39.人を忘れた命
熱亜の暴風に曝されている章子の目の前で、
桃色や紫色の入り交ざった石火の電光が迸っている。
激しく火花を散らし放電が止まない紫電の稲妻。
幾重にも張られた魔法陣の最前面は、レンズのような局面の盾の防壁を作って回転している。
その間から吹きつけるのは、嵐とは比べようもない熱波と爆風だった。
閃光する雷と止まらぬ轟風。
信じたくない高温を肌に感じ取って、章子はまだ茫然と見ていることしかできなかった。
「なんで……?
どうして……?」
「不躾にこれとは、本当に無遠慮ですね。
第二の許約者という者は……」
攻撃を受け、難なく腕の甲で防御する真理はにべもなく笑う。
「しかし、これも当然と言えば当然の帰結。
あなたのお目当ては最初からコレだったのですものね?
クベル・オルカノ?」
「え?」
章子がおどろき、
真理の向いている視線を追って見た、その先には、
あの少年の姿があった。
小高い丘の展望台の先から、遠く見下ろせる港街の廃墟。
竜が闊歩した跡の轍の中で、幾つにも上る黒煙を支柱に。
瓦礫と損壊の狭間の真ん中で立つ、
赤い衣の少年は、
確かに、その場からでは決して捉えることが困難な筈である章子たちの姿を見定めて立っていた。
「……最初からコレだったのですよ。
彼が、その最大の目的としていたものは。
この行動こそが、
彼の最も求めていた最優先の目的だったのです。
そうです。
彼の目標は最初から竜ではなかった。
それはもののついでに過ぎない。
私には最初からわかっていた。
我々を、遠くから見つめている者がいることを。
そして、
その者は非常に姑息だった。
慎重に沈着に、落ち着き払い、
なお、したたかに、かつ辛抱強く、
自己が、そこに介入できる機会をいまかいまかと待ち構えていた。
自然に何気なく、
穏便に接近できる瞬間は、おそらく数えるほどもありはしない。
だが、それは必ず来る。
きっと来る。と、
そう信じてね?
国危にまで及ぶ大事にはしたくない。
だが、自分が動けば間違いなくそれは国家規模の大事にまでなってしまう。
それだけ、その者が保有する力は絶大なのです。
それはそうですよね?
その者の他愛ない行動ひとつで、国が一つ、簡単に滅ぶと知らされていれば、
誰もが彼の行動に注視を置かなければならないのは当然なのですから。
で、あるからこそ、
彼にとっても、そんな事で注目を浴びたくはない。
注目を集めれば、自分の求めている獲物は真っ先に逃げだしていくことを彼は知っている。
捕食者は獲物に存在を知られてはならない。
威嚇は出来ないのです。
それは悪手であり禁じ手だ。
だが他にはどうすることもできない。
求める物は自分の事など思いもつかず、つゆ知らずへと奔放に進んでいく。
それが欲求する彼には耐えがたい。
できることがあるとすれば、
抑える心を力にかえ、
求めるものの様子を伺い。
待ち構えていることしかなかったのです。
しかしそんな事を考えていたのも束の間、
直ぐに思いがけない形で、望んでいた絶好の機会は転がり込んできたッ!
航空封鎖という、自己を紹介できる願ってもない格好の舞台装置をもってしてね!
獲物はとうとう餌に釣れます。
航空封鎖の中で暴君と化している竜という餌に。
遠くから、
それらに近い事態でもと期待していたあなたは狂喜乱舞したはずだ。
獲物は思いもかけない罠に嵌まった。
嵌まってくれた!
さらには餌に喰らいつくことだけを夢中になってくれている!
あとはそこに航空封鎖を強いる騎士団たちも考えることなく!
自分が颯爽と登場を果たすだけッ!」
そして、
叫んだ真理は見る。
「そうですよね?
クベル・オルカノ?
