2.草原の扉
“あなたをペアで、あの惑星にご招待しましょう”
それは一週間前の夕方のことだった。
下校途中だった咲川章子は、そう言って突然声を掛けてきた見知らぬ少女といつもの帰り道で唐突に出会った。
少女は白い余所行きの服装をして章子の目の前に立っていた。
差し向けてくるか細い手には、現在も章子が所持する真っ白でツヤのある無地のチケットを持って。
その差し向けてきたチケットは招待状だった。
少女と出会う数時間前に、やはり唐突に現われた謎の巨大惑星。
その惑星へと行くことができるただ一つの招待券。
それがその券だった。
章子はその時のことを今も鮮明に思い出すことができる。
当時の章子は混乱していた。
それはそうだろう。
昼休みの空に突然、何の前触れもなく日蝕が起き。
それが晴れたと思ったら今度は、その秋空に見た目が木星のような青い巨大惑星が現われて学校どころか世界中を大騒ぎの渦に呑み込んだのだ。
そして夕方になったところでやっと落ち着きを取り戻してきたかと思ったら、今度はこの謎の少女の出現である。
当然、身構えた章子に、少女はチケットを差し出したまま、もう一度同じことを呟いてみせた。
“あなたをペアで、あの惑星にご招待しましょう”
しばらくたってから章子はようやく、その意味をくみ取ることができた。
自分の他にも、もう一人あの惑星に行くことが出来るということを。
しかしそれに気づいた章子に、チケットを差し出していた少女、神真理は、すかさずそのもう一人は既に決まっていると言い出した。
その決定事項を聞き、章子は困惑しながらも、二秒後にはそのもう一人の存在が気になりだしていた。
こんなワケの分からないことに巻き込まれたのが自分一人ではないことに、希望と安心を感じていたのだ。
だから章子は迷いもせずその少女に言った。
“その子に会わせて”くれと。
だが真理と名乗った少女はそれを拒んだ。
章子がなぜだと問えば少女は、章子が彼と会うとその少年は絶対にこの誘いを断ると言う。
少女の確信した答えに章子は唖然となったが、しつこく食い下がった。
会えば必ず説得できると何度もそう訴えた。
だがその試みは悉く失敗した。
少女は解りきっていたようにこう言うのだ。
それは何度も試した。
同時に奔らせた仮想併行世界で章子がそれを無量大数に無量大数乗を重ねた回数で実行するのを何度も観察し、かつ漏れなく全て失敗してくれたのだと。
それは有無も言わせない絶対の断言として章子の喉元に突き付けられた。
もし会おうとするのなら、この渡すチケットを持つに相応しい資格を剥奪するとまで脅され、一時は実行されさえされた。
あの時の恐怖を誰に話せば伝わるのだろう。
目の前にぶら下がった宝箱を取り上げられた気分だった。
よくよく考えればおかしな表現だが物理的に不可能な宝箱をぶら下げるという事態ぐらい、この少女なら簡単にやりおおせるだろう。
何しろ、あの巨大惑星を出現させたのは、この少女の母親らしいのだから。
……ともあれ、めでたく章子はその少年に会うことを禁止された。
それが、今から一週間前の金曜日のことである。
それから一週間後のこの日まで、章子はそのもう一人の少年と会うことは一度たりとも許されることはなかった。
だから、来る日も来る日も、その少年のことばかり考えていた。
それは毎日のように現われる真理でさえ呆れ、毎日のように会う親や級友、教諭でさえも疑い、ときどき顔を合わせる一つ年上の幼馴染みの男の子でさえ嫉妬の情を覚えさせるほどのものだったようだ。
そして今、その少年は章子の目の前を歩いている。
風に吹かれてそよぐ髪がかかる表情はなかなかに格好いい。
体型はスリムだし身長だって章子より頭一つ分抜き出ているぐらいだ。
しかし残念なことに、性格だけは結構ひねくれていると思う。
今日の午前中に初めて砂浜で会って。
やっと目を合わせ、たと思ったらすぐにその場を立ち去ろうとする少年の腕を引っ掴み、問答無用で波打つ海岸線まで引っ張っていったのは、かなりの重労働だった。
