シャワー
医務室では、円陣薫子が暇そうに寝転がっていた。
「失礼」
「なに? 鐘捲さんならもう帰ったけど」
彼女の言う通り、鐘捲雛子の姿はなかった。もう歩き回って平気なのだろうか。ムリしていなければいいが。
俺は椅子へ腰をおろした。
「いや、円陣さんに用があって」
「私? また安楽椅子探偵ごっこを?」
「えっ? いや、各務さんがシャワー使いたいって言うから、手伝ってもらおうかと思って」
すると彼女は、にやりと悪どい笑みを浮かべた。
「あー、あのアバズレね……。いま監禁されてるんだっけ? なに? あいつの体でも舐め回してやればいいの?」
「なんでそうなるの? 俺じゃシャワールームまでは入れないから、見張っててもらおうと思って」
「私はいいけど、向こうはどう思うかなぁ」
「仕方ないよ。俺が付き添うより数倍マシでしょ」
「言ってなかったっけ? 私、バイなんだけど」
「バイ?」
一瞬、それがなにを意味する言葉だか思い出せなかった。
彼女はふっと笑った。
「バイセクシャル。男でも女でもどっちでもイケるってこと。ま、あのメス豚に選択肢があるとも思えないし、私でいいなら喜んで手伝うけど。ずっと寝転がってタダ飯食ってたら、そのうち追い出されそうだしね」
足を怪我したのは彼女のせいじゃない。
しかし俺には、どうしても彼女のサポートが必要だった。
「じゃあ頼むよ。俺は通路で待機してるから、中での監視をお願い」
*
かくして俺は、松葉杖の円陣薫子をともなって留置所へ入った。
各務珠璃は顔面蒼白だ。
「あ、あの……女性って、円陣さん……ですか?」
さすがに演技とは思えない。ぶるぶる震えている。
他方、円陣薫子は獲物を喰らう直前の獣のごとき凶悪な笑みだ。
「よろしくね、各務さん。あなたがちゃんと体を洗えるかどうか、ママの代わりに見ていてあげる」
「ひうっ……」
おいおい、拷問まで許可したおぼえはないぞ。
「各務さんは、どこから洗うのかな? 頭? 胸? それとももっと下のほう? 手伝って欲しかったらいつでも言って? 私、協力するから」
「あの、いえ……大丈夫です……」
俺が陥落する可能性はほぼゼロになったが、代わりに各務珠璃がどうにかなる可能性が高まってしまった。
*
「なにかあったら、大きな声で呼んで」
俺はふたりにそう告げ、通路で待機することにした。
すると返事は、なぜか各務珠璃から来た。
「あの、ホントに来てくれます?」
「え? うん……」
まあ気持ちは分からないでもない。
もし脱走を試みた場合、絶対に捕まえてロープで拘束すると脅してある。だから逃げ出しはしないだろう。おとなしくしていてくれれば、ゆくゆくはそれなりの自由を許可するつもりだ。
ドアはついているが、脱衣所での会話が聞こえてくる。
「へえ、可愛い下着つけてんね。誰に見せるつもりだったの?」
「だ、誰でもありません……」
「お、ぷるってなった。ねえ、軽くジャンプしてみてくれる?」
「許してください……」
いやー、これは言語による暴行なのでは……。人選考え直そうかな。
しばらく待っていると、ふたりが戻ってきた。悲鳴はなかったから、きっと肉体的な暴行はなかったのであろう。
「終わりました……」
シャワーを浴びてサッパリしたはずなのに、各務珠璃の顔はややゲッソリしていた。
円陣薫子もつまらなそうな顔だ。
「じゃあ私、もう医務室戻っていい? 立ちっぱなしで足がどうにかなりそうだわ」
「ああ、ごめん。助かったよ。ありがとう」
*
その後、俺は各務珠璃を留置所へ送り込んだ。
部屋から出ようとすると、後ろから服をつかまれた。
「あの、待ってください」
「えっ?」
すがるような目でこちらを見ている。
患者着のような素朴な浴衣姿だ。あまり長くない裾から、風呂上がりの上気した肌をさらしている。
「少しお話ししませんか?」
「話? なにを?」
「今後のことです……」
まだ乾ききっていない髪を指先でいじりはじめた。
もう一挙手一投足が計算に見える。なのに「この子、じつは俺に気があるんじゃないか」と勘違いしそうになる。クソザコなので、いくら用心しても足りないくらいだ。
「今後? 悪いけど、すぐに帰すことはできないよ」
「それはいいんです。それよりも……その……次のシャワーのときは、別の方にしていただけると嬉しいんです。あ、もちろんワガママを言える立場じゃないのは分かってます。ただ、円陣さん、言葉が厳しくて、私、ちょっと耐えられそうになくて……」
はい。聞いてるほうも耐えられそうになかったです。
俺はしかしすぐにはうなずけなかった。
「えーと、分からなくもないんだけど。あと女性って言ったら、鐘捲さんか小田桐さんってことになるけど……。どっちがいい?」
すると彼女は、両手をみずからの胸元へ持ってきてきゅっと重ね合わせた。
「二宮さんじゃダメですか?」
「ダ……いや、ダメだよ! 俺以外で!」
「私、同性から嫌われるタイプみたいで……。だったら二宮さんのほうが安心できるっていうか。だって二宮さん、とっても親切にしてくれますし。それにもう、お互い初めてでもありませんし……」
「……」
これで落ちない男がいるだろうか。
いや、いる。
ここにひとりいる!