クベル・オルカノ・ファーチ・ヴライドッ!」
叫んだ真理の視線の先では、
竜の周囲に降り立っていた航空騎士たちも呆然と、その凶行を前にして立ちつくしている。
章子はそこで、
視線が合った。
少年だ。
少年と自分の視線が重なった。
少年が視線を合わせて、章子を見ている。
そして、
少年が視線をずらしたそばから、
また視線が合った。
合った視線が二度、三度と頻度を増やす度に、
真理が防御的に発生させている魔法陣の、周囲の紫電の放電が強くなっていくのが分かる。
恐怖を感じた。
これからどうなるのかも分からない恐怖。
それでも、
今の章子は護られている。
回転する歯車が如く、
自転して回転と逆回転を幾重にも重ねた魔法陣は自転速度を加速させて、見えない威力を遮って。
その先端を防壁レンズにして。
魔法陣の盾は、いまも強固に迫りくる恐怖から章子たちを守っていた。
「お、お待ちくださいッ!
許約者っ!
この方々は、我々の敵ではございませんっ!」
慌てた魔女っ子姿のジュエリンは、とっさに姿勢を低くして前に出た。
魔法陣を張る真理の傍らから踏み出し、平伏し、
遠く赤い許約者の少年に向かって、足のすくむ畏れを抱きながら事実を叫ぶ。
「重ねまして、お願いを申し上げますっ!
この方々は我がラテインに仇なす者ではないのですっ!
差し出がましながら、
この方たちは、我々に危害を加えようとする者ではないのです!
ですから何卒、
何卒っ、
畏れ多くも計り知れずは、
そのお怒りをば、お鎮めくださいっ!」
「怒り?」
「え?」
この場を収めようと自分の放った言葉に、
庇われていた筈の真理が意外な反応を見せたことで、
ジュエリンは放心した視線を向けてしまった。
「怒り?
そんなものではありませんよねェ?
クベル・オルカノ?
あなたの今の行動原理は「怒り」ではないッ。
そうでしょう?
それは直情的な「怒り」ではなく、
単なる「興味」だッ!
あなたは我々に興味という好奇心を抱いてる。
興味を抱いて、この攻撃手段をとって行っている。
そうでしょう?
ん?
いえ、
したたかに言うならば、
これは攻撃ですらなかったですねっ……?」
突然、発せられた言葉に、
章子もジュエリンも、
真理という少女が何を言っているのかが理解できない。
「こ、攻撃じゃない……?」
「攻撃ではありませんよ?
これは非常に明確で明瞭なスキンシップの領域の過程だ。
行動により、自分の好意と友好の感情を相手に伝えようとしている。
乱暴に翻訳すれば、
これは「握手」ですかね?
握手を求め、我々に差し伸べている。
しかし、
それには威力が問題なのです。
スキンシップというものは、
向ける威力を間違えればただの「暴力」だ。
さらに時と場所と当てる場所さえも間違えれば、不愉快な犯罪行動にもなる。
不幸にも、
いまの彼の行動行為はそのどれもに該当してしまっている。
だから今の彼にとっては、
これが攻撃しているつもりではないのかもしれないが……、
我々にとっては……、
いえ、
現在も好意を丁重に断っている最中の私、以外、
それ以外の人物たちからしてみれば、
紛れもない攻撃手段であると捉えざるをえないっ!」
言って、
真理はさらに防御する魔法陣の円面積を広げる。
「あまり身を乗りださない方がいい。ジュエリン・イゴット。
これは単純な解析行動だけとはいえ、通常の人体には非常に有害な出力だ。
それ以上前に出てしまうと、あなたはいらぬ外傷を重度的に負ってしまうでしょう。
それを治癒させることも無論、容易い事ですが。
それをやると、また彼を刺激することにもなってしまう。
ですからまず一歩分、なんとか退いて下さると非常に助かります」
真理の目を瞑る進言に、ジュエリンはそのまま後に下がった。
「ありがとうございます。
しかし半野木昇!
あなただけはもっと下がっていなさい!」
「え?」
ジュエリンの後退と同時に、
攻撃してくる者を伺い知ろうと近づいてきた昇を、
真理は普段では見せない激昂をもって静止させる。
「ほら!
言わないことではないっ。
魔術の出力まで、また上がるッ!」
「……ぼく……?」
章子と同様に、
また茫然となる昇を、真理は怒鳴りつける。
「そうですッ。あなたですッ!
あなたなのですよッ!
この事態の元凶はッ!
