた渡り廊下に木犀の緑が映り込み、世間と隔絶された部屋の中へ侵入を試みているようである。

彼女は、紫の葉に青いバラ模様の銘仙(めいせん)を着て籐椅子に座り、一日読書をして過ごす。

「今日は気分がいいの」

と環が尋ねると、彼女は本から目を上げて少し笑った。顔は白くかすみ、輪郭が(にじ)んでいる。

「そうね」

結いあげた髪が前後に動く。

「何をお読みなの」

再び尋ねると、「古今和歌集よ」と答えた。

「遊んであげられなくてごめんね、環ちゃん」

青いバラが(ひるがえ)り、差し出した菓子鉢の中で松葉色の五家宝(ごかぼう)が、かさりと崩れた。

首を振って「いらない」と言うと、彼女は悄然(しょうぜん)と俯く。

廊下から、きらびやかな能の装束(しょうぞく)をまとった『土蜘蛛(つちぐも)』がやって来ると、明るかった座敷に夜の帳が降りる。

ぼうっと一つ、二つ、電灯が灯る。

「ピアノを弾いてちょうだい」

と彼女に乞われ、環は鍵盤に指を置いた。

ショパンのワルツを一番から順に弾く。

彼女と『土蜘蛛』は、向かい合って座る。

「もう、生きられない」

レモネードを口にした後、彼女が(つぶや)く。

ワルツの第九番に差し掛かかった時、『土蜘蛛』はすっくと立ちあがると、彼女に覆いかぶさった。

レモネードのカップが否と響く。

「やめろ!」

環が大声で叫ぶ。

『土蜘蛛』がくわっと振り向いた。

怒りが青黒い顔面から噴き出している。

青いバラは素早く彼を跳ね()け、環の右手を取って走り出していた。

梧桐(ごとう)(ふすま)を開け、竹林の襖を開け、湧き出る醴泉(れいせん)の襖を開けた二人の前方に、絢爛豪華な鳳凰の襖が待ち構えていた。鋭い(くちばし)は金色に輝き、燃えるような眼光で辺りを()め付けている。

