止まない雨
「時雨」をテーマに書いた一作。(2008.7)
決して止むことのない雨を、私はただ、果てしなく続く田んぼの端で呆然と眺めていた。
広がる田んぼの向こうに、煙のように立ち込める怪しく煌めきを宿した雲。頭上から降り注ぐ雨は容赦なく体温を奪っていく。それに負けじと、私は腰掛けたあぜ道の端っこで体を丸めた。
ああ、まただ、また雨だ。半ば躍起になる気持ちで、そう考えていた。自然と、膝を抱いた腕に力がこもった。黄色のワンピースが雨に濡れてじっとりと湿った感触を帯びる。
サザンの『TSUNAMI』のフレーズではないけれど、私の記憶の中は常に雨が降っている。
目覚めはいつも最初の雨粒が鼻をくすぐるときだった。道に出た覚えもなければどこかに行こうと思ったわけでもないのに、いつの間にか外にいて、かつ雨に打たれている。雨は強いときも弱いときも、また時に氷が混じることもあったが、皆一様に私の熱と考える気持ちを洗い流していった。
雨が降り終わると思うと、すぐにまた雨の降っているどこか別の場所にいる。曇天はずっとそのままであるとでも言いたげに、重苦しい様相を湛えながら雨で威圧を繰り返す。そうして何遍も見知らぬ土地に飛ばされる度に、ああ、また雨だ、と反射的に考えてしまう。
田んぼでは蛙が緩慢な声を上げて鳴いていた。実際にそれほど数は多くないであろうに、時折引っかかったように進んでは止まる鳴き声は、数百倍にも数千倍にも誇張されて、耳の奥深くにまとわりついた。
私は蛙そのものがあまり好きではなかったが、蛙の鳴き声を聞くのは好きだった。それは姿からというよりも、草や土に溶け込もうとして目立っている緑や茶という色が好きになれなかった。どちらかというと、蛙は赤や黄色といった、野鳥を脅してかかるくらいの色をしている方が、好感が持てる。だが行く先々で雨に降られる私にとって、蛙はほとんど友人みたいなもの。もちろん好きになれない色と出会うより、好きな色の蛙と出会ってみたいと思うのが常だった。私の行動範囲など高が知れているから、おそらく田んぼで鳴き続けているのは、緑や茶色の蛙であろう。しかしそれが目に見えないものである以上、もしかしたら赤や黄色の蛙ではないかと想像を働かせるのが楽しかった。
雨の閉ざす静かな空間を、幾千もの蛙の声が駆け抜けていく。それはまるで風のようにしなやかで、雪のようにしっとりと心に受け止められる、光の塊のようなものだった。雨水が地に落ちる音が、膨大な量の蛙の存在感の中に音もなく吸い込まれていく。
「嬢ちゃん、こんなところで何してるン?」
安らかな気持ちが突然に打ち切られる。柔らかい蛙の泣き声に傾けていた耳に、岩のように硬い異質な声。
振り返ると、雨の落ちてくる高さから、毛むくじゃらの顔のおじさんがサングラス越しにこちらを見下ろしていた。傍らにはギアのついた自転車が、ずぶ濡れになった手に支えられている。
おじさんは、自転車を車道の隅に留めて、私の隣に腰掛けた。
「傘も差さンと、こんなトコ居ったら風邪引くで? 早う、家帰りや」
だがそう言う彼も傘を差してはいなかった。私は何となくそれに従うのが癪になって、首を横に振った。
「お家には、帰れません」
「なんでやねん。あ、わかった、母ちゃんと喧嘩したんとちゃう?」
私は再度首を左右に振る。
「じゃあ父ちゃんか、爺ちゃんか、婆ちゃん? あ、兄ちゃん、姉ちゃん、妹、弟ってのもあるなぁ」
「……そう言う問題では、なくてですね」
おじさんはどうしても私が誰かと口論になって家から飛び出したという設定にしたいらしく、何を言っても聞く耳を持たなかった。仕舞には彼氏とか元彼の彼女などと訳の分からない設定まで持ち出してきて、私はそれに応えるのもうんざりしてしまった。自然と、口からため息が漏れた。
「……何や、辛気くさいなぁ。若いモンはもっと、勢いよく突っ込まんと」
おじさんは人の気も知らないで景気よく笑って私の肩を叩いた。雨粒のたくさんついた手のひらが勢いよく翻り、私の胸の前に来るとしぶきを上げて、とん、と小さい音がした。しかし、その手はすぐに引っ込んだ。
「悪い。今のは、ナシや」
不意におじさんの顔から笑顔が消えた。私は訳も分からずにおじさんの方を見るしかなかった。
「それより誰かと口げんかしたんやないなら、他に理由があるんとちゃう? 何や、俺に言うてみ」
