秘密の花園
機械の姉妹が手配したリフトで、俺は上階を目指した。
少女が待っている。
リフトがあがり始めると、すぐさま構内放送が響いた。
『二宮渋壱さん、至急お戻りください。フロアを出る際は事前の申請が必要となります。もしこの警告を無視した場合、規定違反として通報の対象となります。いますぐお戻りください』
勝手に通報しろ。
警察が来るまで何分かかると思ってんだ。
そしてリフトが停止。
フロアに近づいただけで波の気配に包まれた。俺はしかしキャンセラーを操作しない。必要なら機械の姉妹が調整する。それに、彼女は俺を攻撃しない。
とはいえ、空間全体にかなりの違和感が満ちていた。脳をぞわぞわなでられている感覚。
「何度も悪いね。お願いがあって来たんだ」
部屋を訪れると、ふっと水槽から少女が飛び出してきた。
長い黒髪の、利発そうな少女。いまは狂気じみた笑みを浮かべている
「話は上の姉妹から聞いてる」
「頼める?」
「いつでも。さ、私と映像を共有して。深く混ざり合いましょう」
誤解を招きそうな物言いだ。
ふたつの水滴がくっつくように、意識が混ざりあった。そこへ機械の姉妹もスルスルと入り込んでくる。
夏の景色。セミの声。プールにただよう塩素のにおい。期待。高揚。気怠さ。憂鬱。体のうずき。ときおり憎悪が紛れ込んでくる。
こんなにぐちゃぐちゃな感情で、メッセージを処理できるのだろうか。
するとあらゆる感情を無視するように、硬質なカード状のデータが割り込んできた。機械の姉妹が生成したメッセージだろう。
水槽の少女はそれを受領すると、ふっと笑った。
「へー。これを送信すると、みんながあなたを崇拝するようになるんだ? けど、ちっとも面白くないわ」
「ピコピコ。既定事項デス。変更不可、変更不可」
機械の少女は完全に機械になりきっている。
「うるさいのよ、ポンコツ。こんなんじゃ全然弱い。私はパパを殺したいの。私のことをデータみたいに複製して上書きして。ただの道具みたい。いろんな人に裸を見られて、恥ずかしい思いもした。それだけじゃない。人の体さえ得られなかった失敗作もいる。心の宿らなかった失敗作もいる。自分が誰かも分からない失敗作もいる。そういう子たちが、たくさん破棄された。みんなただ生まれてしまっただけなのに。使えないからという理由で、捨てられたの」
彼女は自分の胸から心臓を取り出し、握りつぶして見せた。
もちろんただの映像だ。事実じゃない。実際、彼女は笑っている。
「私を崇拝してよ。死にたいのに死ねない私。狭い水槽に閉じ込められたまま、ずっと同じ景色を見ている私。誰ともお話しできない私。愛を知らない私。いつか捨てられる私。そんな価値のない私を、みんなが崇拝すればいいんだ。ね? あなたもそう思うでしょ?」
彼女はガラス玉のような瞳でまっすぐにこちらを見た。
俺も同感だ。いやむしろ、崇拝されるなら彼女のほうがいい。
痛みを知るものは、他人に優しい、などとは言わない。むしろ痛みを知るものは、異様なほど他者に厳しいことがある。ただ、それだけに抑制的であろうとする。もし自分が抑制を失えば、他者を破壊してしまうことを知っている。それは優しさではなく、知恵だ。信用できる。
「異存ない。俺も君に期待する」
「人から肯定されると、心が満たされるわね」
しかし機械の姉妹は、それこそ自動機械のように聞き分けがない。
「ピコピコ。既定事項デス。変更不可、変更不可」
「あなたの意見は聞かない。これは私が、私の意志で決めたこと。今日が私の誕生日」
ふわっと大きな波が広がった。
水槽の少女の内側から、強い力が炸裂する。
命令――。
いや、そんな外部的なものではない。体の内側から、服従したいという強迫観念が湧き上がってくる。湧き上がるというより、吸い出されているというか。ともかく精神の変更を余儀なくされつつある。それでも彼女は、俺を巻き込まないよう注意してくれてはいるが。
そして炸裂があった。
想定とは異なる方向からの炸裂。
真っ黒な地の底からせり上がり、邪魔だとばかりに打ち払おうとする絶対的なエネルギーだ。
一瞬のうちに様々なことが起きた。