眩惑される環の腕を揺すり、勇敢な彼女が襖に手をかけた。

眼前に、彼岸花が果てしもなく、地を染めている。

餓死者の数だけ咲いているのさ、と栴檀(せんだん)の墓守が硫黄色(いおういろ)の実を揺らして言った。

ぐずぐずしてはいられない。

二人が飛び降りると、彼岸花は左右に分かれて道を作った。

ハヤク、ハヤク。

二人は赤い野を走った。

『土蜘蛛』は(おの)を手に、悠然と歩いて、追って来る。

「僕たちは本当に走っているの?」

と環は彼女に尋ねた。

彼女の帯の、蝶と(たわむ)れる黒猫が、金色の目で環を見つめる。

走っているなら、彼岸花の野を抜けられる筈だ。

「違う。走っているのは僕たちだけじゃない」

と、環は叫んだ。

彼岸花は、二人の周りをらぁらぁらぁ、らぁらぁらぁと歌いながら流れていた。

右手が痛い。


「私たちも走り続けるの」

らぁらぁらぁ。

らぁらぁらぁ。

霧が深く立ち込め、環を(つか)む彼女の腕だけが漸く見えた。

花々と霧の溶け合う境に、卒塔婆(そとば)がひゅんと突き刺さった。

彼女は足を止めた。

「駄目。この先へ、環ちゃんを連れて行けない」

と言って、彼女は環の手を離した。

「いやだ。一緒に行く」

首を振り、今度は環が彼女の手を掴んだ。

「離さない」

「駄目」

ほどこうとする彼女の手を、環は一層力を込めて握り返す。

置いて行かれるのはたくさんだった。

この世に依り代を持たない浮遊感が、いつも不安定に揺れている。

「離すの、環ちゃん」

環は子どものように首を振って拒む。

霧は絹の画布となり、二人を取り囲んだ。

花は血潮を放射させ、旋律に身を委ねてうねる。

画布には文字が書き(つら)なっていた。

 先立たぬ 悔いの八千(やち)たび 悲しきは 流るる水の 返り来ぬなり

環は、細筆で書かれた一文字一文字を目で追った。

古今和歌集の歌が雨のように降り注ぎ、絹の画布(がふ)に吸い込まれている。

「限りなき おもひのままに 夜も()む 夢路をさへに 人はとがめじ」

と、彼女は声に出して詠んだ。

その歌はどこに?と環が見上げると、画布は斧を打ち込まれ、垂直に裂けた。

ここに居てはあぶない。

環は(きびす)を返そうとした。

動けない。

どれほど力を込めても、足はびくとも動かなかった。

彼岸花がぎっしりと、環の下半身を埋め尽くしていた。

握った彼女の左手が重く冷たくなっていく。

間に合わない、間ニ合ワナイ。

裂けた画布から『土蜘蛛』がぬっと現れ、一呼吸も置かず斧を振り上げると、環の右手をばさりと切り落とした。

地に落ちた右手に、青いバラの(たもと)が握られていた。

らぁらぁらぁ らぁらぁらぁ

あわあわとした陽だまりに、生白く転がり落ちた右手が視界一杯に満ちると、環はふっと起き上がった。

彼岸花は、真っ赤な飛沫を噴きながら、右に左にワルツを踊る。

環楽院深奏雲居士(かんがくいんしんそううんこじ)と書かれた卒塔婆が、消えては現れ、現れては消える。

青々と茂る木犀(もくせい)の影に、『土蜘蛛』が立っていた。

…ちゃん。

たまきちゃん。

「環ちゃん」

環は激しく肩を揺すられた。

「どうしてこんな所にいるの」

環は、庭の中ほどに立っていた。

ぼやけた視界に、湿った(こけ)の青臭さが足裏を這っている。

「…深園ちゃん」

右手は、ある。

「夜露が私の足元で鳴くの。ガラス戸が開けっ放しで、環ちゃんが…」

深園は涙ぐんでいた。

夢だった。

「痛っ」

夜露が環の足を()んだ。

新聞配達のバイクが、現世の日常を駆け抜ける。

羅紗(らしゃ)の幕が上がるように、辺りが鮮明になった。

小学生の頃、華岡の親族と(たきぎ)(のう)を観に行った。美しく空に舞う蜘蛛の糸は観客を喜ばせるが、環はただ恐ろしかった。

きらびやかな土蜘蛛の衣装に薪の炎が照らされ、わさわさと乱れた黒髪と鬼のような面が、罪の化身として()み付いた。

(人で、なくなっていく…)

