197話「ウタの公演後」
気がつけば、拍手の波のただなかにいた。
ホール内の乾いた空気が手を叩く軽い音に激しく揺らされている。
「大丈夫ですか、ウタさん」
「……フリュイさん」
正気を取り戻したのは、いつの間にやら隣に立っていたフリュイが声をかけてくれた時だった。
これまでは一人で拍手に応えることも多かった。だが、今回は違ったらしい。フリュイも舞台上に登場していた。恐らくは、ミソカニが演出を変えたのだろう。
「ぼーっとしてますけど」
「す、すみません……」
「いや、べつに、僕は何でも良いんですけどね」
「は、はぁ……」
ライトの中、無事終了したのだと実感する。終わってしまった切なさと大事なく終わった安堵が心の中で混ざり、何とも言えぬ感情が込み上げてくる。言葉にならない。ただ、目の前に溢れる賞賛の眼差しに、目の奥が熱くなるのを感じた気がした。
白いロング手袋をはめた手を、皆に向けて振る。
帝国内での公演だからだろうか。客席に知り合いの顔を探してしまう。それは、これまでとは違う感覚だった。ファルシエラでの公演の時は客席にいる人たちがすべてひとまとめに見えたというのに、今日は客席の人たちが個人の寄せ集めに思える。
公演後、私を含む出演者は、一旦控え室へと戻った。
一人になれてホッとする。
誰かと過ごす時間が嫌いなわけではない。騒々しいのは好きではないが、賑やかさそのものが嫌いかと聞かれれば素早く頷きはしないだろう。ただ、華やかな場所に立ち続けるというのはどうしても緊張してしまうものなのだ。それゆえ、華やかな場所へ立てば立つほど、静かに過ごしたいという思いも膨らんでくる。控え室は、その望みを叶えてくれるところだ。
体重のかけかたによっては転びそうな簡易椅子に座り、鏡に映る自分をぼんやり眺め、テーブルに突っ伏す。そんな時間が好きなのだ。
だが、穏やかな時間は長続きしない。
扉を誰かがノックしてきたのだ。
「は、はい!」
相手が誰かは知らないが、だらしないところを見せるわけにはいかない。
返事は元気に。
「どうぞ、入って下さい」
そう告げると、真っ白で地味な扉がゆっくりと開く。
その隙間から現れた顔は——エレノアのものだった。
「エレノア!?」
「久しぶりー! 来ちゃった!」
愛らしい動物のような雰囲気をまとう少女は、屈託のない笑みを浮かべながら部屋に入ってくる。足取りはとても軽やか。ウサギが跳ねるかのよう。
「そんな、どうして……?」
私は何度か客席に知り合いを探していた。けれど、その中でエレノアの姿を見かけることはなかった。愛らしい彼女のことだから、いたなら見つけられたはずなのに。
「仕事があってちょっと遅れちゃったんだけど、終わるまでには間に合ったよ!」
「気づかなかったわ」
「ホント? 何でだろ? 後ろの方だったからかなー?」
エレノアは躊躇いなく接近してくる。そして、私の白いロング手袋に包まれたままの手をそっと掴む。優しい手つきだ。エレノアの手指は柔らかい。
「後ろの方だったのね。それで気づかなかったのかもしれないわ」
「うん! きっとそう! 最後の歌はフルで聞いたけど、すっごく良かったよ!」
一番に会いに来てくれる人がエレノアだとは思わなかった。でも、彼女に会えて嬉しいことは紛れもない事実だ。ただ、エレノアにまた会いたいという願いがこんな形で叶うとは、想像していなかったけれど。
「さっすがウタさん! って感じ?」
「褒めすぎよ」
「ううん! そんなことないっ! 凄いよ、こんな舞台で」
「あ、ありがとう……」
エレノアは私が思っている以上にハイテンションになっていた。
なぜかとても楽しそうだ。
再会を喜んでくれている? 舞台を観てテンションがおかしくなっている?
「……何だかテンション低くない?」
まずい。エレノアに怪訝な顔をされてしまった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「もしかして疲れてる?」
「え、えぇ。ちょっと……そうかもしれないわね」
本当は、疲れを感じるのはもう少し先だろうけど。
エレノアと別れ、私は再び一人の時間へと戻っていこうとした——が、一分も経たないうちに次のノック音が聞こえてくる。
休ませてー! と叫びたい気分になりつつも「はい」と返事する。
すると「開けても構わないだろうか?」と尋ねる声が聞こえてきた。
「……ウィクトル!?」
思わず大きめの声を発してしまう。
これで人違いだったら恥ずかしい……。顔を合わせられない……。でも、確かに彼の声だったわ。これまで長い時間聞いてきたからこそ、確信できる。彼の声だ、って。間違ってなんていないはず……。そこまで悪い耳はしていないもの。
そんなことを考えつつ、扉の向こう側の様子を窺っていると。
「すまないな。いきなり訪ねてしまって」
扉が開いてウィクトルが現れた。
私が察したことは間違っていなかったようだ。
「やっぱり! 貴方だったのね」
心の中が一気に快晴になる。
いや、実際には彼が視界に入っただけで何も起こっていないのだが。ただ、なぜだか分からないけれど、そんな気分になるのだ。
「しばらく……連絡できずすまなかった」
「良いのよ、気にしないで」
自然に足が動いた。彼の方へと歩み寄っていってしまう。
「来てくれていたのね。ありがとう」
「少し用が入ってしまい、遅刻しかけた。申し訳ない」
「知ってるわ。やっぱり用事だったのね。気にしないで」
唐突に入った用事というのが何だったのか、そこは気になるところではある。
でも、そんな疑問は小さなこと。
今はただ彼に会えたことが嬉しい。舞台を観てもらえたことも。
「見事だった」
直視しながら直球で褒められると、器用なことは言えなくなってしまう。
「……ありがとう」
礼を述べるのが限界だ。
目を合わせることさえ難しい。
「その服もな」
「これ? これはリベルテの力作よ」
様々な飾りがついて豪華になった白色のドレス。それは、リベルテがミソカニと話し合いつつ作ってくれたものだ。この衣装は、私も気に入っている。
「もっとも、君と君の歌があってこその衣装だが」
「……面白いことを言うのね」