つい最近のことのはずだ。
彼はある時、退屈な日常の中でまだ些細に小さな噂話を小耳に挟んだ。
リ・クァミスの使節の中に「奇妙な人間がいる」という噂話です。
彼は当初、そんな何気ない噂話など気にも止めなかった。
だがどこか様子がおかしい。
しばらくすると、
最初はどこかで耳にしただけの話が、次第に内容を大きくして膨れ上がっていくのです。
気になって耳をそばだてていると、どうやら同じ第二世界の人間の間でもヒソヒソとそんな噂話が一人歩きしていくのが分かる。
普段なら気にも留めていなかった鬱陶しい許約者たちの会話の中でも、
時折、ひょんな所から噂話が飛び出してきてしまうことも増えてきた。
しかし、そこまでならばまだ、関心を持つほどでは無かった。
我々がこの第二世界に到着する直前に、
水があの第二種永久機関であった。という事実を聞かされるまではッ!」
赤い少年の内心を暴いてく言葉が放たれる度に、
真理に襲い掛かってくる力が強くなるのが分かる。
その根源を、瞳を閉じたまま視て、真理は言う。
「あなたは驚いてきた筈だ。
ここより遥かな太古の世界であるリ・クァミスより、
もたらされた、
新事実の数々に。
だが、
それを語り吹聴するリ・クァミス人たちでさえ、その表情が浮かないことに、
あなた方はどこか不可解なものも感じていた。
自分たちの知識を語っている筈なのに、
彼らは、まるでそれが伝聞でしか知らない様に語っている。
そして行き着くのです。
この事実は、リ・クァミスではない。
この事実の数々は
リ・クァミスが確立したものではない!
それ以外の
もう一つの別の何かによりリ・クァミスへと、もたらされている!
それが確信へと変わったのは昨日のことでしたかね?
許約者という権力者が、隔絶された場から情報を奪取することはいとも容易い。
それは簡単に自己の備える力と権限で成就できてしまう。
その情報の中で見つけたのでしょう?
自分さえ久しく忘れていた人の感情を思い起こさせる希望を!
それに一目、邂逅したいと欲望に変わったのが今朝の夜明け。
その証拠は、自分が興味を抱いているという感情を事実にして!
しかも、実際に目にしてみれば、
どうやらその中心にいるのが、桃色に囲まれている自分と同じ年端の少年らしいという……っ」
劇的に話を進めていく真理の端々をそばで聞いて、
また聞きにする章子は、
何げなく昇を見た。
昇の様子を伺った章子の傍目からも、
彼の顔が、冗談でしょう、という気持ちいいぐらいの引きつりを表現しているのが、
手に取る様に見てわかる。
「かくして望みは達成された。
獲物はもう目の前にいる。
逃がすことは叶わない。
彼には自分の事を知ってもらう。
嫌でも自分の事を知ってもらう。
いやでも自分の存在を彼に魅せしめ!
教え!
刻み!
それでどのような表情が返ってくるかを期待しているッ!
今までの周囲にいた人物たちは退屈だった。
退屈で、自分を畏れること。
避けること、
腫物を扱う様な反応しかしてこなかった!
会えば誰も彼もが同じ選択をすることは、
自己の想像の範疇だった。
それは力だけでは対等であるはずの許約者同士でも変わらなかった。
疎み、
避け!
憧れ!
接近し!
あるいは離れ!
制することだけを試みる!
それほど解りきった、経験してきた反応だけが続いて行く!
同じ許約者の中でさえも、自分と対等な者は一人として居なかった!
史上最強を肩書にする。
あなたの心は閉じていく。
閉じて廃れ。
孤独に彷徨う。
そんなあなたを、
自身の剣も鳥も、ただ心配気に眺めるだけ。
しかし救い手となる手段は持ち合わせてはくれないし、示すこともできはしない。
疲れ果てた目で問いかけても、剣も鳥も何も答えはしないし授けてもくれない。
なぜなら、それだけが、
過去の許約者たちこそが辿ってきた、底知れぬ心の死因だったのだから。
己の力でさえ味方ではない。
それを悟る、
あなたは絶望の戸口に立っていた……」
開いた瞳は、真理を映す。
「しかし!
あなたはもう独りではない!
独りではないし!
最強でもありはしない!
今こそ、私が、
あなたをその最強の座から引きずり降ろしましょう。
そう!