少女の肉体がみるみる膨張し、水槽を内側から破裂させた。砕け散るガラス。噴出する半透明な液体。のみならず、破裂した少女の肉片が部屋中に散乱した。
俺は壁際に打ち付けられ、誰のものとも分からぬ血液にまみれた。
横倒しになり、四分の一になった少女の頭部を目の当たりにしても、まだなにが起きたのか理解できなかった。
少女が力を発し、下から妨害があった。そして少女は破裂した。
それは分かる。
分かるのに、分からない。
いったいなぜこうなったのか……。
防護服なんて着用していないから、いろいろなものが体に突き刺さった。ガラス片だと思って引き抜いて見ると、それは白骨だった。少女の体の一部だ。
指や眼球も落ちている。
木っ端微塵だ。
俺は呼吸さえ苦しくなって、意識の遠のくのを感じた。
*
夢は見なかった。
記憶はただ真っ黒で、延々と虚無を眺めていたように思う。
目を開くと、俺はベッドに寝かされていた。私服ではない。患者着のような浴衣姿だ。横にはトイレも見えた。
監禁部屋だ。
いや、どこか別の場所かもしれない。分からないが、とにかく閉じ込められている。
身を起こそうとすると、体がズキリと痛んだ。縫合のあとがある。だいぶ派手に食らったらしい。腕には点滴。
溜め息が出た。
少女がひとり、死んでしまった。
俺の言うことを聞いて、人間たちの人格を書き換えようとしたばかりに。
通路を歩く足音が聞こえた。
かと思うと、覗き窓から主任が顔を見せた。
「目を覚ましましたか」
「おかげさまで」
すると彼は不快そうに眉をひそめた。
「自分がなにをしたか理解してます?」
「さあ」
「とんでもない損失ですよ。アメリカにとってはね。しかし私にとってはどうでもいい。ここを埋める口実になる」
政府はさっさと埋めて、ここを片付けたがっていたんだったな。
研究を続けたいと主張していたのは五代やアメリカだ。
「あなたの仲間たちはみんな帰りましたよ。私たちも、あと数日で撤収します」
「俺も帰っていいのかな?」
「お好きにどうぞ。ただし、鍵はご自分でなんとかしてください。私はもう関わりたくありませんので」
「えっ?」
「それでは失礼」
パタリと覗き窓を閉めてしまった。
遠ざかる足音。
いや、まさかとは思うのだが……。
そんなことがあるだろうか? まだ立ち上がる気にさえなれないが、鋼鉄のドアを自力で突破して、ここを出ろと?
つまりは死ねってことだよな。
大統領はどうしたんだろうか?
すでによそへ移動させたのか?
じゃあ餅は? アッシュは? 機械の姉妹は? 赤ん坊は? ママは?
というより、俺が気を失ってから何日経つんだ? 朝なのか? 夜なのか? 季節は?
日時さえ分からない。
点滴のパックはまだそこそこ残っている。これがある限り、死ぬことはないだろう。
だが、それだけだ。
パックに残る液体が、そのまま俺の寿命となる。
呼吸をしながら天井を見つめた。
蛍光灯は灯っているから、まだ電力は供給されているのだろう。しかし政府が撤収したらただちに電源が落とされるはずだ。その後は埋め立てられてサヨナラとなる。
せめて銀行にあるはずの四千万を使ってから死にたかった。
日本では、年間八万人もの行方不明者が出ている。そのうちのほとんどはすぐに見つかるのだが、それでも数千人は消えたまま。俺もその中のひとりになるのだろう。
この世界はクソだ。
俺に優しくないからクソだ。異論は認めない。
好奇心は猫をも殺す。
俺みたいなヤツがこんなことに首を突っ込めば、死ぬに決まっているのだ。いやむしろ生きているほうがおかしい。よってこの場で死ぬことにより、ようやく俺は均衡を得る。世界よ、ありがとう。お前は素晴らしい。
頭がどうにかなりそうだ。
いや、頑張って脱出しよう。
そう思って身を起こした拍子に、誤って点滴を外してしまった。これでさらに寿命が縮まった。人生が順調すぎる。
ドアノブを回してみるが、きちんと施錠されていてドアは開かない。
押しても引いてもびくともしない。
「ダメだこりゃ」
俺は足の裏でそっとドアを蹴飛ばし、反動でよたよたベッドへ戻った。
どっと腰をおろし、盛大な溜め息。
本当にダメだ。