章子はスポーツも苦にしない方だから、その章子に競り負けるというのはかなり運動不足の方だろう。
掻い摘んで云えば、痩せてヒョロいのである。
そのヒョロい少年を章子はただただ待ち続けていたのだ。
今更ながらによくよく考えてみると、自分でもどうかしていたと思うのだが、本当にこの一週間はこの少年の事しか考えていなかった。
章子は改めて少年の後ろ姿を見る。
どこにでもいる少年だ。
だが、そのどこにでもいる様に見えて、どこにでもいないのがこの少年だった。
この少年の代わりになる人物は地球上には一人もいない。
真理はそう言っていた。
章子の代わりは幾らでもいるが、この少年、半野木昇の代わりになる人材は誰一人としていはしないと。
現に少年は砂浜にいた時に、言い当てて見せた。
光りより速いものの存在を。
それでさえ少年が世界を認識している感覚の中では、ただの一部分にしか過ぎないというのだから呆れるしかない。
だから章子は今も疑心にかられながら少年を見ている。
他にこの少年は世界の何を知っているのだろうと思いめぐらせながら。
「ど、どうしたの?」
そんな視線を受けて、草原からゴブリンでも出てきて襲われるかもしれないとビクビクしていた少年も章子に振り向いた。
「え?」
「……なんか、さっきからすごい睨んでるけど、ひょっとしてまだ怒ってるの?」
恐る恐る昇が口を開いたのは、いつまでたっても出発しようとしなかった昇に対して章子が痺れを切らしたことについてだろう。
どうやら真理の「章子、怒ゲージMAXッ!!」といった言葉が、よほど堪えているようだ。
だから昇は草原の中を歩きながらしきりに終始、最後尾を行く章子を気にしている。
「ううん。
ちょっと気になっただけ……」
「き、気になったって、
な、何が?」
昇は章子を完全に誤解した挙動をとっている。
びくびくオドオドと女王様の機嫌を損ねない様に一生懸命だった。
それが想像していたイメージと180度違うので内心笑いながら、受け応えしてみる。
「一週間のあいだ。
半野木くんは何をしてたのかなって……」
章子は後ろで手を組みながら最後尾を歩く。
草原の風が気持ちよかった。
章子の肩までかかるセミショートの髪が風に何度もそよいでいる。
「と、特に何もしてないよ。
きっと咲川さんと同じだって。
休日は家から惑星を眺めて、
平日は学校から惑星を眺めて。
それだけ……」
「昨日は屋根に上って見上げてたって聞いたよ?」
「なんで知ってるのっ?
いや……、
あの子かっ」
昇は気づいて、先頭を往く真理に向いた。
「ひょっとしてぼくの情報って結構、駄々漏れてる?」
章子に耳打ちするように昇がお伺いを立ててくるのが可笑しい。
章子は昇を安心させるように首を振った。
「安心して。
わたしが知ってるのは、
きみが同じ名古屋出身で、
同じ日本人で、
同じ中学二年生で、
男の子で、
わたしより学校の成績がかなり悪いってことだけ」
「それは大分知られてるような……」
「名前を知ったのだって今日が初めてだったんだよ?
住所だってそう。
それ以外は本当に何も知らなくて……。
わたし、きみに凄く早く会いたかったんだからっ」
「それはもう聞いた。
ぼくだって、君が来るなんて知ってたら、あんな所までわざわざ来なかったよ。
完全に謀られた気分だ。
きみが来るなんて知っていれば今ごろ、元の地球で嫌な学校の授業の一つでも受けていられたはずだったのにっ」
「わたしもそれは聞きました。
でもいいの?
わたしみたいなこんな可愛い娘と一緒に未知の世界を冒険できるチャンスなのに、それをそんな簡単に無碍にするなんてっ」
「自分で自分のことを可愛いって言うのもすごいけど、
咲川さんは、ぼくよりももっと頭が良くて、恰好が良くて、性格のいい男子と一緒に冒険が出来るせっかくのチャンスをみすみす不意にしたんだよ?