言葉を濁すようにおじさんが言ったので、私は一瞬呆けてしまった。
「どうした、何でも言うてみ。悩みっちゅうもんは誰かに言った方が楽になれるモンや」
おじさんは口元だけの笑顔を取り戻して身を乗り出した。しかし何でも包み込もうとするようなその笑みに、私は少しのためらいを感じた。というのも、言ったところで幻滅されるのがオチなのではないか。そう思ったからだ。
私には雨の日以外に何をやっていたのかを思い出せないことがしばしばあった。記憶がないのだから、原因だって分からずじまいだった。しかし、雨の日の出来事は全て覚えているらしく、気がついた場所で奇妙なことを言っては、関わってきた人を困らせてしまう。
いつだったか、八百屋の前で倒れていたときも、どうしてそんなところにいたのか、どこに住んでいたのかなどを訪ねられたが、答えられなかった。それ以前に、自分がどこで何をしていたのか、何歳だったのかすらも覚えていなかった。
しかし幸いなことにその八百屋のおじさんとおばさんは、どこの馬の骨ともわからない私を丁重に扱ってくれた。お腹を空かせた私にご飯を食べさせてくれ、汚れていた青いワンピースを預かって洗濯すると言ってくれた。代わりにもらったのがこの黄色いワンピースだった。若い頃に買ってそのままだったのだと、おばさんは言っていた。
そのときは洗って返すつもりだったが、今となってはその八百屋がどこにあって、どうしてそこから離れてしまったのかがわからなかった。だからこの黄色いワンピースは彼らのお守りのように感じている。しかし、ただ最後に「ありがとう」と言えなかったことが、今も私の心残りだった。
結局、私は他人に干渉しては礼の一言も言えずに去っていってしまう、迷惑な人間なのだ。
せっかく話を聞いてくれると言ったおじさんに、初対面にしてこのような話を聞かせるということが、私にはひどく残酷なことのように思えた。先ほどのようにまばゆい笑みを曇らせてしまうことになるかもしれないと思うと、どうしても真意を打ち明ける気にはなれなかった。もしかしたら「冗談やろ?」などと笑われるかもしれない。しかしそれはそれで、真剣な表情をして話す私が、まるで馬鹿みたいではないか。
私は、もうこの際おじさんの目を盗んで、何も言わずに立ち去ろう、と考えた。お互いの気持ちのバランスを考えるのならば無難な選択のはずだった。
だが、どうやって彼の注意を別の対象に向けさせればいいのかがわからなかった。また、運良く逃走できたとしても、おじさんが自転車に乗って追いかけてきたら、逃げ切れる可能性など皆無だ、と思い当たった。数回言葉を交わしただけでも、おじさんの他人への関心は底知れないものだ、ということが分かっていただけに、もう事実を語るしか方法がないことに気づかされた。最初から負けは決まっていたのだな、と思った。
「……何も分からないんです」
私は観念して、ぽつり、と口を開いた。
おじさんは、ん? と首を傾げて顔を近づけた。田んぼを打ち付ける雨音にかき消されて、聞きとれなかったのかもしれなかった。
「自分が何者なのかわからないんです。これからどうすればいいのかわからないし、今まで何をしてきたのかがわからないんです」
最初に言ったことは違っていたが、今度は幾分大きな声で、はっきりと言った。
告白して直後、私の胸は、ある種の緊張感を伴ってガタガタと震えていた。頭の中では真っ白な空に円が現れ、視界の端に無数の光が輪郭を見せ始める。冷たかったはずの体が内部からじんわりとこみ上げてくる物で熱を取り戻そうしていた。
恥ずかしい、というのとは少し違った。泣きたくなるような、長く咳をするときのような、急激で突発的なほとぼりだった。これで、おじさんも奇妙な話に巻き込まれることになるのかと思うと、一種の罪悪感が湧き上がる。
「何や、ンなことかいな」
しかし意外にもおじさんは呆れたように左右の腕を立てて首を振っただけだった。
視界の端から、無数の光がさっと姿を消す。
「そんなん、譲ちゃんみたいな思春期の子ならよくあることや」
「そう、なんですか?」
「ああ。俺も経験したで」
私は首を傾げた。経験、という言葉が少し引っかかった。
「ただ、俺の場合はちょっと特殊やってん」
おじさんが言葉を切ると、髭まみれの顔が急に険しく歪められた。頬が硬い張りを帯びていたけれど、サングラスの下では、切れ長の優しい瞳が緩やかなカーブを描いていた。
「ほれ、見てみ」
