93話「シャルティエラの胸に秘めた炎」
その頃、ビタリーは洋館の一室にいた。
「……ったく!」
ビタリーの手がテーブルを叩くと、焼き物の赤いペン立てが小刻みに揺れる。
「なぜ逃がしたっ……!」
彼は不機嫌だった。ミスなく監禁していたはずのウタに逃げられたからだ。己が脱出を妨げる壁になっていながらも脱出されてしまった、その事実が、余計に彼を苛立たせているのだろう。
その時、誰かが戸をノック。
ビタリーは「入れ!」と鋭く応じる。
数秒後、ゆっくりと扉が開く。そこから現れたのは、白寄りのシーグリーンの髪を持つ可憐な女性、シャルティエラ。
「あの……ビタリー様? お邪魔しても構わないですの?」
ノックに対するビタリーの反応が棘のあるものだったからか、シャルティエラは不安そうな表情だ。
「……シャルティエラ、か」
「できればシャロと呼んでいただきたいですわ」
「じゃあ、シャロ。こんな時に何の用だい」
ビタリーの物言いは、直前の独り言に比べると優しい。だが、それでも、日頃の優雅な彼と比べればかなり冷ややかな声。シャルティエラが気を遣ったような顔をするのも無理はない。今の彼は、少しでも刺激すれば攻撃に出そうなほど、心が棘に塗れている。
「ねぇ、ビタリー様。もし良かったら、わたくしと少しお茶でもしませんこと?」
「今は無理」
「そ……そうですの。失礼しましたわ」
誘いを即座に断られたシャルティエラは、肩をすくめ、残念そうに俯く。そんな彼女の姿を、ビタリーは一瞥さえしない。彼の視線が妻となったシャルティエラへ向くことはない。
「また……機会があったら、お茶、誘ってくださいますの……?」
「当分は無理そうだね」
ビタリーはきっぱり返した。
「……そ、そうですの。残念ですけれど……でも、ビタリー様はお忙しいですものね。わたくし、ゆっくり待ちますわ……」
もしかしたらいつかは、という、シャルティエラの中の僅かな希望さえ、ビタリーは躊躇なく叩き潰してしまう。妻の望みを叶えよう、なんて、彼は微塵も思っていないのだ。今の彼は、ウタに脱走されたということで頭がいっぱいなのである。
シャルティエラは口を閉ざした。しかし、その場から去ることはしない。それを不思議に思ったらしく、ビタリーは「そんなところでぼんやりして、何がしたいんだい?」と問いかける。氷剣のように鋭く冷ややかな視線を向けられるシャルティエラ。彼女は右手を胸元に寄せ、緊張したような面持ちでビタリーを見つめ返す。
「言いたいことがあるのかい。それならはっきり言えばいい」
「……ラインのことですわ」
するとビタリーは「あぁ、あの裏切り者か」と呟く。
「そろそろ解放してもらえませんこと?」
ウタの歌声に惚れ、彼女を屋敷から脱出させるべく手を貸した、ライン。あの一件以降、裏切り者として監禁されてしまっている。彼は、シャルティエラの擁護により、命を落とすことはせずに済んだ。だが、自由な行動をすることは、まだ許されていない。
「それは無理だよ。裏切る可能性のある人間を自由にはできない」
「……ラインは裏切ったりしませんわ」
「でも、ウタを脱走させようとした。それでなぜ裏切らないと言えるんだい」
「それは……その、きっと魔が差したのですわ。ラインは今まで一度もわたくしを裏切りませんでしたもの」
ビタリーの部屋に漂うのは重苦しく棘のある空気だ。
「それでも、僕を裏切る可能性のある人間を自由にさせておくわけにはいかないんだ」
「……ビタリー様」
シャルティエラは胸元の右手を軽く握り、眉間を縮めて、やや上目遣いでビタリーを見る。
彼女は目で訴えようとしているようだ。口は開かない。
だが、そんな目つきだけで想いがビタリーに伝わるわけがない。なんせ、ビタリーは他者の心を読み取ろうとなんてしていないのだから。
「僕の願いは一つ。この国をこの手の内に入れること。シャロ、君だって、その願いに共感してくれていたじゃないか。共に歩きたい、そう言ってくれたじゃないか」
ビタリーの発言に、シャルティエラは目を細める。
「……もちろんそのつもりですわ。では……失礼しますわね」
ビタリーの部屋から退室したシャルティエラは、緊迫した空間から出られた安堵と話が進展しなかった残念さが混じったような大きな溜め息をつく。
「シャロお嬢様、終わられたので?」
溜め息をつき浮かない顔をしていたシャルティエラは、いきなり話しかけられ、体をびくんと大きく逸らす。それから、目の前に侍女の女性がいることに気づき、不満げに言い放つ。
「ちょっと! 驚かさないで!」
「申し訳ありません。そのようなつもりではありませんでした」
「もう……」
「それで、ビタリー様とのお話は、進展なさったのですか? お嬢様」
四十代くらいに見える藤色の髪の女性は、ほんの少しだけ口角を持ち上げて尋ねた。
「……まったくですわ。ラインのことも頼みましたけれど、解放してくれそうにはありませんでしたの」
シャルティエラは愚痴を漏らす。その様は、母親に愚痴を言いふらす少女のよう。未来の皇帝の妻、いずれ妃となる者とは思えない素朴さだ。無論、品は感じさせる容姿が。
「彼もなかなか頑固な方ですね」
「本当ですわ! もう、イライラしてきますわよ!」
シャルティエラは、両手を腰に当て、不満を全力で発する。
が、すぐに冷静な話し方に変わった。
「……でも、仕方ないですわね。今は我慢の時、わたくしは負けませんわ。絶対」
彼女の瞳は燃えている。それは、彼女の心を映し出す炎。じっと見つめれば気づけるようなものだが、恐らく、多くの者が気づかないだろう。彼女が胸の内側に隠した、その燃えるものには。
「やる気に満ちておいでですね、お嬢様は」
「もちろん。そのために結婚まで漕ぎ着けたのですから、当然ですわ」
侍女の女性は、余裕のある表情でシャルティエラを眺めている。彼女は、シャルティエラが胸に抱いている燃ゆる炎の存在を、遥か昔から知っていたのかもしれない。
「わたくしから家族を奪った者を叩きのめす。そのためには、ビタリー様の傍にいるのが一番。……わたくしの心は、今も変わっていませんわ」




