40.人間は神を奴隷に扱い、奴隷には神の力を求める
深い霧の中で、彼らを待ち続ける。
濃い霧の中をバスは進んでいく。
バスが走る道は、果てしない広さを誇る大河を横断する巨大な河口堰の上に設けられた片側一車線の幹線道路だった。
大河は、それが本当に河なのかと思うぐらいに前方にあるはずの対岸さえまだ見えてこない。
後ろを振り返っても、もはや自分たちが越えたはずの東側の堤防まで見えなくなるまでになっていた。
本当は大河ではなく大海ではないのか?
そんな事を思うほど、
あの港町フィシャールを発ってから、まだ半日も経っていないのに、
章子は、途方もない時間を過ごしたように感じていた。
流れる車窓からは、曇り空かも見てとれないほどの深く濃い霧の景色だけしか眺めることは出来ない。
バスの振動で揺れるつり革と妙に明るい車内の照明の明るさだけが、
窓に反射した章子の顔を映しだしていた。
ぼんやりとそれを他人事のように見て逸らす。
死んだ魚のような目をしている。
窓ガラスに映る自分の酷い顔を捉えて、そう思う。
いま章子の座っているのはバスの最後部にある座席だ。
そこはやはり章子の世界でも一般的によくあるバスの構造と同じで、五人ほどが並んで座れるお決まりのロングシートだった。
その長座席を、
左の窓側から昇が座り、その隣をオリルと電気子猫のトラが、真ん中を魔女っ子姿のジュエリン、
次に真理と続いて、最後が右端にいる章子という位置どりになっていた。
章子は窓に反射する自分の姿の奥にある反対側の昇の姿を追う。
昇も、章子と同様に真っ暗な霧がかった外を眺めているようだった。
窓枠の桟に頬杖をついて、灰色しか見えない霧だけの景色にカジりついている。
対岸にいる二人は、そっぽを向いてそれぞれの景色に視線を固定させている。
まるでケンカでもしているみたいだ。
章子は心の中だけで笑ってみた。
べつに本当にケンカをしているわけではない。
気が付いたらこういう配置になっていたのだ。
今日の章子は外を見ていたかった。
何も考えずにただ外を眺めていたかった。
この世界のことも碌に深く考えずに、ただ前から後ろへと流れて過ぎ去っていくどんよりとした風景だけに心を没頭させていたかった。
そして、そんな人間が両脇に二人もいたら、
それに挟まれて、妙な雰囲気が立ち込める真ん中の三人と一匹は、困惑の表情のままで顔を見合すしかない。
「なにか?
気まずい雰囲気になるようなことでもやってしまいましたか?」
「さあ? いつものことですよ」
「お母さん、お父さんがヘンだよ?」
「お父さんがヘンなのはいつものことでしょ?」
ヒソヒソと四人だけで進んでいく会話が、今の章子には癪に障る。
だから、もう一度、
盛大にため息を吐いてやった。
「はぁっ」
分かりやすい不機嫌は、三人と一匹の視線を集めるのにやぶさかでない。
「章子、行儀がワルいですよ」
「アキちゃん、ぎょーぎワルーイっ」
下僕と子猫が合唱する。
せめてものため息を行儀が悪いとは初耳だが、
品行が悪いという意味でならその通りだろう。
事実これは悪態だった。
上げたコブシの下げどころが分からない、ただの駄々捏ね。
章子は自分がここまで幼稚な感情しか持てないことに自己嫌悪しているのだ。
自分の理解の限界が、ここまではっきりと自覚させられるなどとは、
一瞬の恥を一生の恥と感じる日本人には所詮、耐えがたい心理的状況でしかなかった。
「街並み……、
戻っていたでしょう?」
呟かれた言葉が、現実逃避していた章子の心を深く抉る。
「朝起きて、
再びあの現場に足を運んでみて、
見事に何もかもが傷跡なく元通りだった。
そうでしたよね?」
下僕の少女の憐れむ視線が、今の章子には我慢できない。
膝の上で組んでいた両手が離れ、代わりに作った握り拳が震えていた。
苛立ちで、
ただ苛立ちで、
自分の心と拳を震わせている。
「あなたはそれを茫然と見ているだけだった。
それを、
通りを行き交う人々が、あなたを不審そうに眺めていたことに気付いていましたか?
あの街の方々は見事に「あの出来事」を覚えたまま、いつも通りの日常を繰り返していた。
あなたにはそれが理解できない。
そうですよね?
いまのあなたの気持ちはきっとこうだ。
昨日、あんな一大事があったばかりなのだ!
だからっ!