威嚇という、
間接的な攻撃手段をもってしてね……?」
不敵な笑みは、指を差すのだ。
指は差され、彼方から凝視している彼の背後を示指する。
「まずは一発目……」
発射、
過去の地球で、
この少女と短く時を過ごした中で、聞いたことがあるあの単語の響きが、
章子の目の前で再び放たれる。
それはあの時、途方もない破壊と攻撃現象を引き起こした言葉だった。
自分の街にあった、
駅の中心地にある高層なシンボルの建物を貫き、発破させ、黒煙を吹き飛ばした傍から、
また破壊させた部分を修復させてみせたあの力。
あの力と同じものを、
この少女は満面の笑みで、彼方に立つ少年に向かって撃ったと章子は確信して思った。
「待……ぁっ?……」
止める間もなく、すでに放たれた矢は、
しかし、
章子が想像するよりもずっと小さく、
それ以上の大きな現象を、世界のどこにも引き起こさせることはなかった
「……え?……」
世界の崩壊的な変化を覚悟していた章子は、依然と無傷で彼方に佇んでいる少年に向いた。
目前で自転する紫電の魔法陣越しから、章子は赤い少年に目を向けた。
少年はあそこにあのまま立ったままでいる。
あのまま彼方で立ち、こちらをじっと見つめている。
それ以外の、変化は何も起こってはいなかった。
真理は何もしなかったのだろうか?
ただの言葉の威嚇だけ?
言葉による威嚇だけを放ったのか。
不思議に思う章子をよそに、
この変化を、敏感に感じ取っている者は確かに存在していた。
カツンと、背後で地面に小石でもぶつかった音に気付き、
章子が伺う、
遠方の彼方にいた少年は、その位置を意思だけに向けて背後で寄せる。
「……もう一発……」
再び、
少年の背後でカツンと地面の一カ所がカケラに跳ねた。
跳ねて、
威力を受けただろう一点の場所が、残った現象を弾痕として刻み、摩擦の煙だけを上げている。
「いまのが分かりましたか?
クベル・オルカノ?」
聞こえくる少女の声に
やっと少年は自分の背後を直に見た。
弾痕が刻まれている。
自分の背後にある地面に二発分、キレイに刻まれている。
それがまだ煙を残して、少年に訴えている。
少年の体を素通りして、この威力は放たれ着弾したのだと。
向き直った少年の視線が険しくなった。
険しくさせて強度を強めた。
視線が強くなれば当然、その出力も比例し増大する。
防ぐ真理の魔法陣の速度が、その視圧に圧されて相対的に加速していく。
一歩、
あの威力の根源を知るために、
近場に突き刺さったままの剣に近づくのが衆目に止まれば、同時にその発揮量も恐慌的に増大した。
「やれやれ、
今度はコンクラベですか?
あまり褒められた行いではありませんね?」
涼しい顔で、やはり真理は少年を流し見つづける。
「いまの攻撃の仕組みがわからなかったでしょう?
そうやって、
解析魔術を強めてもわかりませんよ?
この力は今のあなたではわかりません。
なぜなら、あなたの支配権は「熱相」までだ!
この現実世界にある「熱エネルギー相」だけが、
熱の許約者である、あなただけに許された行動可能範囲なのですよ。
だからそれ以外のエネルギー相では、あなたの絶大な力で暴力的に侵入することはできても!
管理的にまで及ぶことは完全にできない!
それが、
あなただけに許された「摂理」と、
私の持つ「真理」とを比べた、この力の規模の違いです。
だから、ほら?
あなたにはこんな事もできないでしょう?」
言って、手の平を挙げる真理が、小首に傾げる。
「……ッ?」
少年が直ぐに異変に気付いたのは直後だった。
自分を選んだ赤い透明な結晶剣よりも、ずっと離れた場所で眠る竜。
その竜の姿を見て、
少年の目が大きく開いていく。
驚いているのだ。
竜の姿が……点滅している。
照明器具のスイッチを入れたり切ったりを繰り返す様に、
竜の存在そのものが明滅を繰り返しているのだ。
あまりの光景に、
少年は直ぐに解析魔術を試みようとするが、途端にその手を翳そうとする行動は止まった。
眠る竜の体の上に乗って、竜の身体の見分を行っていた航空騎士団の数人が、
点滅を繰り返す竜と同じ高さの空中で静止しているのだ。
竜の姿が出現している時はいい。
問題は消えた後だった。
竜の姿が消えても、その上に乗っていた筈の航空騎士たちは地面に落ちないのだ。
落ちず、
まるで空中に地面でもあるかの様に、同じ高度のままで立ったままでいる。
航空魔術を使っているわけでもない。
信じられないことに、何の風力も浮力も物理力も発生無く、
あの航空騎士たちは、
寿命の近づいた室内照明器具さながらに点滅を繰り返す竜の上で立ったまま、茫然といるのだった。
「驚いているようですね?
