0.大気圏
自分たちの地球に別れを告げて、一歩を踏み入れた暗い闇の門を抜けた後。
気づくと中学二年生の咲川章子は宇宙と空の狭間にある大気圏の中にいた。
巨大惑星の青い地表が彼方まで広がっている衛星軌道ほどの高空。
落ちていく感覚を感じ取って章子は絶叫していた。
「ええっ?
うそっ、
なにこれ?
うそぉっ?
ウソでしょぉっ?」
目の前に迫る巨大惑星の青い地表へと高速で落下しながら、章子は手足をジタバタさせて醜くもがいた。
突然の出来事に、何が起こっているのかまったく理解することができなかったのだ
「まったくもって母も乱暴ですね」
その様を眺めていたもう一人の少女が独り言ちる。
「大丈夫ですよ。章子。
現在の高度は上空約一万千二百キロ。
地表に着地するまでまだあと1分程度はかかりますから」
落ち着いた声で語りかけてきたのは、章子と共に大気圏を落下している綺麗なオカッパ頭の同い年ほどの少女だった。
この少女もまた、章子と同じように巨大惑星からの引力に身を任せている。
「え?
え?
え?
ちょっと……
ちょっとまって……っ。
ちょっとまって!
それって今いったい何キロのスピードが……?」
「知りたいですか?
しかし、その前にあなたは今、これだけの速度、高度で落下しておきながら、ここまで地上と変わらない会話、呼吸、その他諸々が成り立っていることにもっと疑問を思った方がいいと思いますが?」
「そ!
そんなの、地球からここまでだって普通に来ることができてたんだから今さらでしょっ?」
「………。
それもそうですね。
ではこの1分間。
地上までの自由落下をお楽しみください」
「い、いやっ、
いやぁ、あ、あ、あ、あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
驚きのあまり、騒いだ勢いで迫る緑の地上に向けてバランスを崩した章子は頭から突っ込む体勢になり、あわてて余計に手足を振り乱した。
それが更にアンバランスな態勢を加速させ、今度は何度も宙返りを繰り返す羽目に陥っている。
その情けない様を見て、章子に話しかけていた少女、真理もため息を吐かざるをえなかった。
「さて、我が主はあそこまで取り乱していますが、
流石は半野木昇。
あなたは微塵も動じていませんね」
「いや、これでも結構、普通にビビってんですけど……」
真理が語りだすと、すぐそばで微動だにできないまま一緒に自由落下していた中学生の少年もまた、引きつった苦笑いを浮かべたまま大気に身を任せていた。
唐突の大気圏突入は風圧に揉まれて足掻き続ける章子を真ん中に挟んで、悠々と会話する少年と少女がその間を取り持つ格好になっている。
その中で少年は大地に背を向けて離れていく宇宙を見続け。
少女は達観したように近づいてくる海と大地を見つめていた。
「宇宙……、
それに地球が……」
遠くなっていく。
宇宙の色から次第に空の色に変わっていく空を見ながら、半野木昇は手を伸ばして呟く。
「大気が赤くない?」
「いいえ、赤いですよ。
現在の大気圏への進入角度はほぼ直角であり、いま最も注視しなければならない大気縮圧係数は極大値を示している。
通常ならこれで私たちが燃え尽きてしまうところであろうこの状態を魔術効果によるエネルギー管制でMフィールドによる魔動シールドを発生させ、通常値になるよう人為的に周囲環境を調節しているのです。
その為、この内部から周囲は赤く見えないだけ。
赤い流星の様に見えているのは外からのみ」
「でも火の粉が……」
「それぐらいですよ。
じきに空調などに使っていた魔術出力を宇宙用から航空用に切り替えます。
着地にもパラシュートなどは一切必要ありません。
全ては航空魔術で賄う事ができるのですから」
「ブリストー……。
航空……魔術……?」
「ああ。
あなたにはコレをお見せするのは初めてでしたね。
とは言っても、地球からここまで来るために使った相転移機動に比べれば数段遅れた機動技術ではありますが……」
勿体ぶって言う真理に、昇は特別なにも言わず見ている。
「ではお見せしましょう。
正確には航空魔法といった方がいいのですが。
これがこの新世界、新惑星「転星」に集められた六つの地球古代世界において二番目に栄えた文明世界が使う科学技術の一つ、航空魔術です」
真理がそう言うと落下していた三人の周囲を取り囲むように光が輝き現われて、魔方陣の形へと整えられながら回転し広がって展開した。
自転する魔方陣はあらゆる角度から幾重にも拡大し垂直に交差して、光る球体状の緯線、経線さながらに展開している。
章子や昇はその光る球体型魔方陣に包み込まれた中心にいた。
「これって……」
初めて目にする現象に昇は驚いて周囲を見渡す。
光による円の線が光学的に昇たちを取り囲んでいる。
回転する球体魔方陣の内部は感覚的には無重力に近い。
落下しているにも関わらず、球体型魔方陣の中は唐突に発生した浮遊感に包まれていた。
「空調を宇宙間魔術から航空魔術に出力規模を縮小します。
もうすぐ着地ですから。
それだけは意識しておいてください」
言った真理の正面では数多の魔方陣がパソコン画面の様に展開し、一つ一つが独立して再生しているCDのように高速的に自転回転している。
真理はその高速回転する光学魔方陣の全てに目を通しながら、何かを数値調節しているようだった。
「ちゃんと着陸できるんでしょうねっ?」
強くなっていく惑星の大気圧力に掴まり自回転の治まった章子が姿勢を安定させて真理に目を向ける。
「できますよ。
これは単なる鉛直落下ですから」
「どうだか、
これでできなかったら一生恨んでやるんだからっ……。
憶えてなさいよっ!」
「文句なら母に言ってください。
相転移機動の終着点である大気圏外から私に管制制御を丸投げしてよこしてきたのは母ですから」
怒鳴る章子を嗜めるように、真理も言葉の調子を緩めない。
その様子から、どうやら章子にとって、この現象を見るのはこれが初めてではないように見受けられた。
「しかし、そんなやりとりをしている場合でもありませんよ。
すぐに着陸します」
近づいてくる地上の青い海洋と緑の大地が、真下から彼方へ遠くなり、
見えなかった青の一点から拡大してくる広がった見慣れない大地色の地形が視界を占めていく。
それがきっと、章子たちが着地すべき目的地なのだろう。
その地上の薄い黄緑色の土地目指して、自分たちが落下しているのが分かった。
「着地に向けて、推力を加減します。
衝撃は起こさないよう気を付けていますが、油断はしないでください」
輝く魔方陣を纏いながら、速度を緩めて着陸態勢に入り、風の吹く接近してきた大地の底に向けてゆっくりとその細い足を下ろしていく。
章子たちもそれに倣って速力の落ちていく空中の半重力状態から、いつの間にか階段二段分の高さまできていた地上に着地した。
「お疲れ様でした。
これで無事、地上への着陸に成功です」
最後に着地した真理も、円形の魔方陣を円周周囲に展開させたまま章子たちを見る。
「それでは改めまして、ようこそ。
我が母ゴウベンが創りし、太陽系新第十惑星「転星」へ」
果てしない地平線を背後にして、真理の導きの下に降り立った章子と昇。
二人の少女と一人の少年が辿り着いた場所は、地球から約五百万キロ離れた巨大惑星の土地。
つい一週間前にあの自分たちの住んでいた太陽系第三惑星地球の公転軌道のすぐ内側、系内軌道生命生存圏内すれすれに突然現われた謎の巨大惑星の地上……。
新たに用意された新世界の大地だった。