〝もっと悲しんでいればいいのにッ!〟」
「違うッ!」
真理の、自分の葛藤する心を土足で冒涜してくる言動を強く叫んで、
章子は必死になって抵抗する。
「そんなことっ、
そんなこと、わたしはぜんぜん思ってな……ぃ……っ」
激しく搾りだした言葉が、最後には弱々しくつゆと消えたのは、
やはりどこか、そう思ってる自分がいるからに他ならなかった。
あれだけの被害が、もし自分の現代社会で起きていたら、
次の日には、あれだけあっけらかんとした顔で日常生活に戻れるのだろうか?
それを絶対に考えてしまう自分が許せない。
章子にはそれがどうしても許せなかった。
「では……、
なにからお話しましょうかね……?」
まったく、ため息というものは伝染るものだ。
真理が、主である章子と同じため息を吐いて前の座席の背もたれに視線を落とす。
「この世界、
第二世界ヴァルディラには経済がないとお伝えしましたね?
しかし、
労働力というものは確保されています。
……と、いうよりも、
それしかやることがないのですがね。
だから彼らは、無償で仕事を提供する。
物を運んだり、
食事を用意したり、
物を販売したり、
漁や猟をしたり、
育成したり、
治安を維持したり、
建物を復元したりと、
それぞれの勝ち取った権利を実行していくのです。
しかし、それでもやはり無条件にする、というワケではない。
彼らが他者に対して行った仕事の対価には、賃金で支払われることは無い。
賃金という報酬で与えられるわけではないのですが、
そこにはやはり、
賃金に代わる物が当然、彼らには支払われる……。
それが……、情報です」
「情報?
なに、それ?」
章子が呆れて言うと、真理もそれを無視して続けていく。
「例えば、
今朝の朝食でもありましたよね?
朝の料理が出されて、我々はそれにありついた。
あの時、やはり支払うという代金のやり取りは発生していません。
ただし、我々が食事をした。という情報は彼らの帳簿には記載されるのです。
それはもちろん、
宿のチェックインや、チェックアウトでもまったく同様です。
個人情報、それだけは必ず記載されます。
浅く深くは権限によってもまちまちですが。
基本的に情報の支出を拒むことはできません。
個人情報の記載を拒むということは、仕事の提供を受けられないことを意味するからです」
「ど、どういうこと……?」
章子が不可解に首を傾げると、真理も笑って続きを言う。
「彼らの仕事というものはね?
不特定多数の身分を明かさない匿名者には、与えられないのですよ!
それだけは彼らの誇りが許さないからです。
見知らぬ他人の為に、自分の手を汚して苦労して仕事を提供する、などという事は、
彼ら、労働者という勤労にいそしむ人の感情が許さないッ!
だからまず、
飲食するのも、
居住するのも、
仕事をするのも、
物を享受するのも、
身分を明かすことから始まるのです。
だから、そこいらの露店で美味しそうに並んでいるお菓子などを無断で拝借し際限なく奪取してしまうとね?
捕まりますから。
一般市民なら誰もが恐れ慄く、
怖い怖い、
異端審問官という監視員に。
だから、
お金を支払わなくてもいい、ということは、
無断で物を盗ってもいい、際限なく物を盗ってもいい、ということではまったくないのですよッ!
それはイコールではない!
そこを勘違いしていると、この世界では痛い目を見ます。
そんな誰だか知らない欲望を埋めるために、彼らは労して仕事をしているのではないッ!
彼らの労働力は当然、無尽蔵ではないからですッ!」
「え?」
章子の意外に驚く顔を、真理は深い思慮をもって忠告する。
「章子。
彼らの発揮する力は、確かに外見上は無尽蔵に見えてしまうものです。
しかし、
人の力まで無尽蔵ではないのですよッ!
電気や水道、運輸力などに関わる主な必要エネルギーは、
第一種永久機関「魔術媒体」などによって全てが際限なく賄われている。
だからといって、
それを管理して、調節し、
ある一つの意味において目的を持って仕事を行うという行動だけは、無尽蔵ではないのですッ!
例えてみせるなら、
太陽は、それ単体だけでは命は生まない」
「あ、それは……っ」
章子は、よく忘れてしまいそうになるその事実に目を驚かせる。
「で、ある為に。
いかにこの永久機関技術を誇る第二世界ヴァルディラでさえ、
人の労働力まで軽んじてはいないのです。
それを求めることには何らかの代償が伴う。
その代償に見合うものが、この世界では「お金」ではなく「情報」だった。
それだけのお話なのです」
「で、でもそれだけなら、
みんながみんな、
仕事もせずにずっと食べて寝て遊んでを続けていっても不思議じゃないでしょ?
情報さえ払えば何でもしてもらえるんだものっ。
情報なんて減らないんだから!
