113話「イヴァンの機会提供からの」
皇帝より呼び出しを受けた私は、唐突さに戸惑いながらも、案内係の誘導に従って移動。皇帝——イヴァンのところへ向かっているのか、それすら曖昧なまま、誘導されるがままに道を行く。
道中、とにかく不安だった。
ウィクトルやリベルテ、アンヌやエレノア、誰でもいい。誰でもいいから、誰か一人でも共に歩いてくれたなら、きっと心強かっただろう。
けれども、それは贅沢な望み。
こうして案内係が配置されていただけでも、幸運だったのかもしれない。
街は灰色だった。ほんの少し前の、人々が行き来する街とは、まったく別のもののよう。砂埃が揺らぎ、物の破片が散らばり。もはや文明国家とは思えない光景になりつつある。世紀末状態だ。
ビタリーはこんなことを望んでいるの? 何もかもすべてを破壊するのが、彼の望み? ……だとしたら、とても理解できない。ここへ来て何年もは経っていない私でもこんな姿になったキエル帝国を見るのは辛いのに、彼は平気だというのか。もしそうだとしたら、彼は本当に正常な精神の持ち主?そんなことは疑いたくないが、もし彼がこの惨状を目にして何も感じないのだとしたら、疑わざるを得ない……。
歩くこと十数分。
案内係と共にたどり着いたのは、イヴァンが暮らす建物の中にある広間。
「まもなく皇帝陛下がいらっしゃるはずです。こちらでしばらくお待ち下さい」
「はい……」
広間には既に人がいた。
だが統一感はない。
スーツを着た要人らしき人もいれば、艶やかなドレスをまとった女性もいる。
彼ら彼女らは、グラスを手に話をしている。楽しげに喋る者たちの顔には、恐怖や不安の色はまったくもって存在しない。皆、楽しげだ。
街では多くの人が傷を負っている。荒れ果ててゆく世界に、罪のない者までが傷つけられているのだ。それなのに、この広間にいる人たちときたら、呑気に酒を仰いで。
その後も、私は一人広間の隅でじっとしていた。
途中、既に酔っ払っていると思われる赤い顔の中年男性から「娘さん、一杯どう?」などと声をかけられたが、幸い口で断るだけで済んだ。
個人的には、かなり緊迫したが。
それから数十分ほどが経過した頃、イヴァンがやって来た。
「皆、よく集まってくれた」
イヴァンは今日もサンタクロースのようだ。
「こ、皇帝陛下……!」
「お待ちしておりました! 皇帝陛下、この部屋の酒はかなりの上物ですな!」
「女も、ですぞ」
「そ、そう! そう! 女性陣も色っぽくて素晴らしいですな!」
幾人もが一斉に話し出す。
今までは酒に意識が向いていたのに、今は皆イヴァンに話しかけることに夢中になっている。しかも、彼らが発するのは、いかにも機嫌取りらしいことをばかり。見ていて嫌になる。
「酒と娘、皆が気に入ったなら何よりじゃ」
イヴァンが一言発すると、拍手が起きる。
「だが、今夜の宴は始まったばかり。宴を盛り上げるべく、良い者を連れてきておる」
刹那、イヴァンの視線が私に突き刺さった。
「ウタ、よく来てくれた」
「……えっと、その……いえ」
いきなり話を振られ、かっこよくは返せない。
ここで何か一つでも気の利いたことを言えれば、重宝される可能性もあったのだろうけど。
「今日は歌を皆の前で披露してほしい。頼めるか」
「私は……キエル語の歌は歌えませんが」
「それは構わん、気にするな。いつものように好きに歌えばそれで良い」
私は作業着に近い服装で来てしまった。それだけでも場違い感が凄まじいのだ。こんな服装で歌を披露しろなんて、酷な頼み過ぎる。それは、イヴァンは私に恥を晒させたいのか、なんてことを勘繰ってしまうレベルの頼みだ。
「分かり……ました」
「ふむぅ」
「それで、私はどこで歌えばよろしいのでしょうか? この場でですか?」
「まずは皆の前へ出よ。そして歌うのじゃ」
こんな地味な服装で? 髪もまともにセットしていないのに?
……いや、それはともかく、まだ心の準備が。
歌を求められれば、私は歌う。一人でも必要としてくれる人がいるなら、いつでも歌おう。そう心を決めてはいたが、こんな大勢の前で披露することなんて想定していなかったから、正直今は戸惑っている。
「どうした? 歌ってくれぬのか?」
「い、いえ。歌います。……もちろん」
「では前へ出よ」
「は……はい。分かりました」
酒を楽しんでいる皆の前、イヴァン側には、高さ三十センチほどの台がある。高さはそこまでないが広さはある、そんなステージ。恐らくは、司会者が話したりするためのステージなのだろう。
「この上へ?」
「うむ。そうじゃ、上がると良い」
一段、二段、段差の小さな階段を上り、ステージの上に立つ。
私の位置は三十センチほど高くなっただけ。それなのに、この目で見る世界が大幅に変化した。僅かな高さだけしか変化していないが、皆を見下ろすような形になって、途端に心境が変わる。見上げるのと見下すのとは気分が違ってくるものだと、それは知っていたけれど、ここまで気分が変わるとは思わなかった。
「ではウタよ、歌ってくれ」
イヴァンの言葉を聞き、ふと『ウタが歌う』という言葉が不思議だと思った。
私の名はウタ。私が好きなのも歌。
……おかしなものね、これも運命なのかしら。
「響く歌、遠くから聴こえてくる、希望の声」
こんな荒れた時代に美しいことを歌うなんて、逆に皮肉にならないだろうか。
そんなことを考えてしまう部分はあるけれど。
でも、必要とされているのなら、私が歌わない理由はない。
「移ろう季節には、今の私、とどまらず」
この広間にいるのは縁もゆかりもない人たち。私の歌を聴いたことのない人だって少なくはないだろう。でも、だからこそ声を響かせる意味があるのかもしれない。出会うはずのなかった人、知り合うはずのなかった人、そういう人に私の歌を届けるのは、機会がなくてはできないこと。せっかくその機会を作ってもらえたのだから、私はそれを自ら潰したりはしない。
「流れる川のせせらぎが、穢れ落としてゆくでしょう」
地球という世界でいつも歌っていた母は、この歌をどんな風に歌ったのだろう。
彼女はこの歌に、どんな世界を見ていたのだろう。
それはもう、どう頑張ろうと分からないことだ。母が生きていれば答えを聞けたかもしれない。でも、それは無理な願い。
けれど、私が歌い継ぐことはできる。
あの時母が庇ってくれたからこそ、ここにある生命。
それを燃やし、歌うのが、私に与えられた役割なのだとしたら……。