第1話 目覚め
彼は、どこかにある森の中で目覚めた。視界の端に映る白い物はなんだろうかと疑問に思った。しかし、その白いものが何なのかという答えはすぐに分かった。
その白い物は、その骨の腕は自分の右腕だったのだ。左の腕を見ても、白骨だった。自分の胴体、足を見ても、白い骨だった。服は一切着ていなかった。視界の関係で自分の顔は見えないが、顔が骨だろうというのは、自ずと分かった。自分が骨であるということに、彼は一切疑問を持たなかった。
むしろ、それが当たり前だとさえ、思っていた。それが何故なのか分からなかったが。
試しに声を出せるだろうかと思ったが、駄目だった。歯と歯がぶつかり、カチカチと音が鳴るだけだった。
何故、自分がこんな所にいるのだろうかと、記憶を探るが、全て
・・
分からなかった。全てというのは、己がどうしてここにいるのかという疑問に対する答えではない。その答えも含まれているが、それ以外のこともである。
全て分からない。
ここが何処なのかという答え。
それは何故、ここにいるのかという答え。
己が何者であるのかという答え。
その答えという記憶がないのだ。
例えば、自分の体の骨。骨が何なのか分かっている。周りにある木というものについても分かっている。
そういう知識はあるが、記憶がないのだ。そういう知識の答えは出てくるのだが、その知識を得た記憶が無い。
記憶が無いということに対する疑問。混乱。
それらが尽きることは一切ないが、ここでどれほど考え込んだ所で答えが出る訳でもないと諦めて、彼は歩くことにした。もしかしたら、ここらに己が誰なのか分かるかもしれないてがかりがあるかもしれないと思ったからだ。
辺りをどれだけ歩いても、自分が誰なのかという手がかりはない。
今、彼に分かるのは、ここが森で、自分が骸骨であるのに意識があり、歩いてることだけだった。
歩いてると、何か音が聞こえた。耳もなく、鼓膜もないのにどうして音が拾えるのかという疑問はさておき、彼は音の方向を目指した。
「グルルッ」
そこには、黒い毛を生やした狼がいた。その黒犬は、原型が分からない程に滅茶苦茶になった肉塊を喰らっていた。肉をその鋭い牙で噛み切り、口の中で咀嚼する。
明らかに理性というモノを感じさせないその獣に気付かれる危険に感じた彼は、逃げという選択肢を取ることにした。気付かれぬように、少しずつ後ろに後退する。獣が何らかのアクションを起こした時に即座に反応できるように目は獣に固定したまま。
しかし、目を固定するという行為が、彼に不運を齎
もたら
した。
パキッという何かが折れる音が彼の足元に響いた。彼は、恐る恐る足元を見る。自分の足が上に乗り、真っ二つに折れた枝がそこにはあった。目を下に向けていなかった為に下にあるそれに気付けなかったのだ。
黒犬は、食事を止め、音が鳴った方を向くのと、彼が静かにするという事を諦め、黒犬がいる真逆の方向へ走り出すのは、全くの同時だった。彼は、一切振り返ることなく、走り続けた。走る途中でさらに別の生物と遭遇しないことを祈りつつ、彼はがむしゃらに走り続けた。
「ハァッ、ハアッ」
彼が走り続けても、後ろから獣の息の音が聞こえなくなることは、なかった。それどころか、彼と獣の距離は詰まっていくだけだ。
そして、彼は走ることを止めた。彼の手には、1本の枝が握られていた。そこらへんに落ちている枝であり、ただリーチを伸ばして、黒犬と少しでも近寄ることなく倒せたらいいなぐらいの思いで彼はそれを手にしていた。
「グルルッ」
立ち止まった彼を、目の前にある大好物を我慢ように涎を垂らしながら、喉を鳴らした。そんな様子の黒犬を見て、自分を完全に餌としか見ていない事が分かった。骨であるがしかし、心のどこかにあったのか分からない恐怖が呼び覚まされていた。
恐怖に震える心を叱咤し、彼は黒犬の動きを見逃さぬように観続けた。
「ガルッ!」
口から涎を垂らしながら、黒犬は一気に彼へと迫った。黒犬と彼の間にそこまで距離があった訳ではないが、それでも離れていた。その間を一瞬で詰めて、彼の目前に狼はいた。
(早ッ!?)
