132話「ウィクトルの言い方に関する件」
顎を蹴ることで隙を作り、ウィクトルは男から逃れた。
圧倒的に有利な体勢にまで持ち込んでいたにもかかわらず、獲物を捕らえきれず逃してしまった男は、「やっちまっタァ!」と後悔に満ちた叫び声を放つ。頭を抱えていた。
「主! お怪我は!?」
地面に押さえつけられるというかなり不利な状況から自力で脱出したウィクトルを即座に迎えるのはリベルテ。
「右肩、右手の甲、左腕、でございますね?」
リベルテは目玉を回し、ウィクトルの状態を速やかに把握する。その間数秒。恐ろしい素早さだ。
「あぁ。そうだ」
「下がっていて下さい、主。あとはリベルテが」
リベルテは「脱出しただけで十分」とでも言いたげな顔をしていた。
私もそれには同感だ。あの危機的状況から自力で逃れるというのは簡単なことではないだろう。だからこそ、それを成し遂げたのは見事。自分の力で脱出した、というだけでも、頑張りは伝わる。
「テメェ! セコく逃げやがってェ!」
男は指先で蹴られた顎を擦りながら怒鳴っていた。
本を手に持ったリベルテが一歩大きく前に出る。
頬がふっくらした少女のような愛らしさのある顔はそのままだが、目つきは険しい。今のリベルテは、明らかに怒っている。顔面の筋肉に、瞳に、怒りの色が滲んでいた。
「セコいのはそちらでございます!」
「アァン!? 出てくんな! チビが!!」
刹那、リベルテの目つきがさらに鋭くなる。
「そうでございますか。チビと。ほう……良いでしょう。では、そのチビに塵にされなさい!」
手を傾け、本を開く。僅かに黄ばんだ紙面が露わになる。文字が書かれた地面から溢れ出すのは、紫色の怪しい光。粘液のように重苦しく、湧き出てきている。見たことのない術だ。彼の細く小さな体にみなぎる非現実的な力はこれまで幾度も目にしてきたけれど、この紫色の光は見たことがない。
「リベルテ……?」
ウィクトルはリベルテを怪訝な顔で見守る。
「沼!」
リベルテはいつになく力のこもった調子で言い放つ。
すると紙面から紫の光が湧き出してくる。溢れた光は、悪魔のように膨張し、男に向かって襲いかかってゆく。
「う、う、ウゥウー!?」
「塵にします!」
「うあぁぁぁぁーッ!?」
悪魔にも似た紫色の光は、男に迫り、男を飲み込んでゆく。
その数秒後。
光が消え去った時には、男は意識を失って地面に倒れていた。
「ふん!」
リベルテの術、その強さは圧倒的。彼は一瞬にして勝利を収めた。
「凄いな……」
「主! お待たせ致しました!」
男を倒すや否や、リベルテはウィクトルがいる方へと駆けてくる。その時には、戦闘中の殺伐とした雰囲気は消えていて、いつものリベルテに戻っていた。
「すぐに手当て致します」
「迎えの時間は問題ないのか。いや、もう遅刻か。だがしかし、急げば間に合うかもしれない」
「そんなことを言っている場合ではございません!」
リベルテはウィクトルの腕の様子を確認する。血はある程度止まっているものの赤く濡れてしまっている腕の様子を、リベルテは慎重にチェックしていっていた。だが当のウィクトルは自身の腕の怪我にはあまり関心がないようで、どちらかというと迎えの時間の方を気にしている。
「この矢を抜いても構いませんか?」
「あぁ」
この場で手当てを始めたことは少々意外だった。が、いつまでも放っておいて悪化するよりかは良いのかもしれない。
「麻痺がどうのこうのと言っていたようでございましたが、毒でも塗ってあったので?」
「恐らく。感覚がない。腕が取れたようだな」
「何という恐ろしいことを!」
「いや、歯の治療でもあるだろう。麻酔を打った後、唇がなくなったように感じることが。そんな感じだ」
リベルテは手当てを進めつつ「確かに、それはありますね」と苦笑していた。
「怪我させてしまってごめんなさい」
地面に座り手当てを受けているウィクトルに、私は謝罪する。
「なぜ君が謝る?」
「え」
「男たちの狙いは私だった。君に罪はないはずだが」
そう言われると、何も言い返せなかった。
なぜ謝ったのか? なんて上手く説明できなくて。
「心優しいことを悪と言う気はないが、罪がない時は謝る必要がないと思うのだが」
「そ、そうね……」
「悪質な輩は君のような綺麗な心の持ち主を目標にしがちだ。君の素直さは評価すべきものではある。が、乱れた世においては利用されかねない。気をつけてくれ」
流れるように話され戸惑っていると、リベルテが「主!」と口を挟んだ。
「ウタ様は部下ではないのですよ。そのような言い方、どうかと思います」
「何か問題が?」
「問題大アリでございます! そんな説教のような話を続けていては、嫌われますよ!」
対応に困っていたところだったので、リベルテが話に参加してきてくれたのはありがたかった。
「間違ったことは言っていないはずだ」
「主……。論点はそこではございません。間違っているとか間違っていないとか、そういうことを話しているのではないのでございます」
リベルテは、矢が刺さった右肩とレイピアを刺された右手の甲の手当てを終え、視線を次へと移す。彼が目をやったのは、刃物で傷つけられた左腕だ。
「上から目線な言い方をするのは良くないと申し上げているのです」
「な。上から、だと。そんなつもりはない」
「自覚がないならなおさら問題でございます」
意外とはっきり言うのだな、と、私は少し感心した。
「主はウタ様が大切なのでしょう?」
「もちろん」
「ならば、今のような物言いは止めるべきでございます! いちいちグダグタ言っていると、嫌われますよ!」
……心なしか言い過ぎではないだろうか?
いや、リベルテは私を思ってこう言ってくれているのであって、私とてそれを理解していないわけではないのだけれど。
「そういうものなのか? ウタくん」
「えっ」
いきなりこちらへ話が飛んできて驚いた。
「いや、だから、リベルテの意見が正しいのかどうかをだな」
「あ、あぁ。そういうことね」
「そうだ。で、どうなんだ? 正しいのかどうなのか」