環は左手で夜露を抱き、深園に右手を引かれながら振り返ると、木犀の影に、『土蜘蛛』の(うろこ)文様(もんよう)が輝いていた。


6

環を気にしつつも、朝岐が専門学校のゼミから帰宅して一息ついていると、電話が鳴った。

蛍を見に行かないか、という見吉の誘いだった。

二つ返事で黒沢邸に(おもむ)く。

車を降りると、既に見吉と環が出かける支度を整えて待っていた。

環は、灰桜(はいざくら)雲居鼠(くもいねず)小千谷縮(おぢやちぢみ)。見吉は夏めいたスーツで決めている。

環の着物姿は見慣れているが、やけに(すが)しく、胸を()かれる。

「奥湯河原へ行くので、一緒に乗ってください。向こうで早めの夕食を()りましょう」

午後四時。後部座席に環と朝岐を乗せ、見吉は車を発車させた。

国道136号線を上がり、県道11号線から熱海梅ラインに乗る。

平日の道は、一時間弱で目的地に連れて行ってくれた。

料亭に落ち着くと、見事な精進料理が運ばれた。

雑談に花を咲かせるのは、見吉のもてなし力だ。次々と話題を提供して飽きさせない。

胡麻(ごま)豆腐が絶品ですよ」

と見吉に勧められる。とろりと舌の上で溶け、胡麻独特の香りが鼻に抜ける。ほんの一口で終わってしまうが、丁度良い。

「先生そういえばこの間恐ろしい夢を見ましてね」

朝岐は来たな、と懐から手帳を取り出した。食事はほぼ終わり、後はデザートとコーヒーを待つばかりだった。

「どのような夢でしょう」

「強盗に入られて、私は殺されました」

なるほど悪夢である。

「起きた時、ぞっとしました。こういうのは覚えているものですね。普段はすっかり忘れてしまうのに、起きてからも頭の中で、殺される場面が繰り返し思い出されます」

環が真剣な面持ちでいる。

「殺されるというのは、飛躍したい願望の現れです。飛躍と言っても、努力すれば成し得るもの、運が伴うもの、計算力と時代の流れを読むなど、様々です。例えば株や投資なら他者の力も必要で、それが『強盗』となり、上手くいくか?という不安を消すために『殺される』表現になる。飛躍には確かな洞察力と判断力が必要だと、自分自身に与えている警告なのです。判断が正しければ大きな利益をもたらしますが、一か八かの賭けに出るのは止めたほうが良いでしょう」

朝岐の答えに、見吉がため息を吐いた。

「株?」

と環は見吉に尋ねる。

「うん。あんまり買わない銘柄を買ったから。考えてみれば思い当たるよ」

ちょっと子どものような口調で見吉が答える。

「日頃考えていることがちゃんと夢に表れるんだね」

見吉の顔が小学生に見えた。

「そうですね。心の抱える問題が夢に変換されると、深刻であればあるほど悪夢が記憶され、放っておけば現実に病を引き起こします。夢がリアルすぎて、現実が分からなくなってしまう人も(まれ)にいる。夢だと認識できる内に、門を叩いて欲しい。悪夢は見続けるべきじゃない」

「門とは、先生の家の?」

「ええ、まあ」

見吉が営業だねと悪戯(いたずら)っぽく言うと、朝岐も笑った。

環は、穴のあくほど朝岐を眺めていた。

デザートを楽しんで、一行は不動滝(ふどうたき)に足を踏み入れた。

滝に続く石段の両脇に、灯篭(とうろう)が灯っている。

「作曲の創造力が掻き立てられるといいね」

と見吉が言う。

「環は琵琶のCDを出しているんです先生」

「CDを」

「営業しなかったの環」

見吉は呆れている。

「私なんて車に積んでるのに。先生、後で差しあげますよ」

「あ、いや買います、買わせてください」

朝岐は慌てて言った。

「やれやれ、もっと営業しなきゃ」

見吉におかまいなく、若い環は滝に通じる道をずんずん進んでいく。二枚歯の黒い雨下駄(あまげた)に白い足袋が可愛く、足元を気遣いながら着物姿で登る彼に、人々が道を譲る様子を大人二人は顔を見合わせ、微笑んだ。

「先生、環をどう思います」

「まずいです」

朝岐は間髪入れず答えた。

見吉は一瞬足を止め、また朝岐の歩調に合わせた。

「臨床心理士として、ですか」

「直感、です」

知識を持たない彼に、どう説明すべきか迷う。

「人は、幾つかの人格が集まって形成されています。通常は「自分」と呼ぶ人格で生活するが、無意識下で異なる人格が「自分」と違う主張をすることがある。「自分」は別の人格と対話し、協調しようとするのですが、時として反目し、「自分」を上回ってしまう」

「『自分』を見失う」

「多重人格ではなく、本人も気づきません」

見吉は頷きながら、不動滝に続く石の階段を昇った。

「心配の理由は」

見吉は目で環の姿を追いながら、尋ねた。

「心には皮膚も血液も細胞もありませんが、心が受けた傷はことあるごとにフラッシュバックして、思わぬ影響を与えます。精神に、体に。師匠の中で、二つの人格がぶつかり合い、結合しかかっている。一つは瘴気(しょうき)を放つタナトス、もう一つは強い正義です」

滝の瀑音(ばくおん)が耳に飛び込む。

観光客は、二人を易々(やすやす)と追い越してゆく。

「タナトスとは」

「ギリシア語で死を意味し、心理学では破壊と解釈します。師匠の中のタナトスと正義が衝突している間は良いのですが、結合されると「自分」が飲み込まれる恐れがあります。強い正義は些細な罪も許しません。タナトスと結合し、肉体的な死を渇望(かつぼう)するかもしれないのです。師匠の中で良からぬことが起きていると、僕は見ています」

