1・2「彼女の名前」
優見の家は小さなアパートの一室だった。
アパートは、階段が錆びて、外の壁はひび割れがあちこちに見られた。けど、
「中はキレイなんだね」
「もう、莫迦にしないでよ。一人暮らしだからって散らかしてなんてないわよ」
「ううん、そうじゃなくて……このアパート自体のことを言ってるんだよ」
ボクの言葉を違うふうに見た優見は怒ったように返事したけど、訂正すると照れくさそうに笑った。
ここに来るまで街を歩いている間、優見と少しお話をすることができた。ピカピカしているお店を一つ一つ訊ねるとか、変な服を着ている人がいるとか、そんな他愛のないことを選んで話した。彼女はボクと話すとき、街を歩くたくさんの人と違って、瞳をキラキラさせて心を開いていてくれた。話題を選んでいるボクに対しても、きちんと受け答えしてくれる優見が嬉しかった。――でも、だからこそボクは見てしまう。そんな心を開いた彼女の瞳に、時々悲しい色の影が過ぎるのを。
玄関から上がるとき、ボクは自分の足が泥だらけなのに気がついた。ボクの履いている靴は、ご主人様があの夢の家〈天戸の宅〉に置いていった運動靴だったけど、それはボロボロになってしまってた。その上靴下も履いていなかったから、足が汚れ放題だったんだ。
気遣いの細やかな優見がこれに気付いた。
「――む、チヨ、そこで待ってて。今タオルを持ってくるから」
優見はパタパタと家の中に駆けていき、蛇口からジャーと水を流す音のあと、白い布を手に戻ってきた。
「足出して」
「え、自分で拭くよ」
「いいから!」
言われたとおりまず左足を出した。優見は真っ白なタオルでボクの足を、指の間一つ一つまで丁寧に優しく拭いてくれた。右足も同じだった。
ボクがお礼を言うと、優見はほほえんだ。
「命の恩人だからね。気にしなくて良し!」
次に彼女は眉を立てて、ボクを頭の先から爪先まで眺め回した。
「全身も泥だらけね……。まずはシャワーに入って。着物は洗えないから、替わりに私の服に着替えてね」
*
温かい雨。
石けんのにおい。
白い湯気。
毛皮じゃない素の肌は敏感。その肌をとおして、ボクはそれらを幸せと一緒に感じていた。
人間の身体になってシャワーを浴びるのは初めて。猫だった頃は、一月に二・三度ご主人様と一緒にお風呂に入った。子供の頃から慣らされていたせいか水は怖くなかったけど、水を吸った身体が重くなるのは好きじゃなかった。
人間の身体は毛がないから、素肌の上を水が流れていくのは逆に気持ちが良かった。こわこわしてた髪の毛も尻尾の毛も、シャンプーでやわらかくなった。
――あ、背中の毛……。
手を回すと、意外と洗えた。ボクの身体は筋力もすごいけど、柔らかさも人より上みたいだった。
シャワーのコックを閉め、優見の出してくれたバスタオルで身体を拭く。毛皮の部分はドライヤーで乾かしたいけどそうはいかないので、よく拭くだけにした。
「着る物出しといたからね。ちゃんとチヨが着れるように大きいの出したよ」
優見はボクより少し背が低いので、彼女が服を出してくれるのなら大きめの物にしてくれないといけない。
脱衣所に置いてある篭に入っていたのは、ボクの物ではないパンツとブラジャーと、パジャマ上下。優見は下着もボクに貸してくれるみたいだ。
とりあえずパンツを穿く。元のボクのパンツは股上が長く取られていて尻尾をとおす穴を開けてあったけど、優見のパンツには当然それはない。しょうがないので、尻尾はお尻の下に挟んで我慢。
次にブラジャー、って――
「優見ぃ……これどうやって付けるの……?」
バン、と勢いよく脱衣所の扉が開けられた。
「‘これ’ってブラのこと? うーん、そんなものかしらね」
ボクはこれまで晒し布を巻いて胸を押さえていた。ブラジャーはその形は知っていても着けたことはない。
優見がブラジャーを手に、ちょっと呆れたみたいに笑いながらボクの後ろに回った。
「まず腕をとおす。……そう、その紐の間。で、パットを胸に当てて後ろのホックを――!?」
キ、キツイ。胸全体にまんべんなくかかる圧力に、ボクは息が止まりそうになった。
「ちょっとチヨ、あんたどれだけ胸デカいのよ。私のブラが壊れちゃうじゃない」
優見が慌てたような怒ったような声で言った。
ボクの身体からブラジャーが外され、優見が眉間にしわを寄せてボクの前に出てきた。
「あきれた……これじゃブラは無しね。でも、あの布は洗濯してるし。とりあえず家の包帯でも巻いとく?」
「ボクの胸って、そんなに大きい……?」
ボクにとって比較できる女の人はネガイしかいなかった。ネガイはボクよりちょっと大きかったけど……。
優見の目の色が変わった。ボクの前で、はじめて怒ったような表情になった。
「大きいわよ! トップで九十はあるんじゃないの? 何とかしないと、パジャマも着せられないわよ」
そしてドシドシと足音を立てていなくなったかと思うと、何かをひっくり返す音のあとに包帯を手に戻ってきた。
