117話「決意の代償」
ウィクトルは私を殺さないことを選んでくれた。
それ自身は昇天するほど嬉しいことだ。
けれども、これから先のことを考えたら、全力で歓喜することは難しい。というのも、まだすべてから解放されたわけではないからだ。
皇帝を裏切り、別の道を選んだ。それはきっと、この帝国において最高と言っても過言ではないほど重い罪になるだろう。女に惑わされたから、なんて理由にはならない。きっと追っ手も来る。皇帝に従い戦いを続けるより、これから私たちが行く道はずっと険しいもののはずだ。
それでも、今さら逆戻りすることはできない。
選んだ道を進む。それしかない。
広間を出て、壁やら天井の一部やらが剥がれているような通路を駆けてゆく。私はウィクトルに抱えられたまま、みるみるうちに移り変わる風景を眺めるだけ。けれども心臓は鳴る。走っておらずとも、走っているのと同程度くらいの胸の痛みがあった。
「あら、ウィクトル。こんなところで会うことになるとは思いませんでしたわ」
運ばれていた途中、行く手を阻むように一人の女性が現れた。
まだあどけなさの残る顔をした、シーグリーンの髪の女性——シャルティエラだった。
「……退いてくれ」
「待ちなさい! 通しはしませんわよ!」
シャルティエラの手には長い槍が握られていた。
武器は可憐な令嬢には似合わない。
彼女は華奢な両腕で槍を突き出し、私たちの行く手を塞ぐ。
「戦う気はない。私は離脱する」
「そちらに戦う気がなくとも、こちらにはありますの!」
勇ましく声をあげるシャルティエラの傍には、以前顔を見たことのある女性の姿があった。確か、シャルティエラの侍女だったか。彼女は、槍を手にするシャルティエラを黙って見守っている。
「殺り合う気か」
「そうですわ! もっとも、殺されるのはそちらですけど!」
「……そうか、仕方ない」
ウィクトルは抱えていた私を地面に下ろすと、「すぐ終わる」とだけ言い残してレイピアを手にする。
せっかくイヴァンの手から逃れたのに、また戦うなんて。
避けられない戦いなら仕方がないが、避けられる可能性が少しでもあるなら諦めたくはない。そう考えて、私は言い放つ。
「シャロさん! お願いします、通して下さい!」
だが無駄だった。
シャルティエラはもはや私のことなど微塵も意識内に含んでいない。
「覚悟しなさい! フリントの悪魔!」
叫び、シャルティエラはウィクトルに急接近。
長い槍の先が突き出される。
ウィクトルはちようど一人分ほど体を右にずらして攻撃をかわした。そして、レイピアを握るのとは逆の手、左手で、槍の柄を掴む。
「邪魔しないでくれ」
シャルティエラは槍を動かせなくなり、動揺に瞳を震わせることしかできない。
刹那、その胸元をウィクトルの持つレイピアが掠める。
「っ……!」
胸元に攻撃を受けたシャルティエラは、やられ慣れていないからか、すぐに次の動作へは移行できない。攻撃を食らったことに動揺し、思考速度が遅くなっているようだ。
その隙にウィクトルは左手で私の手首を掴んできた。
恐らく、この隙に通るということなのだろう。
「行くぞ」
「えぇ」
私はウィクトルに連れられ走る。
背後からは「待ちなさい!」と叫ぶシャルティエラの鋭い声。でもそれは無視だ。
今の私たちがしなくてはならないことは、立ち塞がる者の命を奪うことではない。何が何でもこの場から逃げ出す、それが一番優先すべきことだ。イヴァンに捕まれば命はない。だから、逃げる。戦いに使う時間はない。
走る、走る、とにかく走る。ひたすら足を動かす。今はただそれだけ。足を速く動かすことだけに意識を向けて、私は走る。ウィクトルの黒い背中が導いてくれるから、脱出経路に不安はない。が、必ずしも無事に逃げ出せるという保証があるわけではない。だからこそ、懸命に足を回転させねばならない。転ばないように、と意識しつつも、持てる力をすべて出して走らねばならない——それがこんなにきついことだとは、正直、今初めて知った。
やがて、建物の外に出る。
空が灰色であることに変わりはないが、心は逆に清々しい。