減らない情報を払って暮らし続けたら、みんなそれだけしかしなくなる筈よ。
けど、そんなので社会なんて成り立たないはずでしょっ?」
章子が、経済問題で最大の難問中である核心をそうと知らずに発すると、
真理はその答えを実際にこの世界に住む住人に移す。
「だ、そうですよ?
ジュエリン・イゴット」
視線を向けられたラテイン人の少女は、引き攣り笑いを浮かべて弁明を懸命に考えている。
「あ、
あー。
えっと……ですね。
食べて寝てはまだ分かるんですよね。
でもその遊ぶっていうのが……ねぇ」
「え?」
「いや、
いやいやいやいや、
その心配はごもっともなんですよ?
我々の世界でもそれを心配する声は少なからずありますからッ!
あります!
それはあるんですけど!
ムダに遊んでもいられないんですよ!
そういう事情が我々にはあるんですっ。
だって情報は握られてますからっ!」
「え、はっ?」
「情報は握られているんです!
しかも、限られてもいる!
私たちは今できないことしか興味が無いのですから!
それってつまり、他を知ることが出来ないってことです。
他を知ることが出来ないから、知ることに興味を持つ!
知ることをできるようにする!
そして、
知ることに興味を持ったらですね?
それは知りたくなるじゃありませんか、
自分たちが、誰に、何をしているのかと。
知らない誰かに何かをする、なんていうのには別に興味はないんですよ。
そんなのはいつだってできるんですから!」
「え、えっ?」
「いつだってできるでしょう?
知らない誰かに何かをするなんて誰にでも出来ます。
危害でも奉公でも、なんでもいつでもできるんですよ!
でもそんなのには興味はない!
いつでも出来ることには興味はない!
いま出来ることには興味はないんです!
我々は!
自分がいま!
誰に、何をやっているのか?
やってしまっているのか?
という、今できないこと。
いま知ることが出来ないことを求めているのですから!
その為に情報のやり取りをする。
私はこういう者です。
だから私はあなたにこういう事をします。
はい。私はこういう者で、あなたからこういう事をされました。
というようなやり取りをするわけです。
後は、それが合法か?違法か?という結果にしかならないのですよっ!
合法だったなら「仕事」という形になり、
違法なら「犯罪」です。
犯罪なら処罰されますね。
その情報に則って。
もちろん自分たちの情報を意図的に改竄したり偽ったり、秘匿したりして、
赤の他人の労力や情報を楽して無断で搾取しようとするなんてことはありえます。
でもそれはすぐにバレるんですよ。
一般的に、情報を隠すことは許可されてませんからッ……」
「隠すことが許可されていない……?」
「そうです。
基本的に情報を隠すことは許可されていません。
情報も病歴などの身体的特徴も、姿形も全てがです。
最初の情報である出自は最初から明らかです。
生まれも育ちも調べればすぐに履歴が辿れます
自分の情報を隠してもいいという権限を得るには、それなりの試験か資格に合格する必要があります。
私の立場でしたら、今の私の身分ですね。
これは表向き魔術院の学徒生として登録されています。
しかし、今はラテインの代表として外交使節であるあなた方への対応も行っている。
それはある権限によって、この身分は隠してもいいという許可を得ているのです。
だから他の人々には、私の真の役割を知ることは出来ない。
たとえ、あの時の絨毯のおっちゃんが、仕事をする代わりに私の本当の役職を言え、と言っても、私は教えることを致しません。
今度は、オッちゃんの側に、そこまでを聞きだす権利が許可されていないからです。
あのオッチャンさんが仕事で得ることのできる情報の領域は、
どこから来た我々が自分の回りで何をやっているのか?という事までなのです。
その情報を体験する為だけに、あのオッチャンは私たちを送ってくれた。ということになるのですね」
「で、ですけど。
それってほとんど「趣味」の領域じゃ……」
とてもではないが、
それを「仕事」とまで言い切っていい活動だとは思えない。
だが、ジュエリンはそうでしょう、となんなく頷く。
「趣味と言えば趣味です。
しかし、侮っていると自分が恥をかくことになります。
彼らはその情報を得るためのプロ意識をもっていますから。
これはおそらく、あなた方の社会にある「お金」というものを得るプロセスと一緒です。
モラル、あるいは信頼をもって、個人の情報あるいはお金を得ようとする「姿勢」のことですね。
あなたの大事なお金をいただくのと一緒で、
あなたの大事な情報をいただくために、我々は自分の誇る能力をいかんなく振るって奉仕貢献をしている。
その為に、我々はこの社会を生きて活動している。と!
でも世の中、そんな人間ばかりではない。
人の情報なんて知ったことじゃない、という人も当然、私どもの世界にも存在はします。
そこで問題となってくるのが、
先刻、章子さんからもご指摘いただいた、仕事をしなくても生きていけるなら、
みんなが遊んでいても当たり前じゃないかというあの疑問です。
もちろん、それはやろうと思えばやれるんです。
でもですね?