「さぁ、ギリギリ巻くわよ。――その馬鹿乳を弾圧してやる」
「優見、目が怖いよ……」
「問答無用!」
*
「ふふ、かわい。猫舌なんて、本当に猫だったのね」
あれから包帯を巻かれパジャマを着せられたボクは、丸いちゃぶ台を前に正座して優見と一緒にインスタントラーメンを食べていた。理解できない怒りを込めて巻かれた包帯は、ヤマタノオロチみたいにボクの胸を締め付けてる。
インスタントラーメンの味はシーフード。生の魚介類には比ぶべくもないけど、それなりに味わいのある海産物の香りと、濃いめの醤油味がおいしい。でも、優見の言うとおり猫舌のボクはちょっとずつしか食べることができない。そんなボクを、優見は楽しそうに見ていた。
ちなみに、ボクの舌にはちょっとだけザラザラが付いてる。猫の時ほどいっぱいは付いていないけど。
「人間のジャンクフードっておいしいの?」
「うん、人間になったときに色々切り替わったみたいで。味覚自体変わったし、猫の時なら気になった調味料のにおいも平気なんだ」
優見にはボクの事情を要領をまとめて全部話した。現の人には縁遠い――というか知りもしない――ボクの話を彼女は無表情に聞き、聞き終わったあとは何事もなかったみたいにインスタントラーメンを出して食べている。嘘をついているみたいな薄っぺらい笑顔で、他愛のないことことを話そうとしていた。
家の明かりの下で、優見はお化粧をおとした素顔でいる。ちょっと蒼白い優しい色の肌に、細くてまっすぐな眉。花は少し低め。髪の毛は黒の混じった梔子色。脱色、したのかな? 今はあまり手入れがされてないみたいだった。
ボクがごちそうさまを言うと、無地で若竹色のパジャマを着た優見が空の容器を手に立ち上がった。
殊の外静かなその背中に、ボクは言葉では表せない空気の重さを感じる。
優見は絶対何かに憤っている。それはボクに対してではないみたいだけど、少なくともボクに関すること、ボクが話したことに関係する。だから、ボクは後ろめたいような気持ちがして、自然と顔は下の方を向いてしまう。
「私の思っていることが気になる?」
その声は、夕立の雨垂れのようにやにわに振ってきた。
「――うん」
ボクが頷くと、優見は立ったまま堅い声をボクに告げた。
「私ね、怒ってるの。わかると思うけど。でも、それはチヨにじゃない。私は、チヨの話してくれた‘ツミ’って人に怒っているの。――私は、その人を憎むわ」
優見の座る気配と一緒に、カタン、と木と木を打ち合わせる音がした。視線を上げると、そこに額縁に納まった一枚の写真が、ボクに見えるように置いてあった。
写真には二人の女の子。共に寄り添い笑う、仲の良さそうな二人。一人は優見。髪が今より明るい茶色で、これまた今とは違う健康そうな肌に良く映えている。もう一人の女の子は、優見と同じくらいの背丈だった。髪は少し長い綺麗な黒で、それをまっすぐ降ろしている。肌は白い。枯葉色のスプリングコートを着て、裾に黒いラインの入った白いロングスカートを穿いている。何より目立つのは、丸い眼に収まった彼女の千歳緑の瞳。人とは一層違う個性の持ち主だと感じさせる光が宿っている。
「この子は葉名。本名は青野・葉名。私の親友で、私は‘ヨウ’と呼んでいた。
ヨウはちょっと人とは違う心で動いてる子だった。友達は作ろうとしなかったし、私には他に友達がいたから出席番号が近くなかったら話しもしなかったと思う。でも、私達は話した。そして、私はヨウのことが大好きになったの。
化粧も、服も、流行の物じゃなくて自分で選んで着ていた。お買い物が嫌いで、私は良く遊具もない山の公園に連れてかれた。私のことを‘ユウ’と呼んで、無邪気に笑ってた。
けど、ヨウはもうこの世界にいない。ヨウはおばあちゃんの家に行くって、山の向こうの村に行って、そのまま死んだの。村ごと大きな火事になったって……」
「私はそれをニュースで知った。聞いた直後には、私の足はヨウの行った村の方へ動き出していた。電車に乗って、バスに乗って。でも、村まであと少しってところで、私は自衛隊に止められた。村は危険だって、それだけ言われて行く手を阻まれた。私は大人しく帰るしかなかった。
誰かが何かを隠しているのはわかった。でも、私にはそれが何だかわかるはずもなかった、探る方法もなかった。そして、今やっとわかったわ。私からヨウを、お父さんもお母さんも奪ったのがチヨの‘ご主人様’だって」
ボクは優見の方を見ることができず、うつむいたまま彼女の話を聞いていた。彼女の言葉は、容赦なく降り注ぐ雨だった。怒りに激しくなることはなく、ただ悲しみに冷やされた水がボクの心を濡らして重くさせた。
ボクは悲しかった。大好きなご主人様がたくさんの人を殺し、たくさんの人を悲しませていることが。ご主人様は、一人でいることが多かったけど優しくて誰かを思う心持っていた。なのに――今はもう変わってしまったのかな!?