わかってるの? そこらへん」
「わたしの幼馴染みは、半野木くんよりも年齢も顔も頭もスタイルも、ついでに性格と運動神経までも遥かに良かったですけど、結局、光より速いものなんて分からずじまいでした!」
いい加減ぐちぐち自分を卑下する昇に、章子が渾身の気持ちを込めて息せき切って言うと、相手は更に憐憫を含めたような視線を向けてくる。
「それは……何と言ってお詫びをすればいいのか……。
ご愁傷さまです……」
こんな時どんな顔をすればいいのか分からないのといった顔をしてくれる。
そんな情けない表情がさらに章子の癇に障った。
「違うでしょ?
半野木くんのお兄さんだってそんなこと分からなかったらしいんだから、半野木くんはもっと自信を持っていいのよっ」
なんでそれを分かってくれないのか。
昇は今でも思い出したように、
「そうだった。
あのクソ兄キぃっ!」……と、
罵詈雑言を言い捨てている。
「半野木くんっ!」
「またケンカですか?」
「あなたは黙ってて!」
食って掛かる背後の騒がしさにやれやれと息を吐きながら、遂に足を止めた真理が振り向いた。
即座に反応した章子は昇に向けていた剣幕を、自分の案内役にそのまま向ける。
「咲川さんってひょっとしてあの子と喧嘩でもしてるの?」
「今ケンカしてるのは、半野木くんとですっ!」
「えぇ……っ」
今度はふくれっ面で昇に指を突き立てる。
「昇も大変ですねぇ」
「えぇ……?」
憐憫を向けてくる目にげんなりとした顔で対抗する。
それが昇の今できる唯一の意思表示だった。
章子はそれを見て、さらに怒気を膨らませている。
真理が章子にそういう顔をさせるのか、はたまた章子が真理に過剰に反応しているのか分からないが、
二人は油と水のように反発し合っているのが見て取れた。
この一週間ふたりの間で何が交わされたのか、容易に想像ができるだけに恐怖だった。
「ぼくはこの一週間、咲川さんがどんな風に過ごしてたのか、なんとなくわかる」
「へぇ、どんな風だったと思うの?」
「なんかいっぱいあの子と話をしてたりして大変だったんでしょ?
それで頭がいっぱいになった」
「当然でしょ、
光より速いものは存在するだとか、科学は実は魔法の事だったとか、
実はもう一つ地球を作っていたとか、実は本物の地球はもう一つの方だとか、
ビッグバンが実は二百回起こっていたとか、
人類の進化は実は仕組まれていたんだとか、
同じ自分自身を生み出してもそれは実は自分自身じゃないとか、他の生命に転生することは絶対にできないとか、完全な生命は不老不死のことじゃないとか、
実はどうとか実はこうとか、そういうことを言ったり見せつけたりしてくるのよ。
一週間ずっと!
こんなの、頭がどうにかならない方がどうかしてるってモンだわっ!」
「お、おわぁ……」
いろいろ突っ込みどころ満載の言葉が一度に出てきたが。
とりあえず今はそれらをスルーしておいて章子が落ち着くのを待ってみる。
「それは……すごく……なんていうか……楽しい一週間だったね」
「ほんとにそう思う?」
素晴らしいガンくれを昇にくれている。
「お、思うよ。
だって興味あるじゃない。
本当の世界って、実はどういったものだったのかな、
なんて……」
「わたしはそういうことをあの子とじゃなくて、君としたかった」
「あ、あはぁ……」
これは重症だ。
半野木昇は心底そう思った。
「半野木くんはどう思うの?」
「え?」
「どう思う」
「どう思うって何が?」
「全部っ」
「全部っ?」
「そう。
いま話したこと全部っ!」
なるほど、これは確かに頭痛が起きても不思議ではない。
実際いま、昇は頭が痛い。
いや、痛くなってきた。
「なんだっけ?
