お弁当編(1/3)
<1>
「……食べますか?」
揚げたてのフライドポテトを指で摘み、彼女に差し出した。
細長く切られたポテトからはうっすらと湯気が立ち、まぶせられた塩が朝日に煌めいている。
「食べます」
月ヶ瀬さんは口を開けた。スズランの花を思わせる白い歯。
桜色の舌に熱いポテトを触れさせるのを躊躇した瞬間、唇が閉じた。人差し指と親指の先端が飲み込まれる。反射的に指を離したが、濡れて柔らかな粘膜の感触が指に残った。
かなり喉の奥までポテトが入ったはずだが、躊躇することなく顎を動かし、咀嚼する。
顎と喉の筋肉が透き通るほど白い肌の下で動く。
「おいしいです」
月ヶ瀬さんは微笑んだ。
「もう一本、食べますか?」
僕は尋ねる。
「食べます」
月ヶ瀬さんが答える。後一本だけでは終わらないとお互いにわかっているのだけど。
<2>
月ヶ瀬さんと僕は一緒に食事をする。
僕は27歳で、市役所の臨時職員をしている。仕事は主に資料の整理。書類をデータ化して分類する。この職場は3年目で、任される仕事も多いが、いつ自分自身が整理されるかわからない。
月ヶ瀬さんのことはほとんど知らない。身長は160センチ程度。
長い髪を大きな白いリボンで束ねる。
首は細い。陳腐な言い回しだが、本当に白鳥のような首だ。
今日は襟元から肩にかけてレース飾りがついたノースリーブの白いブラウスと、黒のフレアスカートを着ている。ブラウスは羽が喉元を覆うようなデザインだ。女性の服には詳しくないが、かなり高価なものなのではないだろうか。そしてブラウスは体と不釣り合いなほど大きな胸を包んでいる。細い体型なのに胸が大きいので、胸元が窮屈に見える。食事をする時は特にそう見える。今もそうだ。
見ちゃいけない。
視線を上に上げると彼女と目があった。
ものをたべる時、彼女は目を閉じる。咀嚼している時も目を閉じている。
フライドポテトを食べ尽くし、月ヶ瀬さんはうっすらと目を開けた。
大きな瞳だ。
長い睫毛に縁取られ、月を写す水面のような目をしている。
「フライドポテトっておいしいですね」
「……そうだね」
「とても熱かったです」
「火傷してない?」
「大丈夫です。ほら」
月ヶ瀬さんは口を開けて、僕に見せた。白い歯が並と。桜色の舌。そして、奥に続く口蓋が見えた。
「そ、それはよかった」
目をそらした。年下の女の子を相手に、何を緊張しているのだろう。
年下と言ったが、僕は月ヶ瀬さんの年齢を知らない。おそらく、僕より遥かに若いだろう。下手をすると高校生くらいかもしれない。
でも、お互いに自分のことは話さない。
彼女からメールが来る。
そして彼女と食事をする。
それだけ。
「それ、どんな味ですか?」
彼女が僕のトレイの上にあるハンバーガーを指差した。春の新作、トリコロールバーガー。トマトと白身魚のフライ、タルタルソースとアボガドが挟まった三段のバーガーだ。
「食べてみますか?」
「いいですか?」
わざとらしい口調で月ヶ瀬さんは尋ねる。視線はバーガーに注がれている。細い舌が微かに唇を舐める。
「どうぞ」
包装紙を半分外して、彼女に向かって差し出す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
駅前のファーストフード店「ケイト・バーガー」の一番奥の席は二人がけの小さなテーブルになっている。
テーブルの向かい側では届かなかったので、月ヶ瀬さんは席を僕の横に移動した。
食べるのに最適な距離や角度はお互いに熟知している。
月ヶ瀬さんが口を開ける。
人形のように整った顔立ちの彼女だが、口を開くと一瞬、それが崩れる。顎の関節が外れるのではないかと思えるほどの角度で口が開き、白い歯が露わになる。犬歯が鋭い。
彼女の両手が太ももに触れる。彼女の両手首は白いリボンで結ばれている。
バーガーにかじりつく。
大型のバーガーだが、上と下のバンズがかじりとられ、全体の4分の1程度が綺麗になくなっている。
口を動かしながら何か言ったようだが、口にいっぱいに頬張っているので言葉になっていない。口元にケチャップが一筋。垂れそうになったので、ペーパーナプキンで拭き取った。
「ありがとうございまふ」
月ヶ瀬さんがお礼を言った。まだ、完全には咀嚼しきれてはいない様子で、口の中が見えないように顔の角度を変えている。
でも、絶対に手で隠したりはしない。……彼女は食事中、両手を使わない。
「いえ」
僕はナプキンをトレイに置くと、バーガーを持ち直した。
「もう一口どうですか?」
「いいんですか?」
わざとらしい口調で月ヶ瀬さんは尋ねた。唇のケチャップを舌の先で舐めとりながら。
<3>
「やっぱり、ケイト・バーガーは美味しいけど食べにくいですね」
月ヶ瀬さんは駅前のロータリーを歩きながら言った。時間は日曜日の7時55分。平日は学生やサラリーマンの多いバスの停留所にも人影は少なく、行楽に出かける家族連れや、これから練習にでも向かうのかジャージ姿の小学生が数名いるだけだった。
バーガーショップはロータリーの向かいにある。客はいるが、まだピークは先だろう。奥のテーブルの周囲には他の客はいなかった。見られてまずいことをしているわけではないと自分に言い聞かせる。
あの後、月ヶ瀬さんは僕と自分の分のバーガーセットを平らげた。
食べ始めると彼女は止まらない。
最後、一口分だけ残ったバーガーを僕が食べた。ごめんなさい、全部食べてしまいました、と彼女は言ったが、僕としてはそれで十分だった。ドリンクはそれぞれ自分のぶんを飲んだし。
「口より大きなバーガーを作っても食べにくいだけじゃないですか。分解して食べろっていうんでしょうか」
「レストランなんかじゃナイフとフォークがつく時もあるそうだけど」
「そういうのは良くないと思います。やっぱり、かじらないと」
そう思いませんか? 月ヶ瀬さんが尋ねた。
「そうだね。バーガーはかぶりつかないと」
僕の答えに、月ヶ瀬さんは満足そうに頷いた。
「……ところで、今日のメニューはなんですか?」
月ヶ瀬さんは僕が持ったクーラーボックスを見つめた。
「秘密です」
「教えてくれてもいいじゃないですか」
「ダメ」
「……意地悪ですね」
月ヶ瀬さんは本気で残念そうな目で僕を見た。他愛もない会話だとわかっていても、少し罪悪感が生じる。
「ミートボールは入っています」
「本当ですか? やった!」
「この前、リクエストしてもらったからね」
彼女が笑ったのを見て、安堵した。関係が壊れるのを恐れるほどの会話じゃないとわかっている。僕の方がはるかに年上なのだから、堂々と振舞うべきだと頭ではわかっている。でも、恐れている。
……しかし、彼女と二人で歩いていて、どう見られるだろう。
親子にはさすがに見えないだろうが、兄妹には思われるかもしれない。
恋人? そう見えるだろうか。金で女子高校生を買った男に見られてはいないか不安だ。
「今日も私を満たしてください」
月ヶ瀬さんは手を伸ばし、クーラーボックスに触れた。
「……そうだね」
彼女は微笑む。純粋に。僕も微笑む。
でも、それは取り繕うためだ。
<続く>