35話「フーシェの忠実さ」
一旦舞台から離れたところへ非難して、数分。木の板を靴の裏で叩くような足音が聞こえてきた。一瞬は「まさか男性が追ってきたのか!?」と焦ったが、男性にしては小さい足音で、どうやら男性ではなさそうだと察する。その直後、聞き慣れた声が耳に入ってくる。
「……リベルテ、ウタ、こんなところにいたの」
現れたのは、フーシェだった。
彼女は相変わらず無表情。しかし、その瞳には鋭さがある。
「フーシェ! あの男性はどうなりましたか?」
「……ボナ様が一時的に拘束した」
「主が、ですか!」
「……そう。だからもう心配要らない」
フーシェの発言を聞き、私は密かに安堵する。
もうあの男性が襲ってくることはないのだと、ようやく確信できたから。
「……そろそろ楽屋に戻ってもいいはず」
そうだ、私の歌は終わった。だからもう終わりで良い。今日の歌唱披露は終わったのだ。
リベルテはフーシェに「分かりました」と返し、それから、視線を私の方へ向けてくる。彼は笑みを絶やさず、「ではウタ様! 一度楽屋へ戻りましょうか!」と明るい声で言ってきた。私はひとまず「えぇ」と返しておく。
「フーシェは主のところへ行っておいて下さい」
「……ボナ様からはウタの様子を見るよう言われているわ」
「そうなのですか? しかし、主をお一人にするのは心配です」
「……そうね。でも、ボナ様の命令は絶対よ」
淡々とした調子で述べるフーシェに、リベルテは苦笑する。
「では共に来ますか?」
「……そうするわ」
どうやら、フーシェも同行してくれるようだ。
リベルテだけでなくフーシェも一緒に来てくれるなら心強い。それに、こういう時だからこそ、人は多い方が安心できる。
しかし、それによってウィクトルが一人になるのなら、それはそれで心配ではある。
彼は私よりずっと強い人間だから、もし男性が暴れたとしても、そう易々と負けたりはしないだろう。手を出されても抵抗できるだろうし、何なら倒してしまえるくらいの力だってあるはず。
でも、だからといって心配でないわけではない。
ウィクトルだって人間だ。完全体ではない。だから、何かが起きた時、一人で対応するのが難しい場面だってあるだろう。
「ウタ様? どうなさいました?」
「あ……いいえ、何でもないの。気にしないで」
「体調が優れませんか?」
「いえ。本当に、平気よ。少し考え事をしていただけなの」
それから、楽屋として使っていた部屋に戻り、ドレスを脱ぐことにした。
私は、またリベルテに手伝って貰えば良いと考えていたのだが、意外にもフーシェが積極的に手伝ってくれる感じで。彼女はリベルテを部屋から追い出すと、私の着替えを手助けしてくれた。
「ごめんなさいね、フーシェさん。手伝ってもらってしまって」
「……べつに」
リベルテが追い出されたのは気の毒としか言い様がない。ただ、手伝ってくれるのがフーシェだからといって困ることはなかった。というのも、彼女も案外器用だったのだ。リベルテのような細やかな気遣いはないが、ドレスを脱いで元の服装に戻る分には、フーシェの手助けでも十分だった。
「あのような危険な人物が紛れていたとは。少々不運だったな、ウタくん」
着替えを終えた頃、ウィクトルが訪ねてきた。
その脇には、追い出されていたリベルテもいる。
「ウィクトル。何もされなかった?」
「私が、か? まさか。私は何もされやしない」
「なら良かったわ」
万が一何かあったら大変だ、と思って尋ねただけだ。
何もされなかったのなら、それでいい。それ以上の答えなどありはしない。
「それで、これからはどういう予定?」
今回の仕事が終わったところで、改めて尋ねてみる。
今日は色々あったが、まだ夜ではない。これから移動や用事が入っている可能性もゼロではないからこそ、尋ねたのだ。ここからの動きを知りたくて。
「これからの予定か? ええと、確か……」
「次の目的地へ出発する予定でございますよ!」
すかさず口を挟んできたのはリベルテ。
予定の管理に関しては、ウィクトルより彼の方が優れているのかもしれない。
「今日中にここを出るのね」
「はい! その予定でございます! ……あ、ですが、不可能でしたら申し付けて下さいませ。その場合は再考致します」
私の気持ちを配慮する一言を付け加えくれる辺り、リベルテらしい。
「気遣いありがとう。でも平気よ、行けるわ」
でも、彼の優しさに甘えているわけにはいかない。
ここで生きてゆくのなら、できる限りのことはしていかなくては。
以降も、歌を披露する旅を継続した。
キエル帝国内を回る中で、私は、色々な出来事に遭遇した。人々の温かさを感じる良いこともあれば、逆に人々の心なさを感じることもあったけれど。でも、良いことも悪いこともすべてをひっくるめて、学びにはなったように思う。多くのものを得ることができたと感じる。
もちろん、辛さを感じる時だってあった。
だが、ウィクトルを始めとする皆が傍にいてくれたから、心が折れることなく進んでゆけた。
それに、キエル帝国領内には美しい風景が多くあった。地球とは少し違っているけれど、心奪われるような、そんな光景がたくさんあるのだ。
未来はまだ分からない。何も分からない。これからどうなるのか、どのような道を歩いていくのか、今はまだ分からないことだらけ。けれども、これが運命なのならば、私はその運命に従い生きる。
暗闇に憎しみの炎を燃やすことはせず。
ただ、前を向いて、光の差し込む方へと行きたい。