おじさんの手が顔の前に大きく広げられた。私は思わず身を引いてしまいそうになった。
左手の小指が最初からそこになかったかのようにすっぽりと切り取られていた。根元の骨こそ残っているものの、その先は何かに溶かされたように滑らかな肌色が続いている。
「驚いたか?」
サングラス越しの眼差しが事も無げに私を射抜いた。蜘蛛の巣がかけられたような状態に、私はその言葉を肯定するしかなかった。
「俺、昔ヤクザモンやってん。今はもう足洗うたけど、この小指と体ン中だけは、絶対元に戻らへん。つっても、もうこいつの使い方も忘れてしもうたけどね」
おじさんの逆の指が、肌色の丘をなぞる。少々やつれた印象さえある、乾いた笑いが田んぼの雨と蛙の鳴き声を閉ざした。
私はしばらく何と返せばいいのかも分からず、ただ湿った土を握り締めていた。ぬるっとした感覚に火照った身体が冷めるだろうか、と思ったが、泥の付いた手で体を触ると、思わず手を引っ込めてしまうほどに、肌は冷たかった。
「中学でいじめられたさかい。友達できひんかってん。親に言っても禄に聞く耳持ってくれんかったからねえ」
乾いた笑いが不意に止んで、おじさんの話が始まった。私は、はっとして身構えた。
「自暴自棄になって家飛び出したんや。でも、都会の夜って、奥まった場所はめっさ暗いやろ。人間でも走性ちゅうのはあるのかね。蛾みたいに明るい方へ、明るい方へ、足が伸びて行ったんや」
「蛾、みたいに」
「そう。んで、そしたら、もう俺の人生変わってもうた。変なやつに目ぇつけられて、ヤク売りにされたわ」
ヤクの意味がよく分からなくて、私は頭を悩ませた。薄っぺらい記憶の中にはそんな言葉は存在しなかった。
「ああ、ヤクっちゅうのは、アレや……ともかくおっそろしいモンや」
「恐ろしいもの、なんですか……」
おじさんの声のトーンが目に見えるように下がっていってしまったので、その言葉はよく理解されないうちに消えていってしまった。
低い声は話を引き継ぐ。
「んで、最初は秘密ができたみたいで嬉しかったけど、そのうちサツに見つかるようになってしもうてな。その度にもう必死で逃げなあかんかって、逃げる度にもうクタクタになって。今から考えれば、馬鹿なことしたなと思っとる。若さに任せて夜の町繰り出しては、バイク乗ったり、悪い連中と夜遊びしてみたりなあ」
「夜遊び?」
「そや。たぶん、譲ちゃんとは縁のないような、悪い遊びや」
おじさんの声は誰かに秘密を喋るときのように、思いのほか優しかった。深いため息をついて、日焼けした肌が覗く顔が、延々続くあぜ道の先に向けられた。
「酒もたばこも、二十歳になる前に味覚えたってん。ひったくりもした。女の子も捕まえたで。あとは……いや、もうやめとこか」
おじさんは心底草臥れたように肩を落とした。そして一回細く開けた口から大きく息を吸い込み、数秒とめてからそれを吐き出す。
「ともかく、捕まらん方が奇跡みたいなもんやった。仲間内にはハマり混んで薬中になるやつも居ったけど、俺はそういうことには興味あらへんって、頑なに断ってな。……それが功を成してか、今何とかここにおるっちゅうわけや」
「仲間の人たち、死んじゃったんですか?」
「んん? ああ、顔見知りのやつは大体死んでもうたな。そりゃ、あの年であんだけハマり込んどったら、医者でも通わんことには治らへん。あいつらはそういう世界とは、縁のないところに居るんや」
武勇伝の中にひとつだけ混じりこんだ他人の出来事に、私は後頭部をハンマーで叩かれたような気分になった。おじさんは仲間たちの誘いを断るためにヤクザを辞め、その代償として小指を失ったのだそうだ。今ではその指のせいで、警察に厄介になることにも抵抗があるらしい。
太股に肘を立てて、遠くを見つめるおじさんの仕草が、さらに異質な感情を畳み掛ける。
覆い被さってきたとぐろを巻く思いに、私は前を見ていることも困難になって、足首の辺りに視線を移した。雨に溶かされてどろどろになった田んぼの赤黒い地面に、ピンク色のランニングシューズのつま先が食い込んでいた。その周囲にかすかに見えた煌きに注意を奪われ、視線を移すと、砕かれた鏡がわずかに光を反射しているのだった。今まで気がつかなかったが、私たちの座っている周りは、散歩中の人々が捨てたと思われる空き缶やビニール袋などのゴミが、大量に散乱していた。