見吉は俯いた。

心当たりがあるな、今は問うまい、と自らに言い聞かせた。

そうでなければ、橋の欄干で見た姿は説明できない、と朝岐は独り()ちた。

出会いから、環に感じていた危うさ。

稽古で訪れる度、背後に感じる異質な空気。

二人の大人は環に追いつき、滔々(とうとう)と流れる滝を背景に、蛍の乱舞を眺めた。

「環の袖に、ほら」

見吉が声を上げる。

袖にとまる蛍の光に、環はあっと小さく言って微笑む。

(しょう)さんの頭にも」

環が見吉の頭を指した。

人々は、暗がりの中で蛍を撮ろうと躍起(やっき)になっている。子どもは大騒ぎで帽子を振り、蛍を捕らえる。

環は、闇に浮かぶ川の模様に魅入った。

頭の中に押し寄せる琵琶の旋律が外界を遮断し、夢で失った幾つもの右手が、こちらへおいで、と招く。

心臓が(きし)んだ。

会いたい人が、向こう側で、呼んでいる。

自分が『ここ』に至るまでに存在した、千人のうちの一人が、呼んでいるのだ。

それはどの時代に生きた人なのか。

無数の光が、息を合わせて点滅する。連綿と続いた命の末に、蛍は飛んでいる。

自分にはできない。自分で終わるのだ。環は、命の鎖が暗い川面に落ちて行く気がした。

「危ない、環」

見吉が腕を掴む。

環ははっと振り向いた。

「なんだか、飛び込みそうだったよ。人混みもあるから気を付けないと」

燈明に映し出された環の瞳は、阿摩羅識(あまらしき)の坑道に似ていた。

朝岐の背に、悪寒が走る。

「さあ、戻ろう」

見吉に促され、一行は車に戻った。

乱舞していた蛍の軌跡が、いつまでも眼底に筋を引いている。運よく生き延びた者達の、宿命に従った最後の務めだ。

環は黙って、車窓の風景を見つめている。街灯、家の明り、それを受けて光る木々の葉が、流れては消えた。

途中で土産物屋に立ち寄る。

環も朝岐も見吉にすべてを委ねているので、異論のある筈もない。

「あ、僕は向こうね」

と、見吉はさっさと行ってしまう。

朝岐は、嬉しそうに見ている従業員の期待に応え、みかん最中を手に取った。白あんにマーマレードが混じっているらしい。

留守番をさせている銀河と咲子さんの土産だ。

「人気なんですよ」

と、従業員の女性がにこにこする。

朝岐が買うのを見て、環も手に取った。

「師匠も買いますか」

「お弟子さんたちが喜びそうです」

巾着から、猫の形をした黒ビーズの財布を取り出した。

買い物は、環を人間にする。

二人で土産の袋を下げている図は、見吉を安堵(あんど)させた。

「何買った?」

ハンドルを握る見吉が、バックミラー越しに尋ねた。

「みかん最中(もなか)を。お弟子さん達は甘いものが好きだから、お稽古の後のお茶菓子に」

「環も好きじゃん」

間髪入れず見吉が言うと、皆笑った。

そっと環の横顔を盗み見する。阿摩羅識(あまらしき)の坑道は消えていた。

黒沢邸に帰り着き、朝岐もお茶に呼ばれて上がり込む。深園はいないらしい。

「お、来た来た」

見吉が座ったまま目を向けた先に、夜露が現れた。

躊躇(ためら)いもせず見吉の膝に乗る。

夜露の首輪を外し、ポケットから新しい首輪を取り出した。和柄のベルトにピンクの鈴がちりりと鳴る。

手早く交換して、古い首輪をポケットにしまう。

朝岐は黙って、見吉の動作を眺めていた。夜露が朝岐を見つめ返す。

「ますます美人になりましたね」

と言うと、見吉は満足そうだ。

「先ほどの土産屋で?」

「うん」

見吉の声に、夜露はぽんっと飛び降りてしまった。

わずかに苦く、甘い煎茶をごちそうになって、二人は腰を上げた。

環が見送る中、それぞれの車に乗り込み、先に朝岐が黒沢邸を後にした。

(見吉さんの車、ついて来る)

