188話「リベルテの困惑」
「そういうことだったんですね。よく分かりました」
ウィクトルは運悪く、かつての部下に出会ってしまった。
幸い、少年は今もビタリーに賛同しているわけではなかった——そのため、居場所を明らかにされることは何とか回避できたのだが。
けれども、すぐに自由にしてもらうことはできなかった。
「公演はまだ数日前なんですよね。だったら、その……協力していただけませんか? 僕らは今、反ビタリー派として活動しているんです」
少年の話によれば、今もまだ、帝都ではビタリー派と反ビタリー派の戦いが続いているのだとか。また、特に反ビタリー派が過激化しつつあるらしく、「このままでは多くの負傷者や死者が出かねない」という状況なのだとか。
「すまんが、私はもう戦う気はない」
ウィクトルははっきり断った。
もう戦いの表舞台へは出ていかない、そう心を決めていたから。
けれど、少年はすぐには諦めなかった。よほどウィクトルの力を借りたかったのだろう、頼み込み続ける。
「そこを何とか! ……ならないでしょうか。報酬なら出せます!」
「私は傭兵ではない。金のため戦うわけではない」
「ですが……貴方のような方が協力して下されば、救われる命があるんです」
ウィクトルの心は決まっていた。望まぬ人殺しをする気など、とうに失っている。以前は誰が相手でも戦ったが、それはもう過去のこと。今は、己が命じられる殺人マシーンではないと、彼はそう信じている。
だが、元部下の少年は、いくら拒否されても諦めたりはしなかった。
何を言われてもウィクトルを仲間に引き込む——そんな決意の滲んだ目をしている。
「公演の日までにすべてが終わるようにします! 後処理は僕らだけでも何とかなります! 何なら、ウィクトルさんにはその日の朝には抜けてもらっても構いません! ……それでも協力していただけませんか?」
少年は強く訴える。表情は真剣そのもので、瞳には涙が浮かんでいるようにも見えた。そのくらい、少年の表情には、他者に訴えかけるものが存在していた。
「お願いします!」
ウィクトルはリベルテと顔を見合わせる。
二人は双子であるかのように困った顔をしていた。
最初はウィクトルの心に「手を貸す」という発想は存在していなかった。けれども、こうも必死に頼まれては、「手を貸した方が良いのだろうか」といった考えが多少生まれてきてしまう。もう戦いの場には出ないと決意したはずなのに、その決意が揺らぎそうになる。
「なぜ私にそこまで頼む」
「……え?」
「実力者なら他にもいるはずだが」
事実、帝国内には多くの実力者がいる。その者たちが今どこにいるのかはウィクトルは知らない。ただ、そのすべてが命を落としたということはないはずだから、きっとどこかには存在しているはずだ。
「頼むなら、他の者に頼めばいい。私より強い人間もいる」
そう言われた少年は、苦しそうな顔をしながら俯く。
「……頼めないんです。僕じゃ」
辺りの空気が急激に暗くなった。少年から出る空気が降雨の直前の空のようなものに変わったからだろうか。何にせよ、暗い空気が漂い始めてしまった。
ウィクトルとリベルテはますます困った表情になる。
どう反応すれば良いのかさえ、今ははっきりとは分からない。
「ウィクトルさんになら、言えるかもしれないって……そう思って。それで……偶然出会った貴方に、頼んでみることにしたんです」
少年の言葉を聞く間、ウィクトルは瞼を下ろしていた。目を閉じて、顎を僅かに持ち上げる。天に意見を聞こうとしているかのような動作だ。少年は黙り、ウィクトルも目を閉じて上向いて。そんな奇妙な空間に一人取り残されたリベルテは、主人を不安げに見つめていた。
「……やむを得ない」
長い静寂の後、ウィクトルは渋い物を食べたかのような顔をしながら呟いた。
少年の平凡としか言い様のない顔面に、微かに喜びの色が滲む。
「力を貸そう」
「え! 本当ですか!」
「……ただし、ウタくんの公演に間に合うように抜けさせてもらう」
「は、はい! ありがとうございますっ!」
少年は両手を強く握り、目を大きく開いて、頭が飛んでいきそうなくらいの激しさで頷く。
直後、一連の流れを近くで見守っていたリベルテが大きめの声を発する。
「本気なのでございますか!? 主!?」
元部下の少年が喜ぶのと同じくらい、リベルテは驚いていた。ウィクトルが力を貸すことを選ぶとは夢にも思わなかったのだろう、らしくなく顔が引きつっている。
「あぁ。やむを得ない」
ウィクトルは淡々と返した。
「し、しかし……その……また戦うことになってしまうのでは……?」
寛容なリベルテもこればかりはさすがに理解できないようだ、疑問符に満ちた目をしている。
「だろうな。だが、元とはいえ困っている部下を放っておくことはできない」
「後悔なさいませんか!?」
「……あぁ、私は後悔はしない」
今のウィクトルとリベルテの様子は対象的だ。どこまでも落ち着いているウィクトルと、色々な方向に混乱しているリベルテ。彼らは真逆の位置に存在している。
「で、でも! 万が一負傷か何かで公演へ行けなくなったら! どうなさるおつもりで!?」
リベルテは止まらない。その口からは、言葉が、次から次へと溢れてくる。川が永遠に流れ続けるように、言葉が流れ出てくる。今の彼は、黙るということを知らないかのようだ。
「公演は行く。何としても」
「しかし! 血を流しながら行くなんてことは不可能でございますよ!?」
「それは分かっている。だから無理はしない。流血騒ぎになるようなことは……極力避ける」
説得しようとしてもウィクトルはまったくぶれない——そう悟らざるを得なくなったリベルテは、はぁと溜め息をついて、ほぼ同時に肩を落とす。
「それで? 何をすればいい」
「あっ……は、はい。では、ビタリーさんを皇帝の座から引きずり下ろしてきていただけますか」
「いや、待て。それはいきなり過ぎる」