耐えられなくなるんですよ……。
そればっかりやっていると」
「え?
耐えられなくなる……?」
不可解に思う章子にジュエリンは頷く。
「はい。耐えられなくなるんです。
情報は公開されていると言いましたね?
さらに、それを隠すことは法律上、遊んでいるだけでは許されてはいない。
この状態のままで、
今ある情報のまま、遊びほうけているとどうなると思います?」
「えっ?ええぇーっと……」
バスの天井を見上げて考えていると、ジュエリンの向こう側から声が上がった。
「自分の情報が搾取されていく……?」
「その通りですッ!
バッチリですよ!オリルさん!
遊ぶだけ遊んで、自分だけの行動に浸っているとですね。
自分の情報だけが周りに知れ渡っていくのです!
しかし!
この状態だと一つの問題点が浮かび上がってしまうんですよ!
その問題点が今度は何か、分かりいただけますか?」
「……他の人の情報が……入ってこない?」
「いい答えです。章子さん!
そうなのです。
自分の情報を浪費して、遊ぶだけ遊んでいると、自分の情報だけ相手に与えて、
相手の情報は手に入らないという状況になるのですね。
自分の情報だけ相手に支払い、自分は相手の情報を収入できない!
そして、この状態をつづけていくと、
最終的には、その遊んでいるだけの人は「話すこと」が無くなります」
「話すことが……なくなる?」
「ええ。
話すことが無くなるんです。
誰とも何も話す話題がなくなり、ただ食べて寝て自分だけの遊びに没頭せざるを得なくなる。
たとえば行楽でも鑑賞でも食事でも買い物でも、なんでもいいですよ?
でもほとんどが消費活動ですよね?
これだけの事を私は今までしてきました!
それを今もしています!
だからこれからもさせてください!
という情報だけが独り歩きして周囲に知れ渡っていく。
ああ、娯楽関係の中でもギャンブルはムリです。
賭け事で遊ぶって事は成り立ちません。
我々の世界ではギャンブルはすぐに生死に直結する死活問題です。
もしくは非常に低刺激な幼稚な娯楽どまり。
理由は、その時に賭けられる物が「お金」ではなく「情報」だからです。
賭博自体は許可を受けていれば犯罪ではありませんが、賭けた結果によって起きるだろう状況結果は、おおかた、たわいのない雑談どまりか、重大な犯罪に繋がるケースのどちらか一方に極端に分かれます。
そのため、ギャンブルは準犯罪に該当するグレーゾーンです。
これは相当な遊び人でも、まず手は出さない非常に危険な行為だと広く認識されている。
そして、
自分だけの情報しか浪費することのできない人間はいつしか……、
他の話題を作るために、
人や他の場に危害を加えることを考えるようになりだす……ッ!」
「……えっ、
あっ!
ちょっとッ、ちょっと待ってくださいッ!」
聞いていたジュエリンの話を唐突に遮って、章子には思い至ったことがあった。
章子の社会でも、そんな事件がありはしなかったか?
特に昨今はネット社会だ。
世間の注目を集めようとして、何か突拍子もないことを起こそうとする。
そして、それが命の喪失や社会不安につながる。
ネット社会ともなれば、それが更に拡大していたことはなかったか?
それが金銭を集めるためのものなのか、名声を集めるためのものなのかはわからない。
だが、それだけの無謀な事をして、
社会を、衝撃の渦に巻き込む事件がたびたび起こってはいなかったか?
想像に絶している章子にジュエリンは笑いかける。
「そうですよね?
そうなりますよね?
そうです。
それは「犯罪」になるんです。
遊んでばかりいると、人と話すための「話題」に事欠くようになるんですよ。
誰だって、誰かが遊んでいた時の話なんて聞いていてもつまらないものでしょう?
それが面白いと感じる時は、大抵その人が仕事をして得た時の情報なんですね。
人が苦労して手に入れた情報ってやっぱり面白いんですよ。
それを話し合って日々の生きる糧にする。
現在の我々、第二世界のヴァルディラはそういう仕組みになっているのです。
遊ぶことばかりになってしまうと、人に自分の情報を取られることに我慢がならなくなる。
自分の情報が摩耗して減っていくからです。
消費をすればする分だけ履歴は付きます。それを消す権利なんてありません。
それが欲しければ働くしかない。
でも遊んでばかりいる人には、その発想に辿り着きません。
いいえ。辿り着けないのです。
自分の情報が次々に搾取されていくと、遊ぶことしか頭にない彼らは同じ手段で他所から他者の情報を手に入れることしか考えられなくなる。
もちろん遊びながらです。
遊びながら、楽をしながら人の情報を得ようとする。
快楽意識に裏打ちされた思考行動に支配された意思は、最終的には利己的な目的と化して行動に出してしまう。
しかし、それは許されません!もってのほかです!
