11話「フーシェの斧手入れ」
窓から見える空は、青緑色をしている。
雲の白色を除けば青一色であった地球の空とは違い、この星の空は一つの単語では言い表せないような複雑な色だ。
言うなれば、数色の水彩絵の具を滲ませ深みを出したような色。
その色みは人の心に似ている。
人の心、感情は、いつも一つではない。どんな時であっても、大概、数種類の感情が同時に存在しているものである。だからこそ興味深く、しかしながら厄介でもあるというもの。
この星の空も、それと同じ。
一つの単語では表現できない色をしているのだ。
今は昼過ぎ。昨日は『歌姫祭』のことで忙しかったが、それも無事終わり、ようやく穏やかな日がやって来た。
聞いた話によれば、ウィクトルらは、一年近く母星を離れ地球に滞在していたらしい。私には想像できない、失われたわけでもないのに母星から離れて暮らすということが。
ウィクトルたちが地球へ行っていたのは、仕事のためだ。
でも、一年近くも母星を離れるというのは、少なからず寂しかったはず。よく耐えられたな、と感心する。
「ウィクトルさん、何を読んでいるの?」
宿舎の一室、新聞のような紙を持ってじっとしているウィクトルに、勇気を出して声をかけてみた。
「……何と言った?」
「何を読んでいるのかな、って」
「新聞だ」
やはり新聞だったようだ。
新聞というものが地球外にも存在するのだと知り、勉強になった。
「それと、ウィクトルと呼べ。さん付けは必要ない」
ウィクトルは、見慣れない文字の並ぶ紙面へ視線を落としながら、小さく口を開く。
「……失礼にならないかしら」
「私は気にしない。それに、余計なものは付けない方が効率的だ」
「分かった。じゃあ、ウィクトルにするわ」
地球では、知り合って時間が経っていない人や親密でない相手には、さん付けをすることが多かった。地球全体のことを知っているわけではないが、少なくとも私がいた村では、呼び捨ては無礼だという空気があって。そのため、他者を呼び捨てすることなど滅多になかった。
でも、キエル帝国の人たちは、さん付けで呼ばれることを好んでいないようだ。リベルテにもウィクトルにも呼び捨てで良いと言われたことから、それを察した。
さん付けの文化に馴染んでいる私としては、知り合って数日しか経っていない者相手に呼び捨てするということに、大きな違和感がある。でも、彼らがそう呼べと言うのだから、それに従うべきだろう。ここは彼らの暮らす土地なのだから。
「そういえば、君の記事が載っていた」
ウィクトルはそう言って、その記事を探すかのように新聞を数回めくる。
そして、私に見せてきた。
新聞は白黒だが、そこには確かに、私の写真が掲載されていた。
それは、リベルテが仕上げてくれた衣装を身にまとって舞台上に立っている写真。一番大きく載っている写真は正面から撮ったもののようで、やや小さめの残り二枚のうち一枚はやや斜め横から撮影したもののよう。そしてもう一枚は、歌っている最中の写真ではない。表彰式の様子である。
三枚の写真とともに書かれている文字は読めない。
が、『歌姫祭』に関する内容なのだろうということは想像できる。
「結構派手に載っているわね……」
「わりと大きなイベントだからだろうな」
「よく考えたら、新聞に載ったのは初めてだわ」
地球にいた頃はただの村人だったから、新聞記事に取り上げられることなんてなかった。取り上げられる日が来るなんて、想像したことすらない。
「ところでウィクトル。貴方はいつまでお休みなの? いつかはここを出てゆくのでしょう」
地球での仕事は終えたかもしれないが、一生のうちにこなすべき仕事をすべて終えたというわけではないだろう。いつかは次の任務が始まるはずだ。
「今のところ予定はない」
「そうなの!?」
「あくまで今はな。だが人使いの荒い皇帝のことだ、そのうちまた何か任務を用意してくるだろう」
しばらくはゆっくりできるのだろうか。
それなら良いのだが。
その晩、夕食も入浴も終えた私は、寝巻きに着替え、今日運び込まれたばかりのベッドに横たわっていた。これまでは近くに布を敷いたりして床に横たわっていたが、今日からは違う。隣同士のベッドで、フーシェと、それぞれ眠る形になる。
私は特に何をするでもなくベッドに寝そべり、ぼんやりしていた。
その時、ふと、隣のベッドのフーシェが手を動かしていることに気づく。
何をしているのだろう、と思い、私は上半身だけを縦にしてみる。すると、薄水色の布巾のようなもので斧を掃除しているのだと分かった。
しかし、なぜに斧?
伐採の仕事なんてしていないだろうに。
「……何見てるの」
夜に斧の掃除なんて不思議だなぁ、と思って眺めていたら、フーシェに冷たい視線を向けられた。
「あ、ご、ごめんなさい! 変な意味じゃないの!」
「……怪しい。慌てて」
「ほ、本当よ!? 嘘じゃないわよ!?」
慌ててしまうと不審に思われる。それは分かっていなかったわけではない。ただ、それでも冷静さを保ち続けることはできなかった。
だから、さらに突っ込まれるかと心配していたのだが。
「……そう」
フーシェはそこまで興味がなかったらしく、すぐに視線を斧の方へと戻した。濃紺の柄をある程度拭き終えると、次は刃を磨き出す。
布越しにとはいえ、刃に触れるのは緊張しないだろうか?
……そう思うのは、私が経験したことがないからなのかもしれないが。
けれど、フーシェは、刃部分に触れることを躊躇っている様子はなかった。無表情で、しかしながら触れる部分をしっかりと見据えて、斧を拭く作業を続ける。慣れた手つきだ。
「フーシェさん、斧なんて何に使うの?」
特にすることもないから、思いつきで尋ねてみた。
するとフーシェは煩わしそうに面をこちらへ向ける。
「……まだ何かあるの」
「ふと気になって。それで聞いてみたの。フーシェさんのことを知りたいのよ、色々」
フーシェからすれば、話しかけられるのは迷惑なことなのかもしれない。でも、彼女が愛想ないタイプだからといってこちらも黙っていては、距離は一向に縮まらないだろう。だから私は声をかけてみたのだ。少しでも心を近づけるきっかけになれば、と考えて。
「……知っても何にもならない」
「なるわ。一つ一つ知ることで、少しずつでも親しくなれるのよ」
「……馴れ合いは無駄」
フーシェはなかなか辛辣なことを言ってくる。
彼女の心は、まるで要塞。不気味と言っても過言ではないほどに牽制する空気をまとい、常時周囲を睨んでいる。門を開こうとは一切しない。
「……黙っていて」
「どうして? 私は貴女と話したいの」
「……不快よ、黙って」
拒まれても諦めず、何回も挑んでみた。しかし、フーシェの心の門が開くことはなかった。それも、微かにさえ、である。
「……話すことはない」
「フーシェさんは斧を使って何をなさるの?」
懲りずに尋ねてみる。
すると、数秒の沈黙の後、彼女は溜め息をついた。
「……戦闘」
想定外の回答。
思わず「え」と漏らす。
それが良くない反応だったらしく、フーシェはそっぽを向いてしまった。もうこちらへ目を向けてはくれない。
どうすれば良かったのだろう?
どんな風に接すれば心を開いてもらえたのだろう?
人付き合いは難しいな、と、改めて痛感した夜だった。