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階段の上り下りが大変だけれど、私は12階建てほどもある塔のてっぺんに住んでいる。
お城に空き部屋はたくさんあるんだけれどそんなところに住んでいるのは、かなたに王都を見下ろす景色がいいことよりも、地面から離れていていやな虫が寄り付かないから。
この世界にはエアコンがないしコンセントにつないでおくだけで蚊をやっつけることができる便利なものもない。
この郊外にある城で窓を開けて寝るとブ~ンなんて音を立てて敵がやってくるの。
もともとゴキちゃんは生息していないみたいだけど蚊やハエはこの世界にもいるのだ。
おっきなクワガタムシなんてうつらうつらしている時に顔に乗られたりなんてしたらウギャーだよ。
みんなは慣れているみたいだけど、文明人である私は我慢できない。
自室のある塔の最上階からたったったっと一気に階段を下りると城中がただならぬ喧騒に包まれていた。
大声を出して走り回っているのは家臣の3人だけだけど……。
私は大変だと叫んでいる執事のベン・ケイを呼び止めた。
「公爵様がたいへんだっ!」
「どうしたの?」
「公爵様が頭が痛いとおっしゃって、とにかく大変なのですっ!」
「私も手伝おっか、何をすればいいの?」
「姫様には構っていられないのです、とにかく一大事!」
一大事とか言いながら、三人ともさっきから走り回ってるだけだよね。
今まで風邪一つひいたことが無い公爵が頭痛を訴えたからもう大変ってのはわかるけど。
「ハンゾーは村長さんのところへ行ってお医者様へ使いを出してもらって。ベンは必要かもしれないから井戸から水を汲んでおいて。食事が原因かもしれないからローは公爵様の食べたものの確認ね」
とにかく私が指示を出したらやっとみんなまともに動き始めた。
ハンゾーから『大変だ』が伝染した村長さんはチョコット村から人を集め、そして彼らに命じて近隣から医者や薬師、神官にあやしげな祈祷師まで、とにかく頭痛を治せそうな人たちを手当たり次第にかき集めさせた。
村人を含めてあまりにも大層なんだけど理由はある。
当代の公爵、トーシュ・チョコットはまだ9才、もちろん独身。
つまり後継ぎがいない。
そして唯一の肉親である姉の私は女だから爵位継承権がない。
男女平等って単語はこの世界では聞いた事が無いのだ。
もし公爵様に何かあって男の血筋が絶えるとチョコット家は断絶。
そうなると家臣たちは路頭に迷い領民たちは……領民たちはどうなるんだろう? わかんね。
とにかくそんなわけで公爵様の枕元に医療関係者が蟻のように群がった。
ところで私に似ている公爵様は平成世界基準では紅顔の美少年なのよね、でも9才ってまだヒゲの生える年齢じゃないから『ヒゲサイコー』なこの世界的美的基準ではどうなんだろう。
ちなみにペッタンではないけどダイナマイトではない私はモブ扱いですが。
お医者様たちが来たので私はすることもないから何をするでもなくくだらないことを考えていた。
一人で何もしていないって時間が長く感じるのよね、実際にはそんなに時間は経ってなかったけど。
しばらくして公爵様の部屋に入りきれなかった女の人が私に声を掛けてきた。
どうやら、この地区の教会の一番偉い司教さまについてきたシスターらしい。
「お嬢様もせっかくですから健康診断いたしましょうか? ちょっと診させてください」
簡単に脈を診たり、口を開けて舌を出したり、なんか変な水晶玉みたいなのを押し当てられたり……。
そういえばいままで健康診断らしいものってしたことがなかったっけ、なんでだろ?