当然です!
そんなことをされる為に、仕事をしているのではないのですからッ!
仕事とは、自分がする為に実行するものですもの!
される為にするのではないのです!
これが、遊んでばかりいる人には理解できない。
仕事とは「する物」ではなく「される物」だという認識しか持っていないのですから!
彼らは、仕事を義務だと思っている!」
「ち、違うんですか……?」
今まで、それを当然だと思い込み、
母国でも法律によって勤労を義務化されていた章子に、ジュエリンは大声を出す。
「違いますよッ!
仕事は義務でやるのではありません。してもしなくても自由です!
むしろ、
どちらかと言えば、我々の世界では逆に禁止されている!
ですが、それをしないことによる不利益はやはり出るのです!
そこは覚悟しなくてはなりません!
遊ぶだけの人はその不利益を考えない!
だからその不利益を自分ではなくッ、
人に被らせようとする!
そして、そこで事案が発生するのです!
「事件」という事案がッ!」
「それが……「犯罪」……」
呟いた章子を、ジュエリンは大きく頷く。
「人から危害を加えられて不利益や損失、あるいは損害を被った人は必ず不平を言います。
不平を言わない人間なんていません。
もし言わないのであれば、それはすでに命ですらない。
「命」であれば、かならず危害を受けた時に反応するからです。
それは人間だけにとどまりません。
生きていればどんな生き物だって、反応しますよね。
犬でも猫でも、どのような動物、植物でも。
被害を受けて自分が損害を受ければ、体のドコかが無くなるし、能力も喪失します。
それが「命」ってものです。
人が暮らす社会の上では、その「利益の強奪」が「犯罪」という諸懸案になる。
しかし、
これを防ぐには摂理学上、一つの有効策があります。
それはもう……おわかりですよね?」
ジュエリンの笑顔に、章子は茫然とした眼差しで言う。
「働く……こと……」
「そうです。
人に不利益を強いたり、人から不利益を受けたら、それは「犯罪」になる。
利益を奪って得た人が犯罪者となり、奪われた人が被害者になります。
ではこれを予防するためにはどうすればいいか?
犯罪になる前に、
犯罪をする側が一番嫌だと思う被害を受けていればいいのです!
それをするのが「仕事」です!」
何も言い返す事ができない章子の顔を、ジュエリンは屈託なく笑って返す。
「だから仕事は、されるものではなく、
するものなのですよ。
損失といういま最も受けたくない被害を自分からまずは受けて、相手の利益を入手する。
そうすれば「合法」です!
それは犯罪ではありません!
それは仕事です。勤労というヤツですね。
だから、遊ぶだけの人っていうのは、すぐに犯罪に手を染めやすい。
そういう先入観や差別意識を、簡単に周囲や他人にも植え付けてしまう。
こうなってしまうとあとは悪循環ですね。
泥沼に嵌まっていく。
特に「働くこと」を法律によって義務化している国家だと、ことさらこの泥沼には陥りやすい。
国が病むのです。
国の病。
国益ならぬ国疫。
非常に根治の困難な『国疫病』となって端々にまで蔓延します。
そしてこの国疫でもある泥沼に嵌まって、どっぷりつかったまま、
犯罪にも手を染めずに、人を辞めていく人もいます。
人をやめれば、人に危害を加えようとすることもしなくなる。
そんな人々を、私たちはもう知っていると思います……」
ジュエリンの言わんとすることが章子にも分かる。
あの少年。
人を忘れたあの少年が、いまはどこで何をしているのだろう?
遠ざかりかけた章子の心は、すぐに立ち戻って一つの疑問を口にする。
「そこから抜け出す方法って、あるんですか?」
恐る恐る訊くと、ジュエリンは目を輝かせて威勢を張る!
「モチのロンですよ!
何の為にコレがあると思ってるんですかっ?
これがあれば、なんでもできるでしょうっ?」
前の座席に立てかけてあった自分の空飛ぶ杖を掴み取って、
立ち上がったジュエリンは通路の真ん中でそれ突き立てる。
「これがあれば仕事の仕方なんていやでも覚えますよ。
自分で思いつくことさえできます。
これの燃料切れなんて心配無用ですから。
燃費の心配がない導具なんて、仕事をするにはもってこいでしょう?
あとは許可が下りるまで頑張るだけですよ」
瞳をバチコンとウインクする目尻では、ピンク色の特大ハートマークが浮遊していく。
「……すごい……ですね……ッ」
「へ……?」
突然、すごいと言いだしたのは半野木昇だった。
いままでそっぽを向いていた昇は、
顔をジュエリンに向けて、真摯に見つめている。
「ど、どうしたんですか?
