43話「リベルテの術」
リベルテに手を引かれ、私はひたすら大地を駆けた。
その時はただ足を動かすことに必死で。別のことを考える余裕などなくて。屋内へたどり着くまで、何一つ考えられなかった。緊急事態に慣れている者なら、多少は思考できたのかもしれないが。
宿舎の入り口を通過し、一階通路へ入ってすぐのところで、前を駆けていたリベルテが止まった。それにより、私も立ち止まる。
人のいない通路は、いつもとは違う不気味さに包まれている気がする。
これまでも外出する際など幾度もここを通った。だが、その時は不気味さなど感じなかった。広くない通路に誰もいないことはあったが、それでも、何も思うことなく歩けた。それなのになぜ、今はこんなに気味悪く感じるのだろう。廃墟に入り込んでしまったかのような気分になるのは、先ほどの狙撃のせいだろうか。
乱れていた呼吸が徐々に落ち着いてくる。
しかし、静寂に対し抱く嬉しくない感情は、まったくもって消えてくれそうにない。
「リベルテ……何だか不気味じゃない?」
得体の知れない恐怖感に耐え切れず、私は切り出す。
私の言葉を耳にしたリベルテは、こちらへ顔を向け、それからゆっくりと口を開く。
「ここが、でございますか?」
リベルテは恐怖を感じてはいないようだ。私の発言への返しから、そう察した。表情はやや硬めだが、この場所への嫌な感情は持っていないようである。
「えぇ。上手く言えないけれど……嫌な感じがするの。どうしてかしら」
「狙撃などという場面をご覧になったからではございませんか?」
眉を寄せ、心を覗こうとするような目つきで、彼は私に二三歩接近してくる。そして、落ち着きのある動きで両手をこちらへ伸ばすと、私の右手をそっと握った。片手を両手で握られるという、奇妙な握られ方。
「気分が優れないようでございましたら、一度休まれた方がよろしいかと。無理はなさらない方が、と思いますので」
親身に対応してくれるのはありがたいこと。でも、今一番欲しいのは、寄り添う言葉ではない。私は、この気味悪さの正体が知りたいのだ。歪な世界に飛ばされたような感覚が一体何なのか、そこが最も気になるところ。
「ありがとう、リベルテ。でもね、私は——」
刹那、リベルテの背後に何かが落ちてきたのが見えた。
「後ろ!」
私は咄嗟に叫ぶ。
その声に反応し、リベルテは振り返る。
落ちてきたのは人間だった。それも男性。昆布色のコートに身を包んだその男性は、鼻から首にかけてをニット生地の布で隠している。それゆえ顔ははっきり視認できない。だが、だからこそ敵なのだと察知することができる。私たちの敵でないのなら、顔を隠す必要なんてないから。
男性の右手には、刃渡り三十センチほどのナイフ。
銀色の刃が、爛々とこちらを睨んでいる。
「何者ですか!?」
リベルテは動揺を隠しきれていなかった。
大きな声を発することは辛うじてできている。しかし、顔面蒼白だ。強盗に襲われた一般人のような顔つきになってしまっている。
「死んでもらう」
「意味が分かりません!」
リベルテはいつも下げているポシェットから本を取り出す。開いても片手で持てそうなくらいの、小振りな本を。
顔の下半分を隠した男性は、両肘を曲げながら二本の腕を前方へ出し、体全体の位置を若干下げながら構えている。しかも、いつでも殺しにかかれる、とでも言いたげな目で、こちらを静かに睨んでいた。
一人の時でなかったことは幸運と言えるだろう。
ただ、一緒にいるのがリベルテなので、安心しきるわけにはいかない。
リベルテではなくウィクトルかフーシェかが共にいてくれたなら、もう少し安心していられたのかもしれないが。
……でも、人生に『もし』は存在しない。
こうこうだったら良かった、とか、誰々がいてくれれば良かった、とか、そんなことばかり言っても何も変わらない。
目の前にある状況の中で、できることを考える——その方が、生産性はずっと高いはずだ。
男性と向き合うリベルテは、片手で本を開きつつ、いつになく険しい表情で相手を凝視している。懸命にできることをしよう、という心意気を感じた。
リベルテは、この危機的状況にも怯まず、自身にできることを考えているのだ。私はそれを見習わねばならない。あったかもしれなかった可能性を夢みて今を残念に思う、なんていうのは、今すべきことではない。
「女性の前で暴力的行為をしようなどという考え、恥ずかしいとは思わないのですか!」
威勢よく声を張り上げるリベルテ。だが、対する男性がリベルテを恐れるはずもなく、ふっと笑みを息でこぼしていた。
「知るか」
次の瞬間、男性は駆け出す。
その瞳が捉えているのはリベルテだ。
「気をつけて!」
男性の接近に合わせ、私は一メートルほど後ろへ下がる。
逃げるみたいで気が進まない。でも、下手に動いたら余計にリベルテに迷惑がかかる。だから私は下がることを選んだのだ。
かっこいい選択ではないけれど、仕方がない。
「もちろんでございます!」
男性はナイフの刃を振る。
彼から見て右から左への豪快な振りを、リベルテは後退してかわした。
ナイフの振りから流れるように繰り出されるのは、拳。ナイフを持っていない左手でも打撃に、リベルテは開いたままの本で応じる。
「リベルテを舐めないで下さい!」
男性の拳を、本の紙面が受け止める。
「火!」
……火、て。
そのまま過ぎやしないだろうか。
リベルテが叫んだ瞬間、紙面から赤い火が噴き出す。
男性の左手には革製の手袋がはめられているが、それでも熱さを感じたらしく、彼は舌打ちしながら後退した。
「術士か……!」
この時、それまで余裕に満ちていた男性の目もとに、初めて警戒の色が浮かんだ。華奢でいつでも捻り潰せると思っていた相手が実は特殊な力の持ち主であったことを知り、平静を保ちきれなかったのだろう。
無論、リベルテの術に驚いているのは男性だけではない。私もだ。
これまでしばらく共に暮らしてきたが、リベルテの術を目にする機会はほとんどなかった。彼が特別な力を持つ人間であることは話で聞いていたから知ってはいたものの、これまではその力がどのようなものであるかを実際に目にするには至らなかったのだ。