コーヒー
前回の更新からすこし時間が空いてしまった。
べつに急かされて書いているわけではないけれど、連載という形式をとっていて、かつ連載を続ける意思がある以上、ある一定のペースで書き続けるべきなのではないかと思う。反省である。
活動報告かなにかに書いたが、新社会人となったばかりのぼくは慣れてきたといってもまだまだ忙しい。そして、そんな生活のなかで物を書くということは、なまじ単純作業ではないぶんよりいっそう難しい。
だが同時に、忙しいことは事実だけれど、新作を書きたいと(物を書くことを続けたいと)思っているのなら、忙しいなかでも物を書くべきなのではないだろうか。忙しいなかでも物を書けるようになるべきなのではないだろうか、という思いもある。
この食エッセイを書こうと思いあたった理由として、執筆速度の向上、および執筆の習慣化という目的も、実はあったりする。まずは後者から意識していきたい。
そんなわけで、夕食後にしてすでに二三時(いつもこの時間ということではない、今日は仕事後に用事があっただけだ)を回っている状況において、このように書きはじめたわけである。
さて、今日はなにについて書こう。
第一回のトマト、第二回のかぼちゃコロッケというのは(これもどこかで書いたかもしれないが)、食エッセイを書こうと思い立ったときにすでに書くネタとして頭にあったものだ。
書くまえの時点ではぼく自身、どうしてトマトなんだ、どうしてかぼちゃコロッケなんだと感じていたが、いざ書いてみると、思いもよらなかったこだわり(トマト回)や、思い出(かぼちゃコロッケ回)があったことに気づき、驚く反面、自分のことながら面白い。
などという駄文を量産しつつ、改めて「さてどうするか」と考えながらコーヒーを口に運んだとき、雷に打たれたかのごとくの閃きがぼくの脳内に走った(いうまでもなく、ぼくは雷に打たれたことはない。しかしながら、ぼくの友人には雷を打たれたひとがいる。外傷はなく、医者には「いろいろな理由できみは奇跡的に生きている」といわれたらしい)。
「コーヒーだ!」
ぼくは叫んだ。
……雷に打たれた友人の話で行間が開いてしまったため、「なんの話だったっけ」と思われた読者の方もいるだろう。
注釈をつけておくと、今回の食エッセイのネタについて悩んでいたぼくがコーヒーに口をつけたとき、雷に打たれたような衝撃を受けた、という話だった。しかしここでいう「雷に打たれた」というのはあくまで比喩の一種であり、ぼくは雷に打たれたことはない。だがぼくの友人には雷に打たれたひとがいて――話を戻そう。
「コーヒーだ!」
ぼくは叫んだ。夜〇時まえに突然叫ぶなんて、雷には打たれたか、それとも頭を打ったか。残念ながら、どちらもはずれである。
コーヒーだ。
コーヒーなのだ。
なぜコーヒーのことを忘れていたのだろう。それはおそらくコーヒーという存在が、ぼくの日常に、あたりまえのように溶け込んでいたからだ。あたかも、コーヒーと交わるクリープのように。
クリープと書いたものの、ぼくは基本ブラック党だ。ただし基本と書いたように、例外もある。ぼくの場合、例外となるのはインスタントコーヒーのときだ。インスタントコーヒーには牛乳も入れるし砂糖も入れる。しかし、ドリップコーヒーには入れない。
思い起こしてみれば、それ以外にもいくつかマイルールがあることに気づく。たとえば、ぼくにはドリップコーヒー専用のマイカップがある。インスタントコーヒーのときにはそれを使うことはなく、ドリップコーヒーのときにだけ使う。
と、いろいろとこだわりがあるようで、すべてを徹底しているかというとそうではない。コーヒー通の方々はコーヒーを飲む直前にミルで豆を挽くようだが、ぼくがそこまではやることはなく、豆を挽くのはせいぜい一週間に一回程度だ。
もちろん挽きたてが美味しいという意見には大いに賛同するが、残念ながらぼくは面倒くさがり屋だ。飲む直前に毎回豆を挽くという手間と、それによる味の向上を自分のなかで比較したところ、一週間に一度が妥当だという結論に至った次第である。
いまやそんな絶妙な関係を築くことができているぼくとコーヒーが出会ったのはいったい何年まえのことだっただろうか。
正直なところ、具体的に何年まえ、というのは覚えていない。
