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第六話

 ハジメが翌朝早くにオサナイの様子を見に来ると、彼は既に目を覚ましていた。ベッドに上体を起こして、壁に背を凭れさせかけたオサナイは、窓越しに広がる島の景色に目を向けていた。


 海面から顔を出したばかりの朝日は、ハジメたちの家がある高台の下に広がる緑を、濃淡鮮やかに照らし出している。その先にはアカリのクルーザーとオサナイが乗ってきたボートを停泊させた埠頭が見えて、さらに奥には陽の光を受けた海面に白とも金ともつかない波頭が、いくつも現れては消えていく。


 ハジメにとってはありふれた日常のひとコマだ。だが本土から訪れたというオサナイにとっては、滅多に目にすることのない光景なのだろう。彼はハジメに声を掛けられて、ようやく少年が入室していたことに気がついた。


 振り向いたオサナイの両眼の周りは、昨日に比べると幾分腫れぼったい。


「僕は博士のことを尊敬している」


 冷えたさんぴん茶が注がれたグラスを受け取りながら、オサナイは穏やかな口調でそう言った。

 言葉と共に吐き出される息が熱を持っていることに、ハジメは気がついている。


「君のお婆さんは世界中の人間を、病の恐怖と苦しみから救った。そんな博士を少しでも手伝えたことは、僕の誇りでもある」

「感染症って、そんなにひどかったのか」


 ハジメは傍らのスツールに腰掛けて、彼の話に耳を傾ける。丸二日寝込んで、他人との会話に飢えていた――だけではないのだろう。オサナイの語り口がどこかふわふわとしているのは、発熱のせいであることは明らかだった。


「博士から聞いてないかい。地球上の人口の六割が感染し、その内の一割は死に至る。病が流行りだしたのは僕がまだ、今の君よりももう少し年下の頃だ。それまで当たり前だった学校どころか外出すらも禁止されて、戸惑ったよ」

「学校……俺も行ったことないな」

「そうなのかい?」


 オサナイは少し驚いた顔でハジメを見返した。だが少年の顔に言葉以上の感慨がないことを認めるとそれ以上尋ねようとはせず、再び話題を引き戻す。


「まさか十年以上もその状況が続くとは思わなかった。なにしろ他人と顔を合わせるだけで危険なんだ。あれだけ活発だった世界中の交流はすっかり鳴りを潜めてしまった。社会経済もかつてない不況に陥った。ただ争いは思いのほか起きなかったね。だって争う前に、互いにウイルスにやられてしまうから。感染症が流行った十年間は、世界中で最も戦争が起きなかった時代でもある。事故や犯罪も激減した。皮肉なもんだ」


 そう言ってオサナイは少し笑いかけて、やめた。発熱のせいかやや焦点の覚束ない彼の瞳に代わりに浮かんだのは、深刻な思いをたたえた光であった。


「あのウイルスはヒト個人を殺すよりも、人類社会を殺すことに特化した、ヒトという種にとって最も邪悪なウイルスだ」


 オサナイは『邪悪』という単語をとりわけ強調しながら、話を続ける。


「ネットワークがなかったら、世界は本当に分断されてしまっていただろう。そもそもヒトは他人と触れあわずにはいられない。これはもうどうしようもない、本能のようなものだ。だから感染症の勢いは停滞はしても、収束することはなかった。博士が薬を開発するまで、ずっとその調子だっ……」


 そこまで語ったところで、オサナイはおもむろに口元を手で押さえた。やがて彼の口から込み上げてきたのは、喉というより肺の奥に痰が絡まっているような、根の深さを思わせる咳であった。オサナイは窓の方へと顔を背けるが、彼の指の隙間からしきりに漏れ出る咳声は、ハジメの耳にもはっきりと届く。


 しばらくして咳が治まり、グラスを呷って落ち着いたところで振り向いたオサナイの顔には、赤くなった目の周りにいささか自嘲めいた表情が浮かんでいた。


「見ての通り、僕の体も感染症に冒されている」


 オサナイは自身が感染者であることを隠そうとはしなかった。ばーちゃんに会うためにこの島を目指したのだというのだから、もとよりそのつもりだったのだろう。


「感染症は罹患してから発症するまで、かなりの個人差がある。僕が感染したのはおそらく一年以上前だと思う。それでもこれまで何事もなく過ごせていたのが、この島に向かう直前になって発症してしまったのはなんとも不運だ」

「そんなに前から感染したのがわかってたなら」


 空になったグラスをオサナイから受け取りながら、ハジメは当然の疑問を口にした。


「どうしてすぐに薬を打たなかったのさ」


 感染症の特効薬を開発したばーちゃんの、その下で働いていたというオサナイが、自身の感染を見逃したとは思えない。そもそも彼こそが薬を世に広めた張本人であると、ばーちゃんは言っていた。その彼が感染症を放置したまま、薬も打たないままに一年以上を無為に過ごしてきたことが、ハジメには理解出来ない。


 そして目の前で口ごもるオサナイがいったい何を考えているのかもわからない。


 だから彼に言えるのは、後はもう、ばーちゃんから託された伝言のみであった。


「ばーちゃんはあんたに会わないって言ってる」


 ハジメがそう告げると、オサナイの細い目に驚愕が浮かぶ。


「そんな、なぜ?」

「今さら会って話すことはないってさ。明日にはアカリが本土に戻るから、一緒に連れてってもらえばいいよ」


 言うべきことを言い終えて、ハジメがスツールから立ち上がる。そのまま立ち去ろうとする少年の左手首を、オサナイの右手がつかんだ。


「待ってくれ。君はどうして僕が薬を打たなかったのかと訊いたね」


 病人とはいえオサナイの手のひらはがっしりして力強く、その上予想以上の熱さが伝わってくる。手首を握り締める手には必要以上の力が込められて、ハジメは思わず顔をしかめた。


 だがオサナイは少年の苦悶も気にかけず、その顔は必死の形相に歪んでいる。


「わからないだろう。君にわかるはずがない。そもそも君の目に、僕はどう映っているんだ。君には《わからない》ヒトがいる、その事実をどう受け止めている」

「放せよ!」


 ハジメは渾身の力を込めて、つかまれた手首ごと左腕を振り切った。弾みでオサナイの体が前のめりになり、ベッドから転げ落ちそうになる。手首をつかむ力が弛んだ隙を逃さずに、ハジメはその場から部屋の扉の方へと大きく後退った。


 ふらつきながら床に片手を突いてなんとか転落を免れたオサナイが、顔だけ上げて少年に目を向ける。


「お願いだから博士に会わせてくれ。話をさせてくれ。どうしたら薬を使()()()()済むのか、それを知るのはもう博士しかいないんだ」


 つい先刻まで穏やかに思えたその顔には、必死を通り越して縋りつくような表情が剥き出しになっている。だが赤くなった左手首をさすりながら、ハジメにはそれ以上オサナイの話に付き合うつもりなどとうに失せていた。


 くるりと背を向けた少年は、男の懇願の声を一顧だにすることなく、そのまま部屋を飛び出していってしまった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] オサナイの必死さが強く伝わってきますね。それを否定するハジメとの乖離も、上手く描けていると感じました。
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