5
翌朝、カーンは重い足取りで王宮に向かう。
沈んだ心に浮かび上がるのはレイア姫の……
……ダイナマイトなオッパイ。
誤解のないようにしないといけない。
この世界の住人であるカーン達にはレイア姫の顔は見えないのだ。
この世界の人間は、常にあふれ出る光に例えられる霊力と闇に例えられる魔力によって顔はモザイクが掛かったようにしか見えないのだ。
だからこの世界では男は胸まで垂らしたヒゲと鍛えられた筋肉、女は大きなオッパイが美醜の基準になっている。
決してカーンはヘンタイオッパイスキーではない。
話がザンネンになりそうなのでやり直し。
王都の西大門より王宮に至る道は下町を糸で縫うように曲がり、他の大門からの王宮への道より細く、道そのものも補修跡だらけで歩きにくい。
カーンの住む長屋はこの西大路の中ほどにあった。
毎朝カーンが同じ時間に通ると行き交う人は足を止めておはようございますと挨拶をしてくれる。
正式な名前より、貧乏小道と言われるほうが多いこの界隈に近衛兵に出世したカーンがわざわざ住んでいるのは彼がここで生まれ育ったからというだけのことではない。
カーンにとってこの街の風景を毎朝見ることが必要だったのだ。
道の両側に並ぶ家の煙突からは食事の用意をする煙が高々と上がり、薄い壁を通して家人の声が聞こえてくる。
ここには他の大通りにはない庶民の生活が有った。
この見慣れた風景を守るためと自分自身に言い聞かせながらカーンは過酷で非情な影の任務をこなしているのだった。
力がいくら強くったって、いくら武芸に優れていたって、魔法の才能が有っても心までも鋼鉄のような頑丈さがるとは限らない。
毎日少しずつ変わる街の人々を目に焼き付けて、カーンは心の支えとしてきた。
カーンはどこからとなくにじみ出る風格からかなり年上に見られるがまだ20才を少し超えたばかり。
美男の条件である美しく力強い黒いひげをへそのあたりまで垂らしているが、これが実は無精ひげ。
何の手入れもされていないことをカーンのようにしろと厳命されて困り果てているひげ専門の理容師が聞いたら発狂するかもそれない。
この美しいひげに鍛えぬいた体、そしてレイア王女様付近衛兵という高い社会的地位、これだけそろっているのでカーンがもてないはずがない。
ところが殺伐とした影の仕事でいっぱいいっぱいのカーンには女っ気は全くなかったのだ。
ところが四年前、カーンの運命はまったく思いもしなかった方向に進みだす。
レイア姫は兄であるルーク王子ともに次期斎王候補として影の役割を理解しており、二人の護衛兵という立場は、目立たず自由度の高い黒い牙たちの隠れ蓑だった。
自由に抜け出しては影の仕事に励んでいたのだが、どうしてもしなければならない表の仕事もある。
建国祭の最終を飾る武闘大会、一般近衛問わず、さらには補給や衛生兵の部隊からも代表選手が出るそれに王女付近衛からも代表を出さねばならず、くじで負けたカーンが出ることになった。
適当なところで負けてお茶を濁そうとしていたカーン、たまたま2回戦3回戦と当った相手が達人でつい面白くて我を忘れた。
影の秘術を使えば間違いなくカーンが勝つのだが、純粋な剣技では相手の選手達も五分に渡り合える使い手でありヒートアップした心が静まったのは決勝戦で氷のような闘気を向けられた時。
結界で遮られ観客から離れた闘技場の中心、試合開始の合図からもう15分、向かい合った二人は全く動かない。
その間観客たちも凍り付いたように息をひそめて見守る。
ふと日が陰った一瞬に二人の立っていた位置が入れ替わる。
二人が交錯した刹那の時間、カーンは己の負けを悟った。
如何にして上手に負けるかなどと考えていた己はなんと未熟だったのだろう。
武人の勝敗は勝つか負けるかのみ。
準優勝のカーンは当然のように何も与えられずに医療所の一室に転がされていた。
立てず動けず、カーンは一人天井のシミを眺めていた。
どれくらい時間がたったのだろうか、誰も来ないはずの部屋に衣擦れの音。
目を閉じていたカーンの頬にやわらかい手が当てられる。
レイア姫だった。
名目上ではあるが対外的にカーンの仕えるレイア姫がここを訪れても不自然ではない。
だがカーンは影。
レイア姫の手は身動きできないカーンが知らず流していた悔し涙をなぞっていた。
「カーン、あなたを魅了します。受け入れなさい。そして私を愛しなさい」
何をばかなことをと抵抗しようとしたカーンは次の一言で止まる。
「次の大会で勝ちたければ受け入れなさい」
カーンはその誘惑に逆らえなかった。
そして柔らかいものがカーンの唇に押し当てられる。
「優勝して、私を妻に望むのです」
レイア姫が自分に思いなど寄せるはずがない。
だから理解してしまった。
姫は斎王に、つまりあの化け物になりたくないのだな、と。
斎王は人々の心の汚れを払うためその霊力をすべて使って神に祈る。
そして自身は魔力のみの闇に包まれる。
カーンは斎王の闇に少しだけ触れたことがある。
あの中にいた生き物が人であるはずがない。
レイア王女は次代の斎王候補の一人だった。
それからのカーンは密かに身分違いの恋に身を焦がす男になった、一応。
一応というのは、魅了の術がその程度だったから。
