16.精霊の棲む世界
風が変わった。
咲川章子が真っ先にそう感じたのは、次に目指していた大地の影が水平線の彼方に見えた時だった。
「なんだろう……この風……?」
「章子もそう感じる?」
隣に立つ地球上で最初に栄えた文明世界リ・クァミスを出身とする少女オワシマス・オリルと共に甲板の舷側から、近づく大地を眺めていると、この時まで感じていた違和感が口を吐いて出た。
「オリルも?」
「ええ。
この風……まるで……」
生きているようだ。
オリルの言葉を待つまでもなく、章子はそう感じていた。
風たちは今も餌をねだる海鳥の群衆の一員となって帆船の回りを舞っている。
ふわりと時折、舞い散る羽根と一緒に頬を掠める風の感触は遊んでいるよう。
その動きはまさに、見えない風の鳥だった。
「どうなってるの?
これ……」
章子はそんな風を感じながら微妙にだが気味の悪さを感じる。
今までただの自然現象の一つだと思われていたものが、ここに来て、動物の様に振舞う事に言い得ぬ畏れを感じる。
そんな章子の疑問に答えたのは、様子を見に船内から甲板に出てきた真理だった。
「この船旅の最中に言ったでしょう。
それがこの五番目の文明世界の科学技術の具現。
AMです」
章子やオリルとは色違いのリ・クァミスの最高学府の制服である真っ白な無地のワンピースに似た一つなぎ状の法衣を見に纏いながら、真理は帆船の手摺側にいる二人に近づいてくる。
「AM……?
これが……」
章子は海鳥たちと一緒に舞う風の一つに手を差し伸べた。
するとすぐに風は章子の手に近づき触れて、グルグル巻きにはしゃぎ回りだした。
「本当に……」
「生きてますよ。
その風は……」
主の手の中でじゃれつく風の鳥の挙動を見据えて、真理は断言する。
真理の言うAM。
人工精神とは、
章子たちの現代世界でいうAI、
人工知能の上位段階に位置する存在だという。
つまり、それは人工的に造りだされた思考、意思、高度独立自律存在とも云える生命だった。
「そして当然、それらは自然現象同様に一瞬のうちに消える……」
真理の言う通り。
章子の腕にいた風の鳥は既に消えていた。
そしてまた次の風の鳥が章子のそばに寄って、気を惹くように飛び舞っている。
「こんなことを、
この世界が……」
「出来ます。
なぜならそれが、あなたが次の行先に決めたこの太古の地球上で五番目に栄えた文明世界、
サーモヘシアが最も他世界よりも優れて秀でている科学技術学問、
発生学の力なのですから」
発生学。
それはこの世の全ての意思の発生の仕組みを探求、究明する学問。
「その発生学の力が、
この文明時代紀が存在した時に、偶然発見された「覇都の鍵」に命を宿させることを可能とさせたのです。
そう。
この同じ海鳥の群れの中で舞う、これら風鳥たちのようにね」
未だ飛び交う風の鳥たちを視線から外して事も無げに言う真理の視界の先には、既に近づいてくる陸地があった。
その大きくなる陸地の中で息づいている文明世界にそれほどの力が持っていることに、章子はとても言い表わせない思いを抱く。
それは知的好奇心なのか禁忌への恐れなのか。
今の章子には分からない。
だがいずれ訪れる時間は、否応なく迫っていた。
接岸する為に目の前まで迫った太古の世界の岸壁という姿がその証拠だとでもいうように。
上陸する時間は迫っていた。
だから帆船の乗組員である、第一世界の人間たちも慌ただしく着岸の準備をする。
波のまだ荒れる湾内に入った船体を旋回させ、綱を岸壁側に放り投げ、錨を落として船と岸壁を固定させるのだ。
その作業はとても魔法という高度技術を持つ文明の所作とは思えない程、原始的だった。
だが、それが地球で一番初めに栄えた第一文明リ・クァミスという文明なのである。
彼らの行う作業は全て懐古的で、章子たち現代人類の一回りや二回りも昔とあまり変わらない生活様式、技術様式だったが、その作業に割かれる全てのマンパワーが比較にならなかった。
常軌を逸していたのだ。
章子の現代文明ならば、十人や二十人では足らない作業を、リクァミスの人々はたったの一人で片づけてしまう。