これがエネルギー相転移という技術です。
あらゆるエネルギー相をすべて、あらゆるエネルギー相に変換させる力。
あなた方の求めていた「真理学」の力ですよ。
それをただの魔術である解析魔術で暴こうなどとは到底に無理な話。
警句しておきましょう!」
真理の強い視線が
少年の背後の地面を三度、撃ち貫く。
「私の現在の真理出力は、
このラテインが位置する、
第二世界の最大大陸オアフテラと同じ面積の土地を新たに造成することすら安易に可能なのです。
私はあなたの破壊の力などものともしない。
それ以上の創造力という力を、防御的に出力することによって対抗できる!
私とあなたの現在ある潜在出力の規模の差をお教えしましょう!
あなたがマグニチュード12の破壊力を誇るのなら、
私は同規模での創造力を発揮することが可能なのだ。
落ちてくる隕石を、大陸級の盾で受け切る。
斬星剣の一撃を、惑星の大地盾によって受け切り、弾き凌げるのです。
それが分かったら、もう少し自分の身の程を弁えることです。
防御は最大の攻撃なり。
私はいつでもあなたを屠ることが出来る。
だが、私はそれを望んでいない。
故に、威嚇と言う手段で、
あなたと会話しているのです。
まだ、あなたとは会うべきではない。
とね?」
指を差し、軽蔑に疎みをする真理を見て。
遠くで立つ少年は何を思ったのか、
一歩進み、
口を大きく開けて口から何かを吐き出そうとした。
しかし、
少年が口から出そうとしたものは結局、生まれず。
直ぐに、
自分の何かの異変に気付いて立ち止まった。
少年はしばし茫然と、視線を地に落とし足元を見つめる
そして、急に何かを思い立つと、
一心不乱に、
口から何かを吐きだそうとする行為を何度も続け始めた。
「……なに……?」
彼方の丘の上で、その様子を伺っていた章子はいぶかし気に眉を寄せた。
あの少年は何をする気なのか?
立ち止まったまま、
口を大きく開閉することを繰り返し、
口腔から何かを吐きだす仕草を、頻繁に何度も反復している。
その滑稽な様子を目にして、
またもや、
真理は高らかに嗤うのだった。
「おやおや、
もしや、声の出し方まで忘れてしまいましたか?」
嗤って言う真理に、
章子はその言葉の意味を、額面通りに受け取った。
「声の出し方って……」
そんな誰もが出来ることを、
当たり前に、
喉元を押さえて、
試しに自分の声で発してみた途端。
「ぁー、……ぇッ?」
直ぐに、章子は自分の声を出す方法を止めた。
(うそ……でしょ……?)
章子は、自分の血の気が一瞬で引いたことがすぐに分かった。
まさか……、
まさか……っ、
まさか……ッ、
考えたくもない可能性が、すぐに彼方で横たわっている。
震える手がなお喉元に触れたままで、
章子は、
もがき続けて嘔咽と苦悶を浮かべる少年の姿を絶句して追うことしかできなかった。
「呼吸まで……してないの……?」
章子の驚愕的な発言が、すぐに周囲の人物たちまで伝播していく。
真理以外の、全ての人間が絶句していたのだ。
重い沈黙がそれを表わしている。
食事をしなくてもいい人間が……、
まさか、
呼吸をしなくても生きていける人間だったとは……。
誰も思いもしなかったのだ。
そんな事を想像できた人間などが、一体どこにいるだろう?
食事をしなくてもいい人間だけならば、まだ理解できる。
それを羨ましいと思うこともあるかもしれない。
だが、
だが、だ。
だが、それがまさか、
呼吸までしなくても生きていける人間などとは……っ!