昇さん、そんな私をマジマジと見てっ?」
誰もが嫉妬を抱きそうなほど、昇はジュエリンを真面目に見ている。
「すごい、と思ったんです。
この国はちゃんと……、
一度、つまずいた人でも這いあがれるようになってるんだな。って……」
「……あ」
一度でもつまずいたら、二度と這い上がれることのできない国。
章子は自分の国で、そんな言葉を聞いた事がある。
考えれば考えるほど、
イヤというほど耳にしてきた言葉だ。
章子の父も母も、章子をそんな人間にさせない為に、
口煩く章子の学生生活に介入していたことを思い出す。
「……それを考えなくちゃ、やってられませんから……っ。
人の生活なんて……。
私の世界にはこういう言葉があります。
〝人は崇める神を奴隷に扱い、奴隷には神の力を求める〟
この言葉の意味を、昇さんなら分かって頂けますか?」
言うと、それを横やり的に反応したのは章子だった。
「神を奴隷に扱うっていうのは何となく判ります。
何でもできる神さまを召使いのように扱き使うって意味ですよね?
でも、奴隷に神の力を求めるっているのは……?」
「何でもして欲しいんだよ。きっと。
人間っていうのはさ……」
「え……?」
不可解に問う章子に、呟いた昇はやはり、やつれて言う。
「自分以外の他のヤツにはね?
何でもできて欲しいんだ。
人間ていうのはね。
たとえば、会社だったら分かりやすい。
会社には社長がいるよね?
でもその社長さんは利益を上げなくちゃいけない。
じゃあ、利益を上げるにはどうしたらいいんだ?って言ったら、
日本で言えば「人件費」だ。
それを削るのが手っ取り早い。
でも労働力は必要だ。
人件費は削り、労働力は確保する。
これを突き詰めていくと、無償で働く人間を用意する。
これに行き着く。
サービス残業とか言って親父はよくボヤいてるよ。
でもそれは人を奴隷にすることだ。
寝る間も与えず、
食事も与えず、
休みも与えず、
働くことだけを強要する。
どこまでもどこまでも労働力だけを絞り出させようとする!
そんで死ぬことさえも許さない。
そこで倒れて死んだら、
なんで死んだ?と叫ぶんだよ。
そして、
起きろ!と怒鳴り!
力をだせ!と襟首掴み!
死ぬな!と放り投げて!
どこまでも、なんどでもできる力をだしつづけろ!と、ムチを振るい責め続ける!
そう言って会社の社長は社員にやらせる。
金を払わずに不老不死で働いてくれる従順な人間だけを究極的に求めている。
でもそれって……「神さま」しかできないことだッッ!」
「の、昇……くん……っ」
章子はまたしても、昇に、してはいけない眼差しで見る。
「死なず、どこまでも自分の望みを叶えてくれる「神さま」でしょ?
そんな万能な社員はっ。
それを奴隷にも求めてくるんだよ!
ボクたち人間ってヤツはッ!
奴隷にも、神さまのような仕事をしろ!と脅迫している。
これがお医者さんだったら、不治の病の患者さんを目の前に出されて絶対に治せと脅されるようなモンだ。
この場合、医者が奴隷であり神だ!
奴隷のように扱き使われ、神の如き奇跡を施せと迫られる!
じゃあその迫ってくる奴は何様なんだ?
神さまじゃないよね?
神が神に神頼みなんておかしな話だ。
神様でもないヤツが、
赤の他人には、自分には出来ない神の力を引き出せ!とどやすのさっ!
そして、
ただの人間が、赤の他人に万能である神の如き力を求めるなんていうのは、無能の証明だ。
そりゃそうだ。
他人に神の力を求めるんだったら、自分が神さまになって使えばいいんだっ。
でもさ、
人に迫るだけのヤツって実際は気分だけなんだよね?」
「え?」
「気分だけなんだよ。
気分だけが神さま気取りなのさッ!
で、能力が人止まりなんだよッ!
気分だけ神様気分で、能力が人の分際でしかないから、下の人間には神の力を出せと吠えかかる!
そりゃ無能だ。
自分の力が人のままで、下の人間には神の力を出させたらそりゃ無能だよ。
下が神様になってたら、自分が存在する意味はないんだから。
でも心だけは神様気分だから気にしないんだよ。
力が無くても気にしない。
ひょっとして、
食べてるものまで霞だと思ってるんじゃないかな?
自分は霞だけを食べて生きてる神さまなんだってね?
裸の王様よりなお酷い。
霞だけ食って生きてる人間なら、オマンマ心配する必要もないだろう?