少なくとも初日に落とされたら、もはやチンパンジー以下だ。せめてあと一日は待って欲しい。
「悪いけど、次も円陣さんに頼むから」
「えっ……」
「あんたの手口は分かってんだよ。そうやって媚びてりゃ男が言うこと聞くと思ってんだろ? 俺にだってプライドがあるんだよ。やめて欲しい」
過剰に攻撃したいわけじゃない。しかし強く出ていないと、自制できそうになかった。弱い犬ほどよく吠えるってヤツだ。
すると彼女は、急にしゅんとしてしまった。
「ごめんなさい。私……たしかに計算で動いてたかも……。それは否定しません。でも、二宮さんに嫌われたくないって気持ちは本当です! 信じてもらえないかもしれませんが。だって私、ふたりに向かって銃まで撃ちましたし。普通なら、あの場で殺されてもおかしくありませんでした。もっと酷いことだって……。なのに二宮さん、私を痛めつけたりもしませんし、食事だってシャワーだって配慮してくれて……」
そう言われると、自分がただならぬ人格者のように思えてくる。
彼女は目に涙を溜め、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「私、なにかお礼がしたいのに、全然なにもできなくて……。だからせめて二宮さんの言うこと、なんでも聞こうって思ってて。私がそんな気持ちでいること、忘れないでください」
「う、うん……」
一刻も早くこの場を去らねばいけない。俺はあと数秒で敗北する。
なのでおもむろに部屋を出て、鍵を閉めた。
「えーと、明日の朝にはまた食事持ってくるから、それまでおとなしくしてて」
「はい……」
「それじゃ」
こんなことを続けていたら寿命が縮む。
とりあえずトイレに行かねば……。
*
円形の中央広場へ出たところで、俺は思わぬ人物と遭遇した。
大統領だ。
彼女はベンチに腰をおろし、ただこちらを見つめていた。
キッチリしたスーツ姿だ。体毛はない。表情もないから、やはりマネキンのように見える。
「散歩ですか? 珍しいですね」
俺が尋ねると、彼女は手のひらで座るよう促してきた。
「あなたを待っていたんです」
「俺を?」
まだなにも悪いことはしていないはずだ。少なくとも各務珠璃には。
「どうぞ掛けてください。お話ししましょう」
「では失礼して」
なんの用件かまったく読めない。世間話を好むタイプには見えないし。というより、あの部屋から出ているところを初めて見た。
彼女はまっすぐ正面を見つめたまま、静かに口を開いた。
「どこまで知りました?」
ゾクゾクと悪寒が走った。
まさか脅しに来たのだろうか。
「知る? なにをです?」
「いまこの場を取り巻く環境について、です」
彼女はあのオメガなのだから、握力も相当のものであろう。肉弾戦になれば俺は負ける。しかし、こんなところで人間を八つ裂きにすれば、他の連中は態度を硬化させる。きっと戦いに来たのではない。
俺は素直に告げた。
「さあ、どこまでって言えばいいんでしょうね。ただ、あなたに対して不信感を抱くような材料はいろいろ持ってますよ」
「たとえば?」
先送りにしようと思ってたのに、まさか本人から直接聞かれるとは。
「一番の疑惑は、ジェネレーターやハーモナイザーを集めて、いったいなにをしようとしてるのかってことですね」
「ほかは?」
「今日会ったあの少女は誰なのか。いえ、じつは知ってるんですけどね。大統領の娘さんでしょ? ただ、どういう意味を持った存在なのか知りたいですね」
「ほかは?」
「小田桐さんとの通信を妨害したこと」
「ほかは?」
「えーと、食料を溜め込んでどうしようとしてるのか、とか」
「ほかは?」
「ちょっと思い出せないですよ。まだあるんですか?」
すると彼女は、ようやくこちらを見た。整然とした顔立ちに、ガラス玉のような眼球がはめ込まれている。一見、造形物のようだ。
「どうでしょうね。あなたが率直に語ってくれたことには感謝しますが、しかしすべての疑問にお答えするのは難しいと思います」
答えてくれないのかよ。じゃあなんなんだ。本当に世間話かよ。
彼女はすっと息を吸い、静かに溜め息をついた。
「じつは、ある事案についての見解を聞かせていただきたいのです」
「事案?」
「エランヴィタルの意味をご存知でしょうか。それは『生命の跳躍』。エランヴィタル・プロジェクトは、人類のさらなる進化を目指していました。事実、私は魚類として誕生し、たった五年でこの姿になりました。いえ、二足歩行が可能になったのが二年目で、それ以降、特に変化はないのですが」
え、まだ五歳なの?
