7・5「白き月と神」
ここがどこなのか、ボクにはもう表現することはできない。
確かにボクは東京湾の中央に出現した城を下から順に登ってきたけど、この城は造りからして変だった。階段は何十とあり、積み重なる階の構造は下のそれとまるで一致しない。おまけに所々の窓から見える風景は、まるで雲の上にいるような俯瞰だった。
果てしない道筋。でも、少しずつ終わりが近づいているのはわかる。
襖障子が目の前に現れる。縁が奈落のように黒い、真っ白な襖。
一枚あけると、その向こうも襖だった。またあけても襖。その向こうにも、さらに向こうにも、しつこいくらいに襖がある。
二十九の襖があった。すべてをくぐると、そこに真っ白な空間。
足をつける固い床面はどこまでも雪原のように広がり、そこから上はぽっかりと黒い空。星がなくて、ど真ん中に骨のように白い大きく円かな月が一つ。色のない光で、月下は煌々と昼間のように明るかった。
そして、少し離れた所に白い人の形をした“何か”。
白い直衣を着た、白髪が背丈よりもずっと長く伸びた人。肌も白く、目には黒眼がない。茹で卵みたいな目で、その人は天を仰ぎ見ている。
それは状況からいえば、ボクのご主人様以外の誰でもなかった。でもその人が放つ雰囲気は異様過ぎて、ともすれば人間にさえ思えない。
ボクは声もなく彼に歩みよる。彼は月の海みたいな奇妙な模様の魔法陣の中に座っている。
陣をつくるのは灰色の線で、テレビの砂嵐みたいにうごめいている。足で踏んでもこっちに何もないけど、線は逃げるように動いて形を変えていた。
一メートル。座っている彼の目線を上から覗き込んでも、石のような目に反応を見ることはできない。色あせた唇は、何かを唱えて幽かに動いている。
「ご主人様……?」
ボクは呼びかける。
声に反応して、白い顔がこっちに向けられる。そこに、人間らしい表情は一切ない。
「僕は……誰かな? …………君は誰?」
彼の声は砂漠みたいに味気ない。おまけに男声とも女声とも判別できない、機械的な喋り方だった。
ボクは自分のことをご主人様に分かってもらえなかったことに驚かない。自分のことすらわからない彼が、ボクのことをわかるはずがないと予想できたから。……少し悲しいけど。
「ボクはチヨだよ。ご主人様の……あなたの猫だよ」
「僕の猫? …………あぁ、記憶の中にあるね。それで……僕は誰?」
彼の話し方は途切れ途切れだった。ボクを見る――黒目がないから本当に見えているのかわからないけど――表情もだらんとしていて、彼の心の状態が危ういことを表している。
「あなたは……」 ツミだよ、と言いかけて止めた。
この名前は夢に行ったときに、自分の名前を忘れてしまったご主人様がとっさにつけた名前で、本当の名前じゃない。彼にとってもボクにとっても真実ではないうえに、もうこの名前は捨てられてしまった。
それに……やっと今、思い出せたから。
「あなたは、光樹。――ボクのご主人様だよ」
「ミツキ……」
自分の名前の音を口にするご主人様。
彼の眼に黒い丸が生まれる。緩んでいた顔の筋肉が、少しずつ緊張し始める。
「光樹、ボクのご主人様」 ボクは呼びかける 「もうこんなことは止めて、一緒に帰ろ? アカもサキも、みんな待ってるよ」
「アカ、サキ……僕は君の飼い主……僕に帰る場所があるのかい?」
「もちろんだよ。元住んでいた家でもいいし、新しい場所だってある。だから……」
深い穴のような黒い瞳は、次第に色を薄くして夢見るような琥珀色になる。陶器のような白い肌に血の気が差し、顔には感情が表れ始めた。
優雅な衣擦れの音をたて、彼は立ち上がる。すると、ゆったりとした直衣に隠れていた色鮮やかな錦の帯が顔を見せた。
「そうか――やっと来てくれたんだね、チヨ。また会える日をどれだけ待ったことか」
光樹はボクの手をそっと取る。ボクが膝を着いて頭を低くすると、柔らかい彼の手がボクの頭を撫でてくれた。耳に触られると、喉がごろごろ鳴った。
「ご主人様……」
ボクは彼の胸に頭を擦り付ける。懐かしいにおいを感じた。