とっとと店畳んで、山にでも引き篭もって暮らせばいい!
でも!
それができないのが、
人間だッ!」
「の、昇くん……っ!」
「人間なんだよっ!
同じ人間だったらそれはできない!
できないから、この人間なんだよ!
会社を切り盛りしている社長って人も、
そこで働いている社員の人も!
学校の先生でも、
生徒でも、
大人でも、
子供でも、
同じ人間なんだよ!
神さまじゃないし!
奴隷でもない!
でも人間だからどこかで、神さまや奴隷は求めちゃうんだ!
なんでもして欲しいし、できて欲しいと思っちゃう!
でもそれは、同じ人間には求めちゃいけないんだ!
それを同じ人間に求めていると、
今度は自分が求められるんだからッ!」
そして、
子供特有に憤る昇は車窓の外を見る。
「だから、ぼくはスゴイと思ったんですよ……っ」
「え?」
「今朝のあの元通りになった街の姿を見て、ぼくは凄いと思ったんです。
イゴットさん。
……きっと、もうすぐ……、
ぼくたちの番は来るから……ッ!」
「……あ……」
迫りくる災害は、自分たちも例外にはしてくれない。
特に『名古屋』であれば、
それはいつ来てもおかしくはない。
昇は今まで、それを考えて車窓を睨んでいたんだと……っ。
章子は、自分と昇の差を痛感する。
「きっとその時も、
ぼくたちは神さまを求めるだろう。
そしてそこから立ち直る為の力として、
奴隷の力も求める。
奴隷と神さまは表裏一体だ。
求めていること、
そして、して欲しいことは共通してるんだから。
でも、そんな存在なんてどこにもいない。
現実には、いるわけないじゃないかっ!
現実にいるのは人間だけなんだからッ!
限界のある人間だけ!
それだけだ!
それだけしか現実にはいない!
だから……、
だから……、
今朝のあの元通りになった街の景色を見て、
ぼくは本当に「いいな」て思ったんです。
ぼくの街でもこうなればいいなって……」
言って、怒りの凋んだ昇が座席に深く凭れかかると、
「また、やっちゃいましたよ……」と一人謝り、はぁ、と深く息を吐く。
ジュエリンもそんな昇をみて苦笑していた。
「……そう。
そうですよね。
これは遺訓。
いいえ、戒言です。
人の業を戒めたもの。
私たちの世界でも、よくこれを忘れてしまうんです。
これをよく忘れてしまうから……様々な問題をいつも引き起こしてしまいます。
そして、起こしてしまった問題は裁かれます。
『罪』として問われ、
『罰』をもって裁かれます。
ですから……、
ここで、お別れです。
みなさん……っ」
「……えっ……?」
突然呟かれた別れの宣言を、
真理以外の少年少女たちが見る。
「ここでお別れです。
本当に今までありがとうございました。
すっっっごく楽しかったです。
仕事をしていて楽しいことなんてあるんですね。
これでいいのかってぐらい楽しかった。
でも、ここでお別れです。
辞令が下りました。
次の停留所で、私は降りて、次の代わりの方が乗り込んで案内役を引き継ぎます」
大きく丸いツバの三角帽子を被って、深々とお辞儀をするジュエリン。
それを見上げて、章子は目を丸くさせている。
「……そんな……どうして……?」
理由が分からない。
苦情なんて言った覚えはない。
むしろ非常にうまくいっていたと思う。
そんな陽気なビン底メガネそばかす魔女っ子少女との仲を、
こんな所で打ち切りたくはなかった。
「いろいろ、やってしまいましたからね……私は」
三つ編みの後頭部をポリポリ掻いてジュエリンはあらぬ方を見る。
「いろいろって……」
「かなりの大事になってしまったみたいなんですよ。
上の本院の方が、私のやったことで。
前代未聞のオンパレードだそうです。
向こうに戻ったら、吊し上げられて全部吐かされるでしょうね……。
上司や同僚にはもちろん、他のいろいろな所にも」
「それって、そんな、
わたしたちの所為ですよねっ?」
「あーいえいえ。私が好きでやった事ですから。
この仕事も自分で立候補して能力選考で選ばれましたからね。
まあ、自業自得というか……しかし、まさかここまでになるとは……」
予想もしていなかった。
そんなことを言いたげな顔が今度は少女らしい小顎を撫でている。
「わ、わたしたちが説明します!
ジュエリンさんはなにも悪くない!
わたしたちが悪いんです!
わたしたちが無理やりジュエリンさんに!」
「そんなことありませんよ。
嫌だったら断ってますから。私だって遠慮はしませんよ?
