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ギフト

作者: フッキー

ギフトとは、ドイツ語で「毒」という意味になるそうです。

深い言葉だなと思いました。

 毒ケムリを吸うと髪の毛がだんだん白くなる。

 少しだけなら大丈夫。だけど、吸い過ぎると死んでしまう。それなのに、完全に髪が白くなると、毒ケムリを吸わなければ苦しむからだになってしまう。

 わたしの髪はまっ白だ。おばあさんのような長い髪。ひと昔まえの人たちは恥ずかしいと思ったから長く伸ばすことが嫌だったらしい。逆にいまは毛染めをしてもきりがないからと、白いままでいる人たちばかりとなっている。

 もう冬が近い。学校の屋上にいると、制服では少しはだ寒い。

 今日ももくもくと、どす黒い色をした毒ケムリが山間から伸びている。ケムリの根本には、この世のどの生物や機械にも似ていない大きな物体がある。毒ケムリを吐くから、長い筒なんてないのにエントツと呼ばれている。

 姿が似ていないせいか生態も似ていない。いったい何なのわかっていない。

 だから、毒ケムリは物理法則どおりに動かない。ただの煙のように昇らないで、バネのようなとぐろを巻きながら空へと上がっていた。

「お、今日もきれいにかがやいてるね!」

 かしゃりと音がした。

 振り向くとカメラを持った同い年の男の子がいた。

 白い髪は短く切りそろえられ、工場で働くためのような作業着は薄黒く汚れている。笑っているようなあざ笑っているような、どちらともつかない男の子らしい表情がわたしは苦手だった。

「髪の毛、きみも照って光ってるけど」

「よっしゃ、シャッターチャンス!」

 かしゃり、かしゃりと夢中に撮り続けている。

「どうして撮るの?」

「うわっ、そーいう顔もいいねっ! すばらしい!」

 彼をかり立てるものを理解する気はないし、一方的に撮り続けられるのは気分がわるい。

 両の手のひらで顔をおおうと、ぴたりとシャッター音が止んだ。

「どうしたの。撮らないの?」

「そこまでイヤそーにせんでも……」

「撮っていいよ」

「い、いや。もーいいです」

 いいと言いながら、これで最後といわんばかりにかしゃり音がした。

 指の隙間から彼の様子をうかがうと、カメラを片手でぶらぶらさせていた。とてもへらへらしていて、誠意をかけらも感じられない。

「明日、いつもどうり午後からだから」

「…………」

「なんか言ってよ。まさか、泣いてないよね?」

「なんで泣くの?」

「女の子が手で顔ふさいでるんで。まじで泣いてない?」

「泣いてない」

「あー、良かった。あせったわ」

 彼を意識するだけでうんざりしてくる。無視しようとすると、自然と彼の後ろにある、とある建物が目に入ってきた。

 山とは反対の海側。遠くには港があって、少し手前にはビルが建ちならぶ。むかしは夜景がきれいで大きな都市だったのだけれど、今はひときわおかしな一つの建物によって風景が様変わりしていた。

 真っ黒のドーム。

 野球場なんかより、何倍も大きく山のような形をしたドーム。

 あの中には、髪の黒い人たちが住んでいた。



 お母さんはいつも空が暗くなり、毒ケムリの黒が闇にまぎれてから帰ってきた。

 夕ご飯を作るのはお母さんの役目で、わたしはいつもお腹を空かせて待っていることになっていた。少なくとも、お母さんはそう思っていた。

 外の人間は、ドームに逃げた人たちを嫌っている。

 ドームには限界があったから、中に住める人はドームが出来たときに決められた。

 お金をたくさんもっていたり、頭が良いと世間から認められた人たちだけしかドームへは入れなかった。もう何十年も昔のはなしだけれど、外で暮らしている人たちは自分のことのように恨みを持ち続けている。

 だからドームの中の人たちが助けようとしてくれていることを無視していた。

 必要な栄養をしっかりと取れる食品の配給だって行われているのに、代わりに山に生える変わった植物を食べている。

 その植物はお米に似ていて、味もほとんど同じなのにお米より早く育つし長持ちする。

 動物に与えると、どのエサよりも喜んで欲しがった。毒ケムリによって生まれたものだって誰もが気づいているけれど、毒ケムリを吸わなければ苦しむ体なのだからと遠慮せずに食べている。

 お母さんの料理はおいしかった。いろんな食糧を手に入れるのはむずかしいのに、毎日が違う献立で飽きることもなかった。

 わたしがもっと素直な子だったら、母さんの帰りを喜んで待つことができたのかもしれない。お母さんの作る料理が、毒ケムリで汚染されたものだというよけいな知識を仕入れるような子供じゃなかったら、もっと楽しくいられたのだと思う。



 外で暮らす子供たちは、もう学校へ通っていない。勉強を教えられる大人が塾のようなものを開いてくれたりしていたけれど、わたしには簡単すぎて退屈だった。

 子供は一日一時間は外に出て、毒ケムリを吸わなければいけない。

 大人たちから怒られるから、嫌でも近所で暮らす同じくらいの歳の子たちで集まって遊んだり探検したりする。かつての学校施設は、ほとんど廃墟となっていた。誰もいないはずの場所だから、かえって何かがいるという噂が広まったのかもしれない。

 暇を持てあましていたから、誰かが行こうと言い出した。

 そのときには噂が大きくなっていて、ドームの中から来た人たちが秘密の実験を行っていることになっていた。迷い込んだ外の人間は連れ去れて解剖されてしまう。ほぼ全員怖がってはいたけど、興味も持っていた。

 学校の中は誰も来ていないはずなのに、埃も汚れもほとんどなかった。気づいていたのはたぶんわたしだけで、一緒にいた子たちはお化け屋敷に来たようにはしゃいでいるだけだった。

