91話「リベルテの病室への帰還」
車窓から見える景色が徐々に色を帯びてゆく。無彩色だった世界に僅かながら色がついて、少しずつではあるけれど、世界が美しく見えてきた気がする。
生きている。改めてそう感じると、涙腺が緩みそうになってきた。
私はリベルテに聞きたいことがいくつもあった。けれど、心の準備なんて欠片もしていなかったものだから、すぐには尋ねられなくて。結局何も聞けぬまま時間だけが過ぎていく。
どこへ向かっているかさえ分からない。
でも、目的地がどこだとしても、あの暗闇に佇み続けるよりかはましだろう。
この先のことは考えない。今はただ空を見上げる。まだ止まない雨の、その中で。
五階建ての真っ白な建物、その裏口と思われる場所で、私とリベルテは車を降りた。
見覚えのないところだ。
「ここは?」
「病院でございます」
「待って。じゃあこのまま入っちゃ駄目なんじゃない?」
病院には怪我人や抵抗力の落ちた病人もいるはず。だからこそ、院内は清潔でなくてはならない。そんなところに、二日以上風呂に入れていない人間が侵入して許されるのか。それに、もっと問題なのは、この服。成婚パレードの日からずっとこの服を着たまま。しかも、血の汚れすら付着している。
「それは……どういった意味でございますか?」
「私、何日か体流してないのよ。不衛生だわ」
「では、先に入浴されます?」
リベルテは何事もなかったかのようにさらりと言ってきた。
「病院内でも入浴できるの!?」
「主の一人部屋に風呂場はございましたよ」
それは想定していなかった。
「ウィクトルの部屋に? ……私も使って良いのかしら」
「もちろんでございます。そもそも、主はまだ入浴禁止でございますから」
入浴禁止ということは、やはり、怪我が酷かったのだろうか。生きていてくれればそれだけでいい、と思っていても、負傷しているところを想像したら胸が痛くなる。
「……分かった。借りるわね」
「はい!」
ウィクトルがいるという病室の前。
いざ立つと、緊張が込み上げてくる。
なぜだろう。彼と顔を合わせるのが久々だからだろうか。理由ははっきりしない。ただ、舞台に上がって歌うよりも緊張していることは確かだ。今は、足首まで震えるような気さえする。
リベルテがスライド式の扉を開けてくれた。
静かに扉が開く。ベッドが見え、続いて、そこに切なげに腰掛けている者の背中が見えた。無造作に垂らされた黒い髪が覆う背中は、妙に小さく見える。
「ウィクトル」
震える唇で彼の名を発した。
すると、老人のように力ない小さな背が動く。だるそうに、ゆっくりと振り返る。
「……ウタ、くん?」
やがて、彼の琥珀に似た瞳が、こちらを捉える。焦点が合っていないような、力のない目。それでも、私を確かに捉えている。そのこと自体に変わりはない。
こちらを見つめた数秒後、彼は混乱したような表情で目を擦る。さすがに急に痒くなったというわけではないのだろうが、手の甲で熱心に擦っていた。そして、擦り終えると、再びこちらへ目を向けてくる。それでも、まだ彼は混乱している様子。言葉を失ったまま、幾度も目をぱちぱちさせている。
「……幻でも見ているのか、私は」
どうやら、ウィクトルは状況が飲み込めていないようだ。理解が追いついていない様子である。
「ウィクトル。幻じゃないわ。こっちを向いて」
「……ウタくん、なのか」
私は真っ直ぐに歩み出す。
今やもう、私とウィクトルの間にそびえ立つ壁はない。どれだけでも近づける、どこまでも行ける。
「えぇ。本物。助かったのよ、リベルテのおかげで」
「嘘だ……理解、理解できない……」
ウィクトルの私を見つめる瞳の色が変わる。唐突に、怯えたような色が滲んだ。強いウィクトルが私を恐れる要素なんてないはずなのに。
「ウィクトル、大丈夫だったのね。良かった」
「ま、待て……夢をみせるな……」
その時、声が飛ぶ。
「主! しっかりなさって下さい!」
子を叱るような、部下を鼓舞するような、力強い声。
リベルテの愛らしい容姿には似合わない声だ。
「……はっ。り、リベルテ……戻ったのか」
「はい。無事任務完了でございます!」
「そうか、良かった。……それでウタくんもいるのだな?」
次に私を見る時、ウィクトルはもう普段の彼らしい表情に戻っていた。今は私を恐れてはいない。
「えぇ、そうよ。ただいま、ウィクトル」
「おかえり」
短くそう言って、ウィクトルはベッドから腰を離した。いきなり二本の足で立とうとして、バランスを崩す。まだ少し離れたところにいた私とリベルテは支えようと考えるも間に合わなかった。が、ウィクトルは自力で耐えていた。咄嗟に両腕をベッドに押し当て、転倒は防いだようだ。
「す、すまない。いきなり情けないところを見せてしまった」
「いいえ。じゃあ、早速なんだけど、お風呂場借りるわね」
「なっ……」
ウィクトルの顔が強張る。
「え、今から使うところ? それなら私は後でも……」
「あ、いや、違う! そうじゃない。べつに何でもない、忘れてくれ」
「分かったわ。じゃ、お借りしまーす」
ようやく体を流せると思ったら楽しみで仕方がない。元々は風呂好きな方ではなかったが、数日入っていないと自然と気分も下がってくるというもの。ここで水を浴びれば、絶対、今よりも元気になれる。
病室に付属している風呂場は驚くほど狭かった。成人女性二人が立つのもやっと、というくらいの敷地しかない。一人で素早くシャワーを浴びる分には問題ないが、風呂に浸かりたいとなれば狭く感じたことだろう。
それでもありがたい風呂。
敷地は狭くとも、体を流せないよりかはずっと良い。
スーツを脱ぐのに慣れておらず少しばかり手間取ってしまったが、それさえ脱げば後は普段通り。
まずは湯船の中へ両足を入れる。そして、膝くらいの高さの位置にある蛇口を捻って温度調節。それがある程度完了したら、いよいよシャワーだ。蛇口の少し上に位置するレバーを引くと、湯の雨が降り注ぐ。
湯の温もりが気持ちいい。
全身の血管が元気になっていくみたいだ。
数日ぶりの入浴は非常に心地よい。文句なんて思い浮かばないくらい快適。いつまでもこうしていたいほど、幸せな気分になる。
白い肌についた水滴は、照明の光を受けて煌めいていた。