ビッグバンが……?」
「二百回っ!」
起きたのか……。
ビッグバンが……二百回……も……。
「多いなぁ……」
「それだけ?」
「へ?」
「それだけなのっ?」
章子が容赦なく詰問してくる。
しかし昇には他にどう反応したらいいのか分からない。
「ご、ごめん。
他にどう反応したらいいか、わからないんだけど……」
困惑していると章子はますますといった表情で腕を組んだ。
「呆れた!
二百回よ、二百回!
二百回も起こってたのよ!
あのビッグバンがっ!」
必死の形相でそんな事をいう章子の身振り手振りが非常にシュールだった。
昇はそれをちょっと堪えきれない苦笑いで噴き出してしまった。
「あ、哂った!」
「ご、ごめんごめん。
でも、ぼくより咲川さんの方がよっぽど驚いてるんだもん。
それを見ちゃったらこれ以上驚きようがないよ」
「今度はバカにした!」
更にムキになる章子を宥めながら、昇は次の話題に切り上げる。
「で、他には何だっけ?
最初から仕組まれてたんだっけ?
ぼくたちっていうか……
ぼくたちのこの体が……」
そう言ってから昇が自分の手の平を見る。
「そっか、
本当に人為的だったんだな。
この身体……」
「本当に知ってたの?」
章子が真剣に気の抜けた表情で聞いてきた。
どうやら章子は昇がこの事にあらかじめ気づいてた事を最初から知っているようだった。
「知ってたっていうか、たぶん、そうなんじゃないかなって思ってただけだよ。
この体、どう考えたって自然に進化するには出来過ぎだもん。
おかしいよ」
「いつから?
いつからそう思ったの?」
章子は本当に疑問のようだった。
だから昇もそのままのことを言うしかない。
「最初は中学に入ってからの社会の授業だったかな。
ほら一番最初の人類がどこから生まれて広がったかってやつ。
アフリカ大陸から枝分かれして、段々人間に近づいていったていうアレだよ」
「うん」
章子もそれは覚えている。
真理の方はそれを「人類への進化」だとかいっていたが。
「あの枝分かれの仕方がさ。
一回、
なんか最初から設計図が決まっていて、それを一生懸命なぞっていってるように見えたことがあったんだよね。
初めから辿り着くべき目的地があって、それを間違えながらも必死に目指しているように見えたんだよ。
それからかな。
自分のこの体に疑問を持つ様になってきたのは。
あ、あと月だ」
「月?」
昇が思い出したように呟いた言葉に章子は眉根を寄せた。
人類の誰かに計画されていたという進化と、昇の言う月という単語が結びつかない。
「地球を周ってるあの月だよ。
あの月ってさ、いつも同じ面を地球に向けてるじゃないか。
あれが不思議だったんだよね。
月がいつも同じ面を地球に向けてることが不思議ってことじゃないんだ。
月がいつも同じ面しか地球には向けてないのに人間がここまで、人間として進化できたってことが不思議なんだよ」
「何を言ってるの?
月と私たちの進化が、いったい何の関係があるのか、
わたしには全然、わからない」
半野木昇が何を言っているのか、章子には本当にわからなかった。
ただ昇の側も、それはそうだろうという顔をしている。
「それはきっと、この惑星にある昔の地球文明に辿り着けば分かると思うよ。
その時代の世界ではたぶん、月は自転して地球から見えていたと思うから……」
章子は昇のその言葉を忘れないように記憶に刻み込んだ。
これで違っていたら酷い目に合わせてやる。
そう強く決意して。
「じゃあ、半野木くんは「恐竜」も仕組まれて進化させられた生物だってことを知ってるの?」
「えっ?
恐竜もっ?」
どうやらソレについてはさすがの昇も予見をしてはいなかったようだ。
「ビッグバンが二百回」の時には鼻であしらうほども反応らしい反応をしなかった癖に、この事実に関しては盛大に驚いて盛り上がりだしている。
「ウソだ……っ。
恐竜まで進化させられていた?