 噂にはすべての教室を見て回るというルールも付け加えられていた。わたしたちは素直に守っていた。

 職員室や保健室はすんなり見られた。そのまま二階、三階の教室も確認すると、誰もいなかった。だけど、四階にさしかかったときにあきらかな違和感があった。

「きゃはははははははっ」

 わたし以外はすぐに逃げ出した。

 聞こえてきたのは子供の声だった。学校にいる幽霊は子供の場合が多いことを、逃げた子たちと一緒に古いマンガを呼んで知っていた。わたしはそれでも幽霊なんて非現実的なものがいるはずがないと感じて、奥へと進んでいった。

 実験に使われてもいいから、ドームの中へ行きたいという願望があったのかもしれない。声は四階の教室から聞こえてきていて、しかも一人だけではなかった。

 本当に幽霊だとしたらたくさんいることになる。万が一のばあい逃げられないよねと思っていた時点で、わたしは引き返すことを考えていなかった。

 だから、緊張したけどドアを開けた。

「おや、いらっしゃい。よく来たね」

 全身をおおい隠す防護服を着た人が、そこにいた。

 わたしは、実験に使われるのだと観念した。



「あたし、ジェットがあるから来てあげてるの。先生が、家まで迎えにくるのよ」

 車椅子に乗った人を、わたしは初めて見た。

 彼女は、自分のことをレジェンドレアだと言っていた。毒ケムリを吸った母体からは、障害を持った子供はまず生まれてこないらしい。それでも生まれてきたのだから、伝説的にすごいのだと鼻息を荒くしていた。歩けないのに、よく喋る子だった。

 教室には、その子のほかにも子供が十人ぐらいいた。みんな、わたしのような興味を持って学校へ来たみたいだった。どの子も車椅子と同じくらい特徴的で、近所にいる子供たちより魅力的だとわたしは感じた。

 防護服の人は先生と呼ばれていた。警戒していたわたしを優しげになだめて、とりあえず座っていればいいと空いた席に案内した。そのあと、何かを取りに外へ出て、しばらくすると戻ってきた。

「次から、これを持ってきてくれないかな」

 長く四角い、小さなブロック。

 琥珀色が透けていてとてもきれいなのに、何をしても傷一つつかなくて頑丈だった。他の子たちも持っていたから何なのかと聞いてみると、学校の生徒になった証だと言ってお揃いのブロックを見せてくれた。

 なんだか、特別なものを授かったような気がした。自慢できる誰かに見せたくなったけど、わたしは他の子供たちに知られたくないとも思った。学校はわたしだけの特別な場所にしたかったから、お母さんにも教えなかった。

 黙っていても、意外にばれないものだった。それでも隠し事をしている後ろめたさから近所の子供たちとは疎遠になって、わたしは学校にだけ通うようになった。

「エントツのことを、私たちはオンコスと呼んでいます。オンコスは五十年ほど前に、この地球上へ現れました。同時多発的に世界中で確認され、当初は宇宙から飛来したものだといわれていました」

 先生はわたしが知らなかったことを、いっぱい教えてくれた。

 ドームの中の人たちは、毒ケムリを消そうとしていたことを初めて知った。これまでにも何度も何度も試行錯誤を繰り返したみたいで、爆撃してぶっ壊れたエントツの映像を見せてくれたけれど、七日後には元通りになっている映像も見せられてがっかりした。

 白い髪を治してくれる薬を作っていることもはじめて知った。先生はいつできるかわからないと言ったけれど、できたときのためにも毒ケムリはあまり吸わないほうがいいとわたしは思った。

 試験もあった。先生は試験が辛いものだと言っていたけれど、わたしや一緒に来ていた子たちはよろこんで競い合った。みんないつも近い点数で、一度全員が満点を取ったときは、あまりにもうまくできすぎていて大笑いしてしまった。

 先生が教えてくれた遊びにも夢中になった。飛行機にも乗せてもらって、遠くの街を眺めることもできた。そこの近くにもエントツがあってがっかりしたけど、わたしが暮らす街と同じように、ドームも近くに建てられていた。

 しばらくして、進級祝いだからとブレザーの制服を貰った。みんなは家で着て学校へ来ていたけど、わたしはお母さんに黙っていたから学校に行ってから着替えていた。いつまでもこの時間が続くと思って、終わりが来るなんて考えもしなかった。

「みんな、ちょっとお話があるんだ」

 そんなある日のことだった。

「僕は、もうここへ来られなくなった。でも安心してほしい。代わりのシステムが来るんだ。そいつはまだまだ性能が低いけど、僕よりはずっと優秀になれる素質がある。だから、みんなで支えてやってほしいんだ」

 理由を聞いても、その時はよくわからなかった。

 代わりのシステムが引き継いでくれる。その意味を理解したのは、実際にそのシステムがやってきてからだった。

 先生のかわりは機械だった。

 黒板はモニターになって、教科書はタブレットになった。給食は遠隔操作された飛行機が運んでくるようになって、質問に答えるだけの人工知能が勉強を教えてくれるようになった。

 人工知能には、学習能力があるみたいだった。だけど、先生にできたことを人工知能はほとんどできなかった。

 一週間に一度だけ給食についてきたデザートはなくなった。それはまだ耐えられたけど、離島に住んでいた車椅子を迎えにいけなかったのには、腹が立って怒ってしまった。

 それでもドームの中の情報はある程度知っているみたいで、質問すればたいていの事は答えてくれた。

「ねえ、先生はどうなったの?」

 だけど、絶対に答えてくれないものもあった。

 ひとり、ふたりと、しだいに学校に来なくなった。

 今でもほぼ毎日のように学校へ通っているのは、わたしだけだ。

 もう誰も薬を作っていることなんて信じていない気がする。その気持ちを裏付けるように、みんなは学校へ来るかわりに別の場所へと行っている。

 そこは、外へ暮らす大人たちが集まる場所だった。かつては都市に集まって仕事をしたように、今の大人たちも同じようなかたちで集まっている。

 毒ケムリを吐く、エントツがある場所に。



 3LDKのリビングは意外と広い。

 思いたって朝っぱらから掃除をしてみたら、ちょっと驚くぐらいホコリがたまっていた。中心に置いた丸テーブルの、丈の短い脚を拭いてみた。すると黒い汚れが少しついて嫌になった。窓を開けることもあるせいで、毒ケムリは家の中にまで入り込んでいた。