時にはこうやって、大型の船体を綱で引っ張って岸に固定するという百人単位は必要な大がかりな作業も、彼らにとっては一人、多くても二人だけで片づけてしまうことが殆どだった。
力の使いどころが単純で在り、強力である。
それがこの何処か後進的でいて、力と智だけは超越的に先進規模な初代文明世界の特徴だった。
その力のおかげで港への着岸を果たした船内は慌ただしさが増した。
停船した帆船舶の帆柱の頂にはリ・クァミスからの使節船の証である院旗が掲揚される。
院旗は既に、リ・クァミスの国旗として機能していた。
リ・クァミスという一つの国はリ・クァミスという一つの世界そのものである。
その為、第一世界の中枢機関である最高学府の旗は、同時にリ・クァミスという第一世界とリ・クァミスという唯一国の象徴旗にも為らざるを得なかった。
「到着したようです。
私たちも降りましょう」
オリルからの知らせを受けて、真理と章子と、もう一人、章子と共に地球からこの太陽系に新しく出来た新惑星「転星」に来た少年半野木昇の三人は、オリルの先導の中、
とうとう五番目の文明世界の大地に足を踏み入れたのだった。
「なんか、まだ船の中にいるみたいだ……」
「これもAMっていうものなの……?」
昇や章子の歩く足が縺れる。
まるで地面が波たつ大海原の様に揺れる感覚に陥っている。
それが返って、風の鳥のようにこの大地までもが生きているのではないかと危惧させるのだ。
「違いますよ。
それはただ単に今までの船生活が、あなた方の頭から離れていないだけです。
単純な船酔いの一種でしょう」
呆れた真理が言い放つとオリルもどこか苦笑している。
「あたしも同じ感じ。
そう言う風に感じるのも無理ないわよ」
章子は今も、まるでまだ船内にいるかの様に世界ごと揺れた感じに襲われている。
章子もオリルも一週間に渡る航海などは一度もしたことが無い。
幸いなことに航海中も酷い船酔いは起こさなかったが、まさか下船した後でこれほどの後遺的な感覚に襲われるとは思ってもみなかった。
「うぅ、
まだヘンな感じがする……」
「我慢して下さい。
多分、明日いっぱいまではその感覚は残ると思いますから」
「ウソでしょッ?」
「個人差はありますが、今の章子の状態を見ると、その可能性が一番濃厚ですね」
「魔法で治せないの?」
「治せますが。
命にまで影響は無い以上、これも貴重な体験です」
「この強情っぱりっ!」
「それがイヤでしたら、はやくご自分で魔法を身に着けてください」
真理と軽口の応酬にムキになっていると、既に章子は港の一角にある一つの建物の中に入っていた。
気づくとその一階は大きな待合所になっているらしく。
日本と同じような乗船券売り場と待合席の集まったような場所になっていた。
そして土産物屋のあるスペースが駅のホーム並みに広く先まで続いている。
「こういう所はわたしたちの所と同じなのね」
章子は変に感心してしまった。
章子は、自分の世界の海港の乗船所のことは良く知らなかったが、空港の方なら一度か二度利用した事があるからなんとなく分かる。
この港施設の一階の空間は、現代世界の空港の中に入った瞬間の雰囲気と非常によく似ていたのだ。
そんな事を考えて章子は改めて辺りを見回す。
人影はあまりない。
章子たちの主だった空港の中と比べると、非常に人気の少なさが印象についた。
今いるのは一緒に下船した第一世界の大人たちが二十人程と、この現地の人と思しき人物たちが数人。
そして章子たち四人で全てだった。
「これからどうするの?」
「リ・クァミス側からの取り計らいで、この現地国の方が一人、この世界の案内役になってくれるそうです。
その方の案内の下、我々はこの世界にしばらく滞在することになるでしょう」
その「しばらく」がどれほどの期間をさすものかはわからない。
そこに不安を感じはするが、それでも逃げたいとは思わなかった。
この新惑星の新世界に来て最初の夜を過ごしてから、
章子が本気で逃げたい。
避けたいと思っ事は二度しかなかった。
