14話「ウタの見上げる雨空」
真実はまだ分からない。何か深い理由があるのかもしれないし、あっと言わされるような予想外の答えがあるのかもしれない。今日調べた範囲のことしか私は知らないのだから、その可能性はおおいにある。揺らぐことのない真実を知りたいのなら、本人の口から聞かなくては。
……でも、正直今は聞きたくない。
もし、母親を殺したのが、私の想像通りウィクトルであったとしたら——私はどうすれば良いのだろう。
いや、そもそも。
大好きだった母親の仇がウィクトルなら、私は彼を殺めるだろうか。彼を憎しみ、その命を奪うことを願うのだろうか。
そうは思えない。
母親は今でも大好き。私を庇って彼女が落命してしまったことは不幸だった。母親が生きていてくれたら、と思うことは、数年が経った今でもたまにある。
けれど、ウィクトルもまた、私の中では大きな存在。
彼は私の歌を褒めてくれた。それに、生きてゆくために歌唱を使えば良いのだということを教えてもくれたのだ。
私の隠れた才能に気づき、ただぼんやり生きるだけだった私を、明るい世界へ連れ出してくれた人——それがウィクトル。
だから彼には恩がある。もし本当に彼が母親の仇だとしても、何の躊躇いもなく恨みの心を抱くことはできそうにない。母親を殺めた相手が目の前にいて、しかし何もできないというのは辛いことではあるけれど。でも、憎しみに心を切り替えるのは容易いことではない。思い出も感謝もない関係であったなら、迷うことなく負の感情をぶつけられたのかもしれないが。
「私は……どうすれば」
一人悶々としながらも、私は、取り敢えず眠ることにした。
もう遅い時間だから。
「……はぁ」
翌日は雨降りだった。
私が手帳に書かれた文章を解読していた頃に降り始めた雨は、いまだに降り続いている。
窓の外は薄暗い。美しい青緑の空を目にすることは、今日はできない。そして、私の胸の内にも、同じように暗雲が立ち込めている。黒ずんだもやのような塊が胸の中に居座り、ちっとも離れてくれない。
その時、コンコンと誰かが扉をノックする音が聞こえてきた。
まだ寝巻きだが、まぁ、このまま出ても問題ないだろう——そう思い、扉を開ける。
「はい」
扉を開けると、二十代半ばと思われる真面目そうな男性が立っていた。
その手にはビニール袋。
「朝食をお持ちしました」
「……朝ごはんですか?」
「はい。どうぞ」
彼は透明なビニール袋を差し出してくる。その中には、パンと思われるものやチューブなどが入っていた。
「近所の店で買ってきたものになります」
「あ、ありがとうございます……」
盛り付けることすらせず、買った際の袋に入れたまま。飾り気など微塵もない。完全に「そのまま」だ。正直、これでは、いまいち気分が盛り上がらない。
ウィクトルたちが帰ってくるのは何日先なのだろう。それまで私は一人でいるしかないのか。こんな部屋で一人、意味もなく時間を潰すことしかできないというのか。
……いや、それは違う。
私は捕虜でも囚人でもない。この星の生まれではないし、この国の人間でもないが、まだ一人の人間であることは確か。私が一人の人間であることは、ウィクトルたちだって認めてくれているはずだ。つまり、私は籠の中の鳥ではない。
「ちょっと出かけてみようかな」
チューブ型のケースに入ったペースト状の食べ物は美味しくなかった。
この国の通貨を私は持っていない。そのため、買い物をすることはできないだろう。でも、それはべつにいい。様子を見るだけでも、暇つぶしにはなるはずだ。
思い立ったら、すぐ行動。私は宿舎を出た。
だが。
……しまった、雨が降っているのだった。
私がそう気付いたのは、宿舎の玄関口に到着してからで。傘が欲しいが、どこにあるのかも分からず、結局外へ行くのは断念するしかなかった。無念。
ウィクトルらがオルダレスへ行ってしまってから一週間。
「ただいま」
昼、彼らは突然帰ってきた。
「あ、ウィクトル……お帰りなさい」
ウィクトルはいつも通りの淡々とした調子で挨拶をしながら部屋に入ってくる。
私はそれを迎える立ち位置。
怪しまれないよう、自然に振る舞うよう心掛けた。
「無事だったか」
「え、えぇ」
一度は漁った本棚も今は元通り。背表紙がぴしっと並んだ状態になっている。私の母親のことが書かれていた手帳も、発見前と同じように棚の奥へ突っ込んでおいた。
「……どうかしたのか?」
「ごめんなさい、久々に会ったから少し緊張しているの」
聞きたいことは色々ある。
でも、尋ねるのはまだ。
もう少し時間に余裕ができてからでいい。
「お久しぶりでございますね! ウタ様!」
「久々ね、リベルテ。元気にしてた?」
「は、はい! もちろんでございます!」
あぁ、なんだかとても懐かしい。
旧友に会ったみたいな気分だ。
帰ってきたのはウィクトルとリベルテだけではない。フーシェも一緒に帰ってきていた。しかし、彼女だけは私に何も言ってこず。やはりまだ好かれてはいないのだな、と切なく思ったりした。
その日の晩、夕食の席で。
「ウィクトル、仕事は上手くいった?」
三人が帰ってきてくれたから、もうチューブ食を口にしなくて済む。というのも、彼らが宿舎にいる時には彼らと同じものを食べられるのだ。
栄養があるとはいえ、ぱっとしない味のチューブ食を毎日食べるのは苦行でしかない。
「平定は完了した。皇帝への報告も既に済んでいる」
「じゃあ今回の仕事は終わったのね」
「そうだ。もう少し長引くかと思っていたが、案外そんなことはなかったな」
今日の夕食は豪華だ。
葉野菜のサラダに、魚の粉を溶いて作ったスープ。パンの相棒には、青い木の実を炊いたジャム。そしてメインは、白身魚を白いタレで味付けした魚料理。
大金持ちの食事と比べれば控えめな内容かもしれないが、チューブ食よりかは遥かに美味しい。