永岡の華岡亭に泊まるのだろうか、と思いつつ、自宅前で方向指示を出すと、見吉の車も方向指示を出す。

朝岐が自宅へ入ると、続いて見吉の車も入って来た。

車を降りた朝岐の目に、固い表情の見吉が映っていた。

「先生、お話があります」

「どうぞ」

玄関を上がってすぐの広い縁側を、長夜は特に気に入っていた。ここで食事も昼寝もできる。二間続きの八畳和室を板張りにして絨毯(じゅうたん)を敷き、床の間のある座敷へ中古の応接セットをしつらえた。相談に来るお客を迎えるには、それなりの体裁を整えなくてはと、長夜が手配してくれたのだ。間の襖を閉めればそれぞれ違う空間になるが、夏は咲子さんが通気のために開け放している。

前時代の建物ゆえに、各部屋との間に廊下が巡り、咲子さんの部屋と、朝岐親子の私生活を侵害することはない。

「日本の家屋はいいですよね。四方八方から出入り可能です」

見吉はきょろきょろ見渡した。

「あ、天井が網代(あじろ)編みだ」

と指を差し、朝岐も一緒に見上げた。

「部屋と部屋の欄間(らんま)もなかなかいいですね」

「特に有名な職人の手によるとかではないのですが、昔はこれが普通でしたね」

「ええ。瑞雲(ずいうん)と鳥のモチーフですね。間の襖を閉めて個室になっても、完全に塞がない。この辺りの農家はもともと武士だったと聞きますから、凝っていますね」

見吉は尚も鑑賞を続ける。

「リフォームに入った建築士に、できれば壊さないでくれと言われました」

「環の所も私が気に入って購入したんです。子孫は都会に出てしまって、親の家を引き継ぐ人は相続税のために手放す。私は良かったが、農業人口は減るばかりです」

縁側の網戸から、今宵は涼しい風が入る。道路沿いの境界は石垣が積まれているが、隣家との境は丈低く、互いの植物で仕切られているので風が良く通るのだ。

見吉が縁側に出ると、銀河の作ったキャットタワーの頂上に、最近通いに加わった「子規(しき)」が寝そべっていた。

「ああ、いますね。環が、先生が夜露を抱いていたから、猫を飼ってるんだろうって言ってました」

「いえ、飼ってると言うより、勝手にここに居るんです。猫専用の扉を付けたんで、飽きたら帰りますよ。早勢(はやせ)という馴染みの猫に教えたら、他は簡単に抜けて来ました。伝達されてるんですかね。毎年暖かくなると、皆病院へ健康チェックに連れて行きます。そのあと二、三日は来ないけど」

見吉は声を出して笑った。

「猫トイレがちゃんと用意されてる」

「何泊もするのが、いるんですよ」

ははははっと、今度は二人で笑った。

咲子さんがお茶と茶菓子を持って来て、二人は漸く縁側の席に着いた。

見吉がごくりと、音を立てて飲み込んだ。

「環の家に、時々宿泊するんです。二階に私専用の部屋を作ってあるのでね」

見吉は、茶わんの縁を見つめながら言った。

「環はピアノの腕前も素晴らしい。一度、習っている先生から推薦を貰って、アジアのジュニアコンクールに出たら、優勝しちゃったんです。ピアノをやったらと勧めたけれど、ピアニストには成らないと、はっきり言われました。邦楽が良いんでしょうね。今は、どこからでも自分の音楽、発信できるでしょう。評価も得ているし、それはそれでいいかなとも思います。自慢になっちゃいますが」

朝岐は穏やかに笑みを返した。

子規がいつの間にか近づいて、テーブルに手をかける。人間の飲むお茶やお菓子には興味が湧かなかったのだろう。鼻を突き出しながら軽く首を巡らせた後、残念そうにキャットタワーへ戻る。二人はしばし、猫の様子に見入った。