それにどうも直接の上司であるクリムゾン侯爵がそのすべてを知りながらカーンを泳がせていた感があったが、昨日の命令でそれがはっきりしたと確信した。
明らかに姫の計画を知った上でそれをつぶし、利用している。
そんなこんな昔のことなど思い出しながら、レイア姫にどう話を切り出そうかと考えながらカーンは王宮の持ち場につこうとしたが、鍛え抜かれた感覚はすれ違おうとした人物を不審者だと断じた。
本来ならば誰何するところを先に手が動く。
左手で危険物だと判断したものを剥ぎ取り右手で腰にさした剣を抜き不審者の首にあてて叫ぶ。
「何者だっ!」
カーンはそれが認識をかく乱するマジックアイテムだ、そんなものを身に着けるのは危険人物だと本能的に反応したのだが……。
……。
カーンに壁に押し付けられて剣を突き付けられているのは若い女性、驚きに口を開いて目を丸くしている。
繰り返す。
驚きに口を開いて目を丸くしている。
……。
つまりカーンはその女性の素顔を見て目を合わせている。
……。
霊力と魔力の妨害を排して相手の素顔を見るには、二つの力を相手と完全に同調せねばならない。
男女が顔を見合すのは赤子の時に母親の乳を吸うときと、愛する者同士が閨で肌を合わすときのみ。
素顔を見られるというのは非常に恥ずかしいことなのだ。
それをカーンは半ば無意識に力づくで強要した。
つまり日本で起こる場面に例えるならば、転んだ拍子に見知らぬ女の子の下着をずり下ろしてしまった、に近い。
非情にまずい。
相手によっては、いやこの場所に入れる身分であるならばカーンは処刑される可能性が極めて高い。
何とかせねばと思う前にカーンは初めて見る異性の顔に思考が停止してしまった。
「カナリー・チョコット、ミイシア王女様の教師として今日からここに勤めることになりました」
公爵家の名乗りを聞いて体は自動的にカナリ-から離れひざまずく。
視線がそのためにカナリーの顔から離れたためやっと謝罪の声が出せた。
「失礼いたしましたカナリー様」
もっと深く謝らねばと思いながらもそのレベルの謝罪しかでてこない。
「いえ、お勤めご苦労様です。迷い込んだわたくしがいけないのです。」
まれに霊力も魔力も少ない者が存在する。
だからその者たちように一般人と同様に顔を隠せる魔道具があり、カーンがむしり取った眼鏡がまさにそれだった。
魔力も霊力も放出していないカナリー嬢ならば、それを身に着けるのは当たり前のことだった。
非常に失礼なことをしてしまった。
公爵令嬢と自分の身分を考えれば処刑されても仕方がない。
カーンがおずおずと差し出した眼鏡をかけなおしたカナリー嬢は優雅に会釈すると何事もなかったように道を尋ねた。
「ところでミイシア様のお部屋はどちらでしょうか」
「それでしたら案内させていただきます。こちらへどうぞ」
カナリー嬢としても非常に恥ずかしかったのだろうが、いずれにせよとんでもない無礼を不問にしてくれたカナリー嬢に感謝した。
ならば自分も無かったことにするのみ。
ただ見てしまったカナリー嬢の顔は心に焼き付いてしまった。
カナリーを案内するカーンは後ろをしずしずと何事もなかったように歩くカナリーにほぼ100%の注意を向けて先導した。
ミイシア王女の護衛たちが警備している所まで来ると、カーンは彼らに一声かけてカナリーに一礼した。
「カナリー様を案内してきた、よろしく頼む。カナリー様、ここからは彼らが案内いたします」
カナリーを見送ったカーンは持ち場であるレイア姫の私室の最初の部屋に入り、入れ違いに別の兵士が出ていく。
王宮の中での専任護衛は一人で十分以上なのだ。
「カーン、入りなさい」
いくつもあるドアの中で一番奥のドア、カーンがまだ入ったことがない姫の寝室から声が聞こえた。
それが何を意味するのか分からないカーンではない。
公になれば姫ともども処刑される未来しか見えてこない事件が起ころうとしている。
頭の中で沸き起こる計算や打算、すべて無視してカーンはその部屋に入った。
朝の陽光に満たされているべき部屋は鎧戸で窓を厳重にふさがれて明かりは一本のろうそくのみが灯る。
薄い透き通った布一枚だけしか身に着けてない相手に問いかける。
「間に合わなかったのですか?」
「そう」
つまりカーンはレイア姫に、斎王になることが正式に決まったのですか? と尋ねたのだ。
そして返事はYes。
「もう斎王になる教育が始まっているの」
「それはいつ終わるのでしょうか」
「今日の日が落ちたら新しい日々が始まるわ」
会話として成り立っていないようだがそうではない。
レイア姫は斎王になる教育、つまり洗脳がもう始まったと言い、カーンはそれに対して姫の人格がなくなるのはいつだと問い返している。
その答えは今日の日が落ちるまで。
夜になるとレイア姫は別の何者かになる。
カーンに柔らかいものがまとわりつく。
その距離になってカーンは悟った。
「あなたでしたか」
「そう」
カーンはなぜか昨日の第一席は病に伏していた斎王ではなくこの姫だったと分かってしまった。
その確認にもYes。
ならばカーンに与えられた任務も全て知っているはず。
まとわりついたものを引きはがそうとしてそれがすごく華奢であることに気付いた。
そしてそれが細かく震えていることにも。