ほんとに?
でも言われてみればそうなるか……。
でも待てよ。
それで恐竜まで進化が仕組まれていたら、人類の進化の方が仕組まれていた理由が弱くなっちゃう……。
むしろ破綻しているっ?
どうしよう、本当は間違っていたのか?」
章子からもたらされた驚愕の新事実に額を抑えて、今さらカッコよく締めた自分の持論を疑っている。
それを端から見ているのは可笑しかったが、さすがにいつまでもそれを続けるのは可愛そうになってきたので救いの手を差し伸べてやる。
「人類の進化が仕組まれてたっていうのは本当みたいよ。
でも人類の進化と恐竜の進化を計画していたのは別々の国だったみたい。
戦争をしてたんだって。
恐竜の進化と人間の進化はその延長線上の結果。
代理戦争の終着地点みたいなものなんだって」
章子の発言に昇は目を丸くしている。
素直に驚いているのが分かる。
章子はその視線を受けるのに別段やぶさかではない気分だった。悪い気がしなかったのだ。
むしろ、今まで昇の受け答えを聞いてイライラさせられた分、もっと自分を敬ってさえしてくれればいいとどこまでも感じるほどに。
だがそんな優越感も一瞬だった。
本来ならこの知識は真理から教わったものだ。
章子一人の知識ではない。
章子一人で辿り着いた知識など、いまのここには微塵ほども存在するものはなかった。
「すごいな。
咲川さんはいろいろ知ってるんだな……。
この世界のこと」
感心する昇の屈託の無い顔が、章子には居心地が悪い。
だから咄嗟に変えられる話題がないかを探した。
「半野木くんて、この惑星のことをどこまで知ってるの?」
「どこまでって、そんな大したことは知らないよ。
ここに大昔に栄えた古代文明があるってことと、その文明がぼくたちの文明よりも高度で複数あるってことぐらいで。
知ってるのはそれぐらいかな。
ここに来る気なんて、昨日までまったく無かったし」
「ゴウベンさんとはこの一週間、惑星のこととかで話をしなかったの?
一日一回ぐらいは会ったんでしょ?」
気になって章子が聞くと、肩透かしたように昇も首を振る。
「話してないよ。
会ったのも今日を入れて四回目ぐらいだし。
最初に会った金曜日と、次の月曜日、あとは確認の為に現われた昨日の帰りだ。
その時もまだ行かないって決めてて、心変わりしたのが陽の沈む直前だったんだけど。
そしたら夢にゴウベンが待ってる場所までの道順が出てきて。
で、試しに今朝行って、きみも来たあの砂浜で会ったのが四回目」
「昨日最後に会った時も断ってたの?」
「そうだよ。
まあ、それで今日何も起こらなかったらしょうがなかったな。って思って諦めて大人しく学校に行くつもりだったんだけど……」
章子はそれを聞いて心底あきれてしまった。
完全に行き当たりばったりだったからだ。
「じゃあ本当にこの惑星のことは知らないのね」
「そうだよ。
だから結構、咲川さんのことは当てにしてるんだ」
「一人で来るつもりだったクセに都合がいい!」
「ごめん。
でも咲川さんは知ってて来たの?」
「何が?」
「何がってぼくが来ることがだよ。
男女一人ずつだよ?
嫌じゃなかったの?」
「何考えてるの?
いやらしいっ」
「えぇ……」
章子の剣幕に昇は身を縮める。
「……わたしは一人だったら耐えきれなかった……」
「え?」
ぽろりと呟いた本音はやはり昇には聞き取れなかったらしい。
この難聴系男子め。
「なんでもない!
だからこれからよろしくね。
半野木昇くん」
「え?あ、ああ、うん。
よろしく。
咲川さん」
改めて面と向かっていると双方とも恥ずかしかった。
やはり見知らぬ男女が一組になって何かを行動するというのは照れ臭いものがある。
二人が照れ隠しの為に離れて歩いていると、草原はいつの間にか上り坂になっていた。
見ると傾斜の先につづく丘の上で真理が立って待っている。
「親睦は深まりましたか?