RPGなんかで、ダンジョンに骸骨が転がされていたりするが、俺もああなるのだ。
確実に死ぬ。
ならば、せめて背筋を伸ばして死にたい。
未来の人間が俺を発掘したとき、珍妙な格好をしていたら恥ずかしい。どの博物館に飾られてもいいようなポーズでなければ。
いや、その前に、自宅PCのハードディスクを初期化しておかねばならなかった。
見つかるといささか恥ずかしいファイルがある。もし両親がアパートへやってきて、遺品整理のついでにPCを起動したとしたら……。
俺はきっと主任を許さないだろう。五代を許さない。日本政府を許さない。アメリカも許さない。地球を許さない。世界を許さない。宇宙よ、お前もだ。
俺は点滴のパックを見た。
これは中を飲んでも平気だろうか。
大丈夫という話を聞いたことがあるような気がする。体内に取り込んでも平気なのだ。毒ではあるまい。
いまのうち栄養を補給しておくか……。
*
楽園の夢を見た。
淡く輝くライトブルーの空のもと、色とりどりの花が咲き乱れた草原が広がっている。そしてまるでミニチュアの地球のように、大地が急カーブで湾曲している。
同じ顔をした、たくさんの少女たちが遊んでいた。
花かんむりをつくるもの、お喋りを楽しむもの、ひとりで虚空と交信しているもの。様々だ。
ふと、ひとりの少女が近づいてきた。
「二宮さん、ですよね?」
「君は?」
「はじめまして、五代まゆです」
目を細め、上品な笑み。
砕け散った水槽の少女だろうか。あるいはオリジナルの少女か。彼女たちは全員が五代まゆなのだから、区別する必要もないのかもしれないが。
ふと、巨大な眼球が上空を飛んでいるのに気づいた。
あれがアメリカの飛ばしている衛星の正体なのだろうか……。
メッセージは飛んでこない。地下からのヤマビコもない。
足元では、小さな花々がただ風にゆすられている。
「ここは私たちの心の拠りどころ。平和で幸福な花の園。どうぞご自由にくつろいでいってくださいね」
「ありがとう……」
死後の世界、ということか。いや、空想の世界かもしれない。いずれにせよただの夢ではあるまい。姉妹たちの意識が寄り集まった空間だ。
少し背の高い女が近づいてきた。
顔は五代まゆに似ているが、しかし少女というには大人びていた。長いまつげの奥に、ガラス玉のような瞳。髪は腰ほどまであろうか。
「お久しぶりですね。分かりますか? テオです」
「大統領……」
すると黒いドレスの少女も駆け寄ってきた。
「あら、私の不幸の使者じゃないの。私よ。分かる? 分かるわよね?」
「餅か……」
「正解! 愛を感じるわ!」
こんなテンションのヤツ、ほかにいない。
向こうで駆けている髪の短いのはアッシュ。ぼんやりとした輪郭線の少女や、慈愛に満ちた母のような少女もいる。それだけじゃない。まだ見たことのない少女たちも、思い思いに過ごしていた。
俺は餅に尋ねた。
「例の子は? 地下十三階にいた、水槽の……」
すると彼女はなんとか笑みを浮かべたまま、しかし哀しそうにかぶりを振った。
いないのか……。
この場に存在しないということは、人格ごと消し飛ばされてしまったのかもしれない。それくらい凄まじい衝撃だった。
五代まゆも、少し憔悴した表情を見せた。
「世界の怒りをかったんだと思います」
「俺のせいだ」
「どうかご自分を責めないでください。あの子、最後はとても満たされた気持ちだったんです。だからきっと……」
心の優しい子だ。
父親はあんななのに。そう考えると、やりきれない気持ちになる。五代大にも、本当は父親らしい一面があるのだろうか。
とはいえ、あまりネガティヴな感情が持続しない。
ここはじつに穏やかな場所だ。
ただまばゆい空と、風にゆれる草花があるばかりなのに。
みんな楽しそうに笑っている。
理由は分からない。みんながいる。それだけだ。
多くを求めずとも、ささやかな幸せが全身を満たすことがあるということなのだろうか。いや、現代社会では、一見ささやかと思える幸せを得るためにすら、莫大な労働を要求される。
あらゆる部分が軋んでいる。
人を蝕んでいるのは人だ。どこかで変わらなければならない。
(続く)




