172話「ビタリーの笑い」
キエル帝国の帝都に存在する、皇帝の間。
今日も、ビタリーとカマカニだけが、その部屋の中にいた。
ビタリーはいつものごとく書類へのハンコ押しに勤しんでいる。皇帝になったばかりの頃は慣れなかったハンコ押しにもさすがに慣れてきて、今ではスムーズに綺麗な押し方ができるようになった。
ちなみに、そのことはビタリーに比較的近い部下たちの間では噂だとか。
「そうそう。旦那ぁ、聞いたっすかぁ?」
「何だい、藪から棒に」
「ウタっていう娘さん、ファルシエラで公演に出ているらしいすよぅ」
よく知った名を耳にした瞬間、ビタリーの目の色が変わった。
「……公演? 彼女が?」
ビタリーは眉を寄せながら首を傾げる。
「小さな劇場での公演すから、そんなに凄い規模のものに参加してるわけではないみたいすけど」
今日も変わらずメイド服風ワンピースを着用しているカマカニは、重心を片方の脚にかけて筋を伸ばす体操を行いながら、言葉を発する。
「昔の知り合いから聞いたんすぅ」
「……なるほど。それは実に興味深い情報だね」
カマカニが何か話しても、ビタリーは大抵作業は止めない。しかし、今回だけは、手を止めて積極的に話に乗っていっている。関心のある話題だったから、というだけの理由なのだろうが。
「こっちはそれどころじゃないすけど……」
「だね。国民は文句が多すぎて困るよ」
「不満が高まってるみたいすよぅ。やっぱ、いきなり進軍はまずかったんじゃないすかね……」
基本的にカマカニは厳しい物言いはしない。ビタリーと話す時、カマカニはいつも気を遣っている。
だがそれは、単に機嫌を損ねないためというわけではなかった。
カマカニはビタリーを大切に思っている。だからこその配慮。他の者がビタリーの機嫌を取ろうとして甘いことを言うのとは話が違う。
そのため、思ったことはさりげなく伝える傾向がある。
ただの機嫌取りならば、何もかもすべてにおいて賛同しておけば良いのだ。カマカニがそれをしないのは、さりげなくだとしても敢えて意見を伝えようとするのは、偏にビタリーのことを思っているからである。
「……確かに。それはその通りだね。いきなり無理しすぎたかもしれない」
ビタリーは珍しく、カマカニの意見をきちんと受け止めた。
「今後は熟考した方が良いすよぅ」
「そうだね。気をつけるよ」
「素晴らしいす! それでこそ旦那ぁす!」
「旦那ぁ、て……」
呆れ笑いするビタリーを見て、カマカニは急に笑い出す。それも乾いたような笑いではなく、じんわり広がるような笑み。意味が分からないと不気味で、それを見たビタリーは怪訝な顔になった。
十数秒ほど経過して、訝しむような顔をされていることにようやく気づいたカマカニは、勢いよく「この笑いは変な笑いじゃないんすよぅ!?」と大声で主張。だが、結果的に、その主張が余計に笑いを呼ぶこととなってしまったのだった。
皇帝の間に流れる空気は平和そのものだ。
「……ふ。相変わらずだね、君は」
ビタリーは、そんなことを言いもって、書類へ目を戻す。
終わらせなくてはならない作業はまだまだ残っているのだ、のんびりしてはいられない。
「どういう意味すかぁ?」
「いや、誤解しないでほしいな。悪い意味で言っているわけじゃない」
「なら褒め言葉ってことすか?」
「ま、そんなようなものかな。君らしさを感じてね、つい言ってしまったんだ」
カマカニとビタリーがほっこりできる時間を過ごしていた時、突如、ノック音が聞こえてきた。一つ一つは小さな音だが、高い天井の部屋ではよく響く。乾いた音が、空気を揺らした。
「出てくれるかい」
「も、もちろんす! 行ってくるっす!」
ビタリーに指示されたカマカニは、進行方向を扉の方へと定め、速やかに歩き出す。
一分も経たぬうちに扉は開いた。そして訪問者が入ってくる。訪問者はカマカニに導かれビタリーの前まで歩いてきた。訪問者とカマカニ、二人共が、ビタリーから二メートルほど離れた位置で止まる。
「反乱のことに関して報告をと思い、参りました」
訪問者は、連絡を伝える係として時折皇帝の間へやって来る青年だった。
皇帝の間へ入ることにそこそこ慣れている彼は、きびきびと一礼した後、流れるように話し始めた。
「そうか。続けて」
「イヴァン殿の取り巻きの親族が反乱を起こそうとしている、との情報が入りました」
「……どういうことだい?」
「ガールズとのパーティー三昧だった腐った輩の親族です。きっと腐った輩なのでしょう」
訪問者は妙に毒のある言葉選びをする。私情を挟んでいる、と言っても間違いではないような物言い。これには、さすがのビタリーも苦笑しかけていた。
「とにかく、ですよ! 手を打った方が良いかもしれません!」
「なるほど」
「あの者たちは悪です! 民からやたらと金を搾り取って遊んでいたのですから!」
今日の彼は、いつもとは様子が違う。報告しに来ているという意味では普段と大差ないのだが。ただ、言葉の端々に妙に心がこもっている。直接的な憎しみが何かあるのか、と勘繰りたくなるような物言いである。
「それはそうだね。僕もそう思うよ」
ビタリーは視線を宙に泳がせつつそんな言葉を返す。
百人がいれば半数くらいの者は、今のビタリーを見れば「真面目に話そうとしていない」と判断したかもしれない。
ただ、青年は、そこに突っ込みを入れることはしなかった。恐らく、自身が言いたいことをはっきり言えたことに満足しているのだろう。
「それにしても、反乱が起こるというのは問題だね。調査の必要がありそうだ」
「調査するよう伝えておきましょうか?」
「助かるよ。よろしく」
「はい! 承知しました!」
青年は晴れやかな顔で部屋から出ていく。
満足したようだ。
青年が皇帝の間から出ていくと、ビタリーとカマカニは目を合わせる。
二人が互いの顔へ目をやったのは、ほぼ同時だった。もちろん、合わせようと意識していたわけではない。同時に見合ったのは、完全に偶然であった。信じられないような偶然というのは、案外、唐突にやって来るものだ。