見吉はふっと、息を吸った。

「あの子が時々、庭に立ってるんです、裸足(はだし)で」

「裸足で?」

朝岐は眉をひそめた。

「夢を見ていただけ、と言うんです。顔は真っ青で、震えているんだ。おかしいでしょう、夢くらいで」

「ええ」

朝岐が否定しない。見吉は決心がついたようだ。

「私の兄の成沢竹男(なるさわたけお)は先妻の子で、私は後妻の子なんです。父が再婚した時兄も幼かったので、兄弟仲は特に悪くはありません。父はちょっと変わった人で、先妻と離婚した理由が、彼女の才能を生かすため、だったんです。好きな時に子どもに会えば良いと兄を置いて行かせ、彼女が慰謝料を元手に起した貿易会社が大成功し、喜んでいました。お陰で兄は、彼女の会社を通じて、自社製品の販路(はんろ)を開くことが出来た。螺鈿(らでん)の伝統とモダンを織り交ぜた高額なパーテションや宝石箱等々が、海外セレブの間で売れています。父の言う通り、彼女は子どもに会いに成沢家を訪れました。私の母も姉のように彼女を迎え入れ、仕事の失敗談を聞いて、大笑いしている。一緒に旅行もしました。兄は、二人の母親を持って複雑だったと思います。私と違い、兄は繊細でした。女性に対してすっかり臆病になった。自ら恋愛することもなく、父の勧めに従って銀行家の娘、(あずさ)さんと結婚したんです」

見吉は成沢家の歴史を、改めて思い出しているようだ。

朝岐はクッションにもたれた。

「真面目な銀行家の父と、高尚な趣味を持つ母親に育てられた梓さんは、三度も流産してすっかり神経が参ってしまった。男は無神経だから、子どもを産むのは苦痛ばかりで、女性に生まれなくて良かったなんて思ったりします。駄目なら駄目で良いじゃないか、痛い思いをしなくて済むんだからってね。女性は違う。女性に生まれたからには子どもを産み、育てたいと思うんですね。とうとう、子どもが持てないなら外で子どもを作っても良いと、梓さんが言い出して間もなく、兄は小田原の料亭で黒沢八千代(やちよ)に出会ってしまった」

環の母親だ、と朝岐は思った。

「黒地に(あで)やかな牡丹(ぼたん)の着物、きりりと引き結んだ口元、野分(のわけ)のような眼差しで三味線を弾く、八千代に」

環の顔が浮かんだ。牡丹の華やかさとは違うが、環は荒れ野に咲く竜胆(りんどう)のようだ。

「地獄の業火(ごうか)に焼かれたのだと、兄は言っていました。彼女の、芸に対する並々ならぬ情熱、何者にも媚びない溢れる生命力。兄は、たちまち彼女に飲み込まれました。恋だの愛だの、面倒な駆け引きは一切ない。ただ原始の如く、雌雄の獣の如く」

見吉は一点を見つめ、動かなかった。

「彼女が子どもを身ごもった時、兄は梓さんに告白しました。梓さんは、子どもが男児なら自分の子にすると断言しました。兄は八千代の了承も無く、梓さんと約束してしまったんです」

迷いの色が、ちらりと横切る。見吉は深いため息を吐き、立ち上がって庭を眺める。

前の持ち主が作った庭園に、石の灯篭がある。夜間に客が尋ねて来ると、咲子さんは灯篭に仕込まれた電灯を点けてくれた。

朝岐は頭を巡らせ、彼と同じ風景に視線を揃えた。

八方塞がりを自ら招いた男の顛末(てんまつ)は、想像に易しい。

「子どもが生まれました。男の子でした」

「師匠ですね」

「ええ」

見吉は席に座り直し、腕を組んだ。

「兄は狼狽(うろたえ)ました。何事にも全力全開の八千代を、恐れた。彼女は育児に三年の休業を取り、おもちゃを目で追った、三味線の音に耳をすませている等々、出産してから日々の成長をびっしりと書き(つづ)っていました。出産費用は勿論、認知も扶養の要求もしない。彼女は初めから、一人で育てるつもりだったんです」

朝岐は、長夜を思った。銀河を産んで、かいがいしく世話を焼く女性は近寄りがたく、神々しい。この瞬間のために、女性は生まれて来るのだと知った。銀河にも彼女にも少々嫉妬を覚えた程だ。