けれども、そんな清々しさに浸っている暇はなく。またもや次の関門が現れる。
「ここは通しませんよ」
ウィクトルが選び進んでいっていた道、そこに壁として現れたのはラインだった。
「ライン!」
私は思わず叫んでしまった。
ウィクトルは驚いたような顔でこちらを見てくる。
「……ウタくん知り合いか?」
「えぇ。前、フーシェさんと一緒に脱出するのを、手助けしてくれたの」
「そうだったのか……」
ラインは手に剣を構えている。戦う気だろうか。
「久しぶりね、ライン。申し訳ないけれど、そこを通してもらえないかしら」
「……ごめんなさいウタさん。それはできません」
説得できるなら説得したい。時間の猶予があまりないため、じっくり話すことはできないけれど。でも、ラインなら話せば分かってくれるかもしれないという可能性に、どうしても期待してしまう。
「私たち急いでいるの」
「すみません。今日は、あの時みたいには、協力できないんです」
ラインはゆっくりと頭を左右に動かす。
彼は今も辛そうな顔をしてくれている。それだけが救いだ。それは、彼の中にはまだ協力したいという思いが少しは存在しているということだから。
「私たちはもう戦う気はないの! ……だからお願い。どうか通して」
「できません」
「あの時は協力してくれたじゃない」
「また貴女に協力したら、信頼を取り戻す機会はもうないんです。だから……すみません」
言い終えると、ラインは斬りかかってきた。
「ウタくん!」
ラインの剣を止めたのは、ウィクトルのレイピア。
ウィクトルが間に入ってくれたおかげで、私は命拾いした。
「一人なら私がやる。すぐに片付く」
「待って! 彼は、ラインは、悪い人じゃないの! 私の歌も好きって言ってくれた。本当は良い人なの。だから殺さないで!」
何とか命までは奪わないよう頼んでみるが、ウィクトルとラインの斬り合いは幕明けてしまった。
ウィクトルは強い。でも、ラインも本気。だから戦いの行方はまだ分からない。
私はどうすれば良いのだろう、と考えるけれど、答えは何も出せなかった。だって、二人ともに生きてほしいから。どちらにも死んでほしくないから、どちらか一方を応援することはできないのだ。
「……ウィクトル・ボナファイド、貴方の話はシャルティエラ様から聞いていました。でも、貴方とこうして直接刃を交える日が来るとは、想像もしなかった。でも……ちょうど良かったですよ。貴方の首を取れば、僕はまた信頼される。地位を手にできる。やり直せる」
ラインには、疲れゆえの鈍りがない。そして、心にもまた、迷いがなかった。ラインはもう決意しているのだろう。ウィクトルを倒す、と。
「貴方と出会えて幸運です。これで僕は、初めてシャルティエラ様のために何かできる」
刃と刃がぶつかり、灰色の街に甲高い音が鳴り響く。
覚悟を決めたラインは強かった。素人の目で見ても分かる、その動きの良さは。
……だが、終焉は唐突に訪れる。
「私の前に立つな」
レイピアがラインの胸を貫いていた。
「私の前に立てば、皆一様に死ぬ」
「そん……なっ……」
数秒の静寂の後、ラインは地面に崩れ落ちた。
それでも、彼は意識を保っている。時間の問題だろうが、今はまだ瞼も閉じてはいない。剣は地に落ちたが、手で地面を掻き、引きずるようにして体を動かす。表情は苦痛に滲んでいたが、それでも、「最期まで諦めない」というような目つきをしていた。
「……ライン」
私は彼の近くにしゃがみ、手をそっと握る。
「ごめんなさい、貴方を幸せにできなくて」
「……ウタ、さん」
もはやラインに攻撃を仕掛ける体力は残っていない。だからこそ、真っ直ぐに向き合える。
「楽しかった。貴方と過ごした時間は、とても。ありがとう」
「……すみ、ません……僕は……」
「いつか、貴方に会いに行くわ。世界が平和になったら。だから、その時には——」
きっと、お詫びにはならないだろうけど。
「また歌を聴いて」
ラインの瞳から溢れた一筋の涙は、頬を伝う。
彼はもう何も言わなかったけれど、ほんの少しだけ頷いたように見えた気がする。