お二人さん」
草原の涼しい風に髪を梳きながら章子と同じ学校の制服を着ている真理が、優しい目を向けていた。
そんな真理の視線に同じ制服姿の章子も昇も、どもったまま気まずそうに返事も出来ないでいる。
「しょうがないですね。
一旦ここでお昼にしましょうか。
ちょうど太陽も真上を過ぎたところです。
お腹も空いてきたことでしょう」
「太陽……」
「どうかしましたか?
半野木昇」
眩しそうに手の平を太陽に翳しながら見る昇を無視して、
真理は無動作のまま視線だけを使い、自分のペースで草原の芝生に魔法で出現させたシートを敷き、その上にサンドイッチでも入っていそうなランチボックスや水筒、おしぼりなど、ピクニックの昼食に必要なものを所せましと出現させていく。
章子はその超常的にな魔法現象に顔を引きつらせた。
覚えがあったのだ。
魔法で出現させた物は、人が簡単に食にあり付いていい代物ではない、ということを。
「大丈夫ですよ。章子。
この食べ物は私が責任をもって、命あるものから命を奪って拵えた物ですから」
「本当……なの……?」
「ええ。
だから安心して、頬張り食べて、その空腹を満たしてください。
空いたでしょう?
お腹」
まるで、いままで命を奪ったことなど一度も無いという取り澄ました表情で真理は章子を見て言った。
それは、章子のいままでの空腹は、何か他の命で満たされていたことを嫌でも痛感させてくる表情だった。
章子はそんな真理の見てくる顔に耐えきれず、そばにいた昇を見る。
だが昇は上の空のように真上の太陽を見上げているだけだった。
「半野木くん……」
「さあ、半野木昇も」
「え、ああ」
助けを求めてくる章子の視線に気づかず、席に着くよう促す真理につれられ、昇もようやく靴を脱いで広いシートの上に座る。
章子も恐る恐るそれに続いてシートに上がり座った。
広げたランチボックスや大皿の品々から小分けした料理を小皿に盛り付け、真理が章子や昇の目の前に置いていく。
「朝は簡単なものしか食べていなかったでしょう。
足りなかったらまた出しますので存分に召し上がってください」
保護者気分でコポコポと黒や白の水筒の蓋をコップ代わりにしてお茶を注ぎ、章子や昇に勧めてみせる。
渡された章子は湯気の立つ蓋のコップを手にしたまま目の前に出された料理を見た。
地球と同じパンで挟んであるサンドイッチや骨付きのフライドチキン、大皿に盛られた温野菜のサラダなど、その種類は素手で手を付けられるようになっているアウトドア風ながら多岐に渡っている。
丁度、お腹も空腹の音が鳴りだす頃だった。
朝は、自宅から待ち合わせ場所である隣県の砂浜に着くまでにコンビニおにぎりを一つ二つお腹に納めただけだったから、余計に腹持ちはよくない。
正直、口の中は炭水化物を欲する唾液で溢れていた。
今すぐにでも手を出したい気持ちで一杯だったが、章子は手を付ける気にはなれなかった。
この光景を、地球では嫌というほど見せつけられていたからである。
当の本人である目の前に座る真理の手によって。
真理はそんなことも忖度せず、もくもくと気ままに目の前の食べ物を口に運んでいる。
章子はそれでも我慢した。
とてもそれらは人が食べていいモノには見えなかったら。
そんな章子が逡巡している斜め横で、まだ空の太陽を気にしていた昇が、空を仰ぎながら水筒のお茶を口に含んだ。
そのままの習慣的な動きで真理が取り上げてくれた小皿の中から三角のサンドイッチを一切れ掴み、カブリつく。
「あ、うま」
「え」
「そうでしょう。
そうでしょう。
ほら、
章子もいつまでも意地を張ってないで、食べてみてください。
早くしないと、全部、昇に食べられてしまいますよ?」
真理にせっつかれ、訝しみながら章子も自分の取り分の皿から骨付きのから揚げを一つ掴みとった。
ガツガツと食べだす昇と見比べながら、自分も目の前に摘まんだ唐揚げを黙ったまま口に運ぶ。
「、おいしい」
「でしょう」
これまでにない満面の笑顔を真理は見せた。
「ホントにこれ……」
「はい、
生きていたものです」
章子はその意味を知っている。
この味とこの食感とが、強制的に生まれさせられて強制的に奪われた何かの何処かの命だったということを実感させてくれる。
だがそんな感慨を覚えたのも最初の一口だけだった。
あとの二口目からは空腹感が勝っていた。
いやただの飢餓感だけだったのかもしれない。
章子の体はがむしゃらに満腹感に飢えていたのだ。
そこには命への感謝も死への尊厳もありはしなかった。
ただひたすらに空腹感を満たすためだけにそれを埋めるための食を進めていた。
章子は頬を伝う涙を見せないように、顔を俯けながら食事を続けた。
昇は知らないだろう。
真理と出会ってからここまで、章子がいったい地球で何を見てきたのかを。
そんな心を悟ってか悟らずか、真理が昇に向けて声を発した。
「何か気になることでもありますか?