「そんなの……もう人間じゃ……」
章子の傍らで、第一世界の少女オワシマス・オリルが呟く。
誰もがオリルと同意見だった。
自分の発声まで忘れてしまうほど、呼吸をしないままでいられるなんて……。
そして、
自分の声を取り戻そうと懸命になっていた少年がそれを諦め、
即座に視線を真理に向けたのも束の間、
魔法陣の防御音でさえ掻き消すほどの、
耳をつんざくブザーの警告音が真理の周囲で高らかに鳴った。
「通信魔術……ですか?
確かに、
それなら肉声を用いずとも、意思の疎通は可能だ。
だが、そんなものはねぇ……」
口元を釣り上げ、
アラートにめがけて美しく伸ばした手の先では、
広げた五指の中で中指だけを丸く折り曲げ、折り曲げた中指の先を下から伸びた親指で溜めて、留めを作っている。
「却下だ」
デコピンが放たれた。
わかりやすい少女のデコピンは拒否反応の意思表示だった。
放たれたデコピンは、
瞬いていた通信魔術の警告表示をいとも簡単に打ち消す。
「そんなことで代用される意思の疎通を、我々が重用することはない。
重用しないし、
信用するに値しない。
我々と、「会話」をもって意思の疎通を楽しみたければね?
「人」を思い出してから出直してきなさいッ。
よく他の許約者たちからも口酸っぱく、言われていたでしょう?
人の苦役を忘れるな、と。
人の苦役を忘れると、すぐに人から外れてしまうと。
そして人から外れるということは、
人を忘れることなのだとっ!
それをわかっていて、
あなたは敢えて無視してきたのだ。
人を憶えていて、それでいったい何の役に立つのか?とね。
そんな考え方では、いつまで経っても、
礼節は取り戻せないし、
顔を洗っても出直せない。
ですから、まず。
その固定観念から後悔して頂きましょうか?
人を忘れていたら、
こうなるのだ、とね?」
笑って侮辱してくる視線に、
蔑まされた側の少年の目は、憎悪の色を強くさせる。
息もせずに生きていられる少年が、こちらを睨んで敵意を抱いている。
「石頭。
どうやら、お灸が足りないようだ。
しかし、ここまで言っても分かって頂けないようであれば、
どれだけの主張を言い張っても、
互いの主張は平行線をたどるだけ。
そして、やはり、
この程度の意見交換でさえ、平行線で終わってしまうのならば、
こんな低次元のやりとりも平行線にしかできずに、
いつまでも分かり合えないような人物たちとは、
新たに言葉を介したところで、何かが変わるとはとても思えませんね?
お話もできませんよ?
ですから残念ですが……、
お引き取りを。
我々は、
人を忘れることが当然と認識する命たちとは、
語る舌など持たないのだと!」
カツン!とトドメの弾痕が、拒否の証として背後に刻まれた。
少年は恨みがましく、後ろの弾痕を振り返って見る。
「これは警告だ。
二度は言わない。
退がりなさい。
私は神の娘である。
人を忘れた分際で、
この惑星を創りし神の、
その娘である、
私と会話をもって友好と喜怒哀楽を嗜もうなどとは百年遅い!
と、まずは最低限の条件を突き付けておきますよ?
クベル・オルカノ」
もはやもう還れぬ過去から戻って、やり直して来い。
過酷を言われた少年は、
まだ見かけは発達途上の喉仏を手で押さえながら、自分の声を取り戻すには時間が必要なのだと自覚する。
「許……許約者……っ」
周囲で、
対応を計りかねている航空騎士団の面々が困惑し狼狽えている。
それを流し見て、喉仏から顔へと当てた手を移し変えた少年は、
赤い衣を翻して踵を返した。
「そう、いい判断です。
退くことを知らない軍隊は滅びるだけ、だ。
そして退くことを思い出せば、
あなたはまた、
人に戻ることもできるでしょう。
それが達成さえされれば、いずれ再会の日も近くなる。
その時をもちろん、
我々も楽しみにしていますよ?
クベル・オルカノ?」
嗤ってといかけられる美笑を、
去りゆく少年は振り向きざまに一瞥する。
そして、指先だけで剣を魔術で引き抜くと、
赤い剣と鳥と共に、
空高くへと階段を登るように青い彼方へ舞い上がって行った。
そこで危機は唐突に終わった。
竜は眠り、
少年は去り、
あれだけの破壊と攻撃が何だったのかと、
章子たちは茫然と疲れ切って立ち尽くしている。
「許約者が……退いた……?」
信じられない事態は、
信じられない事態によって終息していく。
しかし、事が全て終わったわけではない。
むしろ、それはこれからなのだった。
章子たちの目の前には、
竜と少年によって喰い散らかされた残骸が遺されている。
廃墟という名の残骸が。
残骸は荒廃という言葉の意味を間違いなく表現している。
それをこれからどうするのか……?
