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奇跡の歌姫  作者: 四季
霖雨の章

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80話「ウィクトルの打った手」

 記念すべき祝いの日、成婚パレード中に起きた想定外の騒ぎ。

 突如爆発音が鳴り響き、私たちが上に乗っているバスの中からは灰色の煙が溢れ、そして、不審者にウィクトルが刺された。


 ウィクトルはバスから落ちていったが、私は下を見る勇気はなかった。

 そんなの、恐ろし過ぎて。


「大丈夫かい? ウタ」


 呆然としていた私に、背後から声をかけてきたのはビタリー。

 彼に話しかけられて初めて私は正気を取り戻した。


「あ……は、はい。ビタリーさんは」

「僕は無事だよ」

「良かった……です」


 本当は「良かった」なんて思えない。

 ウィクトルがあんな目に遭ったのだから。


 私とて悪魔ではない。だから「ビタリーが刺されれば良かったのに」などと考えているわけではない。だが、彼を護るという立場であったから仕方がないとはいえ、ウィクトルがこんなことになってまだ心穏やかでいられるわけがないではないか。


 ビタリーは手にナイフを握っている。元々ナイフを入れていた鞘がそれだけになっていることを思えば、恐らく、今持っているナイフが持っていたものなのだろう。


 それにしても、ビタリーはなぜこうも冷静なのだろう。


 戦いに慣れているから?


 いや、だとしても、こんな急な事件に巻き込まれれば冷静さを保ち続けるのは難しいはず。ただ通りすがりに絡まれただけではなく、刃物を持った人物に襲われたのだから、なおさら。


 しかも、目の前で人が刺されたのだ。

 普通、次は自分かもしれないと恐怖を抱きそうなものなのだが。


「刺されるとは……残念だったね、彼は」


 私が正気に戻った次の瞬間、ビタリーの口から出たのはそんな言葉だった。


「え」


 上手く言葉が出ない。相応しい言葉を見つけられない。だから立派なことは言えなかった。でも、分かることはある。それは、ビタリーが被害者ではないということ。


 彼は襲われた善良な貴人ではない——私の中の本能がそう叫んでいる。


「でも安心するといい。彼は礎となったのだからね」

「な……何を仰っているのか……?」


 ビタリーの口角は僅かに持ち上がっていた。

 薄っすらと浮かぶその笑みに、うなじが粟立つ。


「どんな国、どんな世にも、一定数の犠牲者は伴う。それは定め……寂しいけれど、仕方のないことだよ」

「ウィクトルがその犠牲者だと言うの……?」


 祝いの場でこんな事件が起こったのだ、それだけでも普通の人間なら驚きそうなもの。この状況下で冷静さを保っているだけでも奇妙なのに、こんな言い方をするなんてますます不気味。平気でこんなことを言う彼が善良な人間だとはとても思えない。


 でも、だからどうするというのか。

 ウィクトルはいないのに、私一人でここから逃げ出すなんて、できた話ではない。そこまでの力は私にはない。


「不幸だったね、実に」


 私は唯一の救いを求めてシャルティエラへ目をやる。しかし、彼女もまた、静かな表情だった。口を挟んでくることはないが、助けてくれそうな人間の顔つきをしてもいない。


 どうすればいいの——そう焦っていた、その時。


「ウタ!!」


 背後、バスの下側から、私の名を呼ぶ声が飛んできた。

 反射的に振り返る。そして、手すりに手を当てながら、声の主がいるであろう下を見る。


「フーシェさん……!」


 下にいて、私の名を呼んでいたのは、間違いなくフーシェだった。ベージュと灰色を混ぜたような色のフードをまとっており、正体を即座に判別することは難しいような状態だが、それでも、声と僅かに見える容姿を合わせて考えれば簡単に分かる。


「降りて」


 背中に布袋を背負った彼女は、上に向けて両手を伸ばす。


 飛び降りろということ? そんな。私には無理、この高さから飛び降りるなんて。

 最初はそう考えていたけれど、背後からビタリーに「何をしているのかな?」と言われ恐怖が込み上げる。ここで勇気を出さなくてはどうなるか分からない、と思い、私は決意を固めた。


 手すりを乗り越え、床を蹴りつつ飛び降りる。


 内蔵がふわりと浮くような感覚があり、直後、一気に重力を感じた。体が真下へ向かう。


 空中でバランスを保つなど、簡単に素人にできることではない。

 そのまま垂直落下し、地面に当たるかと焦った——が、幸いフーシェに受け止めてもらうことができた。


「ごめんなさい、受け止めてもらって」

「……気にしないで」

「でもどうして? なぜフーシェさんがここに?」


 周囲には護衛用の乗り物がいくつもあり、そこには人も存在している。幸い、今は彼らの意識が私たちから逸れているようだが。しかし、こうして注目を集めずにいられるのも時間の問題。じきに皆の意識がこちらへ移ってくるだろう。


「……ボナ様の指示よ」

「そ、そうだったの?」

「……何かが起こるリスクが高いから見張るように、と」


 バスから落ちる直前、ウィクトルは「手は打ってある」と言っていた。それはこのことだったのだろうか。密かにフーシェを配置している、という意味だったのかもしれない。


 フーシェに手を引かれ、その場から離れようとした、その時。


「脱走しようとしている怪しい輩がいる! 逃げるなど許されないこと、捕らえるように!」


 バスの上からビタリーが指示を出した。

 いきなり何を言い出すのか、と抗議したいが、フーシェに腕を引っ張られる。結果、そのまま逃げ続けることになってしまう。


 しかも、護衛車両に乗っていた者たちに追われることになってしまった。

 これでは完全に犯罪者、そして逃亡者ではないか。


「ふ、フーシェさん……! 説明するわ、彼らに。だから……!」

「……無駄よ、ああいう輩に聞く気はないもの」


 説明しても無駄ということか。確かに、それも分からないではない。ビタリーが捕らえるよう命令しているのだ、彼らはその命令に逆らうなんてことはしないだろう。


「捕らえろ! 絶対に、だ!」

「追います!」


 背後からはそんな叫びが聞こえてくる。

 けれどもフーシェは足を止めない。

 だが、このままでは彼らから逃れる術はないだろう。車道には護衛車両が大量にある、歩道は国民が満たしている、そんな状況なのだから。瞬間移動でもできなければ、ここから脱出なんて不可能。


「逃がさん!」


 フーシェの前に、一人の男が回り込む。


「……そこを退いて」

「命令が出ている以上、そういうわけにはいかん!」

「そう……残念ね」


 フーシェは背中の布袋から斧を取り出す。


「……少し眠っていてもらうことにするわ」


 対峙していた男は、突然斧が出てきたことに愕然としている。口は丸く開き、顔全体が引きつっていた。護衛とはとても思えないような情けない顔。


 刹那、フーシェが掴んでいるのとは逆の手を後ろから握られた。


「君も一旦拘束する!」

「え……」


 前にもこんなことがあったような気がする。

 いつだって私は他人の足を引っ張ってしまう。

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