 時計を見ると、そろそろな時間だった。ベランダへと近づくと、道路に作業着すがたの集団が歩いているのが見えていた。

 彼らは、エントツの掃除に向かっている。

 エントツは毒ケムリを吐くと、老廃物のような汚れをためる。その汚れがたまりつづけると、毒ケムリはさらに勢いを増す。ゴミがつまって壊れるようなことはなく、逆に調子が良くなってしまうその生態は、ドームの中にいる人たちもまだよくわかっていないらしい。

 誰がはじめたのか知らないけれど、外に生きる人たちはエントツを掃除すれば毒ケムリの勢いを抑えられることを知った。毒ケムリを吸いすぎれば死んでしまうから、ほとんどの大人は掃除という作業に毎日でかけている。

 わたしは人工知能に、掃除ロボットを作れないのか聞いてみたことがある。外の人がドームの中に住む人たちを嫌うのは、毒ケムリに対して何もしないと思われているからだ。すると人工知能は、機械では汚れを取ることができないと答えた。エントツの汚れは、生き物が触れなければ取ることができないと。

 そういえば、お母さんの手のひらはいつも黒く汚れていた。それが汚れを取ることだとしたら納得できたから、人工知能の答えを受け入れられたのかもしれない。

 集団はもう遠くに見えて小さくなっている。

 ふと、昨日のカメラを持った男の子のことを思い出した。すぐに忘れようと振りはらう。わたしはむかしの芸能人みたいに、地味目の外着に着替えて、毒ケムリを吸うために家を出た。



 カメラの男の子が現れたのは、ここ一ヶ月ほどのことだった。

 わたしだけの城みたいになっていた学校に、彼は突然乱入してきた。鍵をかけてはいなかったし、そもそも誰でも入っていい場所ではあったけれど、男の子の行動はわたしにとって許しがたいものだった。

 男の子はひとしきり学校を歩き回り、感心した様子をみせていた。

 ドームの人たちに連れ去れて実験されるという噂はまだ生きていて、男の子は学校を恐い場所だと思いこんでいたらしい。そんなことはなかったと友達に伝えると息巻いた。カメラ男子に似たような連中に占拠された学校を想像しただけで、明日が来るのが嫌になるくらいの絶望してしまった。わたしが必死なって止めるようにお願いすると、カメラ男子は意外とすんなり受け入れた。

 それからというもの、彼はわたしを待ち伏せするように学校にいた。連日必ずいるのものだから、うんざりするから来ないでくれとはっきり言ってしまった。でも、その次の日もへらへらとしながら現れた。

 今日も彼は待ちかまえていたに違いない。

 カメラ男子は最近、頼んでもいないのにわたしをエントツ掃除に誘うようになった。すぐに断ったけど、しつこく何度もくる。いい加減にしてと怒っても、昨日のようにひかえめな形に変わるだけで止めようとしない。

 もう彼が学校にいると思うだけで気後れする。

 あんなののせいで学校へ通えなくなるのは嫌だった。本当に嫌だったけど、一度行かなかったら楽になった。

 だから、たまには休みだと思ってサボる日も作ることにした。

 この町の人たちは、ほぼすべてエントツの掃除へ出向いている。この時間帯は、エントツ掃除をやらない人間をとがめる大人がほとんどいないことになる。裏付けがあるに等しいから、鬱屈した気分を晴らしてくれる開放感があるような気がした。

 公園に子供の姿も見あたらない。ベンチに腰をかけると、公園は高台にあるからか、ドームがよく見わたせた。

 ドームの内側には、環境に合わせて作られた新しい街がある。宇宙で人間が暮らすために開発された技術が使われていて、密閉された中でも完璧に自然を再現して制御できているみたいだった。

 それだけ科学が発達しているのに、毒ケムリを消すことはまだできていない。

 まじめに考えてしまうと、もうダメなんじゃないのかなと思ってしまいそうになる。

 希望なんて実はない。はっきり聞いたことはないけれど、エントツ掃除に行っている人たちは、きっとそれが事実なんだと受け入れている。期待なんて少しも持っていないから、寿命が縮むことを知りながらも毒ケムリの近くへ赴いている。

 わたしはもう、掃除に行っておかしくはない歳だ。だからカメラの男子はわたしを誘ったんだろう。おかしなことをしている奴を、親切に正しい道へ案内してくれている。その案内を素直に喜べないわたしは間違っている。

「また……明日も来るのかな」

 ため息を吐いた。一緒に魂まで抜けて行ってしまいそうなくらい、長く深かった。

 本当に抜けてくれないかな。ふとそんなことを思っていると、背後から声が聞こえたような気がした。

 だれか来たのかもしれない。わたしは、確認するためだけに振り返った。

 すると、二つの生き物がいた。



 どうして生き物だと思ったのだろう。

 片方は芝の野良犬だった。白い毛をしているけれど、最初からそういう毛皮だったように見えるから犬をうらやましく感じることがある。犬は完全に生き方の違う生物だから、別の何かだと思えてもおかしくはない。

 だけど、もう一つは人間だった。

 男だと思う。デニムのジャケットにジーパン。胸はないし、体つきもがっちりとしている。作業着すがたではないけれど、別に大人は常に作業着というわけでもない。掃除に行かない人が町を出歩くこともあるし、そういう私服姿の人をみかけることもある。

 彼らと、いま公園にいる男には一つ違いがあった。その違いのせいで、わたしは男を人間のように思えなかった。

 男の髪は、黒かった。

 子供以外にはまずいないはずの、色彩のある髪だった。

 犬は、黒髪の男を威嚇している。じりじりと詰め寄って、男へ狙いを定めていた。

 男は犬が大好きな食べものを持っていた。山に自生する謎植物を加工して、カップ麺にした代物だ。お湯でも水でも食べられるし、普通のカップ麺より腹持ちもいい。エントツを掃除する人たちが集まる詰め所でタダで貰うことができるから、外で暮らす人やペットになるような動物は、必ず一度は食べたことがあると言われている。

