195話「野望の黄昏」
ビタリーはナイフを持った手を振り上げる。そして一気に振り下ろす。今まさに、銀色の刃がウィクトルの身に突き立てられようとしている。が、刺される直前に、ウィクトルが膝を曲げた足を振り上げた。彼の膝が、ビタリーの右肘に当たる。結果、振り下ろされるタイミングが遅れた。その隙に、ウィクトルはビタリーの下から抜け出す。
「ちっ……」
今まさにナイフを突き刺す、というところまでいっていたにもかかわらずウィクトルを逃してしまったビタリーは、眉間にしわを寄せて舌打ちする。
「甘いな」
ウィクトルは転がるように移動し、少し離れたところにあったレイピアを拾う。
「……どうやらそうらしい、ね。やるじゃないか」
ビタリーは再び武器を拳銃に持ち替える。
両者が武器を手にして対峙した頃、ウィクトルの傍にリベルテがやって来た。
「主! お体は?」
「たいした怪我ではない」
ウィクトルは刃物の刺さった肩を見て、それから再びリベルテに視線を戻し、答えた。
「刺さっていますが……」
「大丈夫だ」
「怪我していては公演に行けませんよ」
「……それはまずい!」
刹那、ビタリーが発砲。
ウィクトルの前に出たリベルテが、炎の塊で銃弾を防ぐ。
それとほぼ同時に、刃物を一本持ったカマカニが、リベルテに向かって突っ込んでくる。しかも、目を剥いて「旦那ぁのためすぅ!」と叫びながら。
「入ってこないでくれ」
カマカニとリベルテの間にウィクトルが入る。
その手には、煌めく細い刃の剣。
「無理すぅ!」
「……なら仕方ない」
ウィクトルは一瞬だけ躊躇いを抱いたかのように目を細めたが、次の瞬間、レイピアを水平方向に振った。その先端は、カマカニの目もとを掠める。瞼が切れたのか、少量赤いものが散った。
目もとに浅い傷を作ることとなってしまったカマカニは、手のひらで目を押さえ、情けない大声を発する。
傷自体はそこまで深いものではなく、出血量もたいして多くはない。けれども、傷つけられた衝撃は大きかったらしく、カマカニは完全に落ち着きを失ってしまっていた。
半開きになった目からは、丸い涙の粒が次から次へと零れ落ちる。
彼はもはや戦える精神状態ではない。
「さぁ、次だ」
目を押さえつつその場にしゃがみ込んでしまったカマカニを無視し、ウィクトルは意識をビタリーの方へと戻す。
「主、もうそちらは良いので?」
「今のうちに、だ。一気に仕留めよう」
状況は大きく変わった。
二対二から二対一へ、完全に変貌した。
たとえ相手がそれなりに戦える強者だとしても、二人が相手というのと一人が相手というのでは話が大きく違ってくる。個人の戦闘能力が高ければ、なおさら、一人欠けることによる変化は大きい。
「はい! まだ間に合いそうでございますね」
「あぁ、ここで終わらせる」
ウィクトルはレイピアを手に、ビタリーに迫っていく。
琥珀色の瞳にあるのは静けさのみ。
繰り出される突き。ビタリーは前もって読み、体を横にずらして回避する——が、そのタイミングの僅かな停止時間をリベルテは見逃さない。炎の塊を飛ばし、主人を援護する。
「……余計なことを」
ビタリーは自身の服の裾が焼けたことに気づき、不快感を露わにする。
「カマカニ! いつまで泣いてる!」
二対一ではさすがに不利だと考えたのか、ビタリーはカマカニに対して言葉を発した。
だが、カマカニは僅かに面を持ち上げて「ふぇ……?」などと情けない乙女のような声を漏らすのみ。目もとは濡れ、顔全体が赤らみ、情けないとしか言い様のない顔面になっている。
「援護しろ!」
「ふぅうう……旦那ぁ……ずみばどぅぇーん……」
ウィクトルのレイピアがビタリーに迫る。ビタリーは拳銃を使いレイピアの先を防ぐ。咄嗟の行動だった。何とか刺されずには済んだものの、動きが止まったところを見逃さずリベルテが炎の塊を放ってきたため、そこからさらに回避を重ねなくてはならないという形になる。
「謝らなくていい! 戦え!」
ビタリーは大きく一歩後退し、ウィクトルたちから距離をとる。
カマカニを除く三人はまだ思い通りに動けている。負傷も、ウィクトルが肩を刺されたこと以外には、大きなものはない。だがそれでも、ビタリーは不利な状況だと感じているようだ。彼の表情から余裕は消えていた。
「旦那ぁ……自分……無理す……」
「何を言ってる!」
「目玉に傷がついてたら……ショックすぅ……ずみばどぅぇーん……」
「瞼だろう! 気にするな!」
「病院行きたいすよぅ……」
ビタリーはさらに苦々しい顔をした。
それは多分、カマカニが使い物にならないと悟ったからだろう。
——その直後、戦況が動いた。
反撃を恐れることなく豪快に踏み込んだウィクトルがレイピアを振り、それが偶然ビタリーの手もとを掠め、拳銃が遠くへ飛んでいったのだ。
そして、レイピアの先端が、ついにビタリーの喉元に届いた。
訪れる静寂。
「動くな」
ウィクトルは、いつでもビタリーの喉を突ける状態のまま、冷ややかに言い放つ。
「……ふ。意外とやるね」
敵の方が数が多い、命を握られている状況——それでも、ビタリーは笑った。
「過去には、フーシェが世話になったな」
「いつの話だか」
「それに、私も刺された。あの時のことは忘れていない」
「何を言っているのやら、だよ」
ウィクトルはすぐには貫かない。
ビタリーは視線を周囲に泳がせている。否、周囲を確認し逃れるすべを模索しているのだろう。けれども、ビタリーの方が不利であることに変わりはない。何せ、ウィクトルの気が少しでも変わったなら、喉を貫かれて終わるのだから。
「ビタリー、お前は人々の上に立つべき人間ではない」
ウィクトルは鋭い目つきでビタリーを見る。ビタリーもまた、ウィクトルの顔面を見ていた。両者の視線がこうもしっかり重なるのは、初めてのことかもしれない。
「君は人々の上に立てるというのかい? 皆を正しく導けると?」
「いや、そうは言わない。私もお前も同じこと……傷つけることに長けた人間が、人々の上に立つべきではない。ただそれだけだ」
その時、皇帝の間に人が流れ込んできた。
元部下の少年が連れてきた仲間だった。