だからといって物心つくころから一緒にいた、ということもなく、おそらく大学生になったころからだろうと予想する。
もちろん中高生くらいからコーヒーを飲むことはあったと思うが、それはドリップコーヒーではなく、インスタントコーヒーだったはずだ。我が家では毎朝、紅茶かコーヒーを飲むのだが(朝はパンが普通だった)ぼくは圧倒的にコーヒー派だった。
ゆえに、大学生になり自由になったぼくが、ドリップコーヒーを飲みはじめるという行動はうなずけるものだろう。
それにくわえ、もうひとつ理由があげられる。
それは、コーヒーと読書の親和性の高さだ。読書ではなく、インドア趣味全般といいかえてもいいかもしれない。
つまり、読書をするとき、ゲームをするとき、テレビを観るとき、そしてもちろん物を書くとき、コーヒーというものは比類なき力強さを持つ。
理由は……なんだろう、「親和性の高さ」などといったものの、それを裏付ける理由はわからない。たしかに試験勉強においてコーヒーという相棒は鉄板だが、べつにインドア趣味において必ずコーヒーでなければならない理由はないように思える。
だが結果だけ見れば、コーヒーとインドア趣味、もといインドア生活の関係性は明白だ。特に院卒のひとはほぼ一〇〇パーセント、コーヒー党であり、なかには「大学院に進んでコーヒーを好むようになった」というひともいる。なぜ大学院に進むとコーヒー党になるのか。研究のため部屋にこもっているからだと、ぼくは考える。
単純に味の問題なのだろうか。
インドア趣味を好むひとは、コーヒーの味が好きなのだろうか。ときにインターネット上において「ブラックを飲むやつってカッコつけだろ」とも揶揄されるコーヒーの味が好きなのだろうか。
ちなみにぼくは、味が好きである。まったくもって不味いとは思わない。だが、不味いというひとがいるのもわからなくもない。思うにこれは、あるものに似ていると思う。
それは、ビールだ。
ビールをはじめて飲んだとき、ぼくはとても不味いと思った(というか、はじめての一口で美味しいと感じるひとはいるのだろうか)。「運動をしてシャワーを浴びたあと、キンキンに冷やしたビールを飲むと美味い」なんていうけれど、そんな状況ならビールでなくても美味しいはずだ、なんて思っていたし、むしろそういう極端な状況下でないと美味しく感じることができないビールは不味いものだ、とも思っていた。
しかし、一、二年まえくらいからだろうか。
ビールが以前ほど不味いと感じなくなったのだ。むしろ、わりとあり。そんな感じだ。これはおそらく、ぼくがビールの味(苦味)をうま味の一種に変換できるようになったからだと分析する。つまり、慣れてきたということだ。
「なんだ、慣れか」と思うかもしれないが、これはなにについてもいえることである。たとえば小さいころには苦くて食べられなかったピーマンを、いまは美味しいと感じる、美味しいとまではいかなくとも、普通に食べることができるひとは多いのではないだろうか。これも、慣れだ。苦味をうま味に変換することができた一例だということができる。
ようするに、コーヒーを美味しくないと思うひとはコーヒーの味に慣れていないだけだと思う。もしブラックコーヒーを飲んでカッコつけたいと思うひとがいれば、とりあえず一〇杯、飲んでみよう。結果は保障しないが。
ビールという単語が出てきたので、最後にひとつ、ぼくが好きなコーヒーを飲むタイミングについて説明して、この話を終えたい。
ぼくの好きな「コーヒーでホッと一息なシチュエーション」(コーナー名)……それは、飲み会のあとだ。
飲み会のあと、つまりアルコールの味が口内に残る状態で、熱いコーヒーを飲むのだ。飲み会のあとだから、外は暗い。そう、いい忘れていたが、外で飲むのが特にオススメだ。コンビニコーヒーのめざましい発展がとても嬉しい。
人気も明かりもすくない時間帯に、コンビニの煌々とした光を背にうけながら、コーヒーをすするのだ。
空を見上げると、星が瞬いている。
ときおり、自動車が通り過ぎていく。
涼しげな夜気が、アルコールで火照った体に心地よい。
体に染みいる熱いコーヒーは、夢見心地のぼくをすこしずつ、現実に引き戻す。
さあ、帰ろう。
ふとこぼれたその吐息は、世界で一番孤独だった。