 犬は単純に麺もどきを狙っているのだろうけど、わたしはすぐにそうだと思えなかった。黒い髪を、犬が妬んでいるような気がしてしまったからだ。

「ちょっ……きみっ!」

 胸が、どきりと跳ねた。

 わたしに気づいた男が、犬を指さして助けを求めていた。犬を刺激しないために声を出したくなのだろうけど、すでにわたしへの呼びかけに犬が反応して吠えていた。

 犬の興奮はとまらずに、そのまま男へと飛びかかった。

 男はずっこけて、犬に乗りかかられた。他人ごとだから冷静に見ることができるけど、自分が同じように野良犬に襲われたとしたら、ぜったいに耐えられないと思う。

 男が持っていたカップ麺は、地面に転がって中身がこぼれていた。犬はすぐに気づいて男から離れ、夢中になって舐め始めた。

「あぁ……」

 呻くような男の声が聞こえた。我知らずと麺の拾い食いを続ける野良犬を見ながら、倒れ込んだままの男がまた声を漏らす。

 ちょっとかわいそうだと思ったからかもしれない。何かを差し伸べてあげないといけないような気がしていたから、自然と男に近づけていた。

「あの、大丈夫ですか?」

「まあ……はい。問題ないです」

 立ち上がらずうつむいたまま、名残惜しげにカップ麺の残骸を見つめている。長い前髪が、彼の表情を隠している。だけど悔しいんじゃないかなとすぐに想像できる。ただこのカップ麺は、食べられなくて悔やむようなものではなかったら、男の反応はとてもおかしかった。

 外の人間なら、決してしないことだ。髪は黒いし、男がどこから来たのか、ほぼわかりかけていた。

 防護服を着ていないのが少しひっかかるけど、わたしは男に確認をとってみることにした。

「あなた、ドームの中の人ですよね」

「えっ、いや……その……」

「その落っことしたの、わたしの家にもありますよ。良かったら、食べに来ませんか?」

「ほ、本当!?」

 ばっと、男が顔を上げた。

 まだドームの中の人間だと、男の口からは直接言ってもらっていない。

 それでも、わたしははっきりとわかってしまった。

 この人間は、ドームの中から来た者に違いない。染めれば変えられる髪の色以上の特徴が、男の顔には備わっていた。

 中心にはぽつりと赤い点がある。点は信号機のように無機質で、カメラのレンズのように収縮を繰り返している。点から伸びる神経を思い起こさせる稲妻めいた線は、どれも定規で引かれたように正確な直線が組み合わさってできていた。

 こんなものを、人は顔につけていない。つけようと思う人はいるかもしれないけれど、ドームの外でつけてくれる技術をもった人がいるなんてわたしは聞いたことがない。

 男の片目は、機械でできていた。



 先生が教えてくれたことの一つに、クローン技術というものがあった。

 ある人間の遺伝情報を元にして、その人とそっくりな人間を作ることができる。むかしは普通の人と同じように受精卵から育てないといけなかったみたいだけど、今は短期間で成長させられる方法が確立して、クローン技術によって生み出された沢山の人間が働いているといっていた。

 先生はこうも言っていた。あらかじめ遺伝情報を改良して、毒ケムリに耐えられる人間を作る研究を進めていると。毒ケムリが効かない人間が生まれれば、既に汚染された人たちを助ける薬が作れるようになるらしかった。

 この男は、そうなのかもしれない。

 男は丸テーブルを挟んだわたしの対面に座り、むさぼるようにカップ麺を食べていた。

 お箸は使えないのだろうか、グーにした右手でつかんでいる。フォークを出してあげたほうがいいのかなと思っているうちに、あれよあれと食べ終わってしまった。

「ごちそうさまでした」

 箸を置いて、おがむように手を合わせた。

 お腹もふくれて、落ち着けたことだと思う。わたしは、率直に聞くことにした。

「あなた、毒ケムリが効かないの?」

 男の肩がぴくりとした。ゆっくりと顔をこちらへ向けた。

 じっと機械の目で、わたしを見据える。

 変化のない表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。作られたとしか思えない形をした片目が、よけいに人間らしさを感じさせてくれなかった。

 毒ケムリを止めに来てくれているなんてわたしの思いこみだから、本当は違うのかもしれない。犬に出し抜かれるようなみっともない姿を見せていたから、頼りなさを感じて軽く見てしまっていた。

 あやまったほうがいいのかもしれない。自分でも驚くぐらいにあせり始めていたら、男が先に口を開いた。

「おれ、きみに話してたかな」

 表情は変わらなかったけど、男の言葉は安心できるものだった。

「ううん。わたしが勝手にそう思ったから聞いてみただけです」

「推測でも、そこまで言える人はじめてだ。他の人たちは、おれの髪の色を見るなり、嫌な顔するばかりだったのに」

「その……外にいる人はドームが嫌いだから」

「らしいな。こちらから何かを言おうとしても、とりつく間もなかった」

 意外と長く外に出ているような口ぶりだ。少なくとも、わたし以外の人に出会って、つらい目に遭ったみたいだった。

「でも、きみは違うみたいだ」

 男の頬が、人間らしくゆるむ。冷徹でわからない感じが少し崩れて、野良犬相手に困っていた印象が戻ってきた。

「わたし……学校へ通っているんで」

「学校?」

「知らないんですか? ドームの中の人たちが、外に残された学校施設を改造して勉強を教えてくれているんです」

「へえ、そんなことしてたのか」

 本当に知らなかったみたいだ。普通に感心している。

 ドームの中の事情は、思っていたより複雑なのかもしれない。でも、この男の反応を見るかぎりはっきりしていることがある。

 この人は、ドームの中の事を知っている。それに先生と違って間の抜けたところがある。先生はしっかりしていたからドームの中の実際の様子を教えてくれなかったけど、この男ならうっかり話してくれそうな気がした。