半野木昇?」
章子が見ると、昇はありったけに詰め込んだ食べ物を流し込むように、ゴクゴクと喉仏を動かしてお茶を煽っていた。
「ぷは、死ぬかと思った」
「慌てて食べるからですよ。
ほら、こぼれたお茶を拭いて下さい」
渡されたおしぼりで口や体のお茶を溢したところを懸命に拭いながら、昇はやはり太陽の方角を見た。
「もう一つの地球、
あの向こうにあるんだよね」
「ありますよ。
あなた方の前まで住んでいた本当の地球が」
真理のこの人類を小馬鹿にした口調は昇が相手でも変わることは無い。
「ゴウベンから、その地球に人類がそのまま残っていると思うか?って言われたんだけど。
それってつまり、向こうの地球には人類だけがいないってことでいいの?」
昇の問いに真理は頷いた。
「ペットや動物園の動物など、依存性に偏ったものも人類と一緒に模造した方へ移動させてあります。
知りたいことはそれだけですか?」
「畑の植物は?」
「残してありますよ。
餌になりますから」
何の餌になるかは言わなくても分かる。
「ってことは、
人間がいなくなると汚れてしまうものもそのままって事か……」
昇の独り言に真理は沈黙で答えとしている。
それは絶対の肯定を意味していた。
「お気の毒でしたね。
せっかくの新天地になるかもしれなかったのに……」
「いいよ。
どのみち、人間たちにはお似合いだ」
人類の移された地球では誰に向かうともなく、なぜ綺麗な地球でもう一つの地球を出現させなかったのかという声がある。
章子がそれを聞いた時、同じことを真理に言って詰め寄った。
だが真理からの返答はこれから言う半野木昇と同じものだった。
「自分の尻ぐらい、自分で拭くもんだ」
昇は、章子が真理と言い争ったことを全て既に自己解決している。
だから昇はいまさらこんなことで真理と言い争いはしない。
昇には昇の答えがあり、真理には真理の考えがあった。
その二人が立ちあがって、章子を見る。
「お腹は一杯になりましたか?」
「え?