「君の名前はチヨ」 とご主人様は言う 「そう、ボクがつけた名前。でも、僕にとって八年前のあの日、君と夜の散歩で別れてしまった時からずっと僕は君の名前を忘れていていた。〈月神〉になったとき君の名前を知ることはできたけど、それは思い出したうちには入らなかった。――今この瞬間まで、僕は君を見失っていたんだ」
「ボクもご主人様の、光樹の名前を忘れていたよ。でも、ご主人様がくれた名前は覚えていたから、まだそんなに寂しくなかった」
ボクらは抱きしめあう。ご主人様の体に体温は感じられないけど、深い奥の方に、それが眠っているのを僕は感じ取れる。
しばらく、そうしていた。まぶしい月下の、無音の世界で。
「でも……ごめん。僕は帰れない。僕が統べた夢たちを、現に還してやらなければいけないから」
そう言って、ご主人様はボクから離れた。
「どうして……! ご主人様のやり方じゃ誰も幸せにできない。わかってるんでしょ? なのに……」
彼は余所余所しいまでの決意をみなぎらせて、ボクを見ている。静かにボクと見つめあったあと、落ち着いた声で答えた。
「僕には僕のやり方がある。〈月神〉のやり方がね。世界は幸せになるさ。――そうだ、君ならどうするの? 聞かせてほしいな」
だんだん、彼の口調が冷たくなってくる。
ご主人様はボクが答えなくてもいいと思っている。どうでもいいんだ。……だけど、ボクははっきりと答える。
「夢と現は一つにするよ。だって、夢は現から生まれたもので、還してあげなきゃ夢はいつまでも彷徨ったままだから。
でも、戦争は起こさなくてもそれはできる。夢と現は共存できるよ。夢が現に戻れば現は変わり始めるけど、現の大きな大地に夢を包みこんで、少しずつ解き放つようにすれば現の変化はゆっくりとしたものになるはずだから」
「だけど、それで世界は平らなものになるのかい?」
「それは、みんなが手を取り合ってやることだよ。今までと変わらない。夢の力もあるんだし、平和のためだけに力を使えるようにすることは簡単にできる。ボクにでも、もちろんご主人様にも。――だから、神の力は必要ない。神が世界を治める時代は、これから先も来る必要がないよ」
彼は失笑する。
「本当にそうかな? 結局、君の言う管理のためには、神に近い管理者が必要なんじゃないのかな。だったら、絶対の力を持つ神が――すなわち僕が、力だけではなく総てを納めてしまえばいい。――――だけど、まぁこの話はこれくらいでいいだろう。そろそろね、僕は戦いたくて我慢できなくなってきたんだ」
彼は口元を思いっきり、歪に曲げる。狂っている……彼から伝わる禍々しい気配に、ボクは背中に寒気が走るのを感じた。
「光樹……」
「結論として、君のいう方法には夢を操る権利が必要だよね。だけど、それは僕が持っている。因って君は僕からその権利を奪い取る必要がある。それに、今ちょっと遅めているけど、現の終わりの時は刻一刻と迫っているよ。――だから、どうあっても君は僕を倒さなければいけない」
彼は言外に要求する、戦いを。
月光の輝きが強くなり、彼の元から力がにじみ出始める。風ならざる風と、全身を竦ませる威圧感。彼に目を向けることが恐ろしくなってくる。
「光樹……ご主人様………!」
でも、ボクは目をそらさずに、圧力の向こうに呼びかける。
「僕は光樹でも、君の飼い主でもない。〈月神〉だよ、〈地の代理者〉。――さぁ、次の千代王国の命運をかけて、戦おうじゃないか」
力持つ者の、好戦的な視線。それはアカに似ている。
――負けそう、冗談抜きで。
だけど退いてはいられない。ボクには負けられない理由があるから。
「……いくよ、〈月神〉! あなたを倒す!」
*
「ボクが立つのは黒い大地。やわらかい土のしとね」
白い足場が、ボクの言葉で土の地面にすり替わる。
ふんわりとした黒土に、靴を沈みこませ力を練り始める。
――油断すれば、消される。
対峙する〈月神〉からは脅威を、恐怖を、ひしひしと感じる。彼はもう人間ではないのだと、否応なしに悟らされる。
全力を出されれば、絶対に勝てない。でも今はまだ何も仕掛けてこないみたいなので、この時間を使って長い準備のいる大技の用意をしておく。
「土はボクの力。月に抗うもの」
〈月神〉に最低限ボクの力の源を奪われないための術。
「神を名乗る者、その肉を脱ぐことはできない。肉の欠けるとき、力の欠けるとき」
相手は実体を捨てて精神だけでボクを攻撃できるけど、それを制限する術。