 ちょっと興奮していた。

 久しぶりに、学校に通い始めたときの気持ちが戻ってきていた。

「ドームの中って、どんな感じなんですか? 空飛ぶ車が走ってるって噂があるんですけど」

「ん? ああ、重力制御装置を付けた車なら確かにあるよ。好んで乗りたがる奴はいないけど」

「で、では、月に人工都市を造って暮らしてる人たちがいるってのも本当ですか?」

「月か……おれは行ったことないけど、博士が何度も出張してたな」

「何度も行けるんですか!?」

「行ける。宇宙船は、個人で買えるから」

 本当なのかな。

 ドームは宇宙で暮らせる技術で作られたものだから、宇宙で人が住める環境を作り出すことはできるはずだった。重力を制御できているのなら、どんなに重い物でも浮かすこともできるはずだ。

 技術的には宇宙船も造れそうだけど、市販までされているとは想像してなかった。でも、一般的にそんなすごいものが手にはいるのに、この男はどうして学校のことを知らないのだろう。

「それだけすごい技術があるのに、伝わらないこともあるんですか?」

「興味あるの? すごく聞いてくるけど」

 しまった。つい、夢中になっていた。

 男は表情を引き締めて、じっとわたしを見つめた。また、冷徹な片目が威圧感を与えてくる。

 わたしは学校に通っていたから、ドームの中を好意的に捉えることができていたけど、大多数の外の人たちは、ドームの事を快くおもっていない。

 陰謀めいたことさえ考える、過激な人たちさえいる。エントツは、増えすぎた人口を減らすために、ドームの連中が作った殺人兵器だと彼らは信じこんでいる。

 人の温もりを感じられない機械の目は、彼らが抱く陰謀説を裏付けてしまうインパクトがあった。

 どうしよう。逃げたほうがいいのかな。家に招き入れておいたのは自分のくせに、助かるためにわたしは策を考えていた。

「いまは、爆発的に新しい技術が生み出されている真っ最中なんだ」

 突拍子もなく、男はよくわからないことを言いだした。

「え?」

「興味あるんだろ?」

 不適ににやけて、男は言った。

 わたしが勝手に恐れていたことを、男は見すかしていたのかもしれない。ちょっとおどけた感じさえしてきて、真剣に警戒したわたしがバカみたいに思えた。

「じゃ、じゃあ話してください」

「了解しました」

 なぜか男は、敬語で返事した。

「先に言ったように、いまは爆発的な成長期だ。個人でもかつての大学レベルの研究ができるようになって、毎日のように新発見がある。研究だけではなく、技術を個人で簡単に利用もできる。そのせいか、新技術が乱立して整理もされずに共有もできていない。連携を取ろうという動きもあるけど、上手くいっていないのが現状だ」

「技術って、物を組み立てたりする方法や、スポーツの上手いやり方とかのことですよね」

「ああ、その意味で合ってるよ」

「なら、覚えるのに時間がかかるんじゃ。それとも、覚えなくてもすぐに使える機械とかがあるんですか?」

「そんな機械もあるけど、どちらかといえば、遺伝子を後からでも自由に変えられるようになたことのほうが大きいな」

「突然変異ができるんですか?」

「いや、もっと魔法みたいなもんだ。背を伸ばしたり、顔を良くすることも、体にメスを入れずにできるようになってる。物覚えに関するパターンも特定できてるから、技術をすぐに覚える体に作り変えられる。がんは駆逐されて平均寿命は二○年伸びた代わりに、定年制も二十年伸びたよ」

「えっ、八十歳まで働かないと年金もらえないんですか」

「そうだけど、そんな歳で働いてる奴なんてまずいない。ほとんどの事が自動化されてロボットがやっているし、早期退職した後は、月でバカンスを楽しんでるよ」

 なんだか、とてつもないことになっている。

 人類は、わたしの知らないところで着実に進歩しているみたいだった。体を作り替えるなんて全然想像もできないけれど、この地球にはそれを可能にする技術が存在しているみたいだ。

 他にも宇宙船とか、月に居住区だってあるらしい。

 それだけのことができるのなら、毒ケムリだってなんとかできるに違いない。そんな希望を抱かせてくれるだけのものがあるとわたしは信じていた。

「あの……それじゃあ……」

 思わずこぼれ出てしまった。

「わたしたちを治してくれる薬も、もう出来てるんですか?」

 男の返事を期待してしまう。

 まだ出来ていないと言われても、たぶん耐えられると思う。

 あとは男が薬の存在そのものを知らなかったとしたら、もっと気楽に受け止められる。出来ていないと具体的に言われるよりも、未知なほうが膨大な可能性があるように思えられた。

「無いよ、そんなの」

 あまりにぽつりと、さりげなかった。

「あ……では、まだ完成していないんですね」

「完成もなにも、治しようがないから研究すらされていない。そんな噂、信じるだけ無駄だ」

 どうしてこんなことを言うのだろう。

 わたしは、必死に男へ問い返す言葉を探した。

「どうして治せないんですか? 遺伝子だって変えられるのに」

「アレ……エントツが生物じゃないからだ。ウィルスでもなければ、宇宙人が作った未知の機械でもないとわかってる」

「じゃあなんなんですか」

「超自然的存在だ。つまり、神様みたいなもんだ」

 さらに受け入れられない言葉だった。

「ふざけてます。それじゃあ、何もわかってないってことじゃないですか」

「いや、わかってることはある。着実に調査は進んでいる」

「何ですかそれ。本当なんですか」

「ああ、きみたちが超自然的な組み替えが行われてしまっていて、遺伝子操作でですらどうにもならないことはわかっている。そのために、白髪人はヒトに分類されていない」

 次々と、ありえない事を平気で言う。

「わたしは人間です」

「厳密には、ヒト科に分類された別の種だ。それも有史以来、ヒトから分岐したと見なされた初めての種ということになっている」

「そんな言い方やめて下さい……」

「おれが違うと言ったところで、決まったもんはそうそう覆らない。覆せる根拠もない。それだけきみたちは変わってしまっている」

 変わったというフレーズが、ひとつ飛びで胸に届いてきた。

 ぜったいに納得したくない。

 なのに、男の言い分に筋が通っていると思える自分がいた。

 毒ケムリを吸わないと死んでしまう人間なんて、それはもう別の人間だ。薬に中毒になるような人たちとは違う。肉体的に共存しないと生きていけないのだから、生態として根本的な違いがあると捉えられてもおかしくはない。

