かぼちゃコロッケ
読者さんからのコメントで、この「一人暮らしの夜に」というタイトル、かの伝説的食漫画「孤独のグルメ」と通じるものがあるということに気づいた。
もちろんぼくが意図してつけたわけではない。悩むこともなく、すんなりと思い浮かんだものだ。そのわりにはぼく自身、このタイトルをそれなりに気に入っており、もしかしたらその源流には「食=孤独」のイメージがあるのかもしれない。
ぼくの友人に「ひとりでは外食ができない」というひとがいる。理由を訊けば、「美味しさをわかちあうひとがいないと寂しい」とのことだ。
なるほど、とは思う。
そういう考え方があるのか、とも思う。
しかしぼくはひとりで外食もできるし、それが寂しいことだとは思わない(さらにいえば寂しいことが悪いことだとも思わない)。
と、ここまで引っ張っておきながら、かつなかなか興味深いテーマだとは思うが、べつにぼくはここでそんな小難しいことを書きたいわけではない。
たんに一品?をとりあげて、それについて思うことをつらつらと書きたい。書いているうちに「なんか腹減ってきたな」とか、「あー、今度またこれ食べたいな」とか、そういうふうに思いたい。それで食べたものについてまた書きたい。マジ永久機関。
そんなこんなで(便利な接続語だと思う)、今回のテーマは「かぼちゃコロッケ」だ。
まず確認だが、みなさんはかぼちゃコロッケと聞いて、「ああ、あれね」と思い浮かべることはできるだろうが。食べたことはあるだろうか。
ぼくとかぼちゃコロッケの出会いは、大戸屋だった(伏字のほうがいいのでしょうか)。地方にはあるところとないところがあるらしいので大戸屋について軽く解説をしておくと、大戸屋はチェーンの定食屋さんだ。値段は八〇〇円前後で、ご飯は大盛無料、雑穀米への変更もただ。そんな感じだ(イメージを上手に伝えられた自信はあまりない)。
で、ここの看板メニューが「大戸屋ランチ」だ。六八〇円(当時)というリーズナブルな値段設定でありながら、唐揚げ、かぼちゃコロッケ、目玉焼き、キャベツがついており、学生、社会人全員に嬉しいお得なセットである。
ぼくも高校時代にはじまり大学生のあいだもよくお世話になっていたわけだが、それ以外でかぼちゃコロッケを食べる場面はなかった。
きつね色の衣、端を刺すと感じるずっしりとした重み、そして断面にところせましと詰め込まれた、黄金と称すにはあまりにも素朴な黄色いタネ。衣を突き破ると舌のうえにこぼれてくるそれはほのかに甘く、ほっとついた息は優しい。
そんな心あたたまる、どこか懐かしいかぼちゃコロッケは、大戸屋でしか味わえなかったのだ。大戸屋といえばかぼちゃコロッケ、かぼちゃコロッケといえば大戸屋。これはもはやぼくにとって絶対的な命題といっても過言ではなかった。
しかしあるとき、この命題を揺るがす大事件が起こった。
大戸屋からかぼちゃコロッケが消えたのだ。大戸屋ランチは消えなかったが、そのかぼちゃコロッケが普通のコロッケになってしまったのだ。
そのことを知らずに(気づかずに)いつもどおり大戸屋ランチを頼み、かぼちゃコロッケに擬態したコロッケを口に入れたぼくの気持ちは、筆舌に尽くしがたいものだった。
……なんというか、物足りない。
そんなふうにぼくは感じたように思う。
かぼちゃコロッケにはあった重厚感というか、「重さ」がないのだ。そして、甘さもない。ソースの味だけしかない。なんと頼りないことか。
かぼちゃコロッケはちがった。かぼちゃ特有の、粘度のある食べ応えがあった。ソースのコクとかぼちゃの甘さが、口のなかでずっしりとした存在感をかもしだしていた。
断っておきたいのは、かぼちゃコロッケは自分からそのように主張することはないということだ。かぼちゃコロッケは、ただそこにいた。愚かなぼくは失ってから気づいたのだ、かぼちゃコロッケの重要性に。ひとりで食べることは寂しくない。けど、かぼちゃコロッケのない口のなかは、寂しかった。
いま思えば、大戸屋ランチは絶妙なバランスで構成されていた。
攻めの唐揚げ。
置きのかぼちゃコロッケ。
そして、遊びの目玉焼き(目玉焼きは唐揚げと食べてもよし、かぼちゃコロッケと食べてもよし、ごはんに乗せてもよしと、なににでもあう器用なやつだった)。
そんな隙のないトリオからかぼちゃコロッケが抜けた穴は大きかった。
それ以来、ぼくが大戸屋に行くことはなくなった。
べつに、大戸屋にダメージを与えようと思ったのではない。大戸屋が嫌いになったわけではない。ぼくにとって、これはいわば弔い合戦だった。かぼちゃコロッケのなくなった世界をそう簡単に受け入れることなど、ぼくにはできなかった。
新たに入ってきたじゃがいもコロッケには申し訳ないことをしたかもしれない。あいつだって、かぼちゃコロッケ先輩のあとを必死に追いかけようとしていたのに。けど、ダメなんだ。かぼちゃコロッケ先輩の存在は、あまりに大きすぎた。
そしてどうやら、同じように感じていたひとはぼくだけじゃなかったらしい。
なんと、大戸屋にかぼちゃコロッケ先輩が戻ってきたのだ。
久しぶりに出会ったかぼちゃコロッケ先輩は、すこし小めの、俵型になっていた。
「すこし痩せたね」
と、ぼくは笑いながらいった。
「そうかな? でも、中身はかわらないぜ」
と、かぼちゃコロッケ先輩はいった。
「……うん、たしかにそうだ」
久しぶりに食べたかぼちゃコロッケは、いつもよりしょっぱかった。
……えー(我に返った)、つまりぼくとかぼちゃコロッケの出会いは大戸屋にはじまり、大戸屋のなかだけの関係だったわけだが、社会人になり一人暮らしをはじめ、ぼくは新たな発見をした。
スーパーの総菜コーナーでかぼちゃコロッケが売っているのだ!
これにはびっくりした。すぐに買ってその日の夕飯にした。大戸屋のものと比べると、一回りほど小さい。そしてもちろん揚げたてではない。
しかし、味はかぼちゃコロッケそのものだった。
なにを当たり前のことを、と思うかもしれない。
けど、それがかぼちゃコロッケなのだ。
スーパーで一〇〇円で買えても、揚げたてでなくても。
ほのかに甘くて、ずっしりとした存在感があって、どこか落ち着ける味。
ぼくはもう、この味を離さない。