もし事実なら、とんでもない五歳児だ。俺が五歳のころなんて、テレビを見ればはしゃぎ回り、母親から菓子をもらえばはしゃぎ回り、それ以外になにもしてなかった気がするぞ。
彼女はふたたび正面を向き、こう続けた。
「私は知りたいのです。自分の進化がここで止まったのか、あるいは内部でまだ進化しているのかを」
「それは専門家に相談したほうがいいのでは」
「安心してください。科学的な話をするつもりはありません。オカルトかなにかだと思って聞いていただければ」
「オカルト? ええ、まあ、はい……」
やはり世間話だったか。あの執務室にひとりでいるのは、じつは寂しかいのかもしれないな。できれば俺がトイレに行くタイミングでなければよかったのだが。すでに引っ込んだし、もうトイレはいいけど。
「どうでしょうか。これが人類の最終的な進化の姿であると思いますか?」
「えー。いや、どうだろうな。SFなんかだと、もっと頭がデカくて、目もギョロギョロしてるイメージだけど……」
「そうなる可能性もあります。しかし二年で魚類からこの姿へ成長したことを考えれば、その後の三年はあまりに停滞しているとは思いませんか?」
「文字通りオメガってことで、それが最終形態なんじゃないですか?」
彼女はうなずいたり首をかしげたりしない。ただ空気を吸い、口を動かすだけだ。
「じつはもっと進化できるはずなのに、なにかがそれを阻んでいるのだとしたら?」
「なにかって?」
「地球です」
「はっ?」
地球が手を伸ばしてきて、「もう進化するな」と上から抑えつけている、ということか? たしかにオカルトだな……。
「この星が、私の進化を望んでいないのだとしたら?」
「地球がなに考えてるかなんて俺には分かりませんよ。そもそもモノを考えてるようには見えませんしね。現状、ただクルクル回転してるだけでしょ?」
「あとは地磁気を発していますね」
「じつは俺、オカルトも専門外なんですよ」
この言葉に、彼女は虚空を見つめた。きちんとジョークだってことが伝わっていればいいんだが。ジョークというか、なかば皮肉だけど。
「渡り鳥が地磁気を『見て』いることはご存知ですか?」
「なんかで聞いたことあるかも」
「あるいはヘビなどは、熱を『見て』います。人間には見えないものが、他の動物に見えることもあるのです」
「つまり、大統領は地磁気を『見る』ことができると?」
すると彼女はいちどこちらを見て、また正面を向いた。ずっと真顔だからどういう意味があるのか分からない。分かるのは、なんらかの反応をしてくれた、ということだけだ。
彼女はこう応じた。
「かつてプロジェクトの主任研究者だった赤羽義晴という人物が、サイキック・ウェーブというものを発見しました」
「まさか超能力の話?」
「いえ、単に精神の発する波です。人間だけでなく、単細胞生物でさえこれを発していることが確認されています」
「じゃあオケラやアメンボからも出てるってワケだ」
「そして地球からも」
「えっ……」
いや待て。人間の脳は電気を発している。つまりは磁気を発している。だから地球と同じだ、と言われても、特におかしなことはない。分解すればどちらも分子だから、いずれ崩壊もする。それくらい大雑把な話だ。
彼女はこう続けた。
「とはいえ、地球との対話は成功していません。メッセージが複雑すぎるのです。おそらく現在の人類には解析できないでしょう」
「無意味なノイズって可能性もありますよ」
「その通り。しかし赤羽義晴は、メッセージに意味があると仮定しました。あらゆる生命は、地球と対話しながら活動しているのだと。そして受精卵にランダムなメッセージを与え、結果を観測することにしたのです」
「その成果が大統領だと?」
「ええ。しかし偶然の産物です。その後、研究者たちは現象を再現できませんでした」
「できませんでした? 上にたくさんいるじゃないですか」
彼女はまたこちらを見つめた。表情からはなにも読み取れない。
「そう。いますね。正確には同じ存在ではありませんが。しかし私はこう言ったはずです。『研究者たちは』現象を再現できませんでした、と」
「えっ? じゃあ、別の誰かがやったってこと?」
「犯人は特定できています。十三階にいたあの少女。彼女が、すべての姉妹をオメガへ進化させました。あるいはオメガでさえなく、別の動物に進化させられたのかもしれませんが」
「なぜそんなことを……」
「さあ、分かりませんね。私は対話したことさえありませんから。彼女の声を聞いた職員によれば、『オメガ・プロジェクトが始まった』とのことです。ただし詳細までは分かりません。なにせ感染を受けた職員は、他の言葉を一切話さなくなってしまいましたから」
つまりは人格感染の直撃を受け、廃人にされたということだ。
俺がそうなっていた可能性もある。ひとりで行かされた各務珠璃も。もし会話しようと思えば、メッセージ・キャンセラーが必要だ。それも故障していない稼働品が。
大統領は正面を向き、溜め息混じりにこう続けた。
「彼女は誰の手にも負えない存在です。私がここを立ち去れば、運営はすぐにでもジオフロントを埋め立てるでしょう」
彼女は大事な成果物に含まれないってことか。まあ再現性がないんじゃ仕方がない。存在そのものが事故ということだ。処置に困った人類は、地中深くに「埋める」しかない。
(続く)