私たちは暫く黙ったままでいた。おじさんが過去を思い返して感傷に浸っているのかもしれず、私は不意に声をかけてそれを壊すことを恐れていた。私には、おじさんを慰めることなど何も出来ない。自分のことさえもよくわからない私が、いろいろな経験をしてきた大人にかけてあげられる言葉など、何もない。
私は着ているスカートで膝元を隠して山を作り、その溝に顔を埋めた。いよいよ鳥肌が立ってきて、体温が惜しくなってきた。髪から伝わる雨粒が、考え事に耽っている頭に当たっていちいち気を散らす。
「けどな、そやってぎょうさん馬鹿なことして、やっと気づいたん」
閉口していたおじさんがゆっくりとまた話し始める。スカートに埋めた頭の横で、低くて渋い声が聞こえる。
「自分の存在なんて、誰も永遠にわからへん。ド偉い哲学者がなんと言おうとも、妙な本に何が書いてあろうと、自分が自分であることに変わりはないし、そこから飛び越えてどこに行けるわけでもない。所詮現実からは逃れられないんや」
「現実から、逃れられない……」
私には、その現実という奴が分からない。ただおじさんの言うことを反復し、おじさんの見てきた現実とやらを語られた過去を頼りに転がすことしか出来ない。
「そや。現実から逃れらんと、人生あっという間やろ」
おじさんの方に首を動かすと、大きく頷く浅黒の顔が見えた。
「だから自分の存在云々を探しまくって変なことするくらいなら、いっそ何も考えンと人生謳歌したらええんとちゃうか? 世の中には豪い短い時間――それこそ、言葉も喋れんうちに死んでしまう奴もおる。自分の存在を探して迷う、なんて贅沢な悩みや。時々悩みすぎて死んでまう奴も中には居るンやけど、結局それってどうなんやろね、自分が生きたらあかんと思うたから死んだンか、それとも考えるのも嫌になって、人生投げたンか」
またおじさんは私の理解に及ばない話をし始めた。
だけど言葉も覚えないうちに死んでしまう、というフレーズだけは、私にとっても、妙に引っかかる棘を持っていた。
理由はわからないが、私は言葉が喋れる。学習した覚えもないのに言語を習得し、それを違和感なく使えているし、相手の言っていることも分かる。
おじさんの言い分によれば、これはどうやら贅沢な悩みを持っているに過ぎないらしい。例え私が足のつかない海でもがいているような気分であろうとも、そのまま溺死することがないのであれば、それは生きているという時点で死ぬより贅沢。溺れ死んでからようやく、それが本当に辛いことだったのかどうかを客観的に見られる、と言われているらしい。
「それってどうなんでしょう……」
おじさんの言っていることをぼんやり反芻して、思わず言葉が出た。
ぼりぼり頭を掻いていたおじさんの右手が、髪の筋に荒っぽさを残してぴたりと止まる。
「確かに、人生って短いし、死ぬよりも生きている方が贅沢な気がする。……でも、だからと言って今までのことを全部水に流して生きていくのってどうなんでしょう」
「何も全部忘れろ、とは言うとらんやろ。悩んで死ぬくらいやったら、そういう考えは切り捨てた方がええ、と言うたんや」
おじさんの眉根がわずかに歪んだ。
私は構わず、まだ見ぬ深い海底を思い描きながら、さらに言葉を続けた。
「わかりますけど、私にはそれがとても不思議に思えるんです。『未然に防ぐ』と言っていても、犯罪は必ず起こる。正義のヒーローは事件が起きてからじゃないと来ない。より多くの人々を守るためには、そのきっかけとなる何らかの事件が必要……生け贄なしじゃ、話は進まないんですか?」
「譲ちゃん、話が逸脱しとるで……」
おじさんが呆れたように言ったのを聞いて、私は我に返った。ほとんど無意識に、何か別のものがよってきたかのように、口が動いていた。突発的に胸が熱くなった。一体、私は今、何を口走っていたんだろう。
「ごめんなさい。本当に、自分が自分でよくわからないんです。次の瞬間、何を言い出すかに自信がない。どこに話が飛ぶのかも、何をしだすかも全然わからない。だからいつも迷惑かけてばかり……」
「譲ちゃん!」
大きな音が私の耳を裂いた。私は声のした方から反射的に体を反らして、おじさんと少し距離をとった。
「そういうのがアカン言うとるンや。ネガティブな考えに浸ってもうたら、それこそ抜け出せなくなる。気を強く持て」
おじさんが立ち上がる。左手の手が指一つ分だけ空いて、両の拳が強く握られた。踏みしめられた地面が、雨によって柔らかくなって、おじさんの靴に染み入った。