そんなヤワな精神じゃ外交勤労なんて務まりませんもの。
それに……ちゃかり昇進もさせていただきましたからね?」
「……えッ?……」
「……三階級特進だそうです。
ビックリしました。
主な功績は、
航空騎士団の発動する航空封鎖への見学名目による史上初の合法的介入。
並びに、許約者の後退達成だそうです。
それって私はほぼ便乗しかしてないのに、濡れ手に泡とはこのことしかりですよ。
ですから、絶対にそんな自分を責めないでください。
それどころかこんなの火事場泥棒ですって。
上手くやりやがってコンチキッショー。
くらいな別れ方のほうが私たちには似合っていると、そうは思ってくれませんか?」
笑って言うジュエリンに章子はやはり茫然となる。
「降格……じゃないんですか?」
「あーそういう心配をさせてしまいましたかッ!
これは失態!
私、今回最大の大失敗ですッ!
降格じゃありません。
昇格です。
だから本院もそういう大騒ぎです。
新世界会議だってまだ始まってないのに、浮かれ過ぎですよねぇ?」
「でも、でも、
わたしたちとはここでお別れだって……ッ!」
女子特有の別れ際に来る落涙を呑み込み。
章子は腰を浮かせてジュエリンに歩み寄ろうとする。
「それは……仕方ありません。
わたしの昇進を嗅ぎつけられましたから。
上が黙っていられなかったんでしょう。
小娘に先を越されるなら、次は私がって感じで」
「そんな人が……ジュエリンさんの代わりに……?」
章子たちの不安になる顔を、ジュエリンは慌てて首を振る。
「ああっ!
いいえ!いいえ!
私の代わりに来られる方はとっても良い方ですよっ?……たぶん……。
だから大船に乗ったつもりでいて下さい。
きっと私のことなんてすぐに忘れるぐらいに仲良くなれると思います!
保証しますよ!」
「そんな人、いませんっ!」
章子が断言すると、ジュエリンは面喰う。
見れば、章子以外のオリルも真理もトラも昇も、
同じ哀愁の視線でジュエリンを見つめている。
「……では、またヴァッハにでもお戻りになった際にはご連絡ください。
直ぐにでも飛んで会いにいきますから」
「その杖でですか?」
「ええっ、
モチロン!」
言って、再び別れのお辞儀をして踵を返すとふと自分の胸で瞬く光の羽根に目がいった。
「ああ、これも返さなくてはいけませんね」
「必要ありませんよ」
「え?」
ジュエリンが見ると真理は首を振っている。
「またお会いできるのでしょう?
ならば持っていただいて構いません。資格がなくなれば自然に消える。
そういうものですから。
それは」
真理の素っ気ない態度にやはりジュエリンは肩でおどけるしかない。
「本当に、あなたは喰えない人だ」
「ですから楽しかったでしょう?」
「ええ、ほんとうに」
犬猿の二人が受け答えした時に、バスは停まった。
深い霧の河口堰の何も無い道の上で、ブレーキをかけて停車する。
別れの時はやはり唐突にやってきた。
章子たちしか乗客のいないバスの中で、
ジュエリンは笑ってローブを靡かせ、杖を持ってバスの前方にある乗降口へと歩いて行く。
「ではまたお会いできる日を楽しみにしていますっ。
みなさん!」
にこやかに手を振ってバスの乗降口から消えていくジュエリンの姿を追って、
名残惜しさが未練に変わって沈み込む心の隙間には、間もなく不安だけが忍び寄ってくる。
次に入ってくるだろう未知の誰かを、章子たちは固唾を呑んでじっと待った。
こつん、と乗降口の段に足が掛かる音がした。
また、コツンと一段上がる音がする。
三回目の足音で、バスの前方部分で人影の頭部が見えてきた。
最後の段を上がりきった足音で、
バスの車内に入ってきた人影が、その全貌を顕わにする。
章子たちは、息を呑んだ。
(なんで……?)
章子には理解できなかった。
それは、章子だけではなく、
その場にいた真理以外の誰もが理解できなかった。
そんな感情もかまわず、
ジュエリンの代わりで入ってきた者は一歩、二歩とまた章子たちの元へと近づいてくる。
「こんにちは……」
少年の声で、
章子たちに語り掛けてきた者は、彼女たちの見知らぬ者では決してなかった。
「初めまして……、
でいいのかな?
彼女、
さっき降りた魔術院特期生の替わりで、
これから君たちを案内することにしてもらった……。
クベル・……オルカノです。
これから、……よろしくお願いします……」
まだ慣れない発声とぎこちない動作で、
章子たちに初対面の挨拶をする者。
その者こそ、赤い衣を纏った、
あの人を忘れたはずの少年。
クベル・オルカノ。
熱の許約者クベル・オルカノ。
その人が、章子たちの目の前に立っていた。