 心の片隅で、もしかしたらと感じていたのかもしれない。押し黙ったわたしを、男は冷静に眺めている。

 人間ばなれした片目が、突き刺さすようにわたしを見すえている。

 最初に気がついたときから、恐かった。もう堪えきれなくなりそうだった。

 やっぱりドームの中の人たちは、外の人間を見捨てるつもりでいるのかもしれない。

 大多数の人たちが、ドームの中にいる人間を根強く憎み続けていることを疑問に思ったことがある。学校のような施設は他の場所にもあるのだろうし、中の噂は絶えず色々なものが流れていた。だけどそのどれもが、否定的なニュアンスの噂になっている。わたしのように違う印象を抱く人がもっといてもいいと思うから、裏があるんじゃないかと感じていた。

 ドームを認めないという空気も原因なのだと思っていた。だけど、本当にドームが認められないようなことをしていたのならどうなのだろう。

 もしかしたら、この男が大嘘をついているだけかもしれない。ドームの中ではいまでも外にいる人たちを、ちゃんと助けられる人間だと思ってくれている。少なくともわたしはそう思ってたのに。

 もうわからない。

 学校に来ていたみんなは、とっくにわかりきっていたのだろうか。だから、作業着を着ることを決めたのだろうか。

 男が、少しうつむいた。そのおかげで、機械の目が見えなくなった。

 どうしてだろう。わたしに配慮したようには考えられないのに、少し安心できる行動だった。

「……アレは壊す」

 うつむいたまま、男がつぶやくように言った。

「アレって?」

「エントツのことだ」

 再び、男はわたしを見る。

「……壊す?」

「ほぼ無限に再生して、生物に対して有害な毒素を排出し続けるアレの能力を無力化させる」

「そんなことできるんですか」

「できるとされている。そのために、俺は作られた」

 機械の目と、男の言葉がわたしの中で合わさった。

 どうやってエントツを壊すのかはわからない。そのために作られたということは、超自然的なものを破壊できる手段がこの男には備わっているということになる。男はエントツを神のようなものとか言ったけど、それを壊せるということは神殺しができることになる。

 とてつもないことだ。男が知るドームの中の人たちは、外にいる人間たちとかけ離れた現実を生きているのだろう。

 だから、わたしは思った。

「ばかみたいですね」

 家にカップ麺があると言ったときのように、男がわたしに反応した。

「はあ?」

「全部が嘘くさい。くだらないから、もうどうでもいいです」

「嘘ではないよ。信じてくれるとも思ってなかったけど」

 信じようとしていたのに。

 頭がかっとなった。

「あなたたちは、結局見殺しにしたいんでしょ」

「誤解しないでくれ。意図的に見捨てようなんてしていない。だったら、おれは作られていない」

「そんなの信じられない。信じようとしたのに、いつもいつも裏切ったのはそっちでしょ! 助けには来ないし、先生はいなくなる。離れて暮らす友達とは会えなくなって、生きているかどうかもわからない。お母さんだって死んだんだ!」

 怒りに身をまかせすぎて、個人的なことまで混ざっていた。

 対して、男は嫌らしいほどに冷静だ。機械の目が睨むように見続けてきているけれど、わたしも怯むわけにはいなかった。

「そうか、お気の毒に」

 もう男を見れない。耐えきれなくなっていた。

 すぐ近くにいるけれど、いなかったことにすればいいと思った。そもそもが得体のしれない人物だ。出会いを他の誰かに見られたわけでもないし、別れてしまえばわたし以外に知るものもいなくなる。

 そういえば、カップ麺を知っていたから詰め所には行ったんだっけ。それもわたしがこれまでどおりに掃除へ行かなければ、詰め所に集まっている人たちの噂話を耳にすることもない。

 あとはカメラ男子だけだ。よけいなことを、またぺらぺらと喋ってくるに違いないから、これまで以上に無視を続けないといけない。

 いっそ良い機会だ。二度と会わないようにすればいい。

 だから学校へももう行かない。

「なんか、色々言い過ぎたみたいだな」

 男はなおも、人の気持ちなどおかまいなしだった。

 わたしが黙っているから、無音が続く。早く帰れと言いたかったけれど、気持ちが落ち着かなくて言葉がでない。男が勝手に立ち去ってくれればいいのだけれど、期待できるような人ではなさそうだからどうにもならない。

 カチカチと音がする。人が立ち上がる音ではないし、歩く音でもない。男が何かをやっているのだろうけど、確認する気が起きない。

「いてっ……」

 痛いと言ったのだろうか。一緒に、グチャっと粘ついた効果音がした。

 音は続いて、グチャグチャとなりだした。

 なにかおかしい。さすがに異常だから、わたしは男を見てしまった。

「……くそ、外れるはずなんだけどな」

 男は、自分の片目を抉っていた。

 グロテクスな行為に、悪戦苦闘している。

 わたしは、ただ唖然とするしかなかった。目を背けたくなる光景なんだろうけど、あまりのことで体が動かなかった。男がそれほど苦しんでいないから、陰惨さもあまり感じられなかった。

「ふう、取れた」

 取り出された機械の目が、男の手のひらに掴まれる。

 血は、どういうことかあまりついてない。

「ちょっと、洗ってきていいか?」

 呆然としていたわたしは、すぐに答えられなかった。

 返事を待つまえに、男はひとりでに立ち上がって洗面所へと向かっていった。



「さっきは、すまなかった。ごめん」

 しばらくした後、男はわざわざ謝りにきた。

 わたしが返事をしないでいると、男は立ったままわたしを見続けた。

「きみにやるよ」

 男の手のひらには、機械の球体があった。

 何を考えているんだろう。球体が機械にしか見えないから、生理的な気味の悪さは薄い。それでもさっきまで男の眼孔にあったものだと思うと、喜んで受け取る気にはとてもなれない。