「ねぇ、チヨはどうしてその人に会いに行くの。会いに行ってどうするの」
優見は決して声を大きくして怒鳴ったりしない。今もただ、はっきりと落ち着いた声でボクに問う。でも、それは逆に偽ることを許さないものだった。
「会いたいから、もう一度。それから確かめたいんだ。どうしてご主人様がこんなひどいことするのか」
「その人は、その……夢とかって言う世界から戦争をなくすためにいろいろしているんでしょ? よくわかんないけど。――‘どうして’なんてわかりきっていることじゃないの?」
違う、とボクは半分感情に任せて反発する。
「違うよ! ご主人様はわざとこうやってひどいことが起きるようにしている気がするんだ。だって、現に夢を帰すだけならここまでひどいことにならないはずだもん……!」
「――どうして、そう言い切れるの?」
ボクは言葉に詰まった。
でも、でも……理由はないけど……
「ねぇ……今『現に夢を帰す』って言ったよね? 現と夢は別々のものなんじゃないの? もしそうなら‘帰す’とは言わないよね」
優見の質問は鋭い。ボクが熱くなってとっさに言ったことを、冷静に聞き逃さず返してきた。
「……チヨは何を知っているの? 何がわからないの?」
「わかんない……わかんないよ、優見。ボクが知っているのはサキから聞いたことだけだもん。サキは、夢が現を侵略するって言ってた。ご主人様のやっていることは、だいたいが天乃常立から聞いたことで、現でひどいことがおきるのも避けられないことだって……」
「――じゃあ、どうしてさっきみたいなことが言えたの?」
ボクは口から言葉を出るに任せて、根拠のないことを言い連ねていたのだろうか? ボク自身、それが本当だと思い込んで。
耳を塞いで逃げ出したいような、途方もない気持ちが胸に沸いてきた。真っ黒い何かが、ボクの頭をスッポリと覆ってしまったみたいな……。
「チヨ……もう止めようか」
混乱したボクが時の流れを感じられなくなったとき、優見の手が、そっとボクの頭をなでた。
「たった一人でなれない場所に来て、チヨは疲れているんじゃないの? 今日はもう考えるのは止めて、一緒に寝よ」
穏やかな声での提案を、ボクは畳みかけるみたいな質問で返してしまう。
「――どうして? どうしてそんな優しいことが言えるの? ボクは優見の友達を殺したツミの飼い猫なんだよ。ツミが憎いんでしょ? なのに、どうしてボクに怒ってないの? どうして――泣いてもいないの?」
優見はほほえみに少しの寂しさを漂わせて、ボクの頭をなで続けながら答えた。
「私がチヨに怒らないのは、私がチヨのことが好きだからよ。チヨだって、ご主人様からはぐれて一人っきりになってしまっている。私が親しい人たちを失ってしまったみたいに。もしかしたら裏切られたのかもしれない、もうその人は変わってしまったのかもしれない。けど、チヨは‘ご主人様’のことを信じようとしてる。――私は、それが間違ったことだとは思えない。だから、チヨにひどいことは言えない」
「…………」
「私が泣かないのは……どうしてかな。泣き疲れちゃったのかな? 悲しいことは悲しいけど……今は、ほら、チヨがいてくれるから」
――ボクは、やっぱり優見から離れるべきなんだろう。
優見はボクに遠慮して泣かないんじゃないかと思う。ボクが好きだって、ボクを哀れんで、ボクを傷つけないようにしてくれているんじゃないのかな?
でも、ボクは結局優見に甘えてしまう。ボクは、頭をなでて引き留めてくれる人から離れられるほど強くはなかった。
ベットは二人で寝るにはちょっと狭かった。おまけに、ボクの体は女の子にしては大きめだ。
――猫の体に戻れたらいいのに。
ちょっと悩んだボクの顔を見て、優見はほほえんだ。
「明日は服を買いに行こうね。靴も帽子も。あちこち歩いて回るのに、そんな格好じゃ目立つだけでしょ?」
うん、とだけ返事をしてボクは瞼を降ろした。
目を閉じた闇の中でも、優見はもちろんそこにいる。
その事実をしっかり手に握り締めながら、ボクは眠りの中に落ちて行った。
悲しみを表現することができない、と気付いたこの頃。
それなりに悲しむ人もいますが、なかなか……
「ここは悲しむところかな?」とか、「悲しんだら泣けばいいのかな?」とか考えるんですよね。怒るときは火みたいに怒らせればいいのですが、悲しみはそうはいきません。
例えば、今回の優見のように、‘悲しんでいるように怒っている’とか、難しいことをしてくれる人が多いです。
結局は私の未熟さに帰結するのですけど……。