ただ傍観することしかできなかった章子にも、
それが途方もない苦難の道のりにしか見ることができない。
「ひどい……」
章子の呟いた言葉に、周囲の人間の視線が自然と集まる。
「こんなの……ひどすぎる……っ」
かつて、
自分の地球でも、目の前と非常によく似た光景が広がった事があった。
それは災害であれ、戦災であれ、
悲惨な光景に違いなかった。
それを実際に自分でも目の前にして、
章子はただ今の気持ちを吐くことしかできなかった。
「暴れるだけ暴れて……ッ、
それでここからどうやって復興しろって言うのッ?」
だが、そんな筋違いの怒りも、
傍らにいたこの世界の住人こそが首を傾げて、不可解にも顔を歪め否定するだけだった。
「は……ぁ?
……復興……ですか?」
「……えっ?」
章子が、怒っていた握り拳の震えを止めて、
水をぶっかけられた表情で消火寸前に悄然として見ると、
首を傾げてなお、
復興?と頭に微問符を浮かべて上の空を見上げているジュエリンが呟いている。
「え、
だって、これだけの災害ですよ?
これだけの被害が実際に出ているんですよ?
ジュエリンさんたちの街がこんな状況にされたんですよ?
それで、これからどうやってそれを戻していくのかっていう問題が出てくるでしょうッ?」
両腕を広げて、自分の眼前に広がる壊滅的な被害的状況を見せつけて、
章子は、魔女っ子少女に訴える。
目の前にあるのは、
自分の故国でも、その時期が来ればよく見ていた直下型地震の被災直後の光景そのものだった。
倒壊した建物が、破壊された街々が。
黒煙を上げていったあの惨劇の光景が。
消えていった、
掛け替えのないあったはずのあの風景のすべてを奪ったのじゃないかっ?
それを懸命に訴えても、
魔女っ子少女はやはり、
そんな悲観が、どうしても理解できないと怪訝な顔で首を傾げ続けるだけなのだった。
「い、いいえ?
べつに復元するだけですから。
そんなに手間はとりませんよ?
すぐですね。
あっという間です。
これで航空封鎖もすぐに解かれますから、
それが終わればあとは勝手に日常生活が始まります。
今夜一晩もあれば、街はまた元通りに戻って、
明日からはいつも通り平気で始まるでしょうね。
一番肝心の、
人命は全員が無事でしょうから……」
「人が……、
全員……無事……?」
「ええ、そうですよ?
おかしいですよ、章子さん。
その為の航空封鎖なんですから。
航空封鎖は、人を死なせない為に布かれるのですもん。
だから航空封鎖が解かれれば。
また追い出された人たちが戻ってきて、家や街を復元して日常生活が始まるだけです。
壊された物は事前に記録してありますから、すぐに似せて復元させるだけ。
それで終わりですよ?」
エッヘンと胸を張る少女の言動が、理解できない。
章子には到底、理解できなかった。
行動も言動も、
その全てのなにもかもが。
そして、そこで、
唖然としている中で、
章子の肩をトントンと叩く、可憐な人差し指が割って入った。
「……章子。
言ったでしょう?
この世界には経済が無いと」
「経済……が……ない?」
今にも鼻水を垂れ流しそうなほどの、
放心した章子に、
優しく語り掛ける真理は苦笑しながら伝える。
「そうですよ?
経済が無いのです。
経済が無いという事は。
これだけのヒドい損害を受けた街々でもね?
お金が無くとも復元することは可能なのです」
「え……ええっ……?」
「そうなのですよ。
経済というものが無いということはつまり、
経済的損失も起きない。という事を意味するのです。
そしてこれは結果的に、
あなた方、七番目の現代世界が最も最重要視している……っ!
〝経済成長〟というものがすでに存在していないのですよッ!」
真理が宣言するこの言葉の意味を、
まだ中学二年生の女子生徒である咲川章子には理解できない。
経済的損失がない、という事実がどういう事なのか?