ああ。うん」
「結構。
御粗末様でした」
頭を下げる真理に頷いて、食後のお茶を両手に持った章子が残りを啜って飲みほした。
「では、行きましょうか。
これ以上歩く必要もないでしょう。
今度は直ぐに距離を詰めます」
章子が最後にシートから出たのを見計らって、真理が指を鳴らすと、出現させていた食事の終った用意、一式を全て一瞬で消し去る。
そこには魔術の時に使った光学の魔方陣の出現などは一切なかった。
綺麗に芝生だけが残った跡地は、今まで敷物やサンドイッチの入った籠、水筒などが広げられたとは信じられないほどの殺風景だ。
だが、容器や食べきれずに食べ残したものは綺麗に消えても、自分たちが口に入れた物はちゃんと胃の中に今でも重量感として残っている。
章子はセーラー服の上から自分の腹部に手を当ててみた。
ここにあるものは一体何なのだろう。
ワケも分からない頭で考えていると、昇が自分を見ていることに気づいた。
「大丈夫だよ。咲川さん。
大丈夫」
昇も自分の満たされた腹をポンポンと叩いている。
何が大丈夫なのかはわからないが、昇がそう言ってくれると少なからず気持ちが楽になった。
自分だけではなく他の人間も同じだと思うと安心できる。
章子も頷いて、自分たちに背を向けている真理を見た。
「これからどこに向かうの?」
「あの先に見えるでしょう。
あの山脈を越えて一番初めの世界。
地球上で最初に栄えた超古代文明、第一紀の「リ・クァミス」に向かいます」
「リ・クァミス?」
「そうです。
地球上で最初に栄え尚且つ、この転星上で最大最高の科学技術力を持つ文明。
第一文明、その名をリ・クァミス」
「リ・クァミス……」
その名は初めて聞いた。
章子が名前を知っているのは第六文明時代の二大国家だけだ。
それでさえ、隣の半野木昇は知らないだろう。
「では行きましょう。
門を開けます」
真理が指を鳴らすと、
草原の先に幽かに連なる高い連峰の陰影を塞ぎ、
あの太平洋の砂浜からこの惑星の大気圏までの距離を一瞬で潜らせた暗い闇のトンネルが真円に遮って現われる。
この暗闇のトンネルこそ、
潜った対象の物質情報すべてをエネルギー情報に相変換し、命を含めた情報塊を物体相からエネルギー相へと瞬時に相転移させて、超光速機動、つまり瞬間移動を実現させる超魔法機動技術。
エネルギー相転移の門だった。
相転移エネルギーではなくエネルギー相転移。
通称、転移門と呼ばれる、
その転移門を潜った対象物の状態のことを、相転移機動と呼び習わしめる超次瞬間移動手段。
「またコレを潜るの?」
その闇の門を見て、
渦を巻く間違った方のブラックホールをイメージした章子が心底嫌そうな顔をする。
まだ大気圏から落ちた記憶が新しいのだから、当然と言えば当然の反応だろう。
「申し訳ありませんがこれが一番、確実で速い。
これを潜れないとおっしゃるのなら、ここから目的地まで残り三日の行程を徒歩で向かってもらわなければなりませんがどうしますか?」
「三日?
徒歩?」
「更に何が出るか分からないこの草原とあの山と山の向こうにある森を、ですね」
「モンスターでも出るの?」
章子の卒倒するほどの形相に昇が聞くと、真理は首を振った。
「いいえ。
あなたが先程まで無意味に警戒していたゲームにでてくるゴブリンやスライムなどといった生物はまだこの惑星には存在しません。
しかし、生身の力では手に余る肉食性の害獣の類は生息しているので徒歩はお薦めしませんね」
「だって、」
結論として昇が門を指差して言うと、章子も観念したように息を吐いた。
「わかった。
わかりました。
潜ります!
潜りますよ!
潜ればいいんでしょぉっ!」
「安心してください。
章子。
いま、ここで一番ビビっているのは半野木昇ですから……」
「べ?」
「なんですって?」
睨みつける章子の目に怯んでみせる昇。
「いや、悪気は無かったんだ。
咲川さん。
ほら、早く先に潜って」
「半野木くんからお先にどうぞっ!」
「いべああえっ」
背後からの二―ドロップで昇を暗闇門に押し込み、先に姿を消えさせる。
「では行きましょうか。
これで三回目の行きましょうです。
さぁ、咲川章子」
真理の差し伸べる手に章子は手を直前で止める。
「もう落ちない?」
「落ちません」
「ほんとに?」
「心配性ですね。
墜ちませんから。
ほら、行きますよ」
「これで落ちたら許さないから」
覚悟を決めて真理に掴まりながら、章子も暗闇のトンネルをやっと潜った。