一度目は、寝起きの顔を洗い終わった時に昇とオリルに出くわした時。
そして二度目は、次の行先を第二世界以外から決めなけらばいけないという時だけだった。
その二つの時に比べれば、今のこの状況などは蚊ほどでもない。
章子は知らず知らずの内に。
次第に、この五番目の世界を知りたいと思う自分の好奇心が強くなっていることに気が付いた。
自分が未知の知識に対して貪欲になっていることに心の中で驚く。
その先に何が待っているのか。
願わくば、その先で待っているのが、この隣で落ち着かず辺りをキョロキョロキョドっている少年であったらいい。
そんな儚く淡い期待を抱いくほどに。
そしてその淡い期待を断ち切る様に彼女は現われた。
「あの……。
失礼ですが、
『三日月の徒』の方……ですか……?」
可愛らしい声が背後からした。
その声は小動物の様に小さく、しかしはっきりとした声で章子たちに届いていた。
「あ……、
申し訳ありません。
私は中枢区の推薦辞令で参りました。
ハウナ国家中枢区学士校の代表生徒でサナサ・ファブエッラと申します。
ここに初代世界の使節団『三日月の徒』に所属されているオワシマス・オリル様がいらっしゃると伺って来たのですが……」
「オワシマス・オリルは私ですが……?」
「あっ、よかった。
お初にお目にかかります。
私は当世界がこの現地国家、ハウナの民の一員でありますサナサ・ファブエッラと申します。
これから私フェブネッラが、我が国家の派遣命令により、貴女さま方、第一世界リ・クァミスの特別客員使節様の案内役として、滞在中の紹介や解説などのお世話をさせて頂きますので、よろしくお願い申し上げます」
深々とお辞儀をするその少女は非常に小柄で華奢だった。
服装は章子たちの世界のように制服として整えられたものだったから、その少女の所属する学校の指定にあるものなのかもしれない。
その学校の制服を綺麗に焼けた肌に通して、大人しい少女の備える髪の色は亜麻色だった。
「お話の内容は承りました。
我がリ・クァミスが貴国と取付けました約定にも相違する箇所は見当たりません。
これをもって合意といたします。
ではこれからよろしくお願いしますね。
サナサ・ファブエッラさん」
オリルが他にいたリ・クァミスの大人たちと視線を配らせるだけでそれは完了したようだった。
その合意を見届け、傍らにいた真理が前に出る。
「では私から簡単な自己紹介を。
私は真理。
神真理といいます。
そしてこの後ろに並び立つのが、私と同じ第七世界からの住民である、
咲川章子と、
半野木昇です」
「あ……どうも。
半野木昇です」
「咲川章子です。
よろしくお願いします」
「あ、はい。
よろしくお願いします。みなさん」
既に話は通っているのだろう。
第五世界の少女は章子や昇に対しても屈託のない笑顔で挨拶を返した。
とその時、
章子は隣の半野木昇が嫌に目の前の少女サナサ・ファブエッラから視線を外さないことを奇妙に思った。
少年は別に少女の体が異性として格別な特徴を持っているから、男子の本能として見ているようでは無かった。
だがそれに近かったのは事実だろう。
彼は彼女の身体的特徴が女性として特段に秀でているから視線を離せないのではなかった。
半野木昇は知らないだろうが、章子もオリルも真理でさえ、既に承知している事実があった。
半野木昇はよく、目に入った同い年ほどの女子ならそのまま目線で追う癖がある。
それは例え、章子やオリルや真理が隣にいたとしても同様である。
彼は女子の存在というものに対してとても貪欲なのだ。
その為、章子やオリル、真理を目の前にしながらも、すれ違った他の女子の後ろ姿をふらふらフラフラと追うのである。
だから章子はこの時も思った。
それはどうやらオリルや真理でさえも同じであったらしい。
いつしか三人の少女たちの視線は自然と集まって、冷たく少年の背中を射抜いていた。
そしてその少年の第五の少女に視線を留めている永さから、射抜いていた章子は彼の事を一つ新しく発見してしまう。
そう。
そうですか、半野木昇くん。
きみはこういう娘が「好みのタイプ」なのですか。