公爵様は月に一度、家臣でさえ年に一回は王宮から来たお医者様に見てもらってるんだけど、なぜか私は貴族院から送ってくる検診予定者の名簿に無いのよね。
とにかく私も簡単な診察を受けているうちに、公爵様を診ていたお医者様たちの見立てが一致して治療は済んだ。
なんとか大騒ぎは小一時間ほどで終わって集められた人々はほぼ帰って行った。
残っているのは集まった人たちの中で一番地位が高かった司教様とお付きのシスターだけ。
ぐっすり眠る公爵をシスターに任せ、私は司教様に別室に呼び出された。
机の上には2本の空き瓶が置かれてある。
そして司教様は手に持ったまだ口を開けていないボトルのラベルを指しておっしゃられた。
「このビリジアン伯爵領名産のお酒は口当たりが良いので有名ですが、アルコール度は高いのです。グラスに一杯も飲まれた公爵様は二日酔いでした」
えっ? ベジタリアン地方の野菜ジュースじゃないの? 誰? 間違えたのは。
「未成年の公爵様にお酒を贈るビリジアン伯爵様にも問題は有るかと思いますが、中身を確認せずに勧めるお嬢様に一番の問題が有ると思いますよ。幸いにして二日酔いで済みましたが、お酒は命を奪うことも有るのですよ……」
社会の教科書に載っていたフランシスコ・ザビエルそっくりのこの司教様は長~いお説教で有名なのだ。
「申し訳ありません、ベジタリアンの野菜ジュースをいただいたのだとばかり思って私が公爵様にお薦めしました」
「間違えてお酒を出したのですね、不注意でしたら次から気を付けるようにお願いします。ボトルに残っていた分は検査に使いましたが、残りのお酒は私のほうで神様に捧げさせていただきますからね」
「はい、お願いします」
司教様の怖い顔はすっごくいい笑顔になった。
私は残りのボトルを神への貢物として差し出すことで延々と続きそうなお説教から逃れられたらしい、なんとか。
瓶の中身の検査ってみんなで分けて飲んでたし、お供えした後はきっと司教様の胃で処分するんだ、たぶん。
一方公爵家を出た司教は珍しい酒が手に入ったとホクホク顔で家路についたが、もう少しで担当する地区教会に着こうという時、荷物を持たせていたお付のシスターに呼び止められた。
「司教様」
「なんだ?」
見つめあう二人、時が止る。
……。
残念ながらメロドラマのワンシーンのようにバックミュージックは聞こえてこない。
二人の唇が近づくこともなく時が止まったように見つめ合っているだけ。
シスターは肩にかけていた大きなバッグを凍りついたように動かない司教の肩に移した。
「ご苦労様でした、私のことは忘れてください」
司教は無言で踵を返す。
最初の歩みはからくり人形のようにぎこちなく、しかし自分が管轄する教会へ帰り着いたときにはいつもの人の好い司教様だった。
「ふぅ~公爵様が病気でなくて良かったわい。」
司教様は自室の飾り棚からお酒を取り出して天に掲げて神にささげ、お下がりとしてありがたくグラスに注いだ。
?
なにかおかしい。
透き通った琥珀色の液体眺めているときに何か不自然な違和感を感じたが、馥郁たる芳香が、もっと鮮烈な香りを期待したのだが一寸弱いか? 早く飲みたいという欲求がそれを無視させた。
この一口含んだ時の衝撃……期待した衝撃が無い。
いつもはこれで終わりにするが、また注ぎなおしてついもう一口……おかしい、いったい自分はなにをこのいつもの酒にワクワクしていたのだろう?
栓をしたがやはり気になって我慢できずにもう一口。
ボトルは司教様の意に反してすぐ空になり……満足できない。
「おっと全部空けてしまった。ビリジアンの酒はもっとうまいはずなんだが……おや? これはいつもの安酒!!……いや、自分の棚から出したいつもの寝酒だからビリジアンの銘酒であるわけがない……」
瞬間、碧の液体がのどを通ったときの衝撃が蘇る。
思い出した!
自分はビリジアン伯爵領の神の酒と言われるほどの銘酒をもらって帰ったはずが、なぜだ!