経済成長が無い、という社会がいったい何を意味するのか?
それを少女は、これから知っていくのだから。
「で、でも経済が無いってことは
仕事もしなくていいって事でしょ?
だけど、
あの絨毯の運転手の人は、わたしたちが離れるときに……」
この航空封鎖に突入する前、
確かに章子は聞いていた。
〝いい仕事、させてもらいますからねぇ!〟
という空飛ぶ絨毯の成年が別れ際に放った言葉を。
だが真理はそれを笑って、突き詰める。
「で?
去り際、
私たちがあの方に、なにか金銭でも支払いましたか?」
「え?
だってそれは……、
そ、そうよ!
カ、カード、
カードとかじゃないの?
たとえば
後でどこか口座から引き落されます、みたいな」
「なんですか?
カードって?」
「えっ」
また、
さらに首を傾げて唇に指を当てて「?」を浮かべる魔女っ子を章子は見る。
「あの時、
我々はあの方には何も支払ってはいませんよ?
章子たちの社会で言えば、アレは間違いようのない「無賃乗車」ってヤツです。
合法的な、無賃乗車という行為」
「そ、
そんな……」
「この第二世界ヴァルディラにはね?
経済成長が無い。
経済に価値が無いとお伝えしましたよね?
つまりそれは、
章子たち、中学生にもわかりやすくいうとですね。
インフラ設備を復旧させる必要が最初から無い、という事を意味するのですよ。
つまり災害時であれば、真っ先に破壊されて寸断されるはずのインフラ設備、
いうなればライフライン設備が破壊される前から最初から存在しないのですッ。
ライフライン設備が、いったい何を意味するのかは、さすがの章子にもご存知でしょう?」
「電気や、ガスに……水道……っ?」
章子の呟きに真理は頷く。
「そうですね。
いうなれば火と水。
この二つの根源要素が、全ての生活に必要最低限上であり必須なものです。
火を起こし、明るくし、水で潤す。
あとは電気などを連絡などの通信手段に使う、ぐらいのものですかね?
それが全ての生活根幹の根底にあるッ!
しかしそれはこの魔術の街々では、わざわざ線でつなげて網にしている必要が無いのです。
火や水などの発生源は全て、
魔術媒体などの第一種永久機関によって、
ほぼ一世帯単位で用意され、設置され単独で賄うことができるのですから。
要は自家発電に自家取水ですよ。
だから水道管もガス管も電線すらも、ラテインの全都町村には例外なくありません。
あるとすれば排水に必要な下水管ぐらいのものです。上水道は当然、必要ない。
これでいったい何を復興する必要があるというのか?
あるとすれば壊れた住宅や建物などの景観を元通りに復元するぐらいのものです。
しかし道路などの輸送系は最優先課題ではない。
それは空からいくらでも運ぶことができる。
航空封鎖さえ解除されれば、
燃料消費の無い運輸力が、供給を求める消費活動を一気に豊潤させるのですからね。
それが完了されれば市民生活は滞りなく何事もなく、航空封鎖が布かれる前の直前から勝手に再開されていくのです
最初からないものを、わざわざ作りだす必要もないのですよ。
あとはいつも通りです。
起こった災害をまた忘れてしまいそうなほどの、
日がな一日が始まり終わるだけ。
それほどまで完全に単独で自己完結している街を、
それ以上に復興させる必要があるとでも思われますか?」
茫然となる章子をやはり、
真理とジュエリンは怪訝に見る。
「いつまでも、そうやって放心するのもご勝手ですが。
それでは直ぐに、そこで一人だけになって置いていかれてしまいますよ?」
章子はまだ、気付いていない。
自分の背後で、
天高くから、
追い出された故郷に戻れることが、喜びでしかない人々の歓声が舞い降りてくることを。
それは理不尽な災害により、追われた人々の帰還ではなかった。
彼らには喜びしかなかったのだから。
〝またいつもの日常に戻れる〟
それだけが章子の背後から大群のように押し寄せてくる人々の祝音。
そこには喪失に暮れる悲しみも、
奪われた憎悪も存在はしなかった。
ただ単なる故郷へ帰還できることへの喜びだけが、
空からとめどなく、天の恵みのように舞い降りてくるのだった。