純真無垢(じゅんしんむく)を前にすると、周囲の大人がすべて、色褪(いろあ)せて見えるの。この中に入ってしまいたい」

と長夜は笑っていた。

「梓さんは、男の子が生まれたと知ると大喜びで、子育ての教室に通い、ベビーベッドやベビー服を注文する。少しずつ子ども製品の荷物が届き、子ども部屋が整うにつれ、兄は追い詰められました。出来ないものは出来ないと、早く梓さんに言うべきだった。切羽詰まった兄は打診もしないまま八千代にいきなり、赤ん坊をくれと土下座したんです」

不器用な男だ。

我が子に愛情を惜しみなく注ぐ母親から、子どもを取り上げる非道。

「八千代はさっと環を抱きかかえると自分の部屋に駆け込み、間もなく悲痛な泣き声が空気を裂いた。彼女は子どもを渡すまいと」

見吉は言葉を切り、逡巡(しゅんじゅん)した。

庭の灯篭へ視線を投げる。

「環の睾丸を…(えぐ)り取ったんだ」

朝岐は驚愕(きょうがく)に目を見開いたまま、硬直した。

うっと、胃液が喉まで上がり、激しく咳き込む。

朝岐は頭を抱え、溢れる涙を拭いもしなかった。

(酷すぎる)

漸く頭の中で、言葉になった。

当時の惨状(さんじょう)を思い出しているのか、見吉は灯篭を見つめ続けていた。

「八千代は、死んでいました。警察が来た時には、心臓が止まっていたそうです」

「え」

「ショック死でした。子どもを産んで間もない母親と言うのは、精神が不安定になるらしい。一瞬にして崩壊したんです。兄からの連絡で私が病院に駆け付けた時、警察は、要領を得ない兄の話を聞いて途方に暮れていました。私はなんとか秘密裏(ひみつり)に処理してもらうよう頼み込みました。被害者は訴えられない赤子。マスコミに()ぎつかれ、有ること無いこと報道されたら、将来のある環が傷つく。結局事故として、事件は静かに幕を引きました」

成沢竹男が子どもを奪おうとしなければ、八千代は優秀な母親でいられた。

「これからどうするんだと聞くと、兄は環を引き取れないと言う。私は所かまわず大声でなじっていました。勝手すぎる、酷すぎるってね。兄はひたすら無理だと首を振るばかり。挙句に、それきり環の見舞いにも来ませんでした。八千代の火葬、環の退院の手続きは私が代理で行いました。結局兄は、環を里子に出すことにしたんです」

「それが華岡さん」

「ええ」

見吉はまっすぐ朝岐を見つめた。

「私は環の後見人になりました。八千代は三十手前の女性としては、結構な財産を持っていたので、環が成人するまで代わりに管理をしています。株を持っていて驚いた。一人で子どもを育てるのに、十分な経済力と計画性があったということです。華岡亭はもともと私が、公私ともに良く利用していた関係もあって、事情を話すと、夫妻は里親になることを快く承諾してくれました」

鞄から写真を取り出し、

「これが八千代です」

と、朝岐に手渡した。

彼女は洋装だった。ぎくりとする程、環に似ている。

雲鬢(うんびん)を無造作に掻き揚げ、ローキーのワンピースを着こなしている。

きりりと上がった眉毛と(まぶた)の間は狭く、黒目がちの三白眼でこちらを見据えていた。

ふっくりとした下唇は情の篤さを物語っていたが、眼差しは深淵(しんえん)に根付く狂気の導火線が、むき出しに揺れているようだ。一目見れば一生忘れられない、退廃の美である。