心の中でそう思いつつも、彼は飛び掛かってくる黒犬の頭目掛けて、手に持った棒を力の限り振るった。高速でこちらに移動してくる相手に果たして当たるのだろうかと不安になりながらも、彼は黒犬に木の棒を振るった。
「ぎゃうん!」
彼の振るった木の棒は、黒犬の頭ではなかったが、胴体に直撃した。 木の棒の直撃を食らった黒犬は、悲鳴を上げながら、吹き飛ばされた。普通の獣なら、木の棒であろうと高速で振るわれた攻撃を食らえば、骨や内臓にダメージを負い、まともに動けなくなるだろう。
だがしかし、彼の第六感はまだ終わっていない、油断してはいけないと警鐘を鳴らしていた。油断なく、地面に倒れる黒犬を見続けた。
彼の第六感は正しく、狼は何事も無かったかのように立ち上がった。未だにその目に映る彼を餌としか見ていなかった。だがしかし、餌に攻撃を食らったことに対する怒りがあった。
彼は、自分から仕掛けることなく、黒犬の1つ1つの動きに注意を払っていた。両社の睨み合いが少しの間続いた後、黒犬の方に変化があった。黒犬の下の地面から黒い竜巻のようなものが発生し、黒犬を包み込み、遥か天空までそれは高くなる。明らかに良くないことが起こっていると彼は、即座に理解した。
その黒い竜巻は、1分もしないうちに収まり、霧散した。しかし、その中にいた黒犬の容姿は、決定的に異なっていた。
体中の筋肉は、肥大化し、その背丈は5メートルを優に超える程にまで大きくなっていた。その4本の足は、木の幹のように太くなり、その爪は鋼鉄であろうと切り裂いてしまえるとさえ思えるえ程に鋭い。
そして、その頭は3つに増えていた。
その様は、まるで冥府の番犬ケルベロス。死神に仕え、罪人を裁く獣だった。
彼の中にあった恐怖がさらに増幅された。自分では抗えないのではないかとさえ、思わせるその冥府の番犬の威圧感によって。
先程までも恐怖は少なからずあった。しかし、それでも抑えられる程のものであった。だが、今はそれが抑えられない程に恐怖が大きくなっていた。あれは、自分が抗えるものではないと理解するのに1秒もかからない。それを視界に収めてしまえば、すぐに生を諦める。そんな理不尽の塊としか言えない獣と、対峙していることに気が付いたのだ。
彼の足は、恐怖で竦
すく
んでいた。冥府の番犬は、彼のその隙を突かぬほど、優しくない。足が竦み、目の前が明滅し、歯と歯が震え、カチカチと音を鳴らす程に彼は恐怖していた。そんな彼に向けて、冥府の番犬は口を開けた。
何をするのか疑問に思った彼だが、彼はすぐに命の危険を感じることになる。
冥府の番犬が、片方の前足を小さく横に振るった。
背筋に冷たい氷の刃を突く付けられたような感覚に陥った彼は、本能が成す技で、半ば無意識的にその場に屈んだ。その瞬間、彼の後方にあった幾つもの木々が、幹より上の部分が文字通り消し飛んだ。もし、あのまま立っていたら、彼がどうなっていたのか、それは小学生でも分かることだろう。
恐怖で足が竦む?
そんなことをしていても、命は刈り取られるのだと、彼は気が付いた。
それに気が付いた瞬間、彼は冥府の番犬から逃げるために走り出した。先程まであった、自分でも何とか戦えるのではないかという思いは、とうに消え失せた。あるのは、逃げという選択肢のみ。彼は、こんなところで死にたくなかった。
その理由は、自分はここで死ぬような者ではないというプライドのようなものではなく、ただ単に自分が何者であるのかということさえ、分からずに死にたくないという思いのみだった。その思いだけで、彼は森の中に逃げた。
そんな彼の後を追うようにして、冥府の番犬もゆっくりとだが走り出した。その巨体故に1歩歩くたびに議面が揺れ、音が鳴る。それは、彼に迫る死が音となって迫るのだ。
あの冥府の番犬の攻撃を警戒して、逃げる方向を何度も変えながら走り続けた。彼のすぐ横を先程の攻撃のようが通り過ぎ、木は消し飛んだ。しかも、それがわざと外して獲物をいたぶる上位者のそれだった。己に恐怖しか向けず、命惜しさに逃げ惑う獲物。それを追い詰め、楽しんでいるのだと彼には分かっていた。
だが、それがどうしようもない真実なのだと、彼は認めていた。ここまで差があると、反論すら思い浮かばない。
ただ逃げ惑う。それしか、自分にしか出来ないことだと、彼は理解していた。
ふと、冥府の攻撃が止まったことに気が付いた。しかも、あの冥府の番犬が移動する音がしない。絶対に逃げきれないと思っていたのだから、それに疑問しかなかった。恐る恐る後ろを振り向く。そこにいたのは、3つの口を開けた冥府の番犬の姿だった。
黒犬に口先に黒色の謎のエネルギーが大量に収束していくのだ。黒いエネルギーは、黒犬の口先に球を形作る。その大きさは、直径で30センチ程だが、その密度は恐ろしいことになっている。その莫大で高密度なエネルギーのせいか、その黒い球に小さな稲妻のようなものが纏われていた。
それが放たれれば、どうなるのか想像に難くない。すぐに回避行動を取る彼と、黒犬がその暴力的とさえ言える程の黒いエネルギーを放つのは、全くの同時だった。
極大の黒いエネルギー砲となり、放たれた。
それが彼に迫る中、何とか危機一髪という言葉が似合う程にギリギリの回避を成功させた。獲物に当たらず、そのまま放たれたそれは、その先にある全てを呑み込みながら、遥か先で爆発を起こした。その爆風は、遠く放たれた彼の元まで届いたのだ。彼の周りにあった地に深くまで根を生やしたそれらは、その爆風に耐えきれず、根本から引き抜かれ、その爆風に流されるままに吹き飛んだ。
無論、木々が耐え切れないそれに彼が抗う事も出来るはずもなく、彼は紙のように爆風にされるがままに吹き飛ばされた。その爆風と衝撃に耐え切れず、彼は気を失った。