「見てわかると思うけど、これ、外にはない物だから」

 男は、わたしが興味を惹くような言葉を選んでくる。

 どれくらい時が経ったかわからない。機械の球体を乗せた手のひらを差しのばす男と、じっと黙ったわたしは、まるで写真のように止まり続けた。

 すごく居たたまれない時間だった。わたしが機械を受け取らない限り、男はずっと制止したままな気がする。男の行為は意味不明だけど、その行動の中にある気持ちをくみ取ってあげなければいけないような気分にさせられた。

「どうして、わたしに?」

 仕方がない。わたしがぶっきらぼうに右手の平を見せると、男はまた、にやっとした。

「特に。たまたまだ」

 近寄ってきて、機械を受け渡してきた。

 肌に触れた瞬間、暖かみはなかった。やっぱり機械なのだと実感していると、男はすぐに背を向けた。

「それじゃあ。飯は、こっちのほうが美味かったな」

 そのまま、玄関へと向かっていく。

 わたしは男へ、かける言葉が思いつかなかった。ただ漠然と、もう男を見ることはないんだろうと感じていた。



 お母さんは、エントツの掃除中に亡くなったらしい。

 知らせてくれたのは、お母さんと同じ現場で働いていたという男の人だった。わたしを探していて、学校から帰ってきたところで出くわした。

 遺体は、山のふもとにある詰め所に置かれていた。詰め所は大きな正方形の箱のようで、毒ケムリを風で受ける側が影のごとく真っ黒に汚れている。ドームに似た構造らしく、まだエントツを駆除しようと軍隊が動いていたときは基地として使われていた。

 詰め所へ入ったのは、そのときがはじめてだった。地下を含めた四階建てで、地下にある遺体安置所へ案内されてお母さんを見た。

 お母さんは、ただ眠っているようだった。声をかえると起きてきそうだった。命を惜しむように、しがみついて泣き叫び、起きてほしいとお願いしたほうがよかったのだろうか。

 だけどあのときのわたしは、まったく逆の事を思っていた。涙も流さずに、もう起きるはずがないと理解していた。むしろ目が覚めたところでまたエントツ掃除に向かうくらいなら、ずっと眠っていてほしいと思っていた。お母さんはそのまま骨になって、生き物として覚醒することは永遠になくなってしまった。

 一人になって戸惑いはあった。だけど学校へ通うためにお母さんを騙し通すうちに、一人で何かをすることがわたしは上手くなっていた。騙すといってもお母さんは気づいていたと思うし、わたしもお母さんが黙ってくれていることをなんとなく察していた。

 悲しさを感じたのは、お母さんがいなくなって楽になったと思った時だった。毒ケムリに汚染されたご飯を食べなくて済むと気づいた時に、ふと思ってしまった。お母さんがどんな想いでわたしに料理を作ってくれていたのかを考えると、わたしはたまらなく申し訳ないと思った。

 すべてを話して謝れば、きっとお母さんは許してくれただろう。そんな人だったから、重荷に感じていたのだとわたしははじめて気づいた。だから素直にお母さんの好意を受け止められなかったのだと後悔した。

 子供一人でいるようになったからか、お母さんと仲が良かったという男の人が何人も現れた。彼らはそろって、一緒に暮らさないかと誘ってきた。

 食糧は学校へ行けば手に入ったから、共に暮らす利点はまったくといっていいほどない。彼らはお母さんから、わたしが学校へ通っていることも聞かされていて、偏見に満ちた言い方で咎めにきた。

 しばらくどうあしらったらいいかわからなかったけど、ある日お母さんとわたしの違いを事細かに伝えてみた。すると、どういうわけかあっさりと引き下がっていった。



 男が完全に去った後も、やはりどうしても疑問は強く残っていた。

 答えのない問いを考え続けたまま、夜が来た。

 その間に、一つわかったことがある。

 男は、エントツを壊すと言っていた。壊されたエントツは毒ケムリを吐かなくなる。毒ケムリがなくなると、ほとんどの人の主食となっている謎植物がたぶん生えなくなる。

 なにより、外の人間は死んでしまう。

 わたし、やっぱり死ぬんだろうか。お母さんと同じように。

 あの人は、たぶん納得して亡くなってはいない。最後の日は、炊飯器の予約はついたままだったから死のうと覚悟して死んだわけじゃなかったんだと思う。毒ケムリはいつ致死量にいたるかわからないから恐怖は常に抱いていたと思うけれど、寿命が亡くなる瞬間を決められていたわけではなかった。

 すこしでも長く生きられるかもしれない。そんな希望を持つことも出来るから、外で暮らす人たちは生き続けられるんだと思う。

 だけどあの男は、明確な終わりを告げた。

 エントツが壊れることによって、外にいる人間たちが死ぬという最後を知らせていった。わたしは、生きる時間を定められてしまった。

 あいつの話が全部うそだったなら、わたしはまだ生き残れる。外にいる大人たちと同じような分の悪い賭けにすがる気なんてなかったのに、できるだけ長生きしたいとすがるような気持ちを抱いてしまっている。

 心臓が、ずっと早く動いていた。晩ご飯を作っている間も、ゆっくり時間をかけて食べていた間も高鳴り続けていた。

 だからといって、どうしようもない。いまさら男を探しに行っても、たぶん見つからない。もし万が一見つけられて、引き留めることができたとしても、毒ケムリはなくならない。現状維持ができるだけで、毒ケムリによって白い髪の人たちが死ぬことには変わらない。

 気がつけいたら、お風呂に入って洗面所で歯を磨いていた。とりあえずは、日々と同じ生活を送ろうとしている。

「……これ、やっぱりなんなんだろ」

 わたしは寝室で、男から受け取った機械の目をつまんで眺めていた。

「目玉っぽい……けど……」

 機械だと感じるのは見た目からだけど、触ってみて硬かったからよけいにそう感じた。図鑑で見た眼球に似たデザインをしていて、カメラのレンズのようだった赤い所は、よく観察してみても眼孔のようにしか見えなかった。