「脳に刺さります、彼女の顔は」

見吉は言った。

「環は、産みの母親の顔を知りません。いつか知りたいと言い出すんじゃないかと持ち歩いていますが、今のところリクエストはありません」

朝岐は受け取った写真を、食い入るように眺めていた。事件が無ければ、彼女は生きて環を育てていた。残念でならない。

「皮肉なことに、梓さんは妊娠したんです。今や男の子と女の子の母親だ」

「そんな…」

朝岐は、全身の力が抜けた。

「環が十歳の時に、体のことだけは話しました。環は、黙って聞いていただけです」

十歳で理解は難しいが、今は十五歳。心の中で何が起きているのか、二人の大人は己の思春期を思い、しばし沈黙した。

面映(おもは)ゆい恋の思い出。思春期の片思い。

サイドからトップの髪だけをブラウンのリボンで結び、反対側の電車を待っていた少女。

突然、斜め左に座っているメガネの奥の美しい瞳に気づいて、味気ない教室をバラ色に変えてくれた少女。

長夜との恋は、彼女と空間を共有したいと願い、腕の中で実体を抱き、生きていて良かったと感じた。

彼女がいれば、自分が進むべき道へ、歩いて行けると思った。

朝岐は唇を()んだ。

「師匠は、事件の詳細しょうさいは」

「私の口からはとても」

見吉はお茶を一気に飲み干した。

朝岐の喉も、からからに乾いていた。

「先生。環の夢を見て頂けないだろうか。あの子は自分のことをべらべらしゃべるタイプじゃない。夢なら、環の心をきっと雄弁に語ってくれると思う。近頃あの子を見ていて、はらはらする。すっかり痩せてしまってあの子は、会うたび透明度を増す。消えてしまうのではないかと、恐ろしいのです。同居している深園ちゃんも、近頃環の様子が変だと言う。夢と現実の境が不明瞭になって、分裂するのではと、私は案じています」

見吉はポケットから、夜露の首輪を差し出した。

「環は夜露をとても可愛がっています。この首輪で代行できませんか」

「猫の…やってみましょう」

あ、それで、と朝岐は受け取った。

見吉は、夢違えの方法を覚えていたのだ。

「では僕も、丁度師匠が読みたいと言っていたので」

一旦自室に戻り、『チベットの死者の書』を夢枕の代わりに手渡した。これなら、環に悟られない筈だ。

「こんな本を、あの子が」

朝岐から受け取って、見吉は本のタイトルをしきじき眺めた。

「枕元に置くよう、進言して頂けますか」

「分かりました。今から環の所へ戻ります。あ、そうそうCD」

この時ばかりはほどけた顔をして、二枚のCDを差し出した。

「環は、邦楽だけじゃなく、洋楽もできるから、ヒーリングのような音楽の依頼もあるみたいです。本人の好みかどうかは分からないけれど、頼まれれば否とは言わない子だから。私も時々聴きながら、眠りにつきます」

生きて欲しい、とにかく。見吉の裏の声が聞こえてきた。

約束通り朝岐がCDの代金を渡すと、見吉は、では、と言って一礼し、帰って行った。

皆が寝静まった深夜、朝岐は蔵の中で、CDに閉じ込められた環の扉を開いた。

音楽に長けた、年若い人のセンチメンタルとは一線を画す。

日本の風土に育まれた楽器は、自然の奏でる音を邪魔せず、溶け込み、西洋音楽に慣れた耳に新鮮な霊感を与える。

琵琶がぽつりぽつりと降り出す雨を奏で、数十の三味線と重なって本降りになり、人を沈黙させる。環のボカリーズが、降りしきる雨をぬってたゆたう。雨の情緒は、聴く者に委ねられるのだ。

(凄い。凄いよ、師匠)

楽器と同調した環の声は、朝岐の脳に降り注いだ。

すべての楽器の旋律を一人で弾き、合成した労力に感服する。

雨の情景の後は、風だ。

フーガのように追いかける虎落笛(もがりぶえ)で、朝岐はガラス戸越しに木枯らしを眺めていた、十五歳の冬の夜に瞬間移動した。

風は木々を()いで、飛び退(すさ)っていく。

二度と戻らない、という当たり前のことが突然胸に迫り、無為に過ごした日々への悔恨に、眩暈(めまい)がした。

忘れるな、今日を、忘れるな、と木枯らしは叫ぶ。

螺旋(らせん)を描きながら、闇に消える風の尾を捉えようと、凝視していた自分。

十五の瑞々(みずみず)しい感受性は見事に後方へ押し流されたが、想いは菫青石(きんせいせき)となって、中央に陣取る。

研ぎ澄ませよう。

心臓の鼓動と環の音が、夢の衣をまとって周囲を包み、朝岐を夢へ(いざな)った。


朝岐夢見師 上 をお読みいただき、誠にありがとうございます。

引き続き、朝岐夢見師 下 をお読みいただけたら幸いです。

いよいよ、環の夢に挑んでいきます。

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