「地は動かざるものにして、固きもの」
今立っている場所から動かない限りは、かなり頑丈な結界を張ることができる。
そして、自分の後ろに六連の大砲を作り上げる。砲口は全部〈月神〉に向いている。素材は鉄の合金をメインに、足りない部分は土自体を焼き固める。
弾はない。〈八尺瓊勾玉〉から抽出した神秘霊力を圧縮して装填する。
他にも後々の攻撃を考えて術を仕掛けた。――まぁ、それは後のお楽しみで。
「――てぇ!」
砲口が光り、紅く光る玉が打ち出される。
〈月神〉はよけない。六つの砲弾はすべて命中し、炸裂する。とりあえず目に見える効果は灼熱と閃光と爆風で、他にも重力の急激な増減や、天の属性を破壊する効果が付いている。
爆発の消えないうちに、ボクはいったん地面に目を落とし、土の中から棒の一端を掴み上げる。
持ち手の反対側は、長い長い、全長二十メートルくらい。そして太く、最大で直径三メートルくらい。超特大棍棒って感じだ。
気合い一発、棍棒を振り上げる。この時は重力で軽くできるけど、あとで振り落とすときは自分の筋力だけでやらないといけない。
「!」
まだ持ち上げている最中で〈月神〉が攻撃してきた。さっき張った結界がそれを弾く。
「く、ら、えー!」
振り下ろす。その速さは大きく、半分くらい下ろしたところで空気と摩擦して高熱を生み、棍棒は火を纏いはじめる。
〈月神〉の頭上、少し浮いたところで棍棒は何かと激突する。
響く轟音。手首に痛いほど伝わる衝撃。
棍棒を受け止めているのは、月光が固まった薄い盾だ。盾を打ち砕くために、棍棒に仕込んだ力を解放する。
彼の盾が少し歪み、棍棒が少し落ちる。いける、そう思って渾身の力で棒を押し込む。
だけど、競り合いは途中で挫かれる。上空から降り注いだ月光の一撃で、棍棒はたたき折られ、ボクは後ろに吹き飛ばされた。
「――くっ!」
何とか受け身を取って着地。ダメージは小さい。
しかし気がつくと、目の前に光の有刺鉄線が張られていた。大した防壁じゃないけど、挑発的だ。
鉄線の向こうで、彼は微笑してボクを見ていた。
「――折れろ」
そっと彼が言葉を吐いた瞬間、ボクの右腕に見えない力が加わった。言霊――言ったそのままに世界を変える神の能力か。
「彼は天でボクは地。天地は平等だから言霊は無効……!」
八尺瓊勾玉の余剰エネルギーの全部を使って、彼の言霊を無効化させる。
これで神器は使えなくなった。あとはボクと大地の力のみで〈月神〉と戦わないといけない。
「――割れろ!」
衝撃波を放ち、地面ごと一直線に彼の防壁を裂く。
迎撃として、無数のビームが発射される。それを重力レンズで逸らしつつ、力を右手に集中させる。
「いっけー!」
音速で踏み出す。空気の壁を切り裂きながら、〈月神〉に突進し拳を叩きこむ。
拳はまたしても彼の防壁にぶつかる。でもひるまず、インパクトの瞬間に溜めていた力を解放する。
密着して大砲を撃つみたいな感じだ。ボクの攻撃は何層にも張られていた彼の結界を貫き、ついに彼自身に直撃する。
〈月神〉は三歩後ろに下がった。――それだけだった。
だけど、それは彼の闘志に油を注ぐ結果となる。
「いいね、面白いよ。――今度はこっちから行くよ」
〈月神〉は右手を月光に、自らの象徴の光にかざす。
彼から発せられる気配が風となってボクに押し寄せる。そんな中、白い月光は棒状に集まりやがて一本の錫杖となる。
しゃらん、と錫杖が鳴る。澄み切ったその音に、ボクは心の奥底が畏怖に震えるのを感じた。
「〈天乃御中〉――見せてあげようか、神の戦いを」
殺気。それは絶滅の予告としてボクに伝わる。
心臓が止まるような、絶対の恐怖を感じた。
ツミはもっと前々から出しておけばよかったかな、と思うこの頃です。
今日の解説。天御中主神は古事記で一番初めの神様です。宇宙そのものらしいですが、ここで出したことにあまり深い意味はありません。
そういえば、同じ別天津神の天乃常立も何も喋らないで砕けてしまいました。もっと登場人物を大切にするべきでしょうか。
なかなか最終幕は長いです。小説の構成としてはどうかなぁと思いますが、今さら考えることも多すぎるのでやりたいようにやろうと思います。お付き合いください。