 改めて思う。どうしこんなものを渡そうとしたのだろう。

 ベッドに寝転がりながら、てきとうにいじってみる。どこかにスイッチのようなものがないか探してみたけど見つからない。

 しかたがないから、レンズの部分を睨んでみる。奥はかなり複雑で、さらに小さなレンズのようなものが何重にも重なっていた。さらに奥へと見ていくうちに、ぼんやりとした光があるように感じた。

 部屋の明かりが反射したのだろうか。でも、わたしは今うつぶせになっている。レンズに入り込む角度ではないし、光は機械の奥深くにあった。

 だんだんと、光がはっきりしてくるような気がした。

 そう思ったとたん、わたしの意識はぷつりと途切れた。



 真っ白な空間に二人の男がいた。

 ひとりは青年であり、ひとりは皺が目立ちだした背丈のある老人だった。

 老人は恰幅のいい体を白衣で覆っていた。青年の服は病衣にとても似ていて、二人の関係は医者と患者を思い起こさせる。

 青年は、機械の片目をしていた。その機械を作ったのは老人であると、二人が並んで歩く姿を見ただけでわかるようだった。

「作られた?」

「そう、きみはオンコスを壊すために生みだされた」

 老人の受け入れがたい言葉に、青年は動じなかった。

「その体は、オンコスの生体組織と融合できるように作られている。そもそもきみは人とは違い、生命以外の接触は受けつけないオンコスに対処すべく、人を模して育てられ――」

 次々と、それまでの人生を否定するような事を言われ続ける。

 子供を沢山育てる主義を持つ夫婦の元で育ち、不自由はあるが充実した生活を送ることができていた。片目の機械は、幼い頃に遭った事故のためだと説明されていた。納得していたし、自分自身で、己の事を普通の人だと思うことができてきた。。

 それなのに。老人の一言一言が、青年の胸にはすんなりと入ってきた。

「――融合によってオンコスそのものは消滅できない。だが、毒素排出機能は失われ、外の人間達が行っている無為な行動も無くなるはずだ」

 最初から、非情な使命を受け入れることができるように作られていたのだろうか。

 確かめる術はないが、老人の説明を否定したくても腑に落ちてしまう。気持ちが激情へと向かわず、ああそうかと冷めたままで動かない。

「きみのおかげで、大勢の人類が救われる。ただ『目』に記録されたきみの記憶は、永久に保管するよ。わかってくれるね」

 はいそうですかと、一瞬納得しかけた。ただすぐに、目の前の老人を許すことが、青年はしてはいけないと考えた。

 何かを抗わなければいけない。青年が自ら絞り出した考えを内に秘めた矢先――

 ブツリ。

 テープが切れたように、二人の姿は唐突に消えた。



 このあいだの光景は何だったのだろう。

 記憶に直接飛びこんできたような、奇妙な感じだった。だから、自分自身ことのように鮮明に覚えていた。

 二人いたうちのひとりは、機械の目をしていたあの男だった。機械のレンズを見ていたらいつの間にか見えていたから、男に関係する何かがわたしに伝わったのかもしれない。

 もう一度見ようとしてのぞきこんだけど、同じ光景を見ることができていない。ただ白衣のおじさんが言っていた、記憶を記録する代物という言葉が気になっていた。

 チェーンをとりつけて、ペンダントのようにして首から下げていた。常に持ち歩いていたら、何かを記録し続け、直接ドームの人たちへ外の様子を伝えることもできるのかもしれない。わたしの推測でしかなけれど、試してみる価値はある気がした。

「おっす!」

 めずらしく、カメラ男子は挨拶をしてきた。

「いやー、おれも反省したよ。みんなに相談したら、全部悪いってよ。そんなにおれダメっすかね?」

 言葉のとおり返したくなったけど、そんな気分じゃないので無視する。でも意外と、男の友達たちはまともなのかもしれない。

「し、シカトかよ。無言だけど、さげすまれてる気がしてくるぜ」

 悔しそうな事を言ってるくせに、わたし見るために回りこもうとしてきた。

 また顔を手で隠そうかと思ったけど、反省したみたいだし少しぐらいなら相手をしてあげってもいいかと思って何もしなかった。

「あ、あれ? ご、ごめん」

 なぜか男が謝りだした。

 いままでずっとへらへらしてて、一度も謝ったことなどなかった。一体どういう変化なのだろう。

「どうしたの?」

「いや、泣いてるからさ」

 一瞬、意味がわからなかった。

 ぽたりと、しずくが頬をつたった。雨かと思ったけど、今日は晴れわたっている。わたしの涙だと気づいたのは、自分の指でぬぐって確かめてからだった。

 なぜ、わたしは泣いているのだろう。それも、自分でも気づかずに。

「きょ、今日もケムリは黒いな〜」

 おどけるように、男子が言った。

 わたしを和ませるつもりだったのかはわからない。ただこいつは、致命的に人の気持ちを察せられないのだと思った。

 また無視をして、わたしは山のほうへ目を向ける。

 毒ケムリは、消えていなかった。

 バネのようなとぐろを巻いて、男がいなくなってからも何も変わらず、上へ上へと昇り続けている。

 あの男の言ったことは、嘘だったのだろうか。

 怖じ気づいて、エントツの元へは行かなかったことは考えられる。だって、なにも起こっていないんだから、男は何もしていないことになる。

 失敗した可能性だってあった。

 ただ、ひとつ思う。

 男が本当に、エントツの魂を改変できていたのだとしたらどうなるのだろうか。

 だとしたら、なぜ男は毒ケムリを消さなかったのだろうか。

 わたしにはわからない。

 生きる時間は増えたけれど、毒ケムリを吸って死ぬことに変わりはない。

 世界は形を変えずに続いていく。

「明日は行く? おれ、迎えに来るからさ」

 心配するように、カメラ男子がのぞいてくる。

 わたしは、まだ新しい作業着を着ていた。あふれだした感情をおさえるために、自分で自分をぎゅっと抱きしめ目をつむった。

 涙は、止まってくれなかった




以前漫画で描いた作品を小説にしたものです。

元があるので簡単だと思っていたら、意外と書くのに手間取りました。

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