彼は司教の地位に見習いの小僧から実力で上った聖職者だった。
並以上の精神修業を積んでいた。
封じられた記憶がよみがえってくる。
今朝、公爵家の使いに呼び出されて城に向かう途中……女が目の前に現れ……あれは確か隣村の鍛冶屋の娘……なぜに。
彼は他者の精神に干渉する魔法の存在を知っていた。
そしてそんな危険な術をどんな者たちが使用するのかも知っていた。
もちろん、彼は司教の地位に着くだけの賢さを持っていた。
何もなかった、今日も平和だ。
「うん、少し酔ったようだ。公爵様がご無事でよかった」
まるで誰かに聞かせるように司教様は大きくつぶやいて自室に入り、その日は疲れたと休日にした。
神に仕える身であっても、世の中には触れてはいけないものが有る。
彼は自分が無事に帰れてよかったと神に感謝した。
司教を見送ったシスターは周囲に人の気配が無いのを再度確認して木陰で着替える。
シスターはどこにでもいる村娘のと変わっていた。
一瞬ぼへっと魂が抜けたような表情になって……。
「え? わたし、何してたんだろう……って、やだ、もうこんな時間」
彼女はそのまま家路についたが、自分の足元から影が反対方向に去って行ったことに気がつかなかった。
シスター役の少女を操っていたのは、この国を守る影たちの中でも情報収集にかけては一番の腕利きと目されるトビー・カトーだった。
情報収集や警戒は目と呼ばれる者たちが魔法で広域哨戒を行っていたが現地で直接調査するのはトビーたちの役割である。
先頃王都近くで起こった夜魔事件の調査に黒い牙から報告を受けた影の上層部が彼をチョコット公爵家に送り込んだのだった。
調査の結果は上層部の予想通りだった。
チョコット城は平和で公爵様および姉君様、そして家臣領民に至るまで夜魔を一撃で倒せるような異常な魔力霊力を有する者は存在しなかった。
ただしその実力を隠していると思われる者が一名、ほほ間違いなくその者があの斬撃を放ったのだろう。
そんな報告書を書き上げて調査結果を記録した水晶玉と共に提出してトビーは自室に戻った。
トビーたち影は下っ端でも中級貴族並の衣食住が保障されている。
トビーの部屋もそれなりに高級な家具が揃えられていた。
部屋の主の性格なのかきれいに片づけられた部屋には人影はなく、いや影だけがうごめいていた。
その影がテーブルの上に這い上がり、黒い手の形が実体をもって置かれたボトルの栓を抜いて曇り一つないグラスに緑の液体を注ぎこむ。
「一度でいいからビリジアンの銘酒、飲んでみたかったんだよなぁ」
世の中にはお金を摘んでも手に入らない物がある。
ビリジアンの銘酒は生産量が少なく、愛好家ががっちりと流通経路を閉ざしているためによほどのことがないとお金をいくら積み上げても手に入れることは難しい。
それが偶然手に入った。
おぉ……。
上半身に厚みができた影は目を閉じて、見た目に分かららないけど目はあるらしい、神に感謝して独特の香りを楽しみ口らしき部分へ流し込む。
「うげっ! なんじゃこりゃぁ!」
ラベルにはしっかりとベジタリアン野菜ジュースの文字。
どこで間違えた?
そんなはずはない、もしかして誰かに思考操作の術を掛けられたのか!
彼の疑念は長く続かなかった。
すぐに魔法での特級召集命令が聞こえてきたのだから。
もし酒を飲んで酔いでもしていれば大変な事態になっていたところだ。
彼の上司は会議で酒の匂いなどさせたら死刑にされかねない恐ろしい貴族様たちだったから。
トビーが影だけなのは、些細なことで怒った上司が彼の頭上から巨大な岩の塊を落としたためだ。
つぶされて平面になっても平然として生きているトビーも相当なものだけど。