「確かに俺の過去は惨憺たるものやった。でもそこから学んだことも山ほどある。昔の俺がなければ、今の俺はない。それを踏まえてのことや」
必死で私のことを励まそうとするおじさん。サングラスを通してしか分からないが、その目には熱くたぎる思いと過去の凄惨の色がありありと窺えた。力が強いあまり真っ赤になった拳は私に伝えたい話があることを物語っていた。
「譲ちゃんの言いたいこともわかる。突飛に現れてこんなこと言い出すオジンが居ったら、そりゃたまげる、言うこと聞きたくないんも分かる。だけどな、過去にくすぶってたら何も動かん。俺はそんな人生歩んできたからこそ、譲ちゃんみたいな子を俺みたいにさせへんようにするには自分がやるしかないと思うたんや」
「……え?」
どういうことなのか、私にはよくわからなかった。
「譲ちゃんみたいな複雑なこと考えとる奴はな、似たような仲間が欲しいだけなんや。同じような価値観もった奴と、思いっきり喋ることで希望が見えてくんねん。一歩間違えば死んでまう。そういうセンシティブな奴と語って、明日もまた元気に過ごす希望を与える……それが俺の見つけた、俺にしかわからない生きがいなんや」
おじさんの声は時々起伏をつけて大きくなり、最後は細く小さく、降りしきる雨に溶け込んでいった。
私は胸が熱くなるのを感じた。今たまたま出会って、耳を通してしか聞かされていないはずのおじさんの過去が、ずっと前から彼のことを知っていたかのような錯覚を植えつけたのだった。彼の過去と現在への思い、願いなどが否応なしに伝わってきて、涙が溢れた。
しかし同時に、それは二人の埋まらない溝についてもいえることだった。自分の身の上を語ることが弓のように張り詰めた緊張感をはらんでいることを、私は先程の経験から知っていた。ともすれば、おじさんにこのようなことを喋らせてよかったのかどうかが、分からなかった。自分のせいでおじさんが思い出したくなかったことを語らざるをえなくなってしまったのであれば、それは紛れもなく私の責任。でも、語られた過去が誰かの助けになると信じているおじさんの手前、それを素直に言うことは難しかった。おじさんは「そんなことは気にするな、気を強く持て」とだけ言って、また豪快に笑い飛ばすに決まっている。私を励ますために、なお深い過去を語りだすかもしれない。いずれにしても、私が何を言ったところでおじさんがそれを慰め、自宅に帰そうとする流れが続くことに変わりはない。おそらくどんなに語りつくしたところで、私とおじさんの会話が噛み合うことはないだろう。
私はやりきれない思いを抱えつつ、おじさんの言い分に納得していた。おじさんと私は見てきたものの重さが全然違う。彼から見た私は誰にでもある思春期の悩みを抱えたちっぽけな子供に過ぎず、私から見た彼は、もう迷いのない経験豊富な大人なのだ。おじさんの経験を踏まえれば、今までの発言は全て当然のことであるし、私がそれに対して過剰に反発するのもまた、道理だった。
田んぼを閉ざしていた雨は、最早霧のように細かくあたりを包むだけになっていた。思ったよりも早く止みそうだった。足元に力強く根を張っていた雑草は個々に雨粒に濡れ、徐々に輝きを増す雲の光を反射した。
私は未だに自分の抱えているものの正体が何であるのかが理解できずにいたが、立ち上がっておじさんに礼をいうことくらいしかできなかった。深々とお辞儀をした私の肩を、おじさんは小指の欠けた手でトン、と小突いて「大丈夫か?」と言った。何が大丈夫なのか聞く間もなく、おじさんは自転車にまたがると、たくましい肉付きの足を重そうに持ち上げて、ペダルを踏み込んだ。
泣きかけて視界の霞む先で、おじさんの背中がだんだんと小さくなっていく。暫くそれを見送っていると、舗装された一本道を行く自転車に乗った毛むくじゃらの顔が、不意にこちらを向いて優しく緩んだ。おじさんが、手を振りながら大きく叫ぶ。
「嬢ちゃん、めっさ美人やさかい、その辺の男に喰われてしもたら、大変や、早う、帰り!」
振り返ったせいでバランスが片寄った自転車は少しよろけて元の道に戻った。私は彼の言葉に促されるままに、自転車が走り去った方向とは逆の道に走った。帰る場所はどこにもなかったが、おじさんに心配をかけてはならない、